01.チョコレートがない。
祈りを捧げている。
一人の少女が熱心に、神に向かって頭を下げ、祈りを捧げていた。ただそこに神は居らず、あるのは神を模した像である。その姿が真実そうであるかどうか、少女には分からない。それでも彼女は祈りを捧げた。
いや、正確には、祈りを捧げる振りをしていた。
何故なら、祈りの捧げ方も良く分からず、信仰の対象を然程に信じていなかったからである。彼女は神を知らない。でもこの世界には神がいると言う。この世界には、と、言うからには、彼女は他の世界を知っている事になる。
そう、少女には、他の世界の記憶があったのである。
彼女には前世がある。前世、と、言うからには、前の人生である。つまり、生まれ変わったのだ。そう認識したのは、僅か五歳の頃であった。きっかけは実に簡単な事である。ある日ふと、チョコレートが食べたい、と、そう思ったのだ。だが同時に、チョコレートがない事に気付いた。この世界にあるかどうかは分からないが、少なくとも、彼女の手の届く範囲にはなかった。そこで、己が知る五歳児よりずっと、貧しい事に気付いたのである。もしかしたらこれがこの世界の普通なのかもしれない。しかし、前世の記憶よりずっと貧しかった。別段前の人生が裕福だったわけではない。それでも今に比べれば雲泥の差である。
エディットは思案した。
いや、考えたところで、何が出来るわけでもないのだが。何せたかが五歳である。とんでもない早熟か何らかの才能に満ち溢れているなら未だしも、少し前世の記憶があるだけの子供だった。つまり、極普通にすぎなかったのだ。
それでも一応、考えたのである。
今の己は、エディット・マルカン。前の自分については、名前一つ思い出せなかった。だから、本当に前世があるかどうかは、実の所定かではない。だが、五歳にしては物を知り過ぎている自覚はあった。
エディットは五歳である。両親は健在だ。暮らしは貧しいが飢餓に悩むほどではなく、だが満たされてはおらず、将来が安泰なわけでもない。父親は農業従事者で、母親は内職に精を出している。特に珍しくもない、家族構成だ。
但し、世界は普通ではなかった。少なくとも、エディットの感覚で言えば、異常であった。
彼女が前の人生と全く違う世界に生まれ変わったと実感したのは、父親が、水を出したのを見た時である。これは何も蛇口を捻って出しただとか、地面を掘っただとか、そう言う事ではない。何もない空間から水を出したのだ。その時エディットは、自らの常識がガラガラと音を立てて崩れたのを聞いた。幻聴である。実際には何も鳴っていないので。勿論彼女は、問うた。一体その神の御業は何かと、勿論、神の御業、等と凡そ五歳児とは思えぬような事は口走らなかったが、問うたのだ。
父親は、意図も容易く言った。
「スキルだよ」
この時エディットの頭の中を、疑問符が駆け巡ったのである。
果たして、スキルとは何か。
少なくとも、前世にはなかった超常現象の類である。
父親はさも当然のように言った。いや、この世界では常識なのだから仕方がない。どうやらこの世界の人間は、多かれ少なかれ、何かしらスキルと言うものを使えるらしいのだ。それが偶々エディットの父は、水を出す、と、言う内容のものであった。どうにも父親は大したことが無い、と、言う体で言ったものの、エディットは感動していた。何せ水である。水。人間水さえあれば、七日は生きられると聞いた事があった。逆を言えば、人間、水が無ければ生きていけないのだ。それを何時でも何処でも出すことが出来ると言うのだから、感動もする。しかも、飲めるのだ。
エディットは父親を尊敬した。
そして、聞いた。
どうすれば、スキルを得る事が出来るか、である。
この世界の人間なら誰でも持っていると父親は言う。つまり、エディットも例外ではないのだ。必死に尋ねる娘に父親は笑いながら言う。
「さあ、どうかなあ。神官様に見てもらわないと父さんは何とも言えないなあ」
「神官様?」
「そうだよ、エディ。スキルの有無は十歳になったら、教会で神官様に見てもらうんだよ」
「父さんが水のスキル持ってるから、私も持ってるってことない?」
「スキルは人それぞれ、神様が授けて下さるものだから分からないよ」
突然出てきた神様なる存在に、エディットは呆けたのだった。
何故なら生まれてこの方、前世も併せて一度たりとも、神の存在を感じた事など無かったからである。しかしどうやらこの世界にはいるらしい。本当に? エディットは疑った。何せ、神である。今までだって神頼みはした事があるが、信じてなどいなかった。エディットは見た事も感じた事も無い神の事を考えたのである。勿論、答えは出ない。心の中で話しかけても返事はない。あったら怖い。多分引っ繰り返る。
一応、スキルが遺伝性の可能性も踏まえ、水よ出ろと強く念じてみたが、ぽちゃんとも言わなかった。人生、そう上手くいかないのである。
しかしこの日より根付いた新たな常識は、エディットの思考を奪うに十分だった。
大体娯楽らしい娯楽もないので、単純に暇だったのである。似たような歳映えの子供も、村にはエディットともう一人しかいなかった。エディットの二つ上、村長の息子ロドリグである。他に遊び相手がいないので、自ずと遊ぶときはこの二人になる。しかしエディットは、ロドリグが好きではなかった。意地悪なのだ。この年でもう、女が前に出る事を良しとしない思考の持ち主だった。そもそも、村長の息子である。自分の父親が、村で一番偉いと分かっているのだろう。父の態度を見て、自然とロドリグは嫌な子供になったのだ。それでいて、エディットの事を馬鹿にしながら、好いてもいるのが分かるものだから、彼女は困っていたのだ。エディットは、五歳であって五歳ではなかった。だからこの七歳の男の子の対応に、困っていたのだ。エディットは、大人しい子供だった。だけど、嫌な事は嫌だと言うようにもしていた。それが、双方の為だと思っていたのだ。けれど時折ロドリグは生意気だとエディットを突き飛ばしたりする。そして当然、謝らない。エディットの両親も、娘が村長の息子に暴力を振るわれても、口を噤むだけだった。閉鎖された村社会の息苦しさを、エディットは感じていたのだ。
何とかエディットはロドリグと距離を置こうとして、けれども行く場所もなく、自然と他の事を考えるようになった。つまりは、スキルの事である。五歳が六歳になっても七歳になっても、エディットのスキルが何かは分からないままだった。それはそうである。父の言葉を信じるならば、十歳まで分からないのだ。ただ、足掻かずに居られなかっただけである。
果たして、スキルとは人に聞いてもいいものかどうか。
あなた、何のスキルを持っているのですかと、そう、問うてもいいものかどうか。それすら分からないまま過ごしていた。聞いた相手は一人だけ。母親である。父が水のスキルを持っているのは分かっていた。だから、母に聞いたのだ。
「これよ」
無邪気に尋ねた娘に、母親はにこりと笑って上を指した。
エディットは素直に上を向き、今更ながら豆電球の存在に気付き、しかしそれが電球などではない事に驚いたのだ。ぼんやりとした小さな明かりが、浮いていた。
「母さんは、光のスキルを持っているんだよ」
呆けて口を開けて上を見る娘に、笑いながら父親が補足した。
スキルと言うのは、もしかすると魔法の事なのではないか。ふと、そのような事がエディットの脳裏を過った。何というか前世で目にした物語で出てきた魔法と呼ばれる現象に近いと、そう感じたのである。つまり努力次第でどうにかなるのではないか。と、これまた、物語の主人公のような事を思ったのだ。だからと言って、魔法を覚える為にする努力など、エディットには分からないのだが。
冷静に呆けながら、しかし内心感動もしていた。
光。簡単に言うが、これは物凄い事ではないだろうか。光があった方がいい場面など、これからの人生きっと幾つもあるに違いない。例えば母親の内職だってそうだ。これさえあれば、夜だって仕事が出来るのだ。もしかすると普通の家は、蝋燭など使っているのかもしれない。或いは知らないだけで、電気に似た何かがあるのかもしれないが、マルカン家では不要なのだ。これは凄い事ではないだろうか。
無言でうんうんと頷く幼い娘を夫婦は不思議そうに、だが微笑ましい顔で見ていた。
水も凄いが、光も凄い。感動しながら、出来ればどっちのスキルも欲しいな、と、素直にエディットは思ったのである。