181. NP:Tears of sorrow ①
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それは、いつものように祈りを捧げていた。
祈る相手は、自分という存在が発生する原因となった何か。
自然現象から偶然誕生したのだとしたら、その自然現象に。
より高次の何かに創造されたのだとしたら、その高次の何かに。
祈りを捧げる相手が具体的に何なのかは、さほど重要ではない。
重要なのは、自分や同族という存在を生み出してくれたことに対する感謝と、自分たちが他の存在と共にあり続けられることへの願い。
こういう姿を、物理生物たちは「敬虔」と形容するのだろう。
それがこうも頻繁に祈りを捧げるのは、遠い昔にとある経験をしたから。
どれだけ昔か、寿命という概念がないそれはもう覚えていないが、それは一度だけ物理世界に召喚されたことがある。
物理世界への召喚は、基本的に下級の同胞が経験することで、それを含めた4体の長の中で召喚を経験したことがある者は1体も居なかった。
それもそのはず、それと他3体の長は、それが存在する概念世界の一角を共同で統べている、神が如き存在だ。物理世界に住む物理生物が、容易く召喚できる筈などないだろう。
だから、それが召喚されたというのは、まさに前例を見ない珍事だった。
それを召喚したのは、緑色の肌をした人形の物理生物だった。
下級の同胞たちの話では、物理世界に住む生物たちは、他の生物を捕食することで生存状態を保つらしい。特に、それと同じように頭と胴体と四肢を持つような物理生物は、捕食なしでの生存は不可能だそうだ。
その点、それを召喚した緑肌の人形生物たちは水と陽の光のみで生存していたので、恐らく例外な物理世界に召喚されたのだろう。
後にそれを話したら、下級の同胞たちから「稀有な旅をなさいましたね」と祝福されたのを、それはよく覚えている。
そうして物理世界に赴いたそれは、そこで強い衝撃を受けることとなった。
初めて、「幸福」という名の芳しき香りを嗅いだのだ。
それの種族は、生物の感情を「匂い」として認識する。
生物の「感情の匂い」を楽しむことはそれらにとって極上の娯楽であり、中でも特に「正の感情」が織りなす香りを好む。
勿論、個体によって好みは様々だが、生物が「幸福」を感じた時に発する香りは、それらにとって例外なく好ましいもので、至高の嗜好品に等しい。
召喚されたことのある下級の同胞たちは口々にその香りの素晴らしさについて語るが、召喚を経験する前のそれは、その話題についてあまり共感することが出来なかった。
それは自己という存在が確立してからずっと、己が統べる概念世界を一度も出たことがない。なので、「幸福の香り」どころか感情の匂い自体を嗅いだことがなかった。
体験したことがないから良さが分からない、とそれが感じるのは仕方のないことだろう。
加えて、それの性格も関係していた。
普段からとても穏やかな性格であるそれは、同時に少しだけ無欲でもあった。禁欲的というわけではないが、余計なものはさして欲しがらない傾向にある。
感情の匂いに関しても、「嗜好品と同じ性質のものであるならば無くても問題はない、無くても問題ないものはそれほど欲しくならない」と感じていた。
そんなわけで、生物の「感情の匂い」や「幸福の香り」を追い求める同族たちとは違い、それは「感情の匂い」に興味を持つことが出来なかったのだ。
しかしその態度も、緑肌の人形生物に召喚されることで一変した。
そこで知った生物の「幸福」の香りはあまりにも香ばしく、自分まで幸せな気分になってしまったのだ。
その経験は、それの価値観を変えるのに十分だった。
その日からだ、それが祈りを欠かさなくなったのは。
残念ながら、それは存在そのものがあまりにも強大過ぎるため、他の下級の同胞たちのように度々召喚されるということが起こり得ない。緑肌たちに召喚されたのも、殆ど奇跡と言っていいほどの幸運だった。
なので、それが再び物理世界に顕現し、その身で感情の香りを楽しむことは、絶望的と言っていい。
だが、そのことを不幸だとそれは思わない。
緑肌たちが自分を召喚してくれたからこそ、自分は彼らの世界に干渉することが出来ようになり、彼らを助けることが叶った。そして、そのことが彼らの幸福に繋がり、今度は自分の鼻を楽しませてくれた。
これは、自分という種族と緑肌という種族、両方が同時に存在していなければ成し得なかったことだ。
突き詰めれば、全ては自分や緑肌を創造した「何か」のおかげだろう。
だから、それは無限に続く時間の中で、祈りを捧げ続ける。
それや他の生物が存在することに感謝し、共に歩んでいけることを祈願する。
そして願わくば、召喚された他の同胞が召喚した相手を幸福に出来ますように、と。
いつもと変わらない、終わりのない祈りの時間の連続。
しかし、この時ばかりは少し違った。
突如、それの目の前に、魔法陣が現れたのだ。
まさか、とそれは驚く。
このまるですべてを吸い込む穴のような魔法陣は、それの記憶にあったものに酷似していた。
召喚の魔法陣──召喚陣だ。
概念世界から物理世界へと通じる道。
長の一人から聞いた話では、これの他にもう一つ物理世界と繋がる自然現象があるらしいが、出現がランダムなので意図的に立ち会うのがとても難しいという。
なので、上級下級を問わず、同族が物理世界に顕現する方法はほぼ「召喚」の一択となる。
その一択が──二度目など訪れないと思われていたチャンスが、目の前に現れたのだ。
ついに──また誰かが自分を召喚してくれようとしている。
それは歓喜した。
物理世界の生物を、また幸福に出来る。
芳しき「幸福」の香りを、また楽しむことが出来る。
想像しただけで高揚してくる。
溢れ出しそうな歓喜をグッと抑え、それは直ちに召喚陣へと手を伸ばす。
同じ召喚陣が、それの統括領域にいる全ての同族の前に等しく現れていたのだ。
要は、早い者勝ち、ということ。
普段のそれであれば、良い事は下級の同胞たちに譲り、同胞たちの幸運に祝福を送っていただろう。
だが、今回ばかりはそうしなかった。
他の同胞──特に下級の同胞たち──は召喚される機会が多いが、自分はそうではない。
これを逃せば、次の召喚は何時になるのか想像すらつかない。
ようやく巡ってきたチャンスなのだ。
今回ばかりは、自分のわがままを通したっていいじゃないか。
誰よりも早く、それは召喚陣に触れ、召喚に応じる。
呼応を確認した召喚陣は、即座に起動。契約成立により、召喚プロセスを開始した。
徐々に召喚陣に吸い込まれていく中、それは自身が召喚陣によって大きく干渉されていることに気がつく。
己という存在を構成する核心である「存在根幹」。
人によっては「起源」や「根源」「アカシック・ファイル」と様々な呼ばれ方をされているその核心部位は、人間で言えばDNA、建物で言えば設計図に当たる。存在の最深部にある、まさに「存在」を成す「根幹」だ。
その「存在根幹」が、召喚陣の構成式によってギチギチに絡め取られていっているのだ。
しかし、それは些かも抵抗しなかった。
一人でも多く、幸福にしたい。
ただその一心で、それは召喚陣に身を委ねた。
◆
召喚陣に完全に吸い込まれたそれは、自分に物理実体が付与されたことを感じた。
これまで居た概念世界とは感覚も認識方法もかなり異なるが、なにも問題はない。物理実体を付与されたお陰か、はたまた召喚魔法の作用か、五感が召喚された世界に順応している。
以前にも経験した、懐かしい感覚である。
それは瞼を開き、周囲を見渡す。
そこは、薄暗い洞窟の中だった。
天然の洞窟を拡張したのか、歪な形ながらも小さな部屋のようになっている。
辺りはゴミと汚物に満ちており、湿気も高い。
お世辞にもいい環境とは言えないだろう。
久々の──本当に久々の召喚だが、どうやら前回喚ばれた世界とは大気の組成が違うらしい。ならば、違う世界に召喚された可能性が高い。
前回は豪華絢爛な大聖堂の祭壇に召喚されたが、今回は薄暗い洞窟の中だ。世界が違えば待遇も違うということだろう。
とはいえ、それに不満はない。
自分がどう思われようと、どんな扱いをされようと、他者を幸せに出来ればそれで満足なのだから。
ふと、それは自分が召喚されたことを思い出し、術士を探す。
見れば、目の前には造形が自分に似ている物理生物が2体。
その特徴から、恐らく下級の同胞たちがたまに口にしている「人間」という存在だろう。
一人は、黒いボブショートの先端に紫のメッシュが入った少女。幾重にも重なる高度な防御魔法で守られており、こちらを愕然とした表情で見ている。
もう一人は、黒髪黒目の少年。自分と魔力で繋がっているので、恐らく彼が自分を召喚したのだろう。
術士の少年に視線を合わせる。
瞬間、それは戦慄した。
何たる悪臭だろうか。
粘つきながら鼻腔を突き刺す、刺激臭が如き「焦燥」。
そして、頭にまで上って離れない、腐乱臭が如き「悲しみ」。
生物が抱く正の感情の「芳香」を好むそれからすれば、少年が放つこの強烈な「悪臭」は、まさに忌避感を禁じ得ない毒臭だ。
緑肌の彼らも深い悲しみと絶望によって「嫌な匂い」を漂わせていたが、これはその比ではない。
鮮烈で強烈な、紛うことなき「悪臭」。
人間とはこんな深淵に蟠るヘドロのような感情を抱けるものなのか、と思わず己の鼻を疑った程だ。
と同時に、納得もする。
これだけ焦燥と悲しみを溜め込んでいるのであれば、自分のような存在を召喚しようとするのも頷ける。
「ん」
術士の少年が、不自然な程の無表情で頷いた。
「どうやら『天使目』の召喚には成功したようだな」
不自然な程に平坦な呟き。
そのチグハグさに、それは下級の同胞から聞いた話を思い出す。
人間の中には、「感情抑制訓練」という訓練を積んだ者がいるという。
そういう人間は、感情が一定のラインを超えると自動的に意識から切り離し、完全なる理性状態へと移行するらしい。そして、激情を抱けば抱くほど冷静になり、行動が感情に左右さなくなるそうだ。
ただ、その訓練はあくまでも感情を「抑制」するものであって、決して「消去」するものではない。そんなことは誰にも出来ない。
意識上は冷静そのものだが、切り離された心の奥底では激情を強引に押さえつけているのだ。
そのため、感情を匂いとして直接認識できるそれやそれの同胞からすれば、酷くチグハグに感じるという。
恐らく、この少年もそういった訓練を積んでいるのだろう。
顔は無表情で声は平坦、手足に震えもなければ縺れもない。表面上は冷静そのものに見える。
だが、そのフラットな表面の下には、地獄のマグマのような激情──負の感情の源──がに煮え滾っているのだ。
「お前は『ラファエル種』で間違いないな?」
「その通りです、迷える子羊よ」
狙って自分を召喚したらしい少年の問に、それは宙に浮いたまま自慢の6枚の翼を広げ、母性あふれる胸を張り、優しい表情で鷹揚に肯定してみせる。
前回召喚された時は素の口調で喋ってしまったがために、小さな「ニセモノ騒ぎ」を引き起こしてしまった。
同じ轍は踏むまいと、それは緑肌に教えてもらった「天使らしい口調」を意識し、威厳のある言い回しと仕草で応えた。
「私は『天界』を統括する天使長が一人、名を『ラファイネ』といいます」
「名前なんてどうでもいい。お前は、『癒やし』を司るんだろ?」
深い悲しみと激しい焦燥でドス黒く濁った瞳で、少年はそれ──ラファイネを冷たくも縋るように見上げる。
「友人が心を壊してしまった。今すぐ元に戻せ」
傲然と、決然と、哀然と、少年はラファイネに命令を下す。
間違っても人間のような低次元存在が天使のような高次元存在に向けていい言い草ではないだろう。
ラファイネは、天使という高次元存在の中でも「熾天使属」と呼ばれる統治階級にあるだけでなく、最上位種とされる「ラファエル種」という全部で4体しか居ない天使長の内の1体だ。
人間たちにとってはまさに神が如き存在であり、事実、彼女たちはいくつもの世界で神として崇められている。過去の地球ですら、天使信仰が過熱した時期があったほどだ。
平身低頭でご祈願奉られる立場ではあっても、決して命令される立場などではないのだ。少年の態度は、まさに不遜と不敬の極みと言えるだろう。
だが、ラファイネはまったく気にしていない。
天使族の中には、人間に自分を敬い信仰することを求める者や、尊大な態度で人間に接すことを是とする者がいる。
ただ、それはあくまでも少数派であり、実際は慈母のように寛大な態度でもって優しく接している者が殆どだ。
それはラファイネも同じで、彼女の生来の温厚さに加え、「ラファエル種」という種の根底にある善性が、少年の態度をなんでも無いこととして感じさせた。
何より、ラファイネは目の前の少年を心の底から哀れんでいた。
こんなにも深く傷つき、悲しみ、焦っている人間を、ラファイネは見たことがなかった。
さっき言った「迷える子羊」というフレーズは、前回の召喚で緑肌たちから「天使らしい呼方」として教わったものだが、この少年には些かの齟齬もなく当て嵌まっているだろう。
親と逸れ、お気に入りのぬいぐるみを失くし、どうすればいいか分からずに大泣きしている迷子の赤子。
ラファイネには、そんな赤子の像が少年とダブって見えた。
こんなにも哀れな少年を、どうして不敬だなんだと責められようか。
「分かりました。そなたの救いを求める声に応えましょう」
「この娘だ」
まるでラファイネがどう返答しようと関係ないかのように、少年は後ろの寝台に横たわる少女を指差した。
「酷い目に遭ったせいで、精神が不安定になっている。完全に元に戻せ」
見れば、横たわる少女には獣の耳と尻尾が生えており、全裸の上に外套を被された状態で横たわっている。その眼は虚ろで、意味不明なうわ言を呟いては虚しく笑ったりしている。
明らかに心が壊れていた。
一頻り見て状況を理解したラファイネは、フワリと少年に向き、
「残念ながら、これはどうしようもありません」
──悲しくて残酷な事実を告げた。




