104. EO:宿ぐらしのオルガ
視点がコロコロ代わりますが、是非お付き合いください。
――――― Episode Olga ―――――
磨りガラスを透過して、朝日が部屋に差し込む。
黒いボブショートの先端に紫のメッシュが入ったデウス族の少女──オルガは、朝の日差しに照らされて自然と瞼を開いた。
見慣れた自室とは違う部屋に、眠気の残る頭が一瞬だけ混乱する。
が、直ぐに状況を理解する。
ここは、フェルファストの宿屋街の一角に鎮座する大衆宿屋──「大鷲亭」。
そこで取った一室である。
シングルベッドが2床置かれた、それほど広くないツインルームだ。
部屋面積だけで言えば、ピエラ村にある少女の自室の方がもう少し広いだろうか。
起き上がり、少女は隣のベッドを見る。
同居人である家主の少年のベッドだ。
シーツにはシワひとつなく、使った形跡がない。
少年のベッドが使われていないのは、彼が少女の隣に寝ているから……などというロマンチックな理由ではなく、ただ単に少年が一晩中部屋に居なかったからだ。
ふぅ、と眠気を覚ますために小さく息を吐き、少女は立ち上がって窓へと近づく。
両開きの窓の真ん中にある閂鍵を二度撫でると、複雑で小さな模様が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに消えた。
家主の少年が少女の安全を考えてわざわざかけてくれた「防犯魔法」だ。
今のは、窓を開けるための操作だ。
これで、窓を開いても防御魔法が持続する。
過保護ですね、と呆れる少女だが、同時に少しだけ嬉しく感じていることには気がついていない。
小さな閂を外して窓を開けると、晴れ渡った朝空が見えた。
太陽はまだまだ地平線から顔を覗かせていないが、空は深い深い青に染まっている。
所謂ブルーアワーというやつだ。
今日も一日いい天気になりそうですね、と少女は表情を柔らかくする。
身だしなみを整えるために、壁際にあるデスクへと向かう。
簡素な木製テーブルの上には二人の荷物が入ったバッグがあり、少女はその中をゴソゴソと探し、目的のものを取り出す。
「L」の字状になっている、木製の筒だ。
少女は部屋の窓を開け、滑らかに削られた筒の短い方を下にし、長い方を窓際の壁に押し付ける。
すると、固定器具のない筒は、不思議と壁にピッタリとくっついた。
続けて、少女は宿屋の女将から貸し出した洗面器を筒の下にセットすると、下に向いている短い方の先端を軽く捻った。
次の瞬間、ドバドバと清らかな水が筒から洗面器へと流れ落ち始めた。
これは少年が作った「携帯型蛇口」という魔法道具で、家のキッチンに備え付けているものを持ち運び可能な形にしたものだ。
どうやらこの魔法道具は開かれた場所での使用が望ましいそうで、本人からは「対流圏ギリギリから水蒸気を集めて水にしているから、密閉された部屋の中で使う場合は窓を開けてくれ」と説明された。
そうしないと、窓の外が水浸しになってしまうらしい。
これまた見つかったら大騒動になる魔法道具ですね、と少年のことを思いながら、少女は溜め息を吐く。
人間は、水さえ飲んでいれば食べ物がなくても一月はなんとか生きていられる。
が、水が絶たれれば5日で命を落とす。
平民の長旅にしろ、商人の行商にしろ、冒険者の遠征にしろ、王侯貴族の外遊にしろ、軍隊の行軍にしろ、水の確保は至上命題と言っても過言ではないほど重要なことだ。
インフラが整っていない都市外では飲料水の確保が難しいため、まともな地図には必ずと言っていいほど飲料水を補給できる場所が載っている。
それだけ、「外」での清水の確保は困難で不安定なのだ。
そんな貴重な清水を、何時でも何処でも好きなだけ確保できる。
まさに夢のような魔法道具だ。
軍隊からすれば、これさえあれば水場の位置に関係なく任意に進軍経路を設定できるのだから、間違いなく「戦略物資」と見做されるだろう。
もしこの「携帯式蛇口」を売りに出せば、間違いなく国が真っ先に確保しに来る。
そして、次に待っているのは、製作者の確保だ。
少年から何気ない感じで渡されたこの魔法道具は、それだけとんでもない代物なのだ。
そんなことを考えた少女だが、すぐに「それはありませんね」とバカバカしくなる。
あの平穏を求めて止まない少年が、そんな面倒臭い状況に身を投じるはずがない。
公権力から目を付けられるようなことは何があろうと絶対にしないのが彼だ。
金ごときのために──平穏を手放してまでこの魔法道具を売りに出すはずがない。
もしこの魔法道具が衆目に晒される事態になるとすれば、それはきっと自分の不注意が原因だろう。
なんだか爆弾を渡された気がします、と少女は若干の焦りを感じると同時に、僅かばかりの批難を少年に向ける。
ただ、今更この便利さを手放すのもなんとなく癪なので、少女は全力で気をつけることにした。
清い水で顔を洗い、少し寝癖の付いた髪を櫛でとかす。
化粧気のない顔はいつも通り美しく、梳いたボブショートの髪はいつも通りサラサラだ。
水が張られた洗面器を鏡代わりにし、少女は己の顔をチェックする。
汚れは勿論、枕や髪の寝跡もない。
ニキビもなければ、シミもない。
テカってもいないし、カサついてもいない。
なかなかのコンディションである。
一通りチェックし、少女は満足する。
今までは見苦しくさえなければいいと思い、自分の顔や肌の状態にあまり興味がなかった。
教育係のエイダに「オルガちゃんは超一流の美貌を持ってるんだから、全力でケアしなきゃ宝の持ち腐れよ!」と力説されたが、ただただ面倒臭いと感じていた。
だが、ここ数日、少女はオシャレに目覚め、その大切さを思い知った。
フェルファストへ出発する前日の朝。
少女は教育係のエイダに教わった洗顔法を思い出し、何気なく試してみた。
薬草や果物の絞り汁を使い、丁寧に洗顔し、マッサージもした。
するとどうだ。
寝起きの少年が、少女を見るなりビクッとし──少し顔を赤くしながら──気まずそうに目を逸らしたのだ。
その瞬間、少女はなにかに勝利した気分になった。
心に余裕が生まれ、妙な高揚感と達成感が湧いてきたのだ。
とても、とても、とても良い気分だった。
友人であるアビーからは出会った時から「オルガは化粧したら最強」「絶対オシャレするべき」と力説され続けてきたが、「なるほど世の女性がオシャレに目がない理由がやっと分かりました」と少女はようやく友人の言葉の意味を理解した。
ナインのあんな顔が見られるなら、やる価値はありますね。
そんな奇妙な対抗意識……もとい目標意識が、少女の中に芽生えた。
それからというもの、少女はスキンケアに気を使うようになり、身だしなみにもそれなりに気を使うようになった。
村の女性陣から得た情報と教育係のエイダから教わったことを吟味し、自分がやっても変じゃない範囲で外見の調整をし始めたのだ。
これを変な「趣味に目覚めた」と取るべきか、それとも「年頃の女性として当然の行動を今更やり始めた」と取るべきか、少女には判断が付かない。
ただ、ナインの反応が面白くて、今でも続けている。
やり続ける理由としては、それで十分だった。
少女の非現実的ですらある美貌が整った所で、部屋の扉にかけられた「防犯魔法」が一瞬だけ光り、扉が開かれた。
「およ、起きてたのかオルガ。おはよう」
家主の少年の帰還だ。
ボロボロのフード付きマントを羽織っており、なんだか疲れた顔をしている。
「おはようございます、ナイン」
完全に朝帰りだが、少女が少年を責めることはない。
今の少女たちは、大きな困難に直面している。
資材調達の資金を作るために持ち込んだ薬草が全てゴミクズ同然となり、換金が不可能になってしまったのだ。
初日に判明したこの驚愕の事実に、少女と少年は呆然とした。
今回の買い出しの計画が、完全に狂ってしまったのだ。
少年は、自分たちが売った薬草を村の予算としてプールすることと引き換えに、少女と幼いエルフの双子の税を肩代わりしてもらう契約を村長と交わしている。
その契約が実現可能であることの証明として、今回の資材調達はどうしても成功させなければいけなかった。
だが、それがここに来てポシャろうとしている。
事は、少女たちの村での立場に関わる。
軽く対処していい問題ではない。
そんな訳で、少年が動いた。
何やら色々と情報収集や裏工作をしているらしく、「アリバイ作り」のために宿に一瞬だけ顔を見せに帰る以外、殆ど宿には寄り付かなくなったのだ。
なんでも、状況がかなり複雑らしく、とても忙しそうにしている。
そんな風に全力で動いている少年を、どんな理由で責められようか?
自分に出来るのは……いや、自分がすべきは、邪魔にならないよう宿に引きこもり、帰ってくる少年を暖かく迎えること。
そう思ったからこそ、少女はこの3日間、大人しく宿屋で待機していたのだ。
「なんだかお疲れですね」
「ああ、ちょっとな。なんていうか……『拷問疲れ』みたいな?」
「なんですかその『育児疲れ』みたいな状態異常は」
「それがさぁ」
そういいながら、少年はくたびれたようにベッドに座った。
「情報収集のためにギャングの構成員を何人か拉致ったんだけどさ、その中に一人だけ妙に口が堅いヤツがいてね」
「そんな根性のある人間が、ギャングの中に?」
ギャングといえば、チンピラの集まりだ。
悪ガキがそのまま大人になったような人間が多く、衛兵の尋問に耐えられる者すら少ない。
そんな者の中に、果たして拷問に耐えられる人間が居るだろうか?
「それが案の定、諜報員だったよ。
かなり意志が堅くてね、折るのに苦労した」
「……それでも、たった一晩で?」
プロの諜報員の口をたった一晩で割らせるなど、この少年は一体どんな手を使ったのか。
なんだか、聞きたいようで聞きたくない。
「ああ、拷問するときに《相対圧縮》っていう魔法を使ったからな。
体感時間を1万倍に圧縮してやったから、実際には6時間しか経ってなくても、感覚的には丸々7年間は拷問され続けたことになる」
「な、7年間、ですか……」
あまりにも苛烈な仕打ちに、少女は少し相手が可哀想になった。
「それでも6時間は掛かったよ。流石に疲れた……」
ウンザリした顔で、少年がため息をつく。
「やっぱ、家族や友人といった弱点が使えないと、プロの心を折るのは時間がかかる。
肉体的拷問だけじゃ効率が悪いし、次からは『悪魔』でも召喚しようかな?」
ものすごく物騒なことを呟く少年に、少女は思わず呆れる。
ただ、呆れたのは家族や恋人云々の方ではなく、「悪魔」云々の方。
悪魔と言えば、九神教では混沌神の眷属だ。
人間を堕落に誘い悪事を働かせる悪精霊であるのと同時に、誘惑に負けた者や改心しない者の魂を地獄に叩き込み、永遠の苦しみを味わわせる懲罰の使徒でもある。
人々の意志を試すかのように堕落に誘うその性質から、人々は悪魔を忌み嫌う。
同時に、地獄にて悪人の魂を永遠に苦しめるというその役目から、人々は悪魔を恐れる。
故に、衝動的に悪事を働くことを「悪魔に囁かれた」と言い、残虐非道な行いを働く人間を「悪魔のような人物」と呼ぶのだ。
救済と審判の善精霊である「天使」と対を成す、堕落と懲罰の悪精霊である「悪魔」。
そんな悪魔を召喚するとは、果たしてどういうことなのか?
そもそも、「属性精霊」以外の眷属を召喚するなど、本当にできるのだろうか?
「……あまり大きな騒ぎにはしないでくださいね」
それらの疑問を、少女は全て遠くへと放り投げた。
今更、この少年が神の眷属を召喚したところで「案の定できるのですね」くらいの感想しか出てこない。
慣れとは実に恐ろしいものである。
「もちろんだよ。ここ二三日はずっと変装してるし、痕跡も残してない。仮面は暑苦しいから外したけど、変わりに《3次元情報屈折》っていう認識阻害系の魔法を使ってるから、身バレはしないよ」
「それなら良かったです」
少女には、少年を気味悪がる気配もなければ、彼を避ける素振りもない。
他人を平然と拷問にかけたり、人の家族を拷問に利用しようとしたり、悪魔を召喚しようとしたりと、少年の発言は非常を通り越して無類に物騒で非道で人でなしだが、それでも少女は少年のことを怖いとは思わない。
なぜなら、少年の行動は全て自分たちを思ってのことであり、彼が何をするにも第一に付随的損害を最小に抑えることを考えていると少女は知っているからだ。
少年は、無闇に他人を傷つけるような人間ではない。
何処までも優しい、徹頭徹尾の「偽悪者」なのだ。
少年が残酷なことをするということは、相手がそれを受けるに値する人間であるということ。
誰にだって暴力的な一面があり、条件さえ揃えばその一面を曝け出す。
家主の少年の場合、その恐ろしい一面は彼の「敵」にしか見せない。
だから、少年がその「恐ろしい一面」を惜しげなく曝け出したところで、少女は怖いとは感じない。
少年にそんな一面を曝け出させた相手が悪いのだから。
暫く行動報告や雑談をすると、少年は再び立ち上がり、出かける準備を始めた。
「随分急ぎですね」
「仕込みが多くてな」
「これから何処へ?」
「この街にも『解決屋』が居るらしいから、ちょっと覗いてくるよ」
まるで観光名所でも眺めてくるかのような感じで、少年が答える。
「……悪いなオルガ。窮屈かも知れないけど、もう何日か我慢してくれ。事が上手く行けば街も安全になるし、帰り道はゆっくりと観光しながら帰れるから」
誕生日を忘れた恋人に許しを乞う甲斐性なしのような顔で、少年は少女に謝る。
「いいえ、お気になさらず。ナインこそ、暗躍がんばってください」
「暗躍って言い方な!」
楽しそうに軽口を叩き合いながら、少女は少年を見送った。
◆
一の鐘が鳴って随分経ってから、少女は宿の食堂へと降りた。
他の宿泊客は既に朝食を食べ終えている時間なので、食堂に客はいない。
「おはよう、オルガちゃん」
「おはようございます、女将さん」
席に就くと、ふっくらした中年女性が挨拶してきた。
この宿屋の女将だ。
朝食が乗ったトレイを持って、少女の側までやってくる。
「あいよ、朝食だよ」
「ありがとうございます」
パンとスープが少女の前に置かれる。
何故か、女将はそのまま少女の対面に座った。
「あんた、大丈夫かい?」
心配そうな女将さんに、少女は首を傾げる。
「あんたの旦那だよ。こんな若くて美人な嫁さんを宿に残して朝帰りだなんてね」
「げふっ!」
女将の言いたいことを察した少女から、変なしゃっくりが漏れ出る。
危うく忘れかけていたが、少女と少年は今、若夫婦という設定なのだ。
妻を一人きりで宿屋に残し、夫は朝帰り。
そんな状況が他人の目にどう映るのか、完全に失念していた。
「あらあら、お宅も大変ね〜」
朝と夜の忙しい時間にだけ手伝いに来る近所の奥さんが、少女と女将の会話に混ざってくる。
食堂にいるのはこの三人だけなので、完全に雑談が弾む条件が揃ってしまった。
「うちの旦那も、あたしが妊娠してる頃はよく夜中にコッソリ帰ってきてたのよ〜」
「なんだい、それってまさか……」
「女の匂いたっぷり付けて帰ってくるのよ〜? 行き先なんて決まってるじゃない〜!」
「妊娠で大変なときにかい!? あたしだったらぶっ飛ばしてるね!」
「ええ、もちろん往復ビンタしてやったわよ〜! でも、何日かしたらまたやらかしてくるのよ〜!」
「はぁぁぁ、これだから男ってのは」
「雑談で浮気を暴露される」という旦那にとっての地獄を形成する近所の奥さん。
話に割り込むつもりが一切ない少女は、ご近所の旦那さんの浮気エピソードを聞きながら、ただ黙々と朝食を胃袋に流し込んだ。
「うちの旦那もね、結婚する前までは割とイケイケだったみたいでね。歓楽街でも名を馳せてた有名人らしかったんだけど、結婚したら大人しくなったさね」
「えええ〜? どうやったらそうなるの〜女将さん?」
「なんだい? それを聞くってことは、もしかしてお宅の旦那、まだ娼館に通ってるのかい?」
「そうなのよ〜! お酒の匂いで誤魔化してるつもりなんだろうけど、全然バレバレよ〜!」
「バカだねぇ男ってのは。それで隠してるつもりなんだからね」
ご近所の旦那さんの私生活にどんどん詳しくなっていくことにゲンナリしながらも、話を振られたくない少女は、ひたすら聞きに徹するしかない。
「それで、どうやったら大人しくなるの〜?」
「簡単さね。やらかしたらぶっ飛ばして、何日か家に入れなければいいんだよ」
「えええ〜? それだと余計遊びに行かない〜?」
「締め出す前に、遊びに行けないほどボコボコにすればいいだけさね」
「なるほど〜! さすが元冒険者ね〜!」
「ボコボコにする腕力がないなら、旦那のアソコを思いっきり引っ掻いて、皮に傷をつけてやればいいさね。傷が沁みるから、娼館に行っても何もできやしなくなるよ」
「あら〜、それならあたしにも出来そうね〜!」
暴力・イズ・ベストなシンプル方法を伝授する元冒険者の女将さん。
こんな逞しい人と結婚しておきながらなんで旦那さんは娼館遊びなんてする勇気が湧くのでしょうか、と不思議に思いながら、少女は気配を消して半分を切った朝食を口に含む。
「にしても、オルガちゃんの旦那も、意外と見かけによらないねぇ」
女将に話を振られた少女はギクリと身を固くした。
「あんな人畜無害そうな顔して、ここ3日ほどずっと朝帰りだなんてねぇ」
「まぁまぁ〜! こんな可愛い若妻を宿に放ったらかしにして〜!?」
「そうだねぇ。あたしも信じられない思いだけど、ここ数日ずっとカウンターで見てたからねぇ。しかも、オルガちゃん、この宿に来てから一度も外出してないじゃないかい」
「まぁまぁまぁ〜! もしかして、旦那さんに束縛されてるの〜!?」
自分を放ったらかしにして勝手に少年の話をするおばちゃん二人に、少女はどうするのがいいか真剣に迷う。
ここで反論すれば、間違いなく「じゃあどういうこと?」と聞かれるだろう。
そうなると嘘をつくことになり、後々辻褄合わせが非常に面倒臭くなる。
逆に、ここで賛同すれば、間違いなく「オルガちゃんの代わりにあたしたちがとっちめてあげようかねぇ」という風に話が進み、女将さんとお手伝いの奥さんからの制裁ないし制裁協力が少年に飛ぶことになる。
疲れて帰ってくる少年に対して、流石にそれは可哀想だ。
少年は「ずっと宿屋に顔をみせないと怪しまれる」ということで、朝晩に二回──少女への報告も兼ねて──宿へと戻って来るのだが、まさかそのアリバイ工作がこんな形で祟るとは。
「浮気症な上に束縛癖まであるんだったら、相当に救えないねぇ」
「色々考え直した方が良いんじゃないの〜?」
「い、いえ、そんなことは……」
気がついたら、二人に小さく反論していた。
少女のことを思っての発言であるのは十分承知している。
だが、なんとなく少年が悪く言われているのが嫌だった。
胸の中がムカッとしたかと思ったら、そんな否定の言葉が口を衝いて出ていた。
「違うのかい?」
「違うの〜?」
首を傾げるおばちゃん二人。
それでようやく余計なことを言ってしまったかも知れないと気が付く。
仕方ありませんね、と少女は諦める。
思わずとは言え、既に二人に反論してしまった。
ならば、ここはもう嘘で通すしかない。
ただ、完全な嘘はつかない。
以前、少年に「真っ赤な嘘よりも、本音と事実を織り交ぜた嘘の方がバレない」と教えてもらったことがある。
なので、少女は本音と事実を混ぜ合わせながら反論を組み立て、なるべく言葉に説得力を持たせるために微笑みを作った。
「彼、優しい人ですよ(本音)?
なんだかんだ毎日(報告しに)帰ってきてくれますし。
今だって、商売のために色々動いてくれていますし(事実)」
が、少女の言葉を聞いたおばちゃん二人は唖然とした。
やがて顔を見合わせると、二人して「あちゃ〜〜〜」と額を叩いた。
「……こいつは重症だねぇ」
「そうね〜女将さん、これはダメだわ〜」
オカシイ宗教にのめり込んでいる信者を見るような目を向けられ、少女はたじろぐ。
予想外の反応だ。
「目を覚ましな、オルガちゃん」
「そうよ〜、騙されちゃダメ〜」
「あんたの旦那のその『優しさ』はね、あんたの心を縛るための、見せかけの優しさだよ。
そんなのは本当の優しさじゃないし、そこに愛なんざないさね」
「そのとおりよ〜。
あたしの知り合いの奥さんも、旦那に殴られても『たまに優しく抱きしめてくれるから』って理由だけで、いつまでも暴力に耐え続けているのよ〜!?」
「それにね、『毎日帰ってくる』とか『商売のため』とか言ってるけどね、結局はあんたを放ったらかしにして朝帰りしてるじゃないかい」
「絶対、商売なんてしてないわよ〜!
絶対、歓楽街とかで『俺は釣った魚には餌を与えない主義でね』とか言って、他所様の女に貢ぎまくってるわよ〜!」
「え、あ、いえ、あの……」
まるで甘言に騙されているダメ男好きを見るような目をしているおばちゃん二人に、少女は額に汗を浮かべる。
完全におかしな方向に話が進んでいる。
ついた嘘が誤解を呼び、その誤解を解くために嘘をついたら更に誤解が深まってしまった。
なんだか詰んだような気持ちになりながらも、少女はなんとかこの勝算のない勝負から生還する方法を探す。
食べかけの朝食は、既に冷めていた。




