2.名前を捨てた日
「お嬢ちゃん、一人でダリア王国まで行くのかい?」
「ええ。お願いします」
代金の銀貨一枚を御者の男に渡しながら、リナリアは頷いた。母譲りのミルクティー色の髪とエメラルドの瞳はキャペリンで隠して、出来るだけ俯く。
リナリアが聖女をやっていた頃、公の場に出ることは多くあったしアメリアの国民ならば彼女の容姿は認知しているからだ。断罪された噂は既に今朝の新聞によって知れ渡っているし、良からぬトラブルを生むくらいならばバレないようにした方が都合が良いのである。
「はいよ。しかし最近のダリア王国は魔物による被害が多いらしい。一人で行くにゃあ、あまりオススメ出来ないが」
「……母があちらにいるので心配で」
「そうか、ダリア出身か!そりゃ心配だなぁ」
「はい」
リナリアは嘘を吐いたことに少しの罪悪感を覚えつつも、信じてくれたことにホッとした。人の良さそうな笑顔で豪快に笑いながら、御者は馬車の扉を開ける。
「ありがとうございます」
「あいよ。あと五分もすれば出るから、乗って待っててくれ」
「はい」
御者の言葉に頷いて、馬車の中を見渡した。中にはまだ誰も乗っておらず、このままいけばリナリア一人での出発になるだろう。魔物による被害が、という御者の言葉を思い出したが、その影響なのかもしれない。
リナリアは一番奥の窓際に座って、横にトランクケースを置いた。断罪されたのは昨夜のことで、今日の朝には荷物を纏めて出て行けと言われたのだ。弁解も何も叶わず、母の肩身のドレスと着替え、そして1ヶ月程は慎ましく暮らせば生きていけるかな、という程度のお金。それがリナリアの全てだった。
聖女の代わりを勤めた頃の給金も、クリウスと仲が良かった頃にプレゼントしてくれたドレスや宝石も全て没収された。曰く、罪人に掛ける情けはない、だそうだ。
幼い頃から聖女として国に尽くしてきた仕打ちがこれなんて、随分と世の中は皮肉なものだ。
「……さよなら、アメリア」
窓から見える景色は、いつもと変わらなかった。子どもや国民が街を歩き、笑顔が溢れている。感傷に浸りそうになったところで、慌ててリナリアは首を振った。
(いけない。今は悲しんでる場合じゃないわ)
これからは自分のことを考えて生きていかなくてはならないのだ、と自分に言い聞かせて、これからのプランを思い浮かべる。
ダリア王国とはアメリア王国の隣にある大きな国で、聖結界がない分魔物による被害が多いのは事実だが、その分冒険者業が盛んだ。冒険者業はライセンスを発行してもらえれば誰でもなれるものだから、回復魔法を始め光魔法が使えるリナリアは職に困ることもないだろうと踏んだのだ。
今までは聖女として重宝されてきたが、これからは自分一人で暮らしていかねばならない。そう考えれば自分は良い生活をしてきたのだな、とリナリアは自重した笑みを浮かべた。
「お嬢ちゃん、そろそろ出発するよ」
馬車の外から御者の声が掛かる。馬車な中にはリナリア一人だから、静かな旅になるだろうと安心しているともう一つの声が聞こえた。
「俺達も乗せてくれ」
「おお!丁度出発にするところだったんだよ。あんちゃんたち二人かい?」
「ああ。よろしく頼む」
馬車の扉が開く。一人だと期待していたリナリアは肩を落としたが、仕方無いことだ。
「先客がいたのか。悪いな、出発するところだったのに」
最初に乗り込んできたのは冒険者のような格好をしている、緑の髪の男だった。腰には剣を携えているから剣士だろうか。日に焼けた肌で明るい笑みをリナリアに浮かべた。
「……いえ」
次に乗り込んできたのは、紺色のフードを深く被った男。背が高く、先程のリナリアと同じように俯いている。フードは薄汚れているものの、生地も高級なものを使っているから貴族だろうか。訳ありなのだろう、とリナリアは窓際に身を寄せた。
フードの男はリナリアの真向かいに、そして、その横に緑髪の男が座る。
(従者と貴族ってところかしら……)
リナリアが考えていると、御者が出発の合図を掛けた。ガタン、と大きく一度揺れて、馬車は進み始める。流れていく街並みを見つめて、不意に零れそうになった涙を堪えるためリナリアは目を瞑った。
「にしても無駄足だったなぁ」
緑髪の男が溜息混じりに呟いた。フードの男が頷きながら返事をする。
「そうだね。折角ここまで来たのに」
「まぁ、聖女と言ってもまだ未熟なんだろうが、あれはなぁ……」
(……!)
思わず聖女という言葉に心臓が跳ね上がるが、平静を装ってリナリアは窓を眺め続けた。
(聖女として、次期王妃としての教育を受けたことが役立つのって複雑ね……)
「にしても、偽聖女なんてな。噂じゃ前の聖女は優しく平等で、それはまるで天使のようだった、なんて聞いてたが。女の嫉妬は怖いもんだ」
緑髪の男は折り畳んだ号外を広げ、難しい顔で言った。
「“偽聖女、聖女様への殺害未遂”か。偽聖女とは言え国に貢献してきたんだろうにな」
「力だけなら偽聖女の方があったんじゃないかな」
「なんでそう思うんだ?」
「聖結界の安定性だよ。前にこの国に来た時の方が聖結界が安定してた。今じゃいつ崩れてもおかしくない」
「……まぁ、これだけの聖結界を維持するのは簡単じゃないだろうな」
二人の雑談を耳に入れながら、リナリアは窓の外に見える外壁のその先にある聖結界を見た。フードの男の言っていた安定性というのはよく分からないが、確かにミラはリナリアより魔力量が少なかった。勿論、聖女ではない人間に比べればその力は歴然としていたが、先代の聖女よりも少なかったのだから聖女の中では力が弱い方なのかもしれない。
聖結界は一日に一度、魔法陣に魔力を注ぎ込む必要がある。その後は聖女を宿主として一日中ずっと魔力を魔法陣に吸われていくため、慢性的な疲労は付き物だ。ミラにも何度かやらせたが、それで身体を壊すことや発動に失敗することも多く、リナリアがカバーしていた。
リナリアなしで聖結界を発動させるのは初めてだから少し不安は残るけれど、余計なお世話というやつだろう。
「なぁ、お嬢ちゃんは偽聖女を見たことがあるのか?」
(……私が偽聖女ですよ)
そんなこと言う訳にもいかず、緑髪の男の問い掛けにリナリアは頷いた。
「一度だけ、遠目からならありますよ」
「美人か?」
「えっ?……さぁ。遠目からでしたのでなんとも」
「そっかぁ。いやー、一度は拝んでみたかったな。アメリアの天使様」
「……そんな呼び名があるんですか?」
「あー、この国じゃなんて言うか分からんけど、他国じゃそう呼ばれてるよ。見た目も美しい上に強い光魔法を扱い、人を助けるからな。何でも欠損した部位やどんな病でさえも治すとか?」
「……へえ」
初めて聞いた呼び名に引き攣った笑みを浮かべながら、リナリアは何とか相槌を打った。なんて恥ずかしい呼び方なのか。知らなければよかったな、と遠い目で外を見つめる。
「そうだ、名前は?ここで会ったのも何かの縁だし、ダリアまでは五日も掛かる。自己紹介でもしようぜ。俺はラル、こっちのフード被った陰気臭い男がレオだ。よろしくな」
「えっ……と」
名前を聞かれて、リナリアは少しだけ迷った。母がつけてくれた“リナリア”という名前を、この先は捨てて生きていかなければいけないのかもしれないのだ。“偽聖女リナリア”の名と顔は知れ渡っているし、何処かで気付かれることがあるかもしれないから。
「……リア、と申します。よろしくお願いします」
“リナリア”という名を、リアは今日、捨てたのだった。