10.街を出る。
祈りを捧げている。
一人の少女が熱心に、神に向かって頭を下げ、祈りを捧げていた。ただそこに神は居らず、あるのは神を模した像である。その姿が真実そうであるかどうか、少女には分からない。それでも彼女は祈りを捧げた。
一の月が訪れた。この教会へとエディットが訪れてから約二か月。とうとう、他所へ移る日がきてしまったのだ。それでもエディットは変わらず、祈りを捧げる振りをしている。文字の読み書きをはじめとした、日常生活における色々な事を学んだが、未だ神を信じてはいなかった。根気強くオブライエン親子も、ジョアン・シーラーも神の存在を説いたが、効果はなかったのだ。敬虔な振りをし続けている。
王都の大聖堂から迎えが来ると聞いたのは、凡そ二日前の事である。誰かが言伝に来たわけでもなければ、手紙が来たわけでもなかった。教会には、他の教会とやり取りが出来る不思議な道具があるらしいのだ。エディットは思った。早い話が、電話じゃないか、と。勿論、電子機器の類ではないので、魔法的な何かではある。こう言う時、異世界にいる己を強く実感するのだ。好意で見せて貰ったが、水晶玉だった。その透明な玉の中に、話し相手の顔が映り、尚且つ話し声が届く。不思議だった。科学で解明できない類のものである。
大聖堂に行くことは、最初から分かっていた。寧ろその為のつなぎとして、此処へ置いてもらったのだ。離れる事が寂しくないと言えば嘘になる。しかしエディットに特別変わった様子はなかった。これが今生の別れではないと知っていたのだ。三年お勤めを果たせば、後は自由。つまり、戻ることもできるだろうと。反対に暗い顔をしていたのは、大人たちだった。心配で仕方がないと顔に書いてある。素行にも態度にも問題はない。ただ大きな欠点として、信仰心が皆無なのだ。寧ろ他にどんな問題があってもいいから、それだけはクリアして欲しかったに違いないのである。
「神はあなたの傍に」
「神の存在を疑ってはいけません」
「信じる心を持ちなさい」
大人たちはそれは言葉を尽くしてみせた。但しあくまで、信仰心が欠如している事が周囲に知られている事を気取らせぬようにである。よって最後までエディットに伝わることはなかったのだった。外面は良いが、察しの方は余りよくなかった。この人達滅茶苦茶神様推してくるな、等と思われていたのだ。悲しい程の擦れ違いである。そもそも、推しとやらの概念が伝わるような世界ではない。
一の月、と、言えど、エディットの体感で言えば夏である。日々気温が上がっているような、そのような気持ちにさせられる。但し前世の記憶程ではない。それでも、一度風が吹けば、まるで恵みのように感じたのだ。教会の前に止まった馬車が齎した風もまた、エディットに涼しさを運んできたのだった。王都からの迎えは馬車だった。但し馬の足は六本である。果たしてこれを馬と呼ぶのかどうか、エディットには分からなかった。足の数を除けば、立派に馬なのだが。車体は、儀装馬車に似ていた。小ぢんまりとして、しかし御者の姿はない。馬は二頭で、通常であれば御者台があり其処に御者がいる筈だがなかった。誰も指示せずとも、馬はちゃんと教会の前で止まったのだ。中に、指示をしている人間がいるのだろうか。そう思うのは当然で、しかし、降りてきた人を見て更に驚いたのだった。エディットの予想では、神官が来ると思っていたのだ。教会からの迎えである。で、あれば、属している人間が来るものだと思っていた。だが、小さな馬車から現れたのは、騎士服を着た女性だったのである。確かに長身で、短髪だ。男装の麗人、そんな言葉が浮かぶほどには、格好良い女性だった。左手に、鞘に収まった細剣を手にしている。馬車に乗っている手前、腰に佩くわけにはいかなかったのだろう。何とも予想を裏切る人物の登場に、エディットは呆けてしまった。
「アルメヴレハ大聖堂より参りました。神殿騎士のレモンドと申します」
もしかすると、あの中にはもう一人乗っているのかもしれない。明らかに二人乗りであるが。大人たちが挨拶を交わしているのを聞きながら、そのような事をエディットは思っていた。尤も、もし神官が乗っているならば、出てこない方が不自然である。つまり、迎えはこの女性騎士だけなのだ。和やかに会話を交わす人々の中、ロジェだけが、少しだけ顔を強張らせていた。神殿騎士、と、言う人間に一歩引いていたのだ。騎士、と、言うからには、騎士のスキルを持った人間なのである。ロジェにはないスキルだ。もしロジェに騎士のスキルがあったならば、教会の門番などしていないのである。劣等感を抱いていた。
「エディットと申します。御迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
尤もそのような事知る由もなければ、気付く事も無く、最後にエディットは卒なく挨拶をしたのだ。名字を名乗らなかったのは、そう言うものだと習ったからである。教会に身分制度はないのだ。役職はあるが。貴族も平民も皆一様に、神の信徒である。つまり、レモンドも苗字ではなく、名前だった。エディットは勝手に内心で檸檬さんと呼んだ。前世の物言いである。
「皆さま、本当にお世話になりました」
「ああ、エディット。何と言ったらいいか」
「シャローラさん?」
今にも泣きそうに顔を歪めたシャローラ・オブライエンを不思議そうにエディットは見たのだ。その妻の肩に優しく手を置き、夫であるアーローズは緩く首を横に振ったのだ。今更どうにもならない、と、そう告げているように見えた。
「エディット、きっと神はあなたをお助け下さいますからね。信じるのですよ」
「はい、ジョアンさん」
いい子の顔でエディットは返事をしてみせたが、ジョアンは重く息を吐いたのである。その様を不思議そうに神殿騎士は見ていた。明らかに問題児を送り出す様相だったからだ。そのレモンドに向かい、ロジェが恐る恐る言った。
「あの、彼女は本当にいい子なんです」
「そうですか」
何故そのような事を言われるのか分からず、それでいてロジェもこれ以上何を言っていいか分からず、妙な空気で別れは済んだのである。
乗り込んだ馬車は、案の定二人乗りで、中には誰もいなかった。
「よろしくお願いいたします、騎士様」
隣に座ったレモンドに、改めてエディットは頭を下げた。何せ此方は物知らずの田舎者の子供である。どんな失礼を仕出かすか分からない。保険はかけられるだけかけておくべきなのだ。少女の物言いに、騎士は目を丸くしたのである。
「レモンドで良いのですよ、エディット殿。あなたは神官なのですから」
「えっ!?」
明らかに自分より十以上年が上の女性に言われ、エディットは動揺した。初めて言われた台詞だった。しかも、名前に敬称を付けられたのも初めてだった。
「で、では、よろしくお願いいたします、えっと、レモンド、殿」
そうして初めて、人の名前に殿をつけて呼んだのである。流石に呼び捨てには出来なかった。出来るはずがなかった。しかも更に驚くべき事に、御者がいないのに、勝手に馬が歩き出したのである。
「あの、レモンド殿」
「はい、なんでしょう」
「馬が、歩き出したのですが」
「馬は歩くものでは?」
それはそうである。心底レモンドが不思議そうに言ったものだから、物言いを間違えた事に気付いたのだった。足があるなら馬は歩く。人だってそうである。
「いえあの、御者がいないように見受けられますが」
エディットの常識に照らし合わせれば、馬車とは御者がいて初めて成り立つものである。馬が勝手に目的地まで行くわけではないのだ。恐る恐ると言った問い掛けに、漸く合点がいったと言わんばかりに騎士が頷いた。
「エディット殿は、魔物使いのスキルを御存じありませんか」
なんて? 思わず内心で聞き返してしまった。この世界に生まれて十年、特に前世に無い知識に関しては、知らない事の方が圧倒的に多いのだ。スキルなどその最たるものだった。
「魔物使いの、スキル、ですか」
「ええ、この馬、正確に言えば動物ではなく魔物なのですが」
だろうな、と、内心で頷く。通常馬の足は四本である。六本ではない。
「動物の馬よりも速く、強靭で、また知能も高いのです。魔物使いが指示を出せば、応じて自らの意志で送迎が出来る、と、言うわけです」
「今この場にスキルを持った方がいなくても、指示を聞き続けるのですか」
「それこそ、知能が高い故ですね。私が教会から指示を受け此処にいるのと同じですよ」
「もしかして、会話が出来るんですか」
「魔物使いのスキルがあれば」
とんでもないな、と、思った。恐らく、欠点もあるのだろう、とも。相手の知能が高い、と、言うのは絶対条件だろう。全ての魔物と話が出来る、と、言うわけでもきっとないに違いない。話が通じるとも限らない。何せエディットが生まれ育った村など、魔物が入ってこないように聖水の世話になっているのだ。魔物はつまり、脅威なのである。全ての魔物をどうにかできるような存在であれば、もっと持て囃されている筈である。それこそ、神官並みに。或いは、数が少ないのかもしれないが。辺鄙な所では見かけない程には。
六本足の馬は本当に賢い魔物らしく、街中を歩いているときはゆっくりだった。尤も見た目は馬とは言え、魔物である。人の方が避ける。但しそれはあくまで、人が少ない場所の話だった。この馬車自体教会の持ち物だと分かるのか、街から出る事を止められはしなかった。もしかすると、入る時も特別扱いだったのかもしれない。圧倒的とも言える高さの壁の外に出る。広がる野辺に出た瞬間、エディットはバランスを崩したのだ。
「えっ」
突然馬が猛スピードで駆け出したのである。途端にエディットは心配になった。車輪が飛んで行ってしまうのではないかと、そんな風に危惧したのだ。
「大丈夫ですか?」
目を丸くして驚くエディットに、騎士が目を細めて尋ねてくる。明らかに楽しんでいた。少女の驚く様をである。馬が駆ける。車体が揺れる。
「手を握って差し上げましょうか?」
「だ、大丈夫です!」
思わず声を張り上げれば、レモンドがとうとう笑った。エディットは思った。女性で良かった、と。これがもし男性だったなら、惚れている可能性がある。そんな風に思ったのだ。そもそもこのレモンドと言う騎士、立派に美人だった。女性の姿でも奇麗だろうが、騎士服が余りにも似合っていて、様になり過ぎている。これはもうときめいて当然である。人間、美しいものには心が傾くのだ。
冗談交じりの申し出を拒否したものの、やはり、握ってもらうべきだっただろうか、いや、十歳である。しかもこれから神官になるのだから、自立しなければいけない。そう思う事で、己を律したのだった。少なくともそのように考えている時点で、十歳ではなかった。
心休まらない道中は、一日で終わった。途中休憩を挟みはしたが、エディットの想定よりずっと早かったのである。結局王都迄の距離がどの程度か分からぬまま、あっさり辿り着いてしまったのだった。六本足の馬は、余りにも早かった。早すぎる程に、早かった。もしかしたら途中、空を飛んでいたかもしれない。景色が可笑しかった気がする。それに、最初こそ物凄い振動を感じていたが、気にならない程度の揺れに変わっていたのだ。慣れたのか知れないと、そのように感じていたが、もしかすると、もしかするのかもしれなかった。だが、エディットは、隣の騎士に尋ねるような真似はしなかったのだ。一笑に付されるような、そんな気がしていた。何せ、エディット自身、おとぎ話のような話だと思っているのである。
異世界に生まれて十年。未だに謎しかなかった。異世界の現実は、エディットにとって不思議そのものだったのだ。神官のスキル然り。