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30.財布がない。



 冒険者ギルドは今日も程々の賑わいであるが、相変わらずエディットの周りは静かだった。今日も一人である。一人で来て、一人で座り、一人で帰る。こう言う具合である。だが話しかけてくる物好きもいる。

「よう、嬢ちゃん」

「おはようございます」

 冒険者ギルドの長、オスニエル・ランドン・ベイトソンである。口調は軽いが、顔に愛想はない。その上厳ついものだから、普通の子供なら怯えそうなところである。尤も此処ギルドにおいては、大抵の人間が厳ついので、気になるようでは椅子に座って等いられないだろう。

「暇だろ」

「まあ」

 別段否定する事でもないので、あっさりと頷いた。寧ろ、話をし出したことに驚いたぐらいである。単なる挨拶だけかと思っていたのだ。ベイトソンは上から覗き込むように、話しかけてくる。まるで、逃さんとするかのようだった。

「治療の他に、出来る事あんのか」

「聖水が作れます」

 隠す事も出ないので素直に答えた。大体、神官である。向こうもそれが専売特許であることくらい知っているだろう。ふうん、と、気のない返事をしてベイトソンは離れて行った。一体何だったのだろう。疑問に思いながら首を傾げる。しかし、答えは直ぐに出た。

「やってみろ」

「えっ」

 なんと、引き返してきたのである。それも、空の瓶を手にして。小さな瓶であるが、勿論エディットが教会で見たものとは別だった。

「いや、駄目ですよ」

 エディットは受け取らなかった。昨日散々考えた結果である。勝手な真似はしてはいけない。何故なら、エディットは神官見習いである。それが全ての答えだった。

「しちゃならねえ決まりでもあんのか」

「ありますよ。多分」

「言わなきゃバレねえだろ。言わねえよ」

「えぇ……」

 ギルド長は強引だった。エディットの手を取ると、無理矢理瓶を握らせたのである。抗える力が少女にはなかった。何せ、普通の男性より力が強いのだ。最早不可抗力。言わない、と、この男は言っている。だったらそれを信じてもいいか、と、意図も容易くエディットは諦めたのだった。正直なところ、出来るだけ作りたいと言う思いもあったのだ。数が重要だと聞いたからである。それに、もしかすると、場所が重要なのかもしれないと言う疑問もあった。教会の外では作れないならば、それもそれで納得がいく。

 エディットは空の瓶を握り、目を閉じた。祈りを込めるのだ。神様、お願いします。聖水一本! 完全に、飲み屋で酒を頼むようなノリだった。十歳である。然程に気持ちは関係ないと分かったからか、幾分気が楽になっていた。だが、祈りを込めないと、聖水は出来上がらないのである。果たして、きちんと瓶に水は満ちたのであった。

「これが聖水か?」

「さあ?」

「さあって、お前な……」

 事実聖水は、見た目には只の水である。なので、作ったエディット自身、判別できないのだ。呆れながらベイトソンは受け取った瓶を振ってみた。透明な液体が揺れる。暫く眺めた後、何故か財布を取り出した。

「ほらよ」

「えっ、なんですかこれ」

 そうして、一枚硬貨を取り出すと、エディットの掌に乗せたのだ。

「代金だろ」

「いえ、頂けませんけど」

「何にでも対価ってのは必要なんだ。覚えとけ」

「いえあの、見習いなんですけど」

「だからこの金額だろ」

 エディットは引っ繰り返りそうになった。見習いだから、と、言われて見た硬貨が、一万トリオレだったからである。しかも本当に聖水として効果があるかどうかも分からない液体に。先日教会から貰った給金が、五万トリオレ。話が合わない。何も分からなくなってしまった。別に教会を疑うわけではないのだが。

 じ、と、穴が開くほど硬貨を見つめる少女にベイトソンが首を傾げた。

「どうした」

「あの、財布がないんです」

 そうして、エディットも気付いたのだ。貰ったところで、仕舞う場所がない事に。せいぜい、神官服のポケット位である。

「持ってきてねえのか」

「いえ、持ってないんです」

「は?」

「入れるお金がないので……」

 悲しいかな、今までエディットはほぼ一文無しであった。財布など必要なかったのだ。だが、と、思い至る。これからは必要なのだ。何せ給与が入るわけである。クレマンスと出掛けるにも必要だろう。これは困った。

「なので、お返しします」

 一先ず硬貨は返した。最早今エディットの頭を占めるのは、財布、そして鞄の事だったのだ。財布をそのまま持ち歩くわけにもいかないだろう。鞄はある。だがそれは、大聖堂に移動する際、身の回りの物を入れていた大きなものだけだ。ちょっとしたお出かけには向かないわけである。これは困った。

 突然黙り込んだ少女を訝しげに見て、息を吐くとベイトソンは離れて行ったのだった。硬貨を押し付ける事をせず、それでも液体の入った瓶は手にして。

 暫くエディットは一人だった。そろそろ慣れた状況である。エディットに話しかけてくる人間は、ベイトソンともう一人だけだ。

「こんにちは」

 顔の半分に布を巻いた、物好きな冒険者の女性である。

「こんにちは」

 三回目ともなれば、言わずとも分かっていた。内心で物好きだな、と、思いながら、エディットは手を翳したのだ。神様、何とか治してあげてはくれませんか、と、そんな事を思いながら。治らないのにこうも通ってくれる、物好きのお人好しに報いたい気持ちがあったのだ。何せ常連はこの一人だけである。怪我の治療に常連がいること自体、可笑しいのだが。つまり、同情心だと思っているのだ。施しである。

「いつも悪いね」

「いえそんな此方こそ」

 治せないのにごめんなさい。内心で付け足した。口に出したら、もう来てくれないような気がしたのだ。毎回お金を払わせて悪い気持ちはある。でも、エディットもお金は欲しいのだ。治療費の分が、教会から自分に払われているかどうかは分からないのだが。給与明細がないのである。それでいて、求める事も出来ないでいた。エディットは十歳の見習いである。余りにらしくない行動は、慎んでいるのだ。これで。

 例えエディットが言わずとも、他の者は言う。

「本当に物好きですね」

 受付の男性だ。治療費を支払いに受付に現れた女性冒険者に言ったのだ。言われた方は笑いながら、千トリオレ硬貨をカウンターに置いた。

「何故、毎回頼むんですか」

 一番聞きたいであろうエディットではなく、他人だからこそ軽く尋ねたのだ。勿論、エディットの耳には入っていない。遠すぎるのだ。問われ女は、目を細め口角を上げた。

「そりゃあ彼女が凄腕だからさ」

 言っている意味が分からない。そう言外に告げるよう、男性は訝し気に眉を顰めたのだった。



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