23.物忘れは唐突に。
エディットの一日は祈りから始まる。勿論、祈りを捧げる時間はあるのだ。教会によって定められている。だが、それ以外は祈りを捧げてはいけない、と、言う、決まりはない。エディットは、暇さえあれば祈りを捧げていた。特に形式にも拘らず、ただ、内心で神に語りかけるだけだとしても、それは祈りだったのだ。何せ一度相対してしまっているものだから、他の誰よりも身近に感じていたのである。
見習いが日々すべきこととして、祈りと掃除は毎日ある。相変わらずクレマンスは雑巾を持つだけで、掃除はエディットの仕事だった。既にそれにも慣れきって、黙々とエディットはこなしている。床は自力で拭くが、高いところは窓も含めて、スキルでこなす。この力をスキルと呼んでいいかどうかは微妙なところであるが。何せ、エディットが求め、神に授けられた力である。奇跡の御技と呼ばれても、何らおかしくはなかった。ただ現実には、掃除にしか使っていないわけであるが。便利な力だという事は分かるのだが、他の利用法が思いつかないのである。その上、誰も求めてこないのだ。エディットのしたいようにすればいいと、そんな風に告げられている気がした。神が物申さぬと言うなら、人間が口出す権利はないと言わんばかりだった。
「器用ねえ」
何処か呆れたようにクレマンスが言う。視線は、雑巾である。二枚の雑巾がダンスでも踊るよう、窓を磨いていく。
「別に操作しているわけじゃないんですよね。拭いて欲しいな、と、思うとそのように動くんです」
「ふうん」
絶対に手に入れることが出来ないと分かっているからか、クレマンスの反応は薄い。でもこのくらいの対応の方がやりやすいのは確かである。変に畏まられたり、羨まれても困るのだ。そんな風に、ある意味真面目とは言い難い姿で掃除をしていると、急に扉が開いたものだから、二人揃って背筋を伸ばしたのだった。
「エディット殿」
「はい」
疾しい事はないはずなのに、いたずらが見つかったような気持ちで返事をする。顔を出したのは、面識がない神官だった。それも、呼ばれたのはエディットである。
「お客様がお見えです」
えっ。
全く想定外のことを言われ、頭の中が白くなった。客。客ってなんだっけ。言葉の意味すら分からなくなる始末。自分とは縁遠い単語すぎて、呆けてしまう。思わず助けを求めるようクレマンスを見たが、返ってきたのは、冷たい視線だった。早くいけと言わんばかりである。全く正しい態度だった。仕方なくエディットは、呼びにきた神官に続いたのだ。見送ったクレマンスが、これもう掃除は終わりということでいいのかしら、と、全然関係のないことを考えているとも知らず。クレマンスにとっては、知らないエディットの客よりも、したことのない掃除の方が問題だったのだ。
教会は大抵静かである。それなりに人が住んでいるはずなのに、人の気配が希薄なのだ。ただ神官は多かれ少なかれ光っているので、どこに居るかはすぐに分かる。かくれんぼには全く向いていない。特にエディットなど、ボロ負けであろう。人一倍、光を放っているのだ。但し、本人に自覚はない。案内された先は、応接室だった。勿論、初めて訪れる場所だ。呼びにきた神官は、扉の前まで来ると去ってしまった。残されたエディットは、仕方なくドアをノックしたのだ。流石に、突然開けるわけにもいかないだろう。
「どうぞ」
許可が聞こえた。しかし、エディットは動きを止めてしまったのだ。何故なら、聞き覚えのある声だったからである。客がこの声の主だと言う事はないだろう。同じ建物内で寝起きする人間である。知っている神官の声だったのだ。つまり、知り合いである。だが、エディットは躊躇している。扉を開けたいような、開けたくないような。本音を言えば、姿を見たい。だが、見たいだけであって、コミュニケーションが取りたい訳ではないのだ。芸術品を眺める、そういう気分を味わいたいだけである。だが、相手は人だ。そういうわけにはいかないのが実情で、覚悟を決めエディットは扉を開けたのだった。
「ご機嫌よう、エディット殿」
アッ、眩しい。
エディットは目を細めた。案の定、いたのはエディットにとっての推しと言って過言ではない、ルシアン神官だったのだ。今日も非常に輝いている。姿から顔から何もかも。両手で顔を覆いたい。目が潰れそうな気がする。気のせいである。
「お呼びと聞いて参りました」
ひとまず余りにも目に優しくないので、エディットは頭を下げることで視界から消したのだった。一時的に。そう、なんの解決にもなっていない。だがこの場にいるのは、エディットとルシアンだけではないのだ。エディットの客がいるのである。だから、顔を上げて、そちらを見たのだった。
知らない。
一目見た、感想である。
目が合うと、にこりと笑みが返ってきた。いたのは、男性である。エディットより年上、それはそうだろう、エディットは十歳である。会う人間は、大抵年上だった。だから、比べるならルシアンなのだ。同年代くらいに見える。尤もエディットは、ルシアンの年齢など知らないのだが。ただ、十は離れているだろうと思っている。失礼にならない程度に、男性を見た。仕立ての良い、スーツを着ている。裕福そうだ。それでいて、セールスマンのような印象も受ける。柔和な顔つきだが、笑みが張り付いているようにも見えた。但しやはり、記憶にない顔だった。
「先日はお世話になりました」
なのにそのような事を言い出したものだから、エディットは焦ったのだ。世話をした覚えなどない。何方かと言えばエディットは、世話される方である。何処へ出ても恥ずかしくない、見習い神官である。エディットはきゅ、と、唇を結んで、そうしてからゆっくりと開いた。
「ど、何方かとお間違えでは……」
この大聖堂に、自分と似た神官がいるかどうかは分からないが、そう言う事だろうと結論付けたのである。エディットに似た誰かが、この男性を助けた。結果、勘違いしてやってきたと言う訳である。一番有り得る。大体エディットはほぼ引き籠りである。教会の外、それも王都に知り合いなどいないも同然なのだ。しかし、問われ男性は笑みを引っ込めるどころか張り付けたまま言ったのである。
「いいえ、確かにあなただとお聞きしましたので」
誰に!?
最初から分からないものが更に分からなくなった。一体処の誰がこのような真似を。何も分かっていないのに、何だか陥れられているような気分ですらあった。礼を言いに来ていると言うのに。つまり、いい事である。なのに、落ち着かない。理由が分からない、と、言うよりも、心当たりが皆無だからである。寧ろもう名乗って欲しい。そうすれば分かるかも知れない。現状、顔どころか名前一つ思い当たる節がないのである。何か一つでも分かれば前進するかもしれない。いやいっそ、聞いた方がいいのでは。そうだ、そうしよう。大変失礼な行動だが、それがいい。そう決意した矢先だった。
「ルシアン殿にお聞きした通り、謙虚な方なのですね」
はい、詰んだ。
エディットは内心で天を仰いだ。一々逃げ道を閉ざされている気がする。先手を取られていると言った方が良いかもしれない。そう言うゲームだろうか。何の話か自分でもよく分からなくなる始末。本当はこのような真似はしたくなかった。だが、もう取るべき手段がない。この際自分の視力と引き換えでも構わない。そんな気持ちで、ルシアンを見た。一々大袈裟である。
「ええ、彼女は前途有望な見習いなんですよ」
はい、詰んだ。
何処か誇らしげに頷く様を見て、二度死んだ。心が。微笑むの止めて欲しい。この笑みだけで死ぬ人間だっているんですよ。内心でエディットは文句を言った。言ったところで、何の解決にもならない。
そう、現状何も分からないのだ。
この男性が誰かも分からないし、世話をした覚えもないし、エディットが自己紹介した覚えもないし、一体何処の誰がエディットの名を出したのかも分からないし、ルシアン神官は今日も眩しいし、兎に角頭の中は幾つもの紐が縺れ合うようにこんがらがっていた。しかし、驚きが一周回った結果、内心は騒がしくとも表情は死んでいた為、外部に伝わらないと言う悲劇。二人の大人は何処か微笑まし気にエディットを見ているのだ。はい、詰んだ。謙虚に生きて偉いね、とか、流石は神官見習いだね、みたいな、そう言う空気を感じるのである。心苦しい。いやもう、本当に辛い。どうしようもなく心臓が痛くなってきた。
エディットは忘れていた。
自分がたった十歳であると言う事をである。
正直に聞けばよかったのだ。何も恥ずかしい事等なかった。だって、十歳なのだ。覚えがないので教えて下さいと素直に尋ねればよかった。それを勝手に期待されていると思い込んで、自分で何とかしなければいけないと悩み、結果、一番やってはいけない事をしてしまったのである。
エディットは内心で叫んだ。それはもう全力で。声に出していたら、扉を抜けて廊下まで響くであろう声で叫んだのだ。
助けて下さい神様!!
後にエディットは嫌という程知るのである。後悔は、決して先に立たないのだと。




