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183. EO:贖罪

 ――――― Episode Olga ―――――




「"主はこれを地上に遣わせ、あまねくをお導きになられるだろう"──」



 朗々と唱えられる呪文に、黒いボブショートの先端に紫のメッシュが入ったデウス族の少女──オルガは、驚きを隠せなかった。


 普段は魔法をさも当然のように無詠唱で行使する家主の少年が、詠唱を口にしたのだ。

 それだけで、この魔法が普段目にしているものとは根本的に違うことが分かる。


 少年の周囲は、放った魔力のせいで洞窟全体が紫色に染め上げられている。

 普通では目に見えないはずの魔力が可視化するなど一体どれ程の量と密度なのか、少女には想像すら出来なかった。

 そのあまりにも膨大な魔力量に当てられたせいか、風すら吹いていないのに今にも吹き飛ばされそうな感覚に襲われた。暴風が如く魔力の放出に耐えるべく、思わず前屈みになる。


 宙に浮かぶ幾何学模様と未知の文字が規則正しく整列し、交差と統合を混じえながら回転と再編を繰り返す。やがて、それは一つにまとまり、複雑で美しい立体図形を形成する。

 魔法陣だ。

 立体的な魔法陣が、少年と少女を包むように形成されていた。

 平面でない魔法陣など聞いたこともないし、魔法師でない少女では魔法陣を見ても何の魔法かさっぱり分からないが、なぜかその造形からただならぬ神聖さを感じた。

 まるで心を打つ絵画を目の当たりにした時のような、或いは魂に響く音楽を聞いた時のような、自然と心の底から感動と畏怖が湧き上がる感覚だった。


 周囲を染めていた紫色が魔法陣に吸われていき、魔力の暴風が収まる。


 これから行われることは、間違いなくとんでもないことだ。

 そんな予感がして、少女は思わず少年の背に隠れるように近づき、縋るように彼の服の端を掴んだ。



 そして、少年の詠唱が完了する。



「──《『エノ()ク真書』(使):第9()章8節()》」



 瞬間、世界が神々しい白光で塗り潰された。

 目が潰れるほどの光量。

 だが、少女は目を瞑らなかった。その必要がなかった。

 その白光は、目を焼くように強いのに、全くと言っていいほど眩しくなかったのだ。逆に、まるでベールを通して差す穏光のように柔らかく、眼に心地良くすらある。

 見ているだけで癒やされるようで、少女は思わず見入ってしまっていた。


 やがて、白光の中から存在感のある何かが徐々に滲み出てきた。

 武に疎い少女でもハッキリと感じるほど濃厚な存在感が、少女を圧倒する。

 とても異質で、とても強大で、とても神聖な存在だ。

 間違いなく、この世の生き物ではないだろう。


 固唾を飲んで見守る中、それは姿を表した。


 神々しい、若い女性だった。


 薄金色の髪は大きなウェーブを描きながら腰まで伸び、編み込まれたサイドによって背中で緩く流されている。

 金色に光り輝く瞳は神秘的で、その異次元の美貌と合わさって、どこか非現実的な美しさを形作っていた。

 身に纏ったキトンのような衣装は光で作られているかのように透明感があり、その下にある豊満な肉体を優雅に覆い隠している。

 何より特徴的なのは、その頭上に浮かぶ光輪と、背中から伸びる3対6枚の翼だろうか。

 薄金色の髪の上で常に相対的静止を保っている光輪は陽光が如き輝きを放っており、鳥類の翼を思わせる3対6枚の巨大な翼は羽ばたくことなく光の羽毛を振り撒いている。


 天使だ。


 この世のものとは思えない程に美しい容貌に、神聖と包容を体現したかのような御姿、そして万物を無条件にひれ伏させる強大な存在感。

 まさに九神教の聖典で描かれる生命神(第七神)の眷属──「天使(第七眷属)」そのものだ。


 天使(第七眷属)の降臨。


 信じられなかった。

 まさか神話の存在をこの眼で見ることになるとは、想像もしていなかった。

 同時に、納得もしていた。

 家主の少年ならば「天使召喚」などという御業が出来ても不思議はない、と。



 件の天使は、宙に浮いたまま金色の瞳で少女を一瞥し、少年の方へ視線を移した。


 その金色の瞳を向けられた瞬間、少女は全身を慈愛に包まれた気がした。

 温かい産湯で洗われ、初めて母の腕に抱かれた赤子は、きっとこのような感覚なのだろう。

 心の底で蟠っていた苦悩が、後悔が、苦痛が、罪過が、その全てが許され、受け入れられ、消え去っていく、なんとも満ち足りた感覚である。

 少年から感じるものとはまた違った、不思議な安らぎだった。


「ん。どうやら『天使目』の召喚には成功したようだな」


 硬くて平坦な少年の声が、少女を現実に引き戻す。

 天使降臨のインパクトで一時的に頭が熱くなっていたが、今はそれどころではない。

 アビーがまだ正気を失ったままなのだ。


「お前は『ラファエル種』で間違いないな?」

「その通りです、迷える子羊よ。私は『天界』を統括する天使長が一人、名を『ラファイネ』といいます」


 3対6枚の翼を広げ、女神の眷属たる威光をこれでもかと振りまく、ラファイネと自称した天使。

 どうやら、彼女は天使の中でも最高位にいるらしい。

 本当に、とんでもない存在だ。


 しかし、対する少年は、何の感慨も抱かない。

 寧ろ、酷く冷淡だった。


「名前なんてどうでもいい。お前は、『癒やし』を司るんだろ?」


 少女がいる角度からでは少年の顔を確認することができないが、その何かを強く押さえつけているかのような不自然に平坦な口調は、先程と全く変わっていない。

 恐らくその表情も、先ほどと何一つ変わらない──不自然な無表情のままだろう。


「友人が心を壊してしまった。今すぐ元に戻せ」

「分かりました。そなたの救いを求める声に応えましょう」

「この娘だ」


 徹底して塩対応の少年が、寝台で横たわるアビーを指し示す。


「酷い目に遭ったせいで、精神が不安定になっている。完全に元に戻せ」


 哀れなアビーは、呼びかけにも応じず、揺すっても反応を示してくれない。ただ虚ろな眼で何かを呟き続け、時折虚しそうに笑うだけだ。

 明らかに精神が壊れてしまっている。

 その事実が、少女の心を深く抉る。


 自分の親友がどれだけ酷い目に遭ったのか、想像しただけで吐き気がした。


 もし、自分たちが居ない間は村を出ないよう、出発前に警告していたら……。

 もし、ゴールウェイの町に寄り道などせず、そのまま帰ってきていれば……。


 色んな「たられば」が浮かんでは消え、その都度後悔を生み出す。そしてその後悔はすぐさま罪悪感へと変わり、ナイフとかして少女の心に突き刺さる。

 まるでアビーの不幸の全てが自分のせいな気がして、後悔と罪悪感に押し潰されそうになる。


 自分が替わってやれたら、などとは流石に思わないし、思えない。

 大切な友人が女にとって最も惨い目に遭ったというのに、それでも我が身可愛さを捨てきれない。

 そんな自分が、つくづく嫌になる。


 しかし、実際問題、少女に何が出来るというのか。

 気持ちばかりが急いて、無駄に空回りするばかりである。


 そしてその空回りのせいで、少年を追い詰めてしまった。

 少年も自分と同じように辛いのは、分かっていたはずなのに。


 少年は飄々としているように見えて、実は無駄に責任感が強い。

 彼がどうしてずっと不自然な無表情と平坦な口調なのか、少女にも分かっている。

 彼も、アビーのことに責任を感じているのだ。


 無法をやらかす盗賊たちへの憎悪。

 友人であるエドとアビー、そして愛すべき子供達が傷ついたことへの悲しみ。

 それらを未然に防げなかった自分への怒りと後悔。

 心の中で煮え滾るそれらの感情が暴発しないよう、少年は必死に抑え付けているのだ。

 その不自然なまでに「何も無い顔」の下で、一体どれだけの激情が渦巻いているのか、想像すら出来ない。


 そんな少年に、自分は涙ながらに懇願してしまった──アビーを助けてくれ、と。

 普段は愛想の欠片もないくせに、こんな時だけ女の弱さを全面に出して、少年に全てを委ねてしまったのだ──お願いだ、と。

 こんなにズルいことがあるだろうか。


 結局、自分は少年に全てを押し付けてしまったのだ。

 彼ならなんとかしてくれる、と。

 少年の力に頼り、少年の責任感に甘えてしまったのだ。

 彼ならアビーを治してくれるはずだ、と。

 そうして、無意識の内に少年を追い込んでしまった。


 だから少年は、天使召喚などというおよそ人では成し得ないような方法を取った。


 天使を召喚しておいて代償は皆無、などという事がある筈もない。

 必ず、何らかの対価を支払ったはずだ。

 それも恐らくは、少なくない対価を。


 この事だけは──少年に犠牲(代償)を強いてしまった事だけは、気の所為でもなんでも無く、自分の責任だろう。

 自分が少年の責任感の強さに甘えて懇願したからこそ、少年は身を切るような方法を選んだのだ。


 ギュッと、唇を噛み締める。


 アビーが助かる代わりに少年が傷ついたのでは、意味がない。

 自分の非力さと無責任さに、ほとほと嫌気が差す。



 そうして少女が自責している間に、アビーの記憶を消すという方向に話が決まった。


「あらゆる記憶は相互に関連性を持っており、独立した記憶というものは存在しません。そのため、一つの記憶を消せば、たとえそれがどれだけ取るに足らないものだったとしても、必ずどこか他の記憶に影響を及ぼします。そしてその影響は、消去回数を重ねるごとに指数関数的に大きくなります。私の推測ですが、小規模記憶消去を2回も繰り返せば、彼女の全記憶が意味消失してしまうでしょう」


 一発勝負であることを告げる天使ラファイネ。


 少年が振り返り、視線だけでどうするかと問うてくる。


 ……いや、違う。

 これは、意見を求める視線でもなければ、確認を取る視線でもない。

 これは、謝っている視線だ。


 ジクリ、と少女の心が痛んだ。


 少年は、全てを一人で背負う気なのだ。


 ──失敗したらゴメン。

 ──でも、失敗しても全部、俺のせいだから。

 ──その時は、ミュートとミューナを頼む。


 そんな少年の言葉が聞こえてくるようだった。


 グッと唇を噛み締める歯に力が入る。


(貴方に全てを背負わせたりはしません!)


 少女は、少年の両目を睨むように見据える。


 ──私が許可します、やってください。

 ──これでアビーがどうなろうと、その責任は実行したあなただけでなく、承認した私にもあります。

 ──これで、私も共犯です。


 そんな本心(メッセージ)を込めて。


 少年が微かに眼を見開いた気がした。

 彼が何を思い、何を感じたのか、それを少女が見極める前に、少年は顔を天使ラファイネへと戻してしまった。


「……それでいい。やれ」


 天使ラファイネに振り返った少年が、ゴーサインを出す。


 認可を受けた天使ラファイネは、寝台に横たわるアビーの両頬に手を添えると、その額に口づけした。


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