29.目に見える結果が全て。
一人なら悪い事かも知れないと警戒するが、二人であればそうではない。
呼び出しの話である。エディットが一人呼び出されるといい話でない事が多いが、クレマンスと一緒なら幾分気が楽だった。もし叱られるとしても、二人なら半減だと思っているのである。尚、未だ叱られた事はない。これでエディットは真面目に生きているのだ。クレマンスも心当たりがないのか、首を傾げている。疑問を顔に出す二人の前に現れたのは、ナジマだった。エディットが初めて大聖堂を訪れた際、案内してくれた神官である。
「本日は、お給金をお渡しします」
「えっ」
本人が思うよりも大きな声が出た。隣にいたクレマンスが驚いて咄嗟に見てしまったくらいには大きな声だった。だがそんな事にも気付かず、エディットは口を開けて呆けている。それ程、お給金の響きが衝撃だったのだ。このアルメヴレハ大聖堂へと預けられ三ヶ月。初めての給与である。その言い方が適切かどうかは別として。
「では、クレマンス殿」
「はい」
エディットとは打って変わり、全く気負うことなくクレマンスは前へ出て、何やら袋を受け取っていた。全く飾り気のない袋である。それを穴が開く程エディットは注視していた。何時もの大人しい形は死んでいた。お金を前にして、正気を失いつつある人間そのものである。
「エディット殿」
「は、はい!」
まるで表彰状でも受け取るみたいに、エディットは体を固くして前に出た。それを呆れた目でクレマンスは見ている。全く理解されていない。田舎の貧乏な子供と、貴族のお嬢さんの差である。クレマンスと同じよう、ナジマは普通に手渡した。普通でなかったのは、渡されたエディットの方である。ずしっとした重みを感じる袋は揺れていた。エディットの手が震えているのだ。
「これからも励むのですよ」
「はい」
「はい!」
最後に二人に向けてそう言えば、片方から大層元気のよい返事が聞こえ、ナジマは困ったように笑みを浮かべたのだった。
「どうしたのよエディット殿」
二人だけになり、とうとうクレマンスが聞いた。クレマンスが知るエディットと言う少女は、もっと落ち着いている筈である。多少変わったところはあれども、こんな風ではなかった筈なのだ。
「これが落ち着いていられますかクレマンス殿。お金ですよ」
「そうね」
「お金なんです」
「そうね」
「えっ、お金って分かります?」
「どうして分からない前提の話をしているの?」
「だって、クレマンス殿普通じゃないですか」
「エディット殿がおかしいのよ」
「だってお金なんですよ!?」
堂々巡りとはこういう事である。エディットとて、お金が何かは知っているし、教会から支給される事も知っていた。以前そう聞いたからである。だがこうして実際に渡されると、感動しかなかったのだ。金を稼いだのが初めてだったのだ。己の行いが、金銭に繋がると分かったのだ。人間生きるには、金が必要なのだ。その事をエディットはクレマンスより知っていた。いや、実感として体に染みついていたのだ。貧乏って辛いんですよクレマンス殿。内心で語り掛ける。言っても理解されない事は火を見るよりも明らかだった。
一先ず二人は分かれ、自室へと戻った。金の入った袋を持ち歩くわけにはいかなかったのだ。だが、戻ったら戻ったで問題が発生したのだ。
金の置き場がない。
そもそもこの部屋、鍵もない。
それは勿論、神官は悪さをしませんと言う証左なのだろうが、心許ない事は確かなのだ。エディットは悩んだ。何処に金が入った袋を置くかである。当然金庫などない。ベッドの下? 枕元? 毎日朝晩眺める? 最早只の趣味。一応袋の中を確認はしたのだ。だがこれが高いのか安いのかも分からなかった。エディットの治療費は、冒険者ギルドで一回千トリオレである。そこから十分の一くらいは貰えるのだろうか、と、考えていたのだが、実際袋の中に入っていたのは、一万トリオレ硬貨が五枚だったのだ。結構な金額である。だからこれは、治療費ではなく、聖水の分だろう。もしかすると治療に関しては完全にボランティアなのかもしれない。だが袋の中の硬貨が、手が震える金額である事は確かなのだ。正直金銭感覚がないので、五万トリオレで何が出来るかは分からないのだ。ちょっと買い食いをするには高すぎるだろうし、だからと言って欲しい物もない。勿論使う気もない。何故ならこのお金は、実家へと持ち帰らねばならないので。三年で出来るだけ沢山のお金を貯め、貧しい実家に持ち帰る。これが目標なのだ。取り敢えずエディットは、備え付けのクローゼットの中に袋を入れたのだった。扉も閉まるし、一先ず安心である。
さて、こうしてはいられない。
きちんとお金が貰える事が分かった以上、今まで以上に働かねばならないのだ。奇しくも本日の修業は、聖水作りであった。一番金になる修行である。いや、恐らくこれだけが収入源なのだ。つまり、やらない理由がない。
聖水作りはマーヴェルの元で行われる。眼鏡をかけた男性神官だ。何時になく真剣な顔で臨むエディットを、マーヴェルが不思議そうな顔で見ている。尚、同じ見習いであるクレマンスは呆れている。エディットは周囲など見えていませんと言った体で、空の瓶を握った。ありがとうございます神様。これからも励んでまいります。誠心誠意頑張ります。沢山聖水を作ります。世界平和に貢献します。最早エディット自身何を祈っているのか分からない有様ではあるが、兎に角気持ちは込めたのだ。
「再現できるんですか……」
結果耳に届いたのは、マーヴェルの呆れともとれる声であった。尚隣にいるクレマンスは半眼である。エディットが手にした瓶からは光が漏れていた。どう見ても普通の聖水ではない何かである。しかも以前一度だけ作れたものよりも更に光っていた。
「もう無理ですよね?」
「やってみます」
前回も一度で終わりだったのだ。それを踏まえマーヴェルは尋ねたのだが、やる気に満ちているエディットはもう一度空の容器を手にしたのである。もしかすると、勝手に一日一回等と判断しているだけで、気持ちの問題ではないかと思ったのだ。何も分からないのでただの精神論に走る始末。そう、実際エディットは何も分かっていないのだ。どうして聖水を作ることが出来るのかも、何故、突然光を放つ聖水が生まれたのかも。つまり、やってみるしかないのである。
ぎゅ、と、強く目を閉じ、神へと語りかける。
神様、一日一回って事はないですよね。私の気持ち次第ですよね。今日の私はやる気に満ち溢れているんですよ。明日もそうです。これからもそうです。人生を懸けて祈り続けます。神様、神様、神様。
「駄目ですね」
現時点では、どうやら一日一回の模様である。
エディットは肩を落とした。これが現実である。或いはもっと励めと言う神からのメッセージかも知れなかった。
エディットが一本でダウンした隣で、クレマンスもまた挑んでいた。此方も聖水作りは苦手なのだ。やはりエディット同様、よく分かっていなかったのである。だが、一本は作れるようになったのだ。しかし、一本だけだった。二人の見習いは仲良く一本ずつ作り本日の修業はあっさりと終わってしまったのだった。
はあ、と、エディットが重い息を吐いた。
これで収入が増えるのだろうか。そんな心配をしているのである。
「どうしたの落ち込んでいるように見えるわ」
「だってクレマンス殿、一本ですよ」
「わたくしもそうよ」
「十本位作りたいんです」
「そんなに作ってどうするのよ」
「お金になるじゃないですか」
「あなた、お金の話ばかりね」
「欲しいんですもん」
どちらも顔を顰めているので、傍目から見れば深刻な話をしているように見えた。実際はただの世間話である。
「そうだわ、エディット殿、出掛けましょうよ」
「いえ、お金がないので」
「貰ったじゃない」
「いえ、これは貯めるので」
「お金って使うためにあるのよ」
何処まで行っても平行線である。交わるわけがなかった。残酷なまでに生まれと育ちに差があるのだ。お金って、使うためにあるのよ。言ってみたい台詞である。お金って、生きるために必要なのよ。エディットに言わせればこれである。子が、親に渡すために金を稼ぐ感覚など、一生理解されないだろう。そんな風に思った。だが相手を羨んだところで仕方がない。別にエディットだって、不幸ではないのだ。クレマンスが恵まれているから自分が貧しいわけでもない。全くの無関係である。切り離して考えなければいけないのだ。
「わたくし、出掛けるところを考えておくわね」
でも全く理解されないのも、それはそれで辛いな、と、思ったのだった。
クレマンスと別れて食堂へと行く。あの貴族のお嬢さんは来るべきではないし、勿論来ない。だからエディットは此処では一人である。そもそも余りにも眩しいので、傍に人が来ないのだ。来るとしたら、それは同じくらい輝いている人間なのである。
「御機嫌よう、エディット殿」
「こんにちは」
初めて顔を見てから数か月。流石にエディットも慣れたのだ。輝いているな、と、思いながら前を向いたまま返事が出来る程度には慣れたのである。つまり、慣れてなどいなかった。真っ直ぐ顔を見てしまったら、目に異常を来たす虞があると割と真剣に危惧していたのだ。大袈裟。
「最近はどうですか?」
「悩んでいる事があります」
「えっ」
「えっ?」
ルシアンが驚いたような声を発したので、つられてエディットも呟いたのだった。ただルシアンが驚いたのは、何気なく発した問い掛けに、まともに返事があったからである。ルシアンからすれば、このエディットなる見習いは順風満帆に見えたのだ。教会に来て数か月で、二度も神の園へと招かれた、ある意味選ばれし人間である。悩みなどあるように見えなかったのだ。
どうしたものか。
聞いておきながら、ルシアンは悩んだ。果たして己が力になれる悩みであろうか。エディットはルシアンの事を何も知らなかったが、それは、ルシアンも同じだったのだ。こうして顔を合わせて時折話す程度であり、それ以外の事は全く知らなかったのである。
「お聞きしても?」
だがルシアンは年長者である。十歳の子供の悩みを聞き入れずしてどうするのか。そう、如何にしっかりしていようとも、相手はたかだか十歳である。十分子供だった。
「聖水についてです」
ルシアンは身構えた。エディットがただ前だけを向きながら、重苦しい口調で呟くにように発したからである。これはもしや何か重大事なのでは。何せこの少女は、神と対話した人間である。一体その口から、何が飛び出してくるのか。
「どうしたら、沢山作れるようになりますか」
「えっ」
「えっ?」
一度も視線は交わっていない。だが、えっ、と、同じ言葉を再びルシアンは吐いたのだった。余りにも意外な事を言われたので。つまり、言外に、そんなこと? と、言う言葉を呑み込んだのだった。
「数を熟せばよろしいのでは……?」
他に何かあるのか、と、そう滲ませながら小声で言った。これに驚いたのは、エディットの方である。
「えっ、数?」
「はい」
「そうですが」
「えっ、沢山作るって事ですか?」
「はい」
「えっ、気持の問題ではなく?」
「えっ?」
「えっ?」
気持の問題とは一体。そう言わんばかりの端的な声だったので、漸くエディットも理解したのだった。決して精神論なのではない事を。数が作れないのは、最初に比べて、段々と込める気持ちが薄まっているからではないかと思っていたのだ。気力と共に、込める祈りも減少するのかと思っていたのである。だからエディットが息切れせずに祈り続ければ、沢山聖水が出来上がると思っていたのだ。しかし答えは数である。作り続ければ続けるほど、数も増えていく。修行では? 事実、修行である。神官の修行である。何も間違っている事など無かった。精神の問題だと勝手にエディットが思い込んでいただけである。作った数によって経験値が増え、作れる数も増える。まるでゲームである。だがゲームとは違い、目に見える数字は無いのだ。それこそ、出来上がった聖水の数で判断しなければいけないのである。
「気持ちの問題だと思われていた、と、言う事でしょうか」
何処か、恐る恐ると言った具合にルシアンが尋ねたので、エディットは素直に頷いたのだった。前を向いたまま。
「はい。一定の祈りを込め続けている間のみ、作ることが出来るのかと……」
それはきっと、間違いではないのだ。聖水に必要なのは、神官の祈りである。だがその量ともなると、はかることが出来るわけではない。それでもエディットは勝手に、一定のラインを下回ったら聖水にならないと思っていたのである。
「成程……」
ルシアンの口から出たのは、全く理解とは程遠い、単なる相槌だった。しかし勘違いだと切り捨てる事も出来ないでいる。何故なら、相手がエディットだからだ。普通ではない聖水を二度も作った張本人である。彼女が言うなら、気持の問題と言うのは、本当にあるのかもしれない。そんな風に思ったのだった。
食事を終え部屋に戻り、エディットはそれでもまだ聖水の事を考えていた。数が重要だと言うなら、こうして暇な時間も聖水の作成に充ててはいけないものだろうかと。だが、教会がそうしろと言わないなら、何か理由があるのだろう。勝手に作られては困る、と、そう言った事かもしれない。何せ聖水は、教会の専売特許である。勝手に作られ、勝手に販売でもされたら適わないと言ったところだろう。その言い分は理解できる。結局、与えられた時間で何とかしなければいけないのだ。修業とは恐らくそう言う事である。そう言う事なんですよね、と、神に語り掛ける事で自分を納得させたのだった。




