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28.幸せの過程。



 掃除をしている時が一番何もしていないような気がする。

 あくまでエディットの特権である。神から授けられたスキルによって、勝手に掃除をしてくれる雑巾の登場である。すいすいと生きているかのように動く雑巾を眺めながら、二人は話していた。最初から今まで掃除は見習い二人で一組である。尤も今別々にされたら、困るのはクレマンス方であろう。もしかすると出来るだけ一緒に行動させるよう教会に話を通しているのかもしれない。家の方から。貴族なので有り得ないとも言い切れない。特権階級の出である。

「冒険者ギルドでの治療はどうなの?」

 単純な世間話。正にその通りで軽い口調でクレマンスは尋ねたのだ。

「今のところ二人ですね」

 すすーっと左から右に滑っていく雑巾を見ながらエディットが答えた。教会は部屋数が多いのか、同じ部屋に当たる事は殆どなかった。だから余計に奇麗になっている気がするのかもしれない。上部の窓など、そうそう磨かないだろう。

「前回が?」

「今まで」

 今度は右から左に滑って行った。そうして華麗にターンする。方向転換を見届けてからクレマンスが口を開いた。

「少ないのでは?」

 素直な感想である。何せ言われたエディットですらそう思っているのだ。今まで冒険者ギルドに二度赴いている。そうして治療を施した相手は二人。回数三回。しかも一人は経過すら分からない有様。果たしてこれで仕事をしていると言えるだろうか。しかしエディットは気付いたのだ。

「そうは言いますがクレマンス殿」

 一度言葉を切って、雑巾から目を離した。流石神の御業と言うべきか、エディットが見ておらずとも、まるで意思が宿ったかのように雑巾は踊り続けるのだ。

「怪我をした人が、態々冒険者ギルドに来ると思いますか」

 真剣な顔でクレマンスを見ながら続ければ、お嬢さんは目を丸くしたのだ。そう、エディットは気付いたのである。例え冒険者が怪我をしたとして、そのままギルドに来るだろうか。普通に考えれば余程に緊急の用事でもない限り、教会へと寄ってから行くだろう。何故なら通常冒険者ギルドには、治癒力を持つ人間などいないのである。怪我の治療は教会の専売特許である。恐らくエディットの存在は全く知れ渡っておらず、また知っていたとして、エディットは何時ギルドにいるか分からないのだ。頼らなくて当然だった。つまり、いてもいなくても同じわけである。もしや本当に厄介払いなのでは。どうしても思考は其処に行き着いた。他に理由がない。

 面白くなさそうな顔をするエディットを見て、

「確かにそうね」

 至極あっさりとクレマンスは肯定したのだった。別段単なる世間話なので、オチは求めていなかったのである。

「クレマンス殿はどうですか」

「程々よ」

「羨ましい」

「あなた、最初から出来たじゃないの」

「最初出来たからと言って今出来るとは限らないじゃないですか」

「街へ出て、困っている動物でも治してきたらどう?」

 それは先日、一緒に王都を散策した際の事を揶揄っているのだと分かった。思い付きで余計な事をしたばかりに、再び神の園へと踏み入れる羽目になったのである。全部自業自得。はあ、と、エディットが重い息を吐いた。現状愚痴ったとて、解決する術はないのである。見習いとして指示に従うだけなのだ。

 部屋の扉が開いたのは、もう掃除を終えてもいいだろうかと判断した頃合いだった。

 まるで条件反射のように、二人の少女は背筋を伸ばしたのだ。入ってきたのは特に面識のない神官であった。この時点でエディットは嫌な予感を覚えていた。案の定神官は、エディットへと声をかけたのである。曰く、客人の来訪である。客人にはいい思い出がなかった。とはいえ、エディットを誰かが訪ねて来た事等一度しかないのだが。その一度が、良くなかったのだ。嫌な思いを抱えて、エディットは一人部屋の外へと出たのだった。向かった先は、前回と同じである。息を一つ吐いて、ドアをノックした。

「どうぞ」

 この時点で帰りたくなった。これまた前回と同じ流れである。知った声であった。エディットの情緒をかき乱す、神官の声である。入りたくない。そう思うのに、手は勝手にドアノブを回していた。此処で走って逃げてしまえる勇気など無かった。エディットは小心で真面目なのだ。

「お呼びと聞いてまいりました」

「ご機嫌よう、エディット殿」

 顔を上げたくないな、と、思ったところでもう上げていた。そうして目を細めたのだ。今日もルシアン神官は眩しかった。因みにエディットはもっと光っているわけであるが。何せ、二百年分の祈りと同等の輝きを得てしまっているので。今のところ自覚する術はないので、分からないままである。ルシアン神官から逃れようとするかのように、エディットは視線をずらした。勿論客人とは、ルシアンではないのだ。その隣にいる男性がそうである。レイナウト・メルヒオール・ファン・デルベイル、その人だった。どうやら実際の名ではないようだが、他の名前をエディットは知らないのである。神が教えてくれた名がこれなのだ。

「こんにちはエディットさん」

「こんにちは」

 もう何と呼んでいいのか分からないので、曖昧な顔で挨拶だけをした。そのまま席を勧められたので、嫌だな、と、思いながら座ったのだった。断る理由が見当たらなかった。センターテーブルを挟んで二人と向き合う。まるで面接みたい。完全に現実逃避じみた感想である。

「先日、母が亡くなりまして」

 えっ。

 急に予期せぬ重い話が飛び込んできて、エディットは呆気に取られてしまった。初手で持ってくる流れとは思えなかったのだ。

「お、悔み申し上げます……」

「ありがとうございます」

 咄嗟に出てきた言葉が正しいかどうかも分からず、ご愁傷様ですの方がいいのだろうか、等と思いながら、そもそもこの客人の事も良く知らないのに母親などと言われても困惑する他なかった。兎に角自分から話すことは止めよう。エディットは決意した。口を開くと余計な事を言いかねないと思ったのである。既に名前がそうだった。頭の上に浮かんでいる名を呼んだだけで、この始末である。口は禍の元なのだ。

「少し、長い話を聞いてもらえるでしょうか」

「はい」

 言葉少なに肯定した。話を聞くだけなら大したことはないだろうと勝手に判断して。そもそも同席しているルシアンが何も言わないのだ。だったら受け入れる他なかった。

「私の母は、商会の一人娘だったんです。ですが、最後まで独り身でした」

「えっ」

 早速決意は破られたのだった。あっさり声を発してしまったのである。だがそれ程に驚いたのだ。何故ならこの客人、その商会の跡取りだと聞いているのだ。つまり、一人娘の子である。なのに父親がいない。

「もしかして、御父上を探しておられた……?」

「流石話が早いですね。仰る通りです」

 考えるまでもない展開である。褒められる程では絶対になかった。婚姻を結ぶかどうかは別として、子を成すには、必ず相手が必要なのだ。

「母は、一言も私に父親が誰とは漏らさなかったんです」

「はい」

「でも病に罹り、段々と体が弱って来た時、一度だけ会いたいと言ったんです。直ぐに忘れろと言われましたけどね。けれど、それが死の間際の願いなら、叶えないわけにはいかないと思った。なのに本人が頑なに口を閉ざすものだから、八方塞がりだったんです。信じられますか? 商会の誰も知らないって言うんですよ。嘘か本当かは分かりませんが、兎に角探す手立てがなかったんです。私は困り、悩んだ。其処へ、あなたが現れた」

 成程、と、納得半分、これって人助けになったんだろうかと疑問半分に思った。済んだ話を引っ掻き回すきっかけを与えたようにも思ったのだ。

「私が口にしたのは、御父上の家名だった、と、言う事ですか」

「仰る通りです。あの後私は急いで父であろう人の元へと走りました。結果、母は死ぬ前に、父ともう一度相見えることが出来たのです」

 客人は一度言葉を切ると、息を吐いた。何かを噛み締めているようにも、思い出しているようにも見えた。

「ありがとうございますエディットさん。私は母に叱られる覚悟だったのです。頑固な人でした。素直でもなかった。でも、愛した人がいたのだと分かった。余計な事をしたと詰られると思ったんです。なのに返ってきたのは感謝の言葉でした。私はそれが嬉しくてとても悲しかった。この人はもう死ぬんだと、そう、思ったのです」

 死を前にして、普段とは違う様相を見せる肉親を前にする悲しみが如何ばかりなものか、エディットには上手く想像出来なかった。きっと、いいとも悪いとも言えない。だからエディットは黙っていたのだ。

「きっと御母上は、幸せでしたよ」

 代わりに口を開いたのは、ルシアンだった。

「そうでしょうか」

「そうでしょうとも。こんなにも素晴らしい御子息がいらっしゃる。幸せでしょう」

 父親には触れずにそう言った。例え結婚はせずとも愛した人との子と共に過ごしてきたのだ。その子供が最後に愛した人を連れて来てくれた。それを幸せと言わずに何とするか。そう、ルシアンは言っているのだ。人生は一言で語れない。その人の全てを知る事は出来ないし、知る必要もない。なれど、今聞いたその一部分だけでも幸せだと思わせたなら、きっとそれは幸せに違いないのである。

「エディットさん」

「はい」

「私はあなたに二つ恩があります」

「いえそんな」

「商人は、借りを作らないのです。私は、レイナウト・ストランドですよ」

 それは、エディットの目に映る名前ではなかった。しかし本人がそう生きると決めたのならば、何も言うべきではないのだ。この男は、ストランド商会の、跡取りなのだから。いやもう、商会長になったのかもしれない。

「どうぞ、是非ともお申し付けください。何だって用意してみますとも」

「いえ今、必要なものはないので……」

「でしたらその時まで、いつでもお待ち申し上げております。特別に無期限にしておきますよ」

 如何にも出来る商人の顔で、レイナウトは笑いかけたのだった。それにエディットは顔を引き攣らせたのだ。因みに本人は笑い返したつもりである。出来ていなかった。

 商会の一人娘だったと言う母親が亡くなり、忙しいのだろう。葬儀だの何だのは済ませたとしても、そう簡単に日常が戻るわけではない。レイナウトは言う事は言ったとばかり、足早に帰って行ったのだった。忙しい最中、エディットに会うために時間を作ったであろうことが察せられた。こういう義理堅さも商人として、受ける一因なのだろう。

 部屋に残されたのは、ルシアンとエディットである。自分も去っていいだろうか。そう思った時だった。

「レイナウト殿の御母上は、御自分の家を選ばれたのですね」

 ルシアンの呟きは勿論独り言ではない。エディットに向かって言ったのだ。

「天秤に乗せた結果、相手の方よりお家の方が重かったのでは?」

「おやエディット殿、上手い事を仰る」

 少しエディットが冗談めかして言ったものだから、ルシアンが笑った。十歳の物言いではどう考えてもなかった。

「ルシアン殿、もしかしてレイナウトさんの御父上って有名な方ですか」

「あなたの口から出た家名を聞けば、大体の人間が分かるくらいには、ですね」

 レイナウト・メルヒオール・ファン・デルベイル、確かに立派な名前である。つまり、貴族なのだろう。エディットは感心してしまった。レイナウトの母が、貴族との婚姻より、実家の商売を選んだことをである。でもエディットだって、もし貴族と結婚しろと言われたら考えるだろう。何も分からないので。もしかすると、レイナウトの母も何も分からなかったのかもしれない。誰だって、知らない場所に飛び込むには勇気がいるだろう。愛だけで乗り越えられる困難等、そうはないのだ。

「ルシアン殿、天秤は、女性だけが持っているものでしょうか」

 ふと、エディットの口から零れた言葉にルシアンが目を丸くした。

「男性にもきっとある筈ですよ。でも男性の方の天秤も、お家に傾いたんでしょう。だから二人は結婚しなかった。そう言う事じゃないでしょうか」

 確かにレイナウトの母は、家を捨てなかっただろう。だが逆を言えば、レイナウトの父も家を捨てなかったのだ。同じ選択肢は両方にあった筈である。立場の違いはあれども。若しくは、二人とも家を捨てる事だってできた。勿論物事はそう簡単ではない。だが、天秤を揺らすのは片方だけではない筈なのだ。

「選んだ道は一つでも、選べた道は一つではない。そう言う事ですか」

「そう言う事ではないでしょうか」

 何方ともなく口を閉ざせば、教会に籠る静謐な空気が何やら語り掛けてくるような気がした。知らない人の冥福を祈るには、うってつけの空気だった。

「でも、最後に幸せだって思えたなら、それまでの過程はどうであれそれでいいんじゃないでしょうかね」

 そうして、突然投げやりな事を言い出したエディットを見て、思わずと言った具合にルシアンが笑った。結局人間先の事等分からないのだ。

「エディット殿は今幸せですか」

「はいとっても」

 全く考える事無く即答した少女を見て、ルシアンが目を細めた。今が幸せなら、それでいいのだ。考えなければいけない事だってあるだろう。でもそれは、今ではない。幸せに悩んだ時に考えればいいのだ。何せエディットの人生は、過程の途中である。結末を迎えるには未だ程遠かった。



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