21.ホームシック。
エディットの持ち物は少ない。そもそも、実家が貧しかったので、其方から持ってきたものは殆どなく、手元にあるのはその後、アグロレーの街の教会で餞別にと貰った物だ。その中でも、実家の母からもらった、手縫いのお守りと、アーローズ・オブライエンがくれた日記は一等大事にしていた。尤も母親は、お守りだ等とは知らなかった。前世のハガキ位の大きさの白い布に、赤い糸で刺繡がされている。それは、祈りの言葉だ。神への祈りである。理解したのは、教会へと預けられてからだ。字の読み書きを教えて貰って、理解したのである。神の存在など、微塵も感じ取れない生活をしていた。だが、神の痕跡はずっと身近にあったのだと知ったのだ。実に不思議である。エディットは、神の存在を信じていないときから今までずっと、このお守りを持ち続けている。
コンコン、と、ドアがノックされる音がした。はい、と、声を出し、エディットは立ち上がった。そうして、ドアを開けたのだ。
「おはようございます、クレマンス殿」
其処にいたのは同じ見習いである、クレマンスである。珍しいな、と、思っていた。本日は休みである。休みの日に態々このお嬢さんが、エディットを訪ねてきたことはなかったのだ。
「おはよう、エディット殿。さあ、出掛けるわよ」
一瞬冗談かと思ったし、このお嬢さんは何を言っているのかと呆れた。出掛ける? 何処へ? エディットは息を吐いた。多分に呆れを含ませて、である。
「あのですね、クレマンス殿、私、これしか服ないんですよ」
休日も平日も関係がない。寝るとき以外は、全部同じ服だった。そう、見習いの服である。何と言っても三着もあるので、困らないのだ。だが、外へ出る服装でない事は分かっていた。あくまでこれは、教会の中の服なのである。神官の見習いであることを示す服だ。休みの日に、街中でアピールするものではない。
「御安心なさい。ちゃんと用意したわ」
「なんですって?」
「わたくしのね、お下がりを送って貰ったわ。ねえ、アミシー?」
呼びかければ、背後に控えていたクレマンスの侍女が、前に進み出た。手には、何やら布がある。最早嫌な予感しかしないし、考えずとも分かる。服である。絶対に服である。服以外の何物でもなかった。エディットは思った。絶対にこのお嬢さんの我儘を、周囲が止めてくれると信じていたのに、現実はこれ。我儘を諫める真似などしないのだな、と。それとも、これくらいは我儘にも入らないのかもしれない。エディットとは住む世界が違い過ぎて、何も分からなかった。寧ろ、考える事を放棄し始めていた。だってもう、逃げ道がないのだ。これ以上余計な事を言うと、更に面倒な事になりそうだった。
仕方なく、本当に仕方なくエディットはアミシーから服を受け取り、身に付けたのである。そして思った。服に殺されるかもしれない。濃紺の、ワンピースだった。肌の露出は、ほぼない。清楚な品である。自分よりこの服の方が価値がある。そんな風に思った。多分、強ち間違いでもない。
「あら、似合うじゃない。ねえ、アミシー」
「はい、よくお似合いで御座います、エディット様」
お世辞だな。素直にエディットは思った。どう考えても、服に着られている状態である。似合う筈がない。身の丈に合っていないのだ。
「やっぱり、ブローチを付けた方がいいのではなくて?」
「あっ、大丈夫ですホントどうぞお気遣いなく」
早口でエディットは捲し立てた。これ以上扱えない物を増やすのは止めて欲しい。その一心である。大体エディットは、ブローチなど知らないのだ。少なくとも、田舎者の農民の娘、しかも十歳の知識にあってはおかしなものだった。だから、知らないのである。何処か必死な態度のエディットを不思議そうに見ながら、クレマンスは続けた。
「でも、靴は用意しなくてもよかったわね」
エディットの足元は白だ。先日レモンドに貰ったばかりの、革靴である。褒められたのが素直に嬉しくて、何処か面映ゆい気持ちで、はい、と、頷いた。この靴も、エディットにすれば過ぎた代物だ。もしかすると、一生持つのでは、と、そんな風に思っていた。自分が成長する事は完全に失念している。
見習いの神官服を脱いだクレマンスは、完璧なお嬢さんだった。薄緑のワンピースは、エディットが身に付けているものとそう変わりなく見える。でもこちらはちゃんとカメオのブローチを付けていた。花が刻まれている。つばの広い帽子をかぶり、地面に不思議な形の影を作る。歩くと、カツカツと、音がした。低いヒールのある靴を履いているのだ。堂々とした姿は何だかモデルみたいで、エディットは見惚れてしまった。きっと神官のスキルさえなければ、こうして貴族の令嬢として生きている筈なのだ、と、そんな事を思ったのだ。
ただ一つ意外なのは、徒歩だったのである。
もしかすると、馬車で移動するのでは? そんな風に思っていたのだが、クレマンスは道を歩いていた。勿論、エディットと、アミシーも一緒に。教会の周りは人通りが少ない。そこから、どんどんと賑わっている方へと向かうのだ。
「実はね、歩くのが苦じゃないの」
まるでエディットの疑問を見透かしたように、クレマンスが言った。
「そうなんですか?」
「わたくし、王都の出じゃないのよ。もっと田舎の方なの」
そう言うクレマンスはエディットの目から見てではあるが、随分と洗練されていた。これが田舎者だと言うなら、自分など未開の地からやってきたも同然である。事実そうであるが。実際擦れ違う人々に比べても何ら引けを取っておらず、寧ろどう見てもいい所のお嬢さんであった。それにクレマンスは田舎、と、言いながらも、その事を全く恥じていないように見えた。きっと、自分の家が好きなのだ。住んでいる所も含め、全て。元々悪感情は無かったが、エディットは更にクレマンスに好意を抱いたのである。エディットの完全な想像だが、貴族と言うのは、平民を見下しているものだと思っていたのだ。だが、違うのだと知った。クレマンスが特別なのかもしれないが、そんなに平民と変わらない思想の持ち主なのだと知ったのだ。
街は賑わっていた。通りには沢山の店が所狭しとひしめき合っている。商店街、と、いう言葉が浮かぶ。看板があり、ガラスのショーウィンドウがあり、まるで前世を思い出すような光景だった。きっと、見ているだけで、楽しい。いや、見る事しか出来ない、が、正しい。何せエディットは未だ、一文無しに近い状態なのだ。お金になると言われた聖水の代金も、未だに貰っていない。もしかすると、見習いが作った聖水など、売れないのかもしれない。勝手にお金になるとはしゃいでいたが、その可能性はある。考えてみればそうだ。三年きちんと修業した神官が作った聖水と、見習いとして教会に来たばかりの人間が作った聖水。何方が欲しいかと問われれば、考えるまでもなく前者である。つまり、期待できないと言う事だった。それでも、作らない選択肢はない。また明日から頑張ろう。エディットは決意した。出来る事は、愚直にやる、ただそれだけだ。
「入ってみましょうよ」
ふと、クレマンスが立ち止って言った。言葉につられて見る。色遣いが、明るい店の前だった。何を売っている店だろうか、と、疑問に思う。色々なものが見えた。雑貨屋だろうか。洋服や、靴の類でない事は分かる。扉を開ければ、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
店主だろうか。それとも、店員だろうか。ただ意外な事に、男性だった。どう見ても女性向けの店である。中に入ればよりそう思った。置いてあるのは、小物が殆どだ。それも、文具や、リボン、ハンカチなどと言った可愛い物だった。現世でほぼ縁のない物である。物珍しさに、エディットはキョロキョロと、首を動かした。買えないのは分かっているが、それでも、浮足立ったのだ。でも決してエディットは、クレマンスの傍を離れなかった。こんな店で別行動などしようものなら、あらぬ疑いをかけられるかもしれないと、そんな風に思ったのである。要は、物を盗みそう、と、そう警戒されるのではないかと思ったのだ。侍女が一緒にいるお嬢さんに限っては絶対にない事だが、エディットなら分からない。いや、していなくとも、言いがかりをつけられるかもしれない。しなくてもいい心配かも知れないが、どうしても自分に引け目があったのだ。
「あ」
気を張っていたつもりで、でも、自然と声が出てしまった。ふと、有るものが目についたのだ。エディットが視線を止めたものに、クレマンスも興味が湧いたのか、隣に立って眺めたのである。
「神官なのね、あなた」
クレマンスが言う。何処か、呆れたような声だった。でも、そうではないのだ。神官だから足を止めたわけではない。だから、エディットは首を横に振ったのだ。
「違うんです、私、これ、持ってるんです」
慌てて、ポケットから取り出した。服は変わっても、持ち物全部が変わるわけではない。意図して、忘れないようにちゃんと仕舞ったのだった。それは、一枚の布だったのだ。
「此方のお守りは、根強い人気なんですよ」
二人の後ろから、店員が静かに声をかけた。エディットが目を止めたのは、白い布に赤い糸で刺繍がされている物だった。まるでハンカチにも見えるそれは、お守りである。神への祈りが記されているのだ。きっと、神官でなくとも信心深い人用に作られているのだ。
「あの、実はこれ、私の母が作ったんです」
聞かれてもいないのに、エディットは答えた。この店に置いてあるものが、同じものかどうかなど、エディットには分からない。いや、きっと、違うだろう。だってエディットが住んでいたところは、ずっと田舎で、誰も知らないような農村で、このような所まで出回る筈がない。それでも、こんな遠い地で、母の面影を感じた事が、嬉しかったのだ。
感じ入ったように黙り込むエディットを見て、クレマンスが言った。
「二つ頂くわ」
「えっ」
「だって、あなたのお母さまが作られたものかも知れないんでしょう?」
「……うん」
きっと、違う。でも、エディットは否定しなかった。いや、したくなかったのだ。もしかしたら本当に、母親が針を刺したものかもしれない。自分が手にしている物と見比べる。新品かどうかの違いはあれども、よく似ていた。だから、違ってもいい。そんな風に思えた。これが知らない誰かが作ったものだとして、今エディットは、母の事を思い描いている。母親を感じているのだ。家を出て数か月。多分ずっと考えないようにしていた。寂しさを忘れようとしていた。でも今、帰りたい。エディットは眉根を寄せた。顔を顰めないと、泣いてしまいそうだったのだ。
例えエディットの中身が大人だとしても、十歳の心も確かにあるのだ。
「お買い上げありがとうございます」
にこやかに店員が言う。二つ買ったお守りを、クレマンスは一つアミシーに渡した。これで三人揃って同じものを持つことになったのだ。不思議である。まるで、神様が引き寄せてくれたみたい。それこそ数か月前まで信じてもいなかった癖に、そのような事を思ったのだった。




