188. EO:仕上げ
――――― Episode Olga ―――――
この世にはこんなにも悍ましい存在がいるのか。
黒いボブショートの先端に紫のメッシュが入ったデウス族の少女──オルガは、肌を粟立たせながら目の前の存在を凝視した。
それは、2メートルを超える人型の怪物。
筋肉と腱がむき出しになっているその姿は、まるで全身の皮膚を剥がされた人間のよう。
額の左右からはねじ曲がった角が生えており、鋭利な爪と尖った歯が暴力的な雰囲気を醸し出している。
ネズミを思わせる細長い尻尾の先端には蛇の頭が付いており、意志があるかのように自在に蠢いている。
羊のように横に長い瞳は輝く赤に染まっており、正に不気味そのもの。
顔の作りは全体的に人間のそれに近いのに、それぞれのパーツが獰猛で野性的なため、見た者に衝撃と恐怖を与える。
何より特徴的なのは、その頭上に浮かぶ黒輪と、背中から伸びる3対6枚の翼だろうか。
ねじ曲がった角の上で相対的静止を保っている黒輪は宵闇が如き黒光を放っており、コウモリを彷彿とさせる6枚の巨大な翼は羽ばたくことなく闇色の靄を振り撒いている。
悪魔だ。
この世のものとは思えない程に悍ましい容貌に、邪悪と暴力を具現化したかのような御姿、そして万物を無条件にひれ伏させる強大な存在感。
まさに九神教の聖典で描かれる混沌神の眷属──「悪魔」そのものだ。
悪魔の顕現。
天使に続き、またしても神話の存在の登場である。
驚きはするが、もはや不思議はない。
家主の少年ならやりかねない。
そんな法則とも諦めともつかない考えが、少女の中で固定化されつつあった。
件の悪魔は、宙に浮いたまま真紅の瞳で少女を一瞥し、幼いエルフの双子へと視線を移してから、少年のところで止めた。
その真紅の瞳を向けられた瞬間、少女は全身を恐怖に包まれた気がした。
変態に監禁され、救いの手もなく延々と拷問を受け続ける拉致被害者は、きっとこのような感覚なのだろう。
希望も、喜びも、安らぎも、何もかもが奪われ、穢され、壊されたかのような、とても悍ましい感覚だった。
故郷を滅ぼした盗賊たちとはまた違った、気持ち悪い恐怖である。
ミュートとミューナも自分と同じ感覚に襲われているのか、繋いだ手から震えが伝わってくる。手汗も酷く、呼吸も荒くなっている。
成人している自分ですら、この気持ち悪い恐怖に肌を粟立たせているのだ。幼い子供でしかない二人が何も感じない筈がない。いや、確実に自分以上に恐怖を感じているだろう。
ただ、その恐怖も、少年が掛けてくれた防御魔法のお陰か、それとも少年が側にいてくれるからか、この程度で済んでいる。
相手は正真正銘の悪魔で、しかも話を聞く限り、悪魔を統べる悪魔王の一柱だというではないか。少年が側に居てくれなければ、自分たちはその姿を目の当たりにしただけでショック死していただろう。
……まぁ、当の少年は、その悪魔王を苛立ちのままにしばき倒しているが。
「何卒、私を召喚主様の犬としてお使いください!
でなければ、どうか私をこの場で消滅させてください!」
少年に腕一本で制圧された悪魔王ルセフが、地面に頭を擦り付けるように平伏する。
己の全てを懸けた、まさに騎士のような忠誠の誓いである。
ただし、その根底にあるのは崇高な騎士精神などではなく、変態性の塊のような被虐欲。
世の中にはそういう趣味趣向があることは教育係だったエイダさんから教わっているが、実際に目の当たりにするとインパクトがかなり強い。相手が2メートルを超える悪魔の王だから、余計そう思えるのかも知れない。
「………………」
鳥肌が立ちすぎてあわや鶏そのものになろうかという少年。
暫く絶望した目で遠くを見ていたが、やがて諦めたように溜め息を吐いた。
「……言っておくが、お前のドM趣味に付き合うつもりはない。お前は俺の犬。それ以下はあっても、それ以上はない。分かったか?」
「お、おお……! ナチュラルにこの私を蔑み虐げる! やはり貴方様は素晴らしい御方だ! 貴方様こそこの私の主に相応しい!」
「ええい! 這いつくばりながら擦り寄ってくるなこの変態!」
「ああっ、ああっ! どうか、どうかもっと強くお蹴りください召喚主様!」
少年の靴を舐めようとする悍ましい悪魔に、追い払うように悍ましい悪魔を蹴りつける少年。蹴られた悪魔は快感に打ち震え、それを気持ち悪がって少年が更に蹴る。
ちょっとした地獄絵図がここにはあった。
「お巫山戯はこれまでだ」
暫くして、若干疲れた少年が真顔でそう言うと、快感に震えていた悪魔──ルセフがスッと流麗な動きで少年の目の前に跪いた。
「命令だ、ルセフ」
魔法で拘束されている盗賊たちを、少年が指差す。
「こいつらの仲間が逃げている。ひとり残らず捕まえてこい」
「畏まりました」
「いいか──」
少年が念押し……いや、厳命を下す。
「誰も殺すんじゃないぞ。全員、生きたまま捕まえてこい」
「御意のままに」
少年の言葉の裏に隠れた意図を理解したのか、頭を下げた悪魔王ルセフの顔は、実に楽しそうに──邪悪に歪んでいた。
コウモリのような翼から漏れ出る黒い靄に包まれ、悪魔王ルセフの姿が消える。
同時に、少女を襲っていた肌が粟立つ感覚も消えた。手を繋いでいる双子の震えも、まるで解放されたかのように止まった。
悪魔王ルセフを見送った少年が、少女に振り返る。
「オルガ、手伝ってくれ」
そう言うと、少年は部屋の隅に捨てられている布切れの山に手をかざした。
剥ぎ取られ、破り捨てられた、アビーの衣服だ。
「《印影の追憶軌跡》」
ビリビリに引き裂かれていたアビーの衣服が宙に浮かび上がり、まるで透明人間が着ているかのように人の形をつくる。
そして、宙を乱暴にゆらゆらと揺れたかと思うと、引き裂かれた生地が独りでに撚り合わさり、そのまま引き裂かれる前の状態にまで戻った。
その様は、まるでアビーが経験しただろう衣服を左右から引っ張られ、引き裂かれ、剥ぎ取られていく過程を逆順に演じているかのようだった。
最後に、女体の形をした破損のない衣服が、音もなく少年の手の中に落ちる。
「アビーに着させてやってくれ」
アビーの衣服を受け取り、少女は頷く。
これは、同じ女である自分にしか出来ない作業だ。
「俺は子供たちのほうを見てくる。終わったら知らせてくれ」
「分かりました」
「行くぞ、ミュート」
「うん」
「ミューナは私のほうを手伝ってください」
「うん」
◆
洞窟の外は、まだまだ雨が支配する世界だった。
少女たちは、洞窟に入ったときと同じように少年の魔法で宙を滑るように移動し、洞窟の出口まで出る。
違うのは、後ろに眠ったままのアビーと子供達を引き連れているところ。
全員がキレイに傷を治されおり、衣服にも破損はない。ミュートとミューナからも「村を出たときとおんなじ」とお墨付きを貰っている。
少年を筆頭にした少女たち一行は、降りしきる雨の中に躊躇なく進み出る。
もちろん、少年の魔法が雨を弾いているので、誰も濡れていない。
「迷える子羊よ」
「召喚主様」
ちょうど洞窟を出たところで、空から二つの声が同時に掛けられた。
見上げれば、そこに居たのは2体の「神の眷属」。
天使長ラファイネと、悪魔王ルセフだ。
宙に浮いている天使長ラファイネは、何らかの魔法を使っているのか、それとも存在そのものが特殊すぎるのか、まったく雨に濡れていない。
どうやら少年の目立ちたくないという意向を酌んでいるらしく、その有り余る神々しさも、今は極限まで抑え込んでいる。
側には彼女が記憶を消しに行ったエドと、尻尾を巻いて「キュゥ〜ン」と情けない声で鳴いているジャーキーが浮いていた。
宙に浮いている悪魔王ルセフも天使長ラファイネ同様、まったく雨に打たれていない。
こちらも同じく少年の意向を酌んでいるらしく、その有り余る悍ましさを極限まで抑え込んでいる。
側には彼が捕まえに行った盗賊が大勢、刺々しい形をした黒い靄の鎖にギュウギュウに巻かれた状態で浮いている。
「エドとジャーキーを連れてきてくれたのか、ラファイネ」
「ええ。そなたがしようとしていることを考えれば、この方がいいかと思いました」
「助かる」
「……それよりも、迷える子羊よ。……なぜここに悪魔がいるのです? そなたが目障りだと感じているのであれば、私が滅しましょう」
美しい眉を微かに顰める天使長ラファイネ。
「やってみせるがよい、天使よ。我が麗しき召喚主様を『迷える子羊』などと上から呼ぶ貴様など、我が消してやる」
鋭い牙を微かに見せながら応じる悪魔王ルセフ。
目に見えない火花が二体の間で飛び散る。
どうやら、天使と悪魔はあまり相性がよろしくないらしい。
「二人とも、ちょっと黙ろうか」
ちょっとウンザリしたような顔の少年が、左右の手でそれぞれに向かってパチンと指を鳴らした。
「うっ……!」
「がっ……!」
途端に苦しみだす天使と悪魔。
「ラファイネはアビーの心の傷を癒やすために呼び出した。ルセフは逃げた盗賊を捕まえるために呼び出した。お前達の『好み』が矛盾していることは知っているから、多少のいがみ合いは目を瞑るが、俺の時間を無駄にすることは許さん」
「「も……申し訳……ありません……」」
「次は『存在根幹』を潰す。いいな?」
「「わ……分かりました」」
脅迫以外の何物でもない少年の言葉に、天使長ラファイネと悪魔王ルセフは一も二もなく了承を示す。
それで二体とも苦しみから解放されたらしく、ホッとした顔でゆっくりと少年の前に降り立った。
「お前の方は全員捕まえたな、ルセフ?」
「もちろんでございます。逃走した食材……もとい盗賊は、全て捕獲いたしました。総数23。取り逃しはございません」
「それでいい」
「それと、捕まえた者の中に内臓が弱っている者が数名ほどおりましたので、僭越ながら私のほうで勝手に癒やしておきました。間違いなく長生きすることでしょう」
「でかした」
悪魔王ルセフの意味深な言葉に、少年が満足そうに頷く。
「ラファイネ、ルセフ」
天使と悪魔を呼ぶと、少年は真剣な顔で言った。
「お前たちにはまだやってもらうことがある」
二体が恭しく少年の前に跪き、命令を待つ。
「ラファイネ、お前は姿を消してアビーの側で控えていろ。万が一、記憶消去が失敗した場合は可能な限り対処しろ。方法は任せる」
「分かりました」
「ルセフ、お前はこの場に残れ。洞窟の中に俺が捕まえた分の盗賊がまだ残っている。拘束魔法を解いておくから、まとめて捕まえておけ。後で迎えに来る。それまで絶対に誰にも見られず、誰も逃さず、誰も殺すな」
「御意のままに」
少年の命令通り、ラファイネはエドとジャーキーを地面におろしてから姿を消し、悪魔王ルセフは黒い鎖でグルグル巻きにした盗賊たちと共に洞窟の中に消えていった。
「これからが本番だ」
誰に聞かせるでもなく、少年は呟く。
その顔には、もうあの不自然な無表情はない。
代わりにあるのは、張り詰めた弦が如き緊張感。
それも無理はない、と少女は汗に濡れた手を握りながら思う。
天使長ラファイネの記憶消去が上手くいったかどうかは、純粋な賭けだ。
本当にすべてが「無かったこと」になったかどうかも、皆が目覚めたときに初めて分かること。
不確定要素が多い上に、やり直しが効かないのだ。
これで緊張するなと言うほうが無理だろう。
「ナイン」
少年の袖を引いて、彼を自分のほうに振り向かせる。
「何があろうと、どんな結末に終わろうと、私たちはあなたの味方です」
「みかた!」
「わたしも!」
真剣な眼差しで言った少女と、手を挙げて可愛らしく少女の言葉に追随するミュートとミューナ。
そんな三人に、少年は不意を突かれたように目を見開き、そして徐に微笑んだ。
「…………ありがとう、オルガ、ミュート、ミューナ」
それはいつもの彼の、優しい笑顔だった。
「お前たちが居てくれて、俺は…………」
敢えて最後まで言わなかったのか、それとも最後まで言えなかったのか、はたまた最後まで言う必要がなかったのか、少年の蕩けるように柔らかな瞳を見た少女は追求しないことにした。
きっとそれをすれば野暮になってしまうから。
少しだけ俯いた少年が、「ふっ」と溜息とも失笑ともつかない息を漏らす。
「……まぁ、神は耐えられない試練に遭わせるようなことはしないらしいし、同時に脱出の道も備えてくれているらしいからな。
あのいけ好かない神様が真実な奴かは分からないけど、なんとかなるだろ、きっと」
期待半分、諦め半分、という苦笑いを浮かべる少年。
達観とは程遠い、なんとも情けない表情だが、あの悲しみや怒りを無理やり抑え込んだような無表情よりは何万倍もマシだ。
「……あ、そう言えば、あいつは確か地球の担当だったな。ならこの世界は、あいつとは違う神様が担当してるのか? う〜ん……」
いつものように意味不明な呟きを漏らす少年に、少女は思わず微笑む。
いつもの彼に戻ってくれたことが、とても嬉しかった。
足元では、ミュートとミューナが向日葵のような笑顔で少年にまとわりついている。二人も自分と同じように、少年が元に戻ってくれたことが嬉しいのだろう。
神は耐えられない試練に遭わせるようなことはしない、と少年は言ったが、少女はなんとなくそうではない気がした。
試練に耐えられるかどうかは、きっと、神様のご采配で決まるのではない。
苦楽を共に分かち合ってくれる存在が側に居てくれるかどうかで決まるのだ。
一人では耐えられない試練でも、家族みんなで分かち合えば、必ず耐えられる。
どんなに厳しい試練が待っていようと、家族みんなで支え合えば、必ず乗り越えられる。
きっと、神様はそういう風に世界を作ったのだろう。
なんとなくだが、そんな気がした。




