1.婚約破棄と偽りの聖女
「リナリア・クラウリー嬢。君との婚約は破棄させて頂きたい」
唐突な婚約者からの申し出に、リナリアは手に持つシャンパングラスを落としてしまった。割れたグラスが大理石の床に散らばる。今日この日の為に用意した亡き母の形見である、夜空を象ったようなドレスが台無しだ。染みになる前にどうにかしないとな、とぼんやりと場違いな考えが頭を巡る。
……あぁ、なんだっけ。そうだ、婚約破棄の話だ。
「どういうことでしょう、殿下」
婚約破棄を申し出たクリウス・メリアールに向き直ると、リナリアは微笑みとともに問い掛けた。
真っ赤に燃えるような瞳に、美しい金髪。王族だけが継ぐことを許された色。彼は紛れも無くリナリアの婚約者であり、このアメリア王国の第一継承権を持つ王子だ。
「心当たりはあるだろう」
クリウスの言いたいことは分かっている。先に行われた聖女の儀のことだろう。
「大方想像はつきますけれど、このような場で婚約破棄を伝えるのは如何なものでしょう」
今日の夜会はリナリアとクリウスの婚約発表の場だった。王族は勿論、アメリア王国の重鎮や権力を持つ貴族達がこぞって集まっている。婚約破棄に対しては仕方の無いと思う部分はあるけれど、今伝えることに何の意味があるのか。
「リナリア、君は強い聖なる力を持ってはいるけれど、聖女ではなかった。それはここに居る者皆が知っていることだろう」
「……ええ」
リナリアは思わず眉を顰める。孤児だったリナリアは幼い頃から強い聖なる力を持ち、王家に引き取られ、次期聖女だと謳われ育ってきた。聖なる力を持つものは希少だが、その中でも強い力を持っていた為だ。故に、物心ついた頃には王家へ嫁ぐことが決まっており、歴代の聖女達が継ぐ国防の要である聖結界を維持してきたし、多くの者の傷を癒してきた。アメリア王国に封印された魔王への祈りも毎日欠かさなかった。
先代の聖女が早くに亡くなってしまったこともあり、それらは本来ならば十六に聖女の儀を受けてからのはずだったのだけれど、リナリアにはそれが許されず生まれてからずっと王家に、国に仕えてきたのだ。
感謝さえされど、婚約発表として設けられた場でこんな仕打ちを受ける謂れは無いはずだ。なのに何故、貴族達や騎士団はおろか、国王でさえ止めないのか。
「そして、彼女が真の聖女であったことも知っている」
彼女――ミラ・エミリーは純白のドレスを纏って、クリウスの隣に並んだ。同情的な瞳を向けるミラは、しかしその奥には好奇心や期待に似た輝きが見てとれる。
リナリアは思わず、ミラのその瞳に固唾を飲んだ。ミラ・エミリーは聖女の儀で今代の聖女として神託を受けた者だ。リナリアが聖女では無いと分かってから、ミラには今まで自身がしてきた聖女の仕事を教えてきた。過ごす時間は必然的に増え、二人で出掛けることだってあった。だから、彼女との信頼関係は少なからず築けていたと思っていたし、彼女がクリウスと良い仲にあることを知っていても何も言わなかったのは純粋に友人として応援したかったからだ。
ミラはそっと、クリウスの腕に手を伸ばす。それに応えるように、クリウスはミラの手を強く握って微笑む。まるで恋人同士のようだ。それと同時に、リナリアはクリウスの臣下の騎士に捕らえられ、そのまま硬い床に跪かされる。
「……わたくし、確かに聖女ではなかったですけれど、国の為に尽くしてきたつもりです。このような場でこんな仕打ちを受ける覚えはありませんけれど」
「本気で言っているのか?」
極力冷静を装って発した声だったけれど、やはり冷静にはなり切れず震えるリナリアに、クリウスは容赦なく睨み付けた。
「君は自分が聖女ではないと知って、ミラに嫌がらせをしてきただろう!」
「……え?」
「恍けるつもりか!?確かに君は今まで国に尽くしてきてくれた。僕はそれに感謝もしているし、自分が聖女ではないと知って辛い気持ちも分かる。しかし、聖女であるミラにその感情をぶつけるのは間違っている!」
「……何を、仰っているのですか……?」
「今まで聖女の代わりとして行ってきた仕事を、ミラに教えもせずにきつい言葉をぶつけていたらしいじゃないか。それならまだしも、ドレスを破いたり、私物を盗んだり、挙句の果ては食事に毒を盛った!」
「私は誓ってそんなことをしておりません!」
「目撃したものも多くいる!それに――」
「何を……!」
リナリアを押さえ付けている騎士は、リナリアの内ポケットをまさぐる。そこから取り出されたのはひとつの小さな瓶だった。その中に入っている紫の液体は、リナリアでも知っている猛毒だ。
「それが証拠だ。君はミラのグラスに機会を伺ってそれを入れようとしていたのだろう!」
「……!? 私ではありません!」
「では何故君がそれを持っている!?」
「それは、わかりません……本当にわからないんです!」
クリウスの隣で震えているミラにリナリアは目を向ける。彼女を虐めたことなどない。それは彼女自身が一番理解しているはずだ。確かに厳しい教え方だったかもしれないけれど、たまにサボるミラに注意をしたことはあったけれど、虐めていたつもりはないしミラだって二人の時は楽しそうにしていたはず。
「ミラさん、わたくし、貴女にそんなことしたことありませんよね……?」
「ずっと、言うなって脅されていました。リナリアさんは周りの目がつくところでは優しかったけれど、二人の時は……。今まで怖くて言えませんでしたけど、でも、限界なんです……!」
ついに泣き出したミラを、クリウスは優しく抱き締めた。
「……僕は君を信じていた。聖女ではなくとも、長年僕を支えてくれた君と結婚をするつもりだった。けれど、リナリアがこんな女だとは思わなかった」
「……本当に、私ではないんです」
言いたいことはいっぱいあるけれど、リナリアに向けられた多くの敵意に、何も言うことが出来なかった。この場にいる全ての人間が、リナリアを蔑んだ目で見ている。
「リナリア様がまさかなぁ……素敵な方だと思っていたのに」
「あぁ……聖女様を殺そうとするなんて」
「あれは悪魔だ……」
心無い言葉が耳に入ってきて耳を塞ぎたいけれど、腕は自由を奪われていてそれは叶わなかった。どうして、私が何をしたって言うの。泣きたくなんてないのに、勝手にリナリアのエメラルドの瞳からは涙が零れていた。
それをクリウスは鼻で笑い飛ばし、宣告した。
「リナリア・クラウリー。君を国外追放とする!」
それは王家の、国の総意だった。皆が軽蔑の視線を向ける中、リナリアは気付いた。ミラだけが笑っていることに。
“さようなら”
ミラはゆっくりと、口だけで言葉を紡ぐ。
そうして、リナリアは悟る。自分にはもう、この国に居場所はないのだと。必死に守ってきたこの地に、見捨てられたのだと。
ドキドキしながら投稿…妄想の産物です。楽しんで頂けたら嬉しいです!