16.医者いらず。
アグロレーの街の教会がそうであったように、この大聖堂にも色々な場所がある。神官のみ立ち入りが許されている礼拝堂をはじめとした内部の他、神官以外も入ることが出来る場所もある。スキルを見る場所、そして、治癒をする場所である。神官の持つスキルには、癒しの力があるのだ。その力を求めて、毎日人が来る。見習いとは言え、いや、見習いだからこそ、避けては通れぬ場所だった。立派な神官になるためには、癒しの力の行使は不可欠である。二人の世話役であるナジマが先導して、初めて二人の少女は治癒処へと立ち入ったのだ。恐らく、怪我の程度によって治癒の値段が違うのだろう。入り口には先ず怪我の具合を確かめる神官がいて、そうして、此処へ行って下さいと指示をする。力が強い神官程、怪我の程度が大きなところへと配属されている。まるで、病院の待合室だった。
「御二人は、怪我の治療をした事がありますか」
問われ、二人揃って、いいえ、と、答えた。未だそう言った機会には恵まれていない。案内された場所には、他の神官がいた。
「初めまして。サビーヌと申します」
「クレマンスと申します」
「エディットと申します。よろしくお願いいたします」
優しそうな、年嵩の女性神官だった。
「此処に来る怪我人の治療を先ずしてみてください。治せなくても大丈夫。後は私がしますから」
エディットは思った。聖水の時もそうだったが、まずやらせてみる教育システムなのだな、と。本音を言えば、先ず手本を見せて欲しいところである。きっとクレマンスもそう思っているに違いない。見れば渋い顔をしていた。気持ちは分かる。しかし文句を言う前に、人が来てしまった。どうやら、最初の患者のようである。入って来た男性は、右腕に大きな切り傷があった。未だに出血も止まっていない。中々、深そうである。
「では、クレマンス殿」
「は、はい」
呼ばれクレマンスが男の傷の前に手をかざした。見ながらエディットは、成程、ああするのか、と、密かに頷いた。最初に呼ばれなくて良かった。全く何も知らなかったのだ。アグロレーの街の教会では、見せて貰えなかったのである。この大聖堂に来てから習うべきとの判断だろう。その上でエディットは、教会の世話になった事も無かったのだ。だから本当に初見なのである。クレマンスが翳した手から、何やら光が降り注いだ。これまた、念じる系のスキルであることが窺える。クレマンスは無言である。暫く手を翳し続けていると、出血が止まった。だが、傷口はそのままである。後はもう、包帯でも巻いておけばいいのでは?
「では、エディット殿」
「えっ」
そんな風に思った矢先に呼ばれたものだから、思い切り動揺してしまった。だが、呼ばれたからにはしなくてはならない。クレマンスと入れ替わるように動く。完全に見様見真似だった。まず、傷口に手を翳す。近くで見るとより痛そうである。早く治ればいい。いや、治す。神官は祈りが力になる。やっと分かってきたのだ。だからエディットは内心で唱えた。治れ治れと、呪文の如く唱えたのだ。自分の手から光が見えて、一番驚いたのは、エディット本人だった。本当に治癒の力が使える事に、驚いたのだ。
「……本当に五百トリオレでいいのかい?」
直後、恐る恐る、と、言った様子で男が口にした。全員が目を丸くして、男の腕を見ている。血で汚れてはいるが、其処には傷など跡形もなくなっていたのだ。傷跡すら、なかったのである。
「ええ、彼女は、神官見習いなので」
何処か苦笑を浮かべながら、サビーヌが言えば、目に見えて男の表情が明るくなった。
「こいつは儲けた! ありがとな、見習いのお嬢ちゃん!」
「は、はあ」
エディットには男の喜びようが分からない。だから、神官を見たのだ。困ったように笑みを浮かべている。
「見習い神官の治癒料は、治っても治らなくても五百トリオレと決まっているのです」
五百トリオレ。単純にエディットの感覚で言えば、五百円である。確かに、惜しくないと言えば惜しくない金額であり、治ったならばラッキーである。
「もし、治らなくて、サビーヌ殿が治したなら?」
「勿論、正規の金額を頂きます」
それが幾らかは教えて貰えなかったが、五百トリオレで済まない事は間違いないだろう。あくまで見習いは練習であり、それでもいいと言う患者は実験台なのだ。何事も、場数を踏まなければいけない。そう、普通はそうなのだ。
故に、サビーヌは悩んでいた。
エディットの事である。経験を積ませるはずが、最初から完璧に治してしまったのだ。明らかに五百トリオレの仕事ではなかった。これでは、赤字である。クレマンス程度が理想だったのだ。後から完璧に神官が治して、正規の治療費も貰う。これである。しかもどれだけ完璧に治そうとも、エディットは見習いである。五百トリオレ以上を貰う事は出来ない。それが教会の決まりだ。更に言えば、三年は見習いとして経験を積むことも、決まりである。
これは、自分の手に余る。
大人しくサビーヌは、この件は上にあげることにしたのだった。
「あなた、ズルいわ」
部屋に戻る際、クレマンスが言った。エディットは、目を瞬かせた。
「どうして何でも簡単に熟してしまうの。何も出来ないわたくしが惨めじゃないの」
「ですが治癒に関しては、先にクレマンス殿が見せて下さったから出来たのですよ。私は何も知らないのです」
「そうなの?」
「そうです」
「でもズルいわ」
これ、堂々巡りだな。エディットは思った。大体そう言われても、どうにも出来ないのだ。事実エディットは何も知らず、どうして出来るのかも分からないのである。強いて言うならば、スキルのせいだろうとは思う。神官ではなく、大神官のスキル。恐らく、普通の神官より能力自体が上なのではないだろうか。他の大神官を知らないので、何とも言えないのだが。
何時もなら途中で別れるのだが、今日に限ってクレマンスはエディットの部屋までついてきていた。初めての事だ。未だ文句を言い足りないと言わんばかりである。言われても困る、と、エディットは思っている。しかし、部屋の扉を開けた時、文句は止んだのだ。
「ここ、あなたの部屋、よね?」
「そうですよ?」
エディットの部屋に初めて訪れたクレマンスは明らかに戸惑っていた。
「何もないじゃない」
この物言いには、流石のエディットもムッとしたのだ。相手は十歳の子供だと思いながら、我慢できなかった。そう、エディットだって、十歳なのだ。
「何でもありますよ」
「何処が!?」
「だって、私の実家より立派です。贅沢ですよ」
「……貧しいの?」
「そう言いましたよ、前に」
「喉が渇いたらどうするの?」
「水を飲みます。私には水のスキルがあるので。飲み放題です。贅沢ですよね」
「紅茶は? 飲まないの?」
「ないので」
茶葉も無ければ、湯を沸かす環境もなかった。あるのは水だけだ。毅然と答えたエディットに、酷くクレマンスはショックを受けていた。貧しい、と、聞いても、理解できてはいなかった。でも今こうして目の当たりにして、じわじわと頭に入ってきたのだ。何もない部屋だ。狭くて、殺風景で、その中に立つ同い年の少女を見れば心が痛んだ。ズルい、等と文句を言ったこと自体、恥ずかしく思えた。果たして、ズルいのは何方だろうか。クレマンスには世話をしてくれる人間もいる。喉が渇けば、無条件で温かい紅茶が出てくる。部屋の中にはもっと調度品が溢れていて、何一つ不自由など無いのだ。足りないのは、神官としての能力だけだった。しかしそれも、見習いだからである。三年頑張れば、エディットに並べるかもしれない。でも、三年頑張っても、エディットがクレマンスの生活環境を手に入れる事はないのだ。その事に気付いた瞬間、罪悪感にも似た気持ちが競り上がってきて、泣きそうになった。だから、逃げてしまったのだ。何処か憔悴した面持ちで部屋を出て行った少女を、不思議そうにエディットは見送ったのだった。