167. NP:Prisoner of the Devil
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パチリ、とレストーレアは閉じていた瞼を開いた。
ターゲットの一人──弓使いの女冒険者ミモリーに戦技を撃たれ、後ろの建物に思い切り吹き飛ばされてしまった。
流石はランク5の冒険者PT、と言ったところか。これまで相手にしてきた有象無象とはわけが違うらしい。なかなかに上手い連携だったし、動きも悪くなかった。
仕事柄、手の内を全て晒すわけには行かないからと適当に力を抜いていたのが仇となった。命令されたのが「殲滅」ではなく「捕獲」だったことも災いしたかもしれない。兎に角、不要な隙きがあったのは確かだ。
ただ、それらは主要因ではない。
決定的だったのは、最後に起きた「ハプニング」だ。
まさか窓ガラスの反射光に目を潰されるとは、思ってもいなかった。
あの眩しい光のせいで、最後の戦技を回避し損ねてしまった。
そのせいで食らう予定のなかった攻撃を食らってしまい、こうして吹き飛ばされてしまっている。
気を抜いていたつもりはありませんでしたが、これからはもう少し引き締めていきましょう。
レストーレアは水紋すら立っていない心にそう決めたのだった。
いざ戦闘に戻ろうと周囲を見渡したところで、レストーレアは異変に気が付く。
周囲の景色がおかしいのだ。
彼女が先程まで戦っていたのは、市中にある東メイン通りだ。建物の壁を突き破るほどの勢いで吹き飛ばされたとは言え、そんなに遠くまで転がるはずは無い。遠くてもせいぜい、隣の通りまでだろう。
しかし、レストーレアの目に映っているのは──一面の森だった。
原始的な木々が立ち並ぶ、文明の気配が一切ない場所だ。山もなければ、道もない。それどころか、生き物の気配すらない。ただただ澄み渡った青空と鬱蒼とした森が、何処までも広がっていた。
おかしい。
あの一撃で町の外にまで吹き飛ばされたのでない限り、今の状況は説明できない。
聞く話によると、ダンジョンや魔境の中には「転移トラップ」や「転送スポット」なるものが存在しているらしく、それを踏むと遠く離れた場所に瞬間移動させられるという。
もしかして、それに類したものに当たったのか、誰かに使われたのだろうか?
そうでもなければ、市中に居た筈の自分が一瞬でこんな山奥に飛ばされる理由はない。
いや、とレストーレアは首を横に振る。
転移系の魔法は、ダンジョン内でしか効果を発揮しないという。魔境に存在するとされる転移スポットも、魔境の中でしか確認されていない。街中でそんなものに踏むわけがない。
そもそもの話、自分を効果的に排除する手段など、それこそ五万とある。わざわざ転移などという奇天烈な方法を用いる必要はない。
では、今の状況はどういうことなのか?
疑問は抱くが混乱はしない頭で考えながら、レストーレアは立ち上がる。
多用していた──愛用ではない──短剣は、吹き飛ばされた弾みに落としたのか、手元にはない。
短めのメイドスカートの中を弄ると、左大腿の付け根に巻いたナイフシースにはまだ予備のナイフが2本入っていた。念の為、ナイフを一本取り出しておく。
すると、ナイフを握った左手がなんだか突っ張っているような感じがして、今更ながらに酷い火傷をしていた事を思い出した。冒険者ミモリーの戦技を受けた脇腹も、なんだか違和感がある気がする。
行動にさほど支障はないが、この意味不明な状況下では何が起こるかわからない。今の内に治しておくのが無難だろう。
再びメイドスカートの中を弄り、右大腿に巻いたポーションホルダーから中級回復ポーションを一本取り出し、一気に飲み干す。
すると、焼け爛れた左腕がみるみるうちに治療され、5秒もしないうちに元の白魚のような美しい手へと戻った。冒険者ミモリーの戦技を受けたところも、違和感が消えている。
「残るポーションは、中級が2本、低級が5本、ですか」
ストックとしては充分だ。魔力もまだ十分に残っている。
これならまだまだ戦えるだろう。
「流石は闇ギルドの戦闘員。中級ポーションなんてバカ高い物を躊躇いなく使えるとは、羨ましい限りだ」
背後から聞こえたセリフに、弾かれたように振り返るレストーレア。
彼女が見たのは──フードを目深に被った、中肉中背の男だった。
「俺の名はヌフ。お前に用がある」
そう言って、ヌフと名乗ったフードの男は俯きがちだった顔を上げた。
男の顔は──見えなかった。
いや、見えてはいるが、頭に入ってこない。まるで抽象的すぎて何が描かれているのか分からない絵画を見ているようで、とても気持ちが悪い。
これに似た現象を、レストーレアは知っていた。
認識阻害。
相手の認識を意図的に阻害して情報を隠す、かなり高度な魔法だ。
この魔法を使える人間は非常に少なく、そのほとんどが闇ギルドや犯罪シンジケートに雇われているか、国によって囲われている。
認識阻害を引き起こす魔法道具というのも存在するが、ほぼダンジョンからしか産出されない上に出現率もかなり低いため、存在自体が希少だ。
何れにせよ、このヌフと名乗った男は、そんな希少な魔法もしくは魔法道具を使ってくるような相手だ。
対処には慎重を期す必要があるだろう。
というか、背後を取られた時点で、既に警戒度は最高にまで達している。
加えて、先程からヌフの姿を直接的に視認しているにもかかわらず、その気配は全く感じ取ることが出来ていない。
ここまでキレイに気配を消せる相手は、レストーレアの120年近い人生の中でも数える程しかお目にかかったことがない。
「誠に失礼ながら、お会いした記憶がございません」
適当に会話を繋ぎながら、レストーレアは視線の端だけでコッソリと周囲を見渡し、探しものをする。
ヌフとの敵対は、得策ではない。
気配すら感知できないなら、ヌフは間違いなく自分と同等の実力者か、自分以上の強者だ。戦って勝利できるかどうか分からない以上、戦闘は極力回避すべきだ。
このまま話し合いで穏便に済ませるのが一番だが、決裂してしまったときに備えてバックアップを用意しておく必要はあるだろう。
「確かに、直接会ったことはないな。お前が俺を知らないのも無理はない。
だが、俺はお前を知っている。
なぁ、『宵闇梟』所属、【無畏】のレストーレアよ?」
レストーレアの目が微かに見開かれる。
今まで誰にも明かしたことがない自分の所属先を、そして裏社会の極々一部にしか知られていない自分の二つ名を、なぜこのヌフという男は知っているのか?
「そう不思議がるな」
ヌフは背後から何かを引きずり出すと、無造作に足元の地面へと投げ捨てた。
それは、一人の男だった。
思わず、レストーレアの見開かれた目が更に見開かれる。
なぜなら、地面に転がったままぐったりと動かないその男は──
「影からお前を補佐していた男だ。お前の監視も同時にしていたみたいだがな。さしずめ闇ギルドの『裏方要員』といったところか」
その通りだ。
そこに転がっている男は、今回の仕事で宵闇梟から付けられた助手。組織内で「雑用係」と呼ばれている者の内の一人だ。
雑用係と銘打ってはいるが、実際は優秀な諜報員で、補助として情報収集や裏工作を担ってくれるとても便利な存在だ。同時に──ヌフの言う通り──レストーレアが宵闇梟を裏切らないか見張る監視員でもある。
これまで常にアルバーノの傍らに侍り続けて自由のなかったレストーレアが誰よりも早く最新情報を手にすることが出来ていたのは、まさにこの男のおかげなのだ。
そしてマズいことに、レストーレアが先程からコッソリと探している「探しもの」も、この男であった。
「お前の情報は全てこの男から聞いた」
そう言って、ヌフは地面に転がっている雑用係の男をつま先で小突く。
ハッタリだ。
雑用係の男と最後に連絡を取ったのは、およそ2時間前だ。
戦闘能力こそ大した事ない男だが、腐っても闇ギルドの裏方。組織への忠誠心は高いし、拷問耐久訓練も受けている。たかだか2時間程度の拷問で口を割らせることなど不可能だ。
「残念ながら、そのような者に知り合いはございません」
いけしゃあしゃあと否定して見せながら、レストーレアはヌフに気取られないように逃走ルートを探す。
雑用係が機能喪失した今、ヌフと正面戦闘を行うリスクは更に高まった。
ここは逃走に全力を注ぐのが賢明だろう。
「言っておくが、逃げ道はないぞ?」
一体どうやっているのか、レストーレアの意図を察したらしいヌフは、そう釘を刺してきた。
「俺たちが今いるこの空間は『独立虚数空間』と言ってな。フェルファスト郊外にある森の情報構造体を切り取り、フェルファスト全域と同面積になるようコピペを繰り返して作ったものだ。8次元までの情報を付与したスタンドアローンな拡張現実だから、ある意味で一つの完成された『系』と言っていい。ただ、内部は未改変現実そっくりでもあくまで限定された空間だから、端まで行くと『定義限界』にぶち当たる。要するに、俺をなんとかしない限り未改変現実に戻ることは出来ない、ということだ」
ヌフの言葉に、僅かばかり目を細めるレストーレア。
分からない単語だらけだったが、どうやら「お前を閉鎖した空間に閉じ込めたぞ」と言いたいらしい。
これも、ハッタリだ。
自分を何らかの閉鎖空間か結界に閉じ込めたのは──現状を見れば──まぁ事実だろう。
だが、その規模や面積はせいぜい町の小広場か、貴族屋敷の庭くらいが関の山だろう。
結界系の魔法を使える人間はそれなりにいるが、フェルファストのような大都市と同面積の空間を覆えるような使い手など、世界中を見渡しても片手で数えられる程しか居ない。
魔法道具を使うにしても、都市全域を覆えるほど高出力な結界発生装置など、大国の首都に据え置かれている「都市包括型魔法障壁」の発生装置くらいしかない。
個人で「フェルファスト全域と同面積」の閉鎖空間を作るなど、誇張にも程があるというものだ。
ヌフが自分で作ったというこの閉鎖空間、恐らく実際の広さは大きめの闘技場くらいだろう。あとは幻術の類いを併用して広く見せているに違いない。
「信じられないか? なら、その左大腿に仕込んだ通信用の魔法道具で外部と連絡が取れるか試してみるといい」
雑用係の男を除いて誰も知らないはずの通信機の在り処を見破られ、レストーレアは内心で僅かに驚く。
ヌフの言う通り、レストーレアは人差し指大の音声通話用魔法道具を己の左大腿骨に直接結びつける形で埋め込んでいる。たとえ身体検査されようと、通信機本体は体内にあるので、見破られる心配が殆どない。
加えて、受信した通話内容はそのまま骨を伝って聞こえてくるので、情報を受け取るのに通信機を耳元に近づけるといった動作が必要なく、情報を他者に聞かれる心配もない。
まさに彼女にふさわしい、彼女にしか出来ない運用方法と言えるだろう。
実際、彼女と四六時中一緒に居たアルバーノですら、この通信機の存在には気がついていない。
だが、その誰にも見つかったことがない通信機も、ヌフには容易く見つかってしまった。
ヌフは外部と連絡が取れるか試してみるといい」と言うが、閉鎖空間に閉じ込められているのであれば通信は外に届かないだろう。
というか──そもそもの話し、唯一の通信相手である雑用係の男は、すぐそこで転がっている。通信を試みる意味など端からない。
「まぁ、俺的にはこの空間を作ることよりも、お前をここに連れてくることの方が余程大変だったがな」
やれやれ、といった感じで肩を竦めるヌフ。
「『神雷鉄槌』では、どう足掻いてもお前の相手にはならない。だから、タイミングを見計らってお前の行動を妨害し、彼らの攻撃を食らって吹き飛ばされるように仕向ける必要があった。お前が自然にに戦線離脱できるように、な」
言いながら、ヌフは指先に光球を出現させ、それをチカチカと瞬かせる。
同じだ。
冒険者ミモリーと相対していた時に自分の視界を奪ったあの不可解な閃光と同じだ。
あれのせいで肝心な瞬間に目を開けていられず、冒険者ミモリーの戦技を食らう羽目になった。
窓の反射光か何かだと思っていたが、どうやらこの男の仕業だったらしい。
「さて、状況も理解してくれたことだし、そろそろ本題に入るとしよう」
話題を変えるような発言と共に光球を消したヌフは、レストーレアを指差し、言った。
「【無畏】のレストーレアよ────お前は、今日から俺の手駒だ」
なんと傲慢な言い草か。
レストーレアが闇ギルド所属の二つ名持ちと知っていながらの、その発言。
しかも「俺の手駒になれ」ではなく「俺の手駒だ」と、さも既成事実であるかのような、一方的すぎる宣言。
ここまで身勝手な隷属要求は、残酷な暴力と醜悪な理不尽に満ちている裏社会でもそうそうお目にかかれるものではない。
こんな傲慢の塊のような戯言を抜かされたら、誰だって激怒するか、呆れ返るか、失笑するだろう。
しかしレストーレアは、至極冷静だった。
──さて、どうするのがベストでしょうか?
ヌフの傲慢な発言にも感情を一切波立たせず、レストーレアは考える。
今のレストーレアに取れる手段は、3つしかない。
1つ目は、このままヌフに完全服従し、彼の言う通り、手駒として働くこと。
2つ目は、ヌフの言葉に従ったふりをして、機を見て逃走すること。
3つ目は、ヌフと戦い、死地の中から活路を見出すこと。
1つ目の選択肢だが、服従することに対する心理的ハードルは、レストーレアにはない。
レストーレアは、生粋の一匹狼だ。
たった一人で裏社会を生き抜いてきた彼女には親しい相手も居なければ、忠誠を捧げている相手も居ない。
一応、闇ギルドに属しているので「闇ギルドの上層部に仕えている」と言えなくもないが、それもただ組織における最低限の上下関係に従っているというだけで、心から奉仕している訳ではない。
生きるために従い、生きるために戦う。ただそれだけだ。
だから、ここでヌフに鞍替えしたとしても、道義的・心情的な葛藤は何一つない。
生きていけさえすれば、誰に従おうとも、何をさせられようとも、何に魂を売ろうとも、心は微塵も波立たない。
とはいえ、レストーレアにこの選択肢を選ぶつもりはない。
闇ギルドを裏切るのは、あまりにもリスクが大き過ぎるからだ。
レストーレアが所属している「宵闇梟」もそうだが、闇ギルドとは犯罪界における最強で最凶の組織形態の一つだ。
組織としてのルールは様々で、鉄の掟を敷いているところもあれば、「宵闇梟」のように時々割り振られた仕事をこなしさえすればあとは自由にして構わないという緩いところもある。
が、どんな形態を取っていようと、こと「裏切り」に関してだけは、何処も最上級に厳しい罰則を科している。
闇ギルドを裏切った瞬間、一族郎党に渡ってこの世で最も残酷な死が確定する。これは不文律などではなく、純然たる事実だ。
ヌフへの服従は、どう言い繕っても「宵闇梟」への裏切りである。
たとえここでヌフとの戦闘を回避できたとしても、レストーレアに残された未来は「宵闇梟」からの粛清しかないだろう。
それは、死が確定したのと同義だ。
1つ目の選択肢は、一考にすら値しない。
ならば2つ目の選択肢はどうかというと……賢さで言えばこのやり方が一番だろう。
この場ではヌフに従うフリをし、隙きを見て逃亡する。
これでヌフとの戦闘も回避できるし、「宵闇梟」を裏切ることにもならない。
後は「宵闇梟」に駆け込んで今回のことを報告し、彼らにヌフを抹殺してもらえばいい。
構成員同士の繋がりが薄くて緩いとはいえ、「宵闇梟」も闇ギルドだ。構成員を害されれば、普通に組織が報復に出る。構成員の自業自得である場合を除き、報復に例外はない。
特に、今のレストーレアのように割り振られた仕事を遂行している構成員が害された場合、それをやった者は確実に組織から敵と見做され、問答無用で報復部隊が動く。
そうなれば、どれだけの強者だろうと生き残ることは出来ないだろう。
雑用係の男さえ捕まっていなければ彼が代わりに「宵闇梟」本部にこの事を報告してくれるのだが、残念ながら今は目の前に転がっている。
この場をやり過ごすには、一度ヌフに従うフリをする必要があるだろう。そして、その後で隙きを見て逃走するのだ。
逃走することさえ出来れば、レストーレアの勝利が決定する。
リスクという点では、この選択肢が最も低いだろう。
ただ、レストーレアはこの選択肢も選ぶつもりがなかった。
いや、選ぶに選べない、と言った方が精確か。
確かに、「ヌフとの戦闘回避」と「組織への反逆回避」を両立させられるという点で見れば、この選択肢はかなり有効だろう。
だが、余程のバカでもない限り、口頭のみの服従を信じる人間など居ない。必ず、何らかの反抗防止策を講じるはずだ。
もしそれが「隷属魔法」の類ならば、一巻の終わりだ。
拷問の類いにはめっぽう強いレストーレアだが、魔法への耐性は普通のエルフ族と大差ない。隷属魔法を掛けられれば、逃げるチャンスを永遠に失ってしまう。
面従腹背で逃走の機会を伺っていたら本当の奴隷になってしまいました、では笑うに笑えない。
一見正しそうに見えるこの選択肢だが、実際は実行性が一番低いのである。
というわけで、消去法的に考えれば、選ぶべきは3つ目の選択肢となる。
気配すら感知できない相手と戦うのは、正直気が進まない。
戦わないで済むのなら、どんなことでもしよう。
だが、それは不可能だ。
今のレストーレアは、ヌフが展開した閉鎖空間に閉じ込められている。
この閉鎖空間がヌフの魔法で作られているのか魔法道具で維持されているのかは分からないが、これをなんとかしない限り、逃走を図ることも救援要請を出すことも出来ない。
そしてこの閉鎖空間をなんとかするには、ヌフをなんとかするしかない。
これがヌフの魔法で作られているのであれば、ヌフを倒す……とまで行かなくも、負傷ないし集中力を乱してやりれば、魔法は途切れるだろう。
魔法道具で作られているのであれば、ヌフを牽制しつつ魔法道具本体を探し出す必要がある。
どちらにせよ、ヌフとの戦闘は免れない。
強者と戦いながら閉鎖空間を脱出し、その上で逃げ果せる。
無茶振りにも程があるが、やるしかないだろう。
他の選択肢が完全なデッドエンドである以上、死地に活路を開くしかない。
幸い、ヌフは自分を隷属させることが目的だ。簡単に殺すようなことはしないだろう。そこが活路に繋がる。
生き残る道は、戦った先にしかない。
方針は決まった。
ヌフの傲慢な宣言には答えず、レストーレアは予備動作なしで駆け出す。
「"追い風と成れ"──《風加速》」
既に魔力で強化した身体に省略詠唱した4級補助魔法が上乗せされ、レストーレアは疾風と化す。
「〈幻影の隠れ蓑〉」
周囲の木々が残像となって後ろへ流れるほどの速度で地面を蹴りながら、更に戦技を発動。
瞬間、レストーレアの身体がスッと透明になり、重なるように残像が現れる。
走りながら、透明になったレストーレアの本体は進路から逸れ、代わりに残像だけがヌフへと真っ直ぐに突き進む。
そして、残像を囮にした本体は高速でヌフの背後へと迂回し、
「〈斬首の快刃〉」
その首に向かって、斬ることに特化した戦技を振るう。
レッドオークの首ですら一撃で落とすことが出来る戦技が、真後ろからヌフの無防備な首に向かう。
「問答無用とは、実に分かりやすい」
落ち着いた声色でそう言うと、ヌフは身体の正面と背中が一瞬で入れ替わったかのような驚異的速度で振り返り、無造作に左手を上げた。
斬ることに特化した戦技が乗ったレストーレアの短剣が、無造作に上げられたヌフの手の甲に当たり────ピタッと止まる。
レストーレアの背筋に冷たいもの走るが、無視した。
これくらいは想定範囲内だ。
「まぁ、こうなることが分かっていたから、この空間を作って外界から隔離したわけだしな」
涼しげですらあるヌフの声に、レストーレアは手の甲に阻まれたナイフを潔く手放す。
自由落下していくナイフなど見向きもせず、ナイフを手放したその手をヌフの顔面に向けてかざし、詠唱する。
「"吼えろ火精霊、業火を巻き上げ万物を震撼せよ"──《火精爆撃》」
レストーレアの掌に火の粉が集まり、火球を形成。そのまま彼女の掌を焼きながら、急速に収縮していく。
一瞬の後、限界まで収縮した火球は、まるで耐えきれなくなったかのように内包したエネルギーを解き放った。
天をも揺るがす大爆発。
超音速で膨張するオレンジ色の爆炎は、レストーレアが掲げた手を腕ごと巻き込み、棒立ちになっているヌフの全身を飲み込む。
爆発の衝撃波は周囲の木々を根こそぎ吹き飛ばし、爆炎の熱量は一帯の草花を余さず塵と灰に変える。
レストーレアは衝撃はで吹き飛ばされたが、ヌフはそのまま爆炎の中に姿を消した。
吹き飛ばされたレストーレアは、離れた場所に着地。
焼け爛れた腕など意に介さず、爆心地を見据える。
「ふむ」
燃え盛る爆心地から、そんな声が聞こえてきた。
「面白い魔法を使う」
無傷のヌフが、そこには立っていた。
「作用や効果に指向性を持たせない攻撃……いや、持たせられていない攻撃、と言った方が正解か」
先ほどと寸分違わぬ姿でマントに付いた土埃を払い、爆風で乱れたフードをなおしながら意味不明なことを唱えるヌフ。
レストーレアの背筋に走る冷たさが一層強まる。
……が、これも無視する。
わずかにでもダメージを負ってくれればよかったが、仕方がない。
これも──ギリギリ──想定範囲内だ。
レストーレアは爆心地から動かないヌフの周りを旋回するように駆けながら、太腿のナイフシースから最後のナイフを取り出す。
そしてそれを、身だしなみを整えているヌフの眉間目掛けて投擲。
「〈幻影投擲〉」
真っ直ぐにヌフへと向かっていたナイフが、戦技の効果によって途中から5つに分裂した。
「"宿れ雷精霊、我が魔力を糧に激雷の鞭を生せ"──《雷精黄鞭》」
間髪入れずに呪文を詠唱。
火傷を負っていない方の手から雷の鞭を伸ばし、先程手放して地面に落ちたナイフを絡め取り、そのまま鞭の先端としてヌフへと振るう。
戦技によって5本に分裂したナイフと、雷鞭の先端から振るわれるナイフが、それぞれ違う方向から同時にヌフへと襲いかかる。
スッ、とヌフが小さく手を振った。
途端、5本に分裂したナイフのうちの一本が、投擲軌道を外れた。どうやらそれがレストーレアが投擲したナイフの本体だったらしく、軌道を変えなかった幻影たちは直ちにかき消えた。
直角に曲がるように軌道変更したナイフは、そのまま雷鞭の先端に絡められたナイフへと直進。小気味良い音と共にナイフ同士がぶつかり、両者ともが地面に落ちた。
得物をすべて失ったレストーレアだが、彼女の攻撃はまだ終わっていない。
いや、寧ろこれが本命だ。
膨大な魔力を放出しながら、珍しく早口で詠唱する。
「"推し猛れ、無情の濤水精ドゥーンザラーンよ──"」
唱えるのは、2級攻撃魔法に相当する精霊魔法。
これの攻撃範囲を考えれば、回避はほぼ不可能。
防御するにしても、これの威力を考えれば、最低でも3級の防御魔法は必要だろう。
魔法の呪文は、等級が高いほど長文になる。
詠唱開始はこちらが先で、ヌフは未だに突っ立ったまま詠唱すら開始していない。
であれば、ヌフの防御は絶対に間に合わない。
直撃は確実だ。
「"岸壁飲み込む渦潮を起こし、大山を巻き砕け"──」
そして、レストーレアの呪文は完成する。
「──《濤水精凶渦》」
瞬間、トルネードのように巨大な水の渦がヌフの足元から現れ、一瞬でその全身を巻き込んだ。
陸に現れた渦潮のような大渦は、巻き込んだものを完全に閉じ込め、周囲の物質を更に砕きながら内部へと取り込んでいく。
内部では強烈な遠心力とすさまじい圧力によってあらゆるものが引き裂かれ、押し潰され、すり潰される。そうして壊された残骸は、更に残骸同士でぶつかり合い、跡形もなく破壊されていく。
ゴフッ、と大きく喀血するレストーレア。
2級攻撃魔法に相当するこの精霊魔法の反動は、レストーレアをして無視でるものではない。恐らく、内臓のいくつかが損傷しているだろう。
だが、彼女はまだ止まらない。
すでに残り三分の一を切った魔力を続けて絞り出し、更に詠唱を行う。
「"咆え轟け、裂空の雷火精バーングリージャよ、晴天切り裂く雷刃を落とし、大地を割り焼け"──《暴雷精墜爆》」
瞬間、柱のような雷が、水渦の中心に取り込まれているヌフへと落ちた。
目を焼くような閃光が視界を白く染め上げ、耳を劈く雷鳴が全ての音をかき消す。
雷柱は水渦の中心を貫き、水渦を帯電させ、周囲に雷を撒き散らした。
が、それも束の間のこと。
落雷によって生じる温度は、およそ3万℃にも達する。それは荒れ狂う水渦を容易に加熱させ、一瞬で気化させるのに十分だった。
瞬時に気化した大量の水は凄まじい勢いで膨張し、水蒸気爆発となって半径数百メートルを一瞬で吹き飛ばした。
雷柱は、水渦によってその威力を減退させながらも、消滅することなくそのまま中心にいるヌフの体を通って地面に直撃。3万℃に達する超高温は地面を溶かし、一面にアスファルト状のサークルを形成。同時に、数千万ボルトに達する超高圧放電はオゾンを生み出し、辺り一帯の空気を生臭く匂い付けした。
水蒸気爆発で吹き飛ばされたレストーレアは、着地と共にウグッとえづいて膝をつく。
精霊魔法の反動に水蒸気爆発の衝撃波も加わって、肺かが潰れてしまっている。体表も、強烈な稲妻の余波で至るところに火傷を作っている。
これは、流石に命に差し障る。
直ちに太腿のホルダーから残った中級回復ポーションを2本とも取り出し、一本を一気に呷り、もう一本を頭から被った。
すると、全身の怪我がみるみるうちに消え去り、数秒で完全になくなった。
いつも通りに戻ったレストーレアは、急ぎ結界の発生装置と逃走経路を探す。
2級攻撃魔法に相当する奥の手──ワイバーンでも一撃で倒れる精霊魔法を2発も叩き込んだのだ。それも、「水」と「雷」という相乗効果を発揮する組み合わせで。
余程の強者でも、ただでは済まないだろう。
結界の発生装置と逃走経路を探すチャンスは、今をおいて他にない。
感覚を研ぎ澄ませながら、周囲を捜索する。
先程の水蒸気爆発のお陰で随分と見晴らしがよくなっているが、結界の発生装置らしきものは何処にも見当たらない。
遠くの木々や草むらにも目を向けるが、やはりそれらしいものはなかった。
そうして探すこと十秒弱。
中級回復ポーションのお陰で耳鳴りが治ったレストーレアの鼓膜が、声を拾った。
「本当に、面白い魔法を使う」
バッと振り返ったレストーレアの目が、ここ数十年で一番大きく見開かれる。
「お前が使っているのは『精霊魔法』と聞いたが、どうやら俺が知っている精霊魔法とはだいぶ違うようだ」
もうもうと立ち込める湯気と黒煙の向こうから、無傷のヌフが姿を表したのだ。
「俺が知っている精霊魔法とは、謂わば超簡略化された召喚魔法だ。高次元存在の部分召喚、もしくはそれが持つ能力の一部だけを極小召喚する、というものだな。お前たちがいう精霊魔法も、『少ない魔力でより高い魔法効果を得る』というその効果を見れば、これに近いものだろう。少なくとも、原理は似たようなものの筈だ。が……お前が使っている魔法は、全くの別物だな」
アスファルト状に固まった地面を踏みしめ、ヌフがゆっくりと、まるで散歩するように大破壊の中心地から出て来る。
「俺が見るに、お前が使っているそれは『精霊魔法』ではなく、『古典的属性情報に限定した遊離構造断片の収集と強制改変』だろう。特定の属性を持った情報構造体の欠片を集めて、魔法っぽく形成している。例えるなら、焚き火が欲しいから燃えているマッチをたくさん集めて無理やり焚き火の形を作っている、みたいな感じだな。形だけは精霊魔法に見えるが、本質は似てすらいない」
興味深そうに顎を擦りながら、観察するようにレストーレアを見つめてくるヌフは、極自然体でレストーレアへと歩み寄る。
「その『反動』というのも、要は集めた遊離構造断片の作用対象に指向性を与えていないから隣接している自分の情報構造体にも影響を及ぼしている、というだけのことだろう。まぁ、遊離構造断片は独立情報構造体よりは遥かに劣るものの、それなりの改変抵抗を有しているからな。『指向性を与えていない』というよりは『技量が足りなくて指向性を与えることが出来ていない』と言った方が精確か」
レストーレアから5メートルほど離れた場所で立ち止まると、ヌフは考えるように首を傾げる。
「お前の魔法を再現するなら……地味に面倒くさい構成式になるな……」
そして、指先に少量の魔力を集めて、宙に文字を書くように動かし始めた。
「そうだな……お前達はイメージを頼りに魔法を作っているみたいだから、遊離構造断片は6次元情報を中心に拾い集めるのが手っ取り早いだろう。
属性は……古典的解釈に則るのであれば『主観的認知による性質分類』だから、拾い集める対象は『広義的属性元素』と規定すればいいだろう。
選別基準は……属性効果の強い遊離構造断片を優先。
作用対象は……指向性を持たせないと自分にも影響が及ぶから、作用ベクトルは外部構造限定に指定。
実体構造は……構成式の簡略化と魔力の節約を優先して、3次元情報のみを付与。
造形は……イメージ準拠、っと」
数秒ほどして、ヌフは宙に文字を書き終える。
そして、レストーレアに向き直ると──
「お前の魔法の完成形って、こんな感じのやつじゃなか?」
──と、先程までとは違ってかなり人間味のある喋り方で問うと、パチンと指を鳴らした。
瞬間、世界が「属性」で埋め尽くされた。
様々な属性魔力が荒れ狂いながら渦巻き、目に見える現象となってレストーレアの周囲を満たしていく。
水が、火が、土が、風が、雷が、それぞれ嵐のように乱舞し、しかしレストーレアには一切触れることなく、無秩序に周囲を旋回する。
やがて、それらは同じ属性ごとに寄り集まり、明確な形を成していった。
横殴りに飛んでいた水滴は、徐々に寄り集まって水色の水球となり、やがて妙齢の女性の姿を取った。
半透明の身体は繊細な水属性の魔力を放っており、その抜群なプロポーションと僅かに高飛車な表情と相まって、とても妖艶で気高く見えた。
暴力的に舞っていた火の粉は、徐々に寄り集まって橙色の炎柱となり、やがて二足歩行の野獣を形作った。
灼熱の身体は強烈な火属性の魔力を放っており、その雄々しい肉体と獰猛な表情と相まって、とても精悍で力強く見えた。
胡乱に地面を掻いていた砂礫は、徐々に寄り集まって褐色の岩塊となり、やがて巨大な陸亀を造形した。
重々しい身体は濃密な土属性の魔力を放っており、その重厚な外見と穏やかな表情と相まって、とても深沈で頼もしく見えた。
無秩序に吹き荒れていた風は、徐々に寄り集まって薄緑色の靄となり、やがて中性的な幼児へと姿を固定した。
透き通った身体は軽快な風属性の魔力を放っており、その快活な雰囲気と無邪気な表情と相まって、とても純粋で飄然として見えた。
縦横無尽に走っていた火花は、徐々に寄り集まって黄色の稲妻となり、やがて明滅する大蛇を形成した。
眩しい身体は危険な雷属性の魔力を放っており、その破滅的な気配と無感動な表情と相まって、とても冷酷で恐ろしく見えた。
現れた5体の実体は、まるでレストーレアなど眼中にないかのように宙を舞い、思うがままに振る舞っている。
ヌフの右腕を上品に取った水の女性が、流し目で炎の野獣を迷惑そうに睨みながら、まるで熱がるようにヌフの腕の影にその身を隠している。
睨まれた炎の野獣も、ヌフを守護するように側に立ちながら、水の女性に向かって不機嫌そうに牙を剥いて威嚇している。
いがみ合う両者の様子を眺めていた土の陸亀は、我関せずとばかりにヌフの背後へと回ると、まるでヌフの椅子にでもなるかのように地面に腹をつけ、目を瞑った。
ヌフの頭上で漂っていた風の幼児は、フードを被ったヌフの頭頂に乗ると、何が楽しいのか水と火のいがみ合いを指差しながらケラケラと笑い転げている。
全員の間をスルスルと這い回る雷の蛇は、まるで水と火の対立を演出するかのように両者の間でバチバチと火花を散らせながら、甘えるようにヌフの腰にその胴体を巻き付かせた。
「これは……まさか……上位精霊……?」
ヌフの周囲に現れた5つの実体……いや、5体の精霊。
彼らを見たレストーレアは、そう絞り出すので精一杯だった。
九神の下僕である精霊たちの中でも、上位精霊は、最上位である「精霊王」に次ぐ高位存在である。司る属性に関するほぼ全ての事象を任意にコントロールできるため、精霊界においてはまさに支配階級と言っていいだろう。
その力は人智を超えており、たったの一体で、容易に一国を更地に変えてしまう事が出来る。
出来ると断言してしまえるのは、過去に彼らを顕現させることに成功した実例が存在しているから。実際に起きたか検証すら出来ない神話とは違い、上位精霊という存在の証拠は、数は極端に少ないながらも、ちゃんと文献や記録として残っているのだ。
そして、その実際に残された記録によると、上位精霊というものは存在があまりにも強力過ぎるため、人の身である限り、個人での単独契約は決して出来ないという。
過去の事例では、国が保有する全ての精霊魔法師を犠牲にしてようやく12秒の顕現に成功した、とのこと。
そして、それらの記録の最後には例外なく「国土は更地となった」「我々は禁忌を犯したのだ」という一文が添えられている。
目の前で生き生きと戯れる5体の上位精霊を、レストーレアは瞬きすら忘れて仰ぎ見る。
「『水精貴妃クシャナリス』に『火精獣将バルシンハ』、『土精亀賢スートラーダ』に『風精英童フロークシャンク』、そして『雷精破蛇スルトースカ』……」
どれも人類が顕現させることに成功し、その姿を直接確認できた、数少ない上位精霊だ。
観測された彼らの外見は、彼らを「九神の下僕」と仰ぐ九神教によって広く知らしめられている。
そのため、たとえ九神教の信徒でなくとも、その姿は誰でも見ただけで識別することが出来る。
「面白いだろ? 寄せ集めた遊離構造断片をベースに、集合的無意識に沿って形状形成した『疑似精霊』だ」
ヌフが口を開くと、各々で気ままに振る舞っていた上位精霊たちが一斉に傅いた。
呆然と精霊たちを見上げるレストーレアの両肩から、フッと力が抜ける。
これは、流石に想定外だ。
上位精霊を単独で顕現させるなど、誰にも出来はしない。魔力量や技術どうこうの話ではない。人である限り、絶対に出来ないことなのだ。5体同時ともなれば、もはや言わずもがなだ。
しかし、そんなレストーレアのちっぽけな常識は、目の前でヌフに傅く5体の精霊によって、完膚なきまでに砕かれた。
こんなのはただの幻影だ、などとは思わない。ビシバシと叩きつけられる純粋で強烈な属性魔力のせいで、そう思いたくても思えない。
常識が通じないのであれば、「想定」など意味を成さない。
戦った先に、活路などなかった。
先程の《濤水精凶渦》と《暴雷精墜爆》はどちらもレストーレアが撃てる最大の魔法であり、その2つの組み合わせはレストーレアが放てる最強の攻撃だ。
それが全く効かなかった以上、もはやレストーレアにヌフへ有効打を与える術はない。
閉鎖空間から抜け出すのも、この場から逃げ果せるのも、すべてヌフをなんとかすることが前提だ。どうすることも出来ない化け物を相手に戦ったところで、その先に未来などない。
消去法で選んだ選択肢だが、どうやらこれも行き止まりだったらしい。
つまるところ、最初から詰んでいたのだ。
凪いだ湖面のように静かだったレストーレアの心に、諦めという小さな波紋が立った。
「それにしてもお前、面白い体質をしているな。痛みを感じている様子がない」
独り言を唱えながら一歩一歩と近づいてい来るヌフから遠ざかるように、レストーレアは一歩一歩と後退る。
「ほう……大脳辺縁系と前帯状皮質が面白い感じに機能喪失しているな。子供の頃に酷い高熱でも出したか? それともどこかで頭にひどい怪我をしたか?」
ヌフの言葉に、思わず体が強ばる。
確かに、幼少期に一度ひどい高熱が出て、それが一月ほど続いた事がある。
それ以降、色んな感覚がどんどんと鈍っていき、いつしか何も感じなくなった。
肉体的にも精神的にも苦痛をほぼ感じなくなったので、それに関してはラッキー程度に思っていた。
そんな誰にも知られていない自分の過去を、ヌフは一体どうやって知ったというのか。
「う〜む……これはすごいな」
唸ると、ヌフは自分の額付近を指差しながら、レストーレアに説明した。
「人間の脳のこの部分はな、痛覚の処理を担うのと同時に、苦痛や情愛といった情動の処理も担っているんだ。ここが機能していないということは、痛みを感じなくなるだけでなく『苦痛』や『悲しみ』などのネガティブな感覚と情動も感じなくなる、ということ。そして、それらと対を成す『幸福』や『愛情』といったポジティブな感覚と情動も感じなくなる、ということでもある」
興味深げに、ヌフは言う。
「普通の無痛症とは違う。
肉体的な『痛み』も『快感』も感じなければ、精神的な『苦痛』も『幸福』も感じない。
痛みも快楽も、苦痛も幸福も、知識としては理解していても、感覚としては感じることが出来ない。
肉体的にも精神的に、本当の意味で傷つけられることもなければ癒やされることもない」
それは、レストーレアの日常だ。
どんな怪我をしても「違和感」しか感じなかった。
そのおかげで、痛みで動けないということがなかった。
どんな理不尽な仕打ちを受けても、辛いと感じたことはなかった。
そのおかげで、どんな仕事も容易にこなすことが出来た。
そして──ヌフの言う通り、何かを嫌だと感じたことがない代わりに、なにかに高揚することもなかった。
どんなに良い物を手に入れても、幸せと感じることはなかった。
そのおかげで何かに執着することがなく、常に身軽でいられれた。
どんな人間と接しても、好きにも嫌いにもなったことがなかった。
そのおかげで他者が弱みになることがなく、付け入る隙きを作らずに済んだ。
これらの感覚や感情は、知識で知っていはいても、実際に感じたことはなかった。
普通の人間からは「哀れ」に見えるかも知れないが、過酷な裏社会で生きるレストーレアにとっては「好都合」以外の何物でもなかった。
「なるほど。お前の【無畏】という二つ名も、その無痛症が由来か」
ヌフは納得いったように頷き、続ける。
「人間は、痛みや苦痛といったネガティブな感覚や情動を無意識に忌避する傾向にある。その忌避感が募れば自然と嫌悪となり、やがて恐怖へと変わる。痛いことや辛いことを怖がらない人間が少ないのは、それが原因だな。
逆に、お前のようにネガティブな感覚と情動を感じないのであれば、それらを忌避することもなくなり、自然とそういったものへの恐怖も生まれなくなる」
自分の分析を確認するように、レストーレアを見つめて来る。
「お前の場合、その無痛症のせいで、痛みや苦痛への忌避感が大きく減衰している。それは恐怖の欠落を誘発し、行動の大胆化に繋がる。そして、大胆さというのは重要局面でこそ効果を発揮しやすく、大きな成果に繋がりやすい。そういった諸々が評価されたからこそ、今の【無畏(恐れ知らず)】という二つ名がつけられた……こんなところか?」
その通りだ。
痛みと苦しみを失ったレストーレアが代わりに得たのは、決して傷つかない心と、決して折れない精神だった。
裏社会で生きていくのに必須なそれらは、レストーレア最大の武器だ。
二つ名とは、その人間の実力や功績を認めた周囲が勝手に付けるものだ。
二つ名を持っているということは、それだけその者が優れており、周囲から一目置かれているということ。
【無畏】のレストーレア。
この二つ名は、闇ギルドの優秀な戦闘員であるレストーレアの異名であり、どんな危機にも恐れず冷静に対応できる彼女への評価であり、決して「傷つかない」彼女に対する畏怖の現れでもあった。
「……なら、」
ヌフの口元が不穏そうに歪められる。
「お前には、こういうのが一番効くんじゃないか?」
思わず後退りするレストーレアに向かってヌフは手をかざし、唱えた──
「《医療神の杖》」
──悪魔の呪文を。
「…………?」
レストーレアが最初に感じたのは、頭の爽快感だった。
目が冴えたというか、頭がスッキリしたというか、徹夜の後にたっぷり睡眠を取ったような感じというか、兎に角なかなかに悪くない感覚だった。
攻撃が来ると身構えていたが当てが外れた、と少しばかり安堵する。
が、異変はすぐにやってきた。
ザワザワザワと、まるでムカデの大群のように足元から這い登ってくる、強烈な不快感。
一瞬にして脈拍は上昇し、全身から発汗、鳥肌が立つ。
途端に集中力が途切れ、意識が乱れる。
やがて、不快感は首を通って、頭まで這い登り……
「────っ!?」
感情の津波が、レストーレアの脳内を埋め尽くした。
これまでの人生が走馬灯のように脳裏を過り、記憶が再生されるその都度、様々な感情が──当時は一切感じることのなかった感覚が──レストーレアの心に襲来した。
故郷の村を滅ぼされた時の、胸を掻きむしるような悲哀。
初めて人を殺した時の、内蔵すら吐き出してしまいそうな恐怖。
理不尽な仕打ちを受けた時の、全身を焦がすような憤怒。
見知らぬ相手に性的奉仕をした時の、死んでしまいたくなるような嫌悪。
何の痛痒も感じていなかった──細事だったはずの経験の数々が、フラッシュバックのように次々と蘇っていく。
──いや やめて
汚泥のような経験の数々は、正常に戻ったレストーレアの脳によって正しく処理され、本来の姿を取り戻す。
それは、ギュウギュウに圧縮された──「苦痛」。
脳は正しく処理していなくとも心はしっかりと覚えていた、辛い記憶。
120年近くに渡って溜まりに溜まった、しかしこれまで感じずに済んだ、負の感情。
それらが濁流のようにレストーレアの心に押し寄せ、埋め尽くし、完全に飲み込む。
──嫌 止めて
身体に怪我はない。
しかし、記憶を読み返した身体は、経験を反芻した心は、全てを追体験した精神は、取り返しがつかない程に傷つき、病み、ひび割れた。
──イヤ ヤメテ
心が訴える不調は身体にもダイレクトに影響し、激しい嘔吐を誘発する。
空気を求める肺は過度に呼吸を促し、強烈に刺激された涙腺からは涙が溢れ出る。
体温は一気に下がり、筋肉は痙攣を始め、嫌な汗が全身を濡らす。
同時多発した様々な不調が、レストーレアを肉体面からも苦しめる。
──いや 嫌 イヤ
そして、レストーレアは壊れた。
──いや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤいや嫌イヤ
「いやぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁああああああ!!!!」
どんな事があっても乱れることのなかった美貌を大きく歪ませ、レストーレアは凄惨な絶叫をあげる。
耐えられなかった。
何百倍にも凝縮された苦痛が一気に押し寄せてきたのだ。耐えられる人間など居ない。
特に、これらの感情とは無縁だったレストーレアには、複雑な感情に対する耐性がない。心にかかる負担は想像を絶する。
ひと息で発狂しなかったのは、果たして幸か、それとも不幸か。
「やめて止めてヤメテお願い許して元に戻してぇぇぇぇぇ!!!!」
怯えた幼子のように地面に蹲り、押し潰すように頭を抱え、ボトボトと足元に涙を落としながら、レストーレアはひび割れた声で懇願する。
もはや冷酷な戦闘員の面影など、どこにもありはしなかった。
一瞬「死のう」という考えが頭を過るが、死への恐怖が人並みに戻った今の彼女には自刃することすら怖くて出来ない。
死んだほうがマシだと思っているのに、死ぬのが怖くて行動に移せない。
筆舌に尽くし難い苦しみが絶え間なく押し寄せ続けているというのに、死ぬに死ねない。
死にたくなるような苦痛をただただ耐え続けるしかないなど、これ以上の残酷がこの世にあるだろうか。
「ふむ、これ以上やると戻らなくなるな」
言葉にならない懇願を叫び続けるレストーレアに、涼し気な声が掛けられる。
「《逆さの薔薇時計》」
瞬間、筆舌に尽くし難い苦しみが、全て霧散した。
何が起きたのか分からず、涙と鼻水の残る顔で呆けるレストーレア。
苦痛は、もう感じない。ただ震え続ける身体と、おぞましい経験をしたという記憶と、拭い難い余韻だけが残っていた。
「お前にやったことは実に単純だ」
目の前までやって来たヌフがレストーレアの頭を指差す。
「先ず、魔法でお前の脳をあるべき正常な状態に治し、感覚を取り戻させた」
それが自分を苦しめた原因だと、レストーレアはすぐに理解した。
「で、正常にしたお前の脳を別の魔法でもう一度無痛症の状態に戻した。それだけだ」
唐突に苦痛が消えた理由も、レストーレアは理解した。
「どうだ? まるで天国と地獄を一足で往復してるみたいで、なかなかに効くだろう?」
さながら中毒者に新型の麻薬を勧める売人のような邪悪な声色でそう言うと、ヌフは放心状態のレストーレアの頭をワシっと掴み、すぐに離した。
抵抗し難い魔力の奔流が、レストーレアの頭内を貫く。
「さっき掛けた二つの魔法を、お前の脳幹の裏に刻印した。こうすると──」
ヌフがパチンと指を鳴らす。
すると、
「────っ!!」
再び、壮絶な苦痛の津波がレストーレアの心を飲み込んだ。
「いやぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁああああああ!!!!」
鮮烈な苦しみが、正常になったレストーレアに絶叫をあげさせる。
ヌフが再びパチンと指を鳴らす。
「あぁあぁぁ……、あ………ぁ…………」
すると再び苦痛は霧散し、ただただ苦痛を受けたおぞましい記憶と余韻だけが残った。
「面白いだろう? お前を『正常』にすることも、『元』に戻すことも、俺の意のままというわけだ」
何も感じないはずのレストーレアの心に、初めて真の意味で「恐怖」が刻み込まれた。
今はまるで鎮静剤を打たれたかのように何も感じていないが、さっきの地獄みたいな経験はしっかりと残っている。
あの感情の津波は、確実にレストーレアを「壊した」。
そして今、元に戻されたおかげで、レストーレアはまた「再生した」。
壊されては再生させられ、再生させられてはまた壊される。
それは、まさに無限に続く地獄だ。
「ああ、言い忘れていたが、その刻印にはちょっとした細工があってな。お前の生命活動が一定以下まで低下すると回復魔法が自動で発動するようになっている。そして、その動力源はお前自身が保有する魔力ではなく、刻印と一緒にお前の構造体に刻み込んだ『魔力貯蓄石』だ。要するに、その刻印は、俺の魔力によって稼働しているということだ。だからたとえお前自身が魔力切れになったとしても、仕掛けはちゃんと動く。俺の他の手駒と同じように、な」
つまり、自殺は意味をなさない、ということ。
それが本当かどうかなど、もはやレストーレアには確かめる気力すらなかった。
レストーレアのこの体質は、中級ポーションでも治らない、謂わば永久欠損と同じ扱いだ。それをこのヌフという男は一瞬で治したり、一瞬で元の欠損状態に戻したり出来るのだから、もはやその言葉を疑うことすらバカバカしい。
彼が「自殺は意味をなさない」と言うのならば、きっとその通りなのだろう。
逃れる術は、もう何処にもない。
「もう一度言おう。
【無畏】のレストーレアよ────お前は、今日から俺の手駒だ」
一言一句違わない宣言をもう一度告げられる。
「畏まりました。この【無畏】のレストーレア、生涯変わらぬ忠誠をヌフ様にお誓い致します。如何ようにもお使いください」
一も二も無く、レストーレアはヌフに跪き、服従する。
あの地獄をもう一度経験するくらいなら、「宵闇梟」など喜んで裏切ろう。
ヌフはレストーレアを徹底的に苦しめられるが、「宵闇梟」ができるのはせいぜい拷問してから殺すことくらいだ。拷問などレストーレアには効かないし、寧ろ死ぬに死ねない今のレストーレアを殺してくれるのであれば進んで敵対しよう。
「心配するな」
レストーレアの後ろ向きな思考を読んだかのように、ヌフが優しい声で言う。
「俺は、手駒は大事にする主義だ。お前が余計な事を考えない限り、使い潰すようなことはしない。今よりも高待遇を提供しよう」
裏社会では失笑を買うだろう、甘すぎる発言。
しかし、今のレストーレアにとっては正しく干天の慈雨が如く心に染みる言葉だった。
「古巣の方に関しても、心配する必要はない」
意味が分からずに首を傾げていると、ヌフの側で静かに傅いていた5体の上位精霊が一斉に飛び立ち、まるでその力を誇示するようかのに上空で各々の魔法を炸裂させた。
水の竜巻が、炎の天幕が、砂礫の嵐が、風の乱舞が、稲妻の豪雨が──一つ一つが天変地異に匹敵する属性魔法が、閉鎖空間の空を行き交い、暴虐で満たした。
そんな上位精霊たちが織りなす破壊の共演を目の当たりにし、レストーレアはようやく「心配する必要はない」というヌフの言葉の意味を理解する。
自分が新たに仕えることになった主人は、1体で国を滅ぼせる上位精霊を同時に5体も従えることが出来る存在なのだ。
闇ギルドごときがどうこうするのは不可能だ。
であるならば、とレストーレアは考え直す。
もしかしたら今の自分は、かなりお得な状況に置かれているのではないだろうか?
闇ギルドよりも強大な主人。
もし、その「手駒は大事にする主義」「裏切らなければ使い潰さない」「高待遇を提供する」という言葉が本当ならば、レストーレアは闇ギルドなんかよりもよっぽど強力で慈悲深い存在の下に収まったことになる。
確かにあの地獄のような苦しみは死ぬほど怖いが、裏切りさえ考えなければ罰せられることもないだろう。
ならば、これはやはりかなりいい転職先と言えるだろう。
「では、」
考え込んでいたレストーレアは、ヌフの声に姿勢を正す。
「最初の指示を言い渡す」
新たなる主人となったお方からの、最初の命令だ。
レストーレアはいつも通りの──人形のように感情のない顔で頭を下げ、命令を承る。
ただし、それはアルバーノに対するような事務的な動作ではなく、心からの服従を感じさせる仕草だった。
今月2編目となる20000文字超えの長編です。( ´ཫ` )しかも最多文字数更新してるし……
これによって、直近の4編で合計文字数が55000文字を超えました。_(:3 」∠)疲れた……
出来るだけ更新ペースは落としたくないのですが、もしかしたら次回は投稿日が後日にずれるかも知れません。( ꒪▿꒪)次も文字数多めかもしれんのや……
出来るだけ時間通りに投稿できるよう努力する所存ですが、もし投稿日が遅れるようなことがありましたら活動報告の方にて事前にご報告させていただきますので、大変恐縮ではありますが、次話に関しましては気長にお待ちいただければ幸いです。( ノ;_ _)ノ




