惑い
昼ごろに目覚め、大学へ行く。つまらない講義を寝て過ごし、講義を終えたらバイトでコンビニに通う。小柄で、白いというより青白い姿からは日常生活に快活さを想像できまい。佐藤明広は変化のない毎日を繰り返す普通の男子学生である。
草木も眠る丑三つ時、には少し早い午前0時30分。5連勤目を終えたバイト帰りの明広は人通りが全くないといってよい路地を歩いていた。明日(といっても日付が変わっているので今日だが)の6連勤を終えたら、明後日は1週間ぶりの休みである。
今日も普段通りに家路には人通りが全くない。しかし、普段はないものが落ちている。ピンクの花柄模様が鮮やかで、正月の福袋を思わせる形の紙袋だった。落ちているというよりは置いてあるように見える。心なしかその袋が夜の暗闇の中で光っているように見える。明広はそれを手に取り、その紙袋の中を覗き込んだ。
そこには大量の一万円札が所狭しと紙袋の底にひしめいていた。明広は驚き、そして周囲を見回した。誰もいない。
太陽が頂上まで昇り、明広はギラギラと照りつけ窓から差し込む日差しを浴びながら目を覚ました。時刻は午後2時である。昨日の出来事は夢だったのだろうか。明広は6畳間の中心を円く占領しているテーブルの上に目をやった。珍しくゴミが積みあがっていないそこには、昨夜拾った紙袋がしっかりと置いてあった。目が痛くなるような光沢のあるピンクの花柄だ。数えてみると中には1万円札が100枚あった。
この日、明広は午後4時からバイトのシフトが組まれていた。4時までの2時間の間、明広は大学の講義を欠席し、手提げ袋を見つめ続けていた。あの夜、100万円を拾った明広を見た者は誰もいない。頭の中では、この袋を警察に届けるか、届けまいかで激しい戦闘を繰り広げていた。世界大戦の勃発だ。
バイト中も明広の頭の中は、袋の中にあった100万円で一杯だったようである。
「ちょうど100万円のお釣りになりまーす」
会計中の客は目を見張った。明広は100円玉を手渡した。
明日はバイトが休みであるため、じっくり考える時間がありそうだ。午前0時30分、バイトを終えて家路についている間も明広の頭の中で繰り広げられている戦争は終息していなかった。床につくと、現実の次は夢の世界でも苦しむ羽目になってしまうのであった。
手に入れたお金で豪遊する夢が覚め、時計を見るとその針は午前10時を指していた。心臓は100メートルを全力疾走したかのように脈動していた。そして、テーブルの上にある紙袋に目をやった。少ししてから、明広の内なる良心が覚醒した。
100万円という大金だ。落とした人は困っているかもしれない。いや、困っているだろう。今この瞬間も、あの道を行ったり来たり探しまわっているかもしれない。このまま猫ばばなんてしてはいけない。もしかしたら落とし主の命にかかわる大切なお金かもしれない。人生を狂わせてしまうかもしれない。絶対に返さねば。
頭の中を2分した戦争は終結した。
急いで着替え、ひげを剃り、明広は紙袋を右手に力強く握りしめた。そして、わき目も振らず警察署へ駆け込んだ。手にしている紙袋さえも見なかった。建物に駆け込んだ時のその勢いはその場にいる警察官たちの視線を一手に掴みとるほどだった。
拾得物は届け出されてから3ヶ月間の間、落した人に受け取る権利がある。しかし、3ヵ月を過ぎると落とし主が受け取る権利はなくなり、拾い主に受け取る権利が発生する。ただし、それから2ヵ月を過ぎると、その権利も消失する。
さて、100万円という大金である。明広はすぐに落とし主が現れるだろうと考えていた。更にその時は、上辺だけではなく心から落とし主が現れることを願っていた。
見ず知らずの大金を警察に届け出て肩の荷が下りた明広は、ちょっと良いことをした気分を背に帰路についた。背中に天使の羽が生えているかのように軽やかな足取りだった。ジャージのポケットには、警察署で発行された『拾得物件預かり書』が入っていた。すでにしわくちゃではあったのだが。
100万円を届けてから約1ヵ月が経った。
「ちょうど100円のお釣りになりまーす」
会計中の客は目を細めて言った。
「お釣りは200円のはずだけど」
コンビニで1万円を超えるお金の取り扱いは少なく、そういった少額のお金の取引は、明広に100万円のことを思い出させることはなかった。
明日は給料日だ。コンビニの給料日前後は、大学での飲み会が増える気がする。そう思わせるくらい良いタイミングで、明広は大学の数少ない友人から毎月恒例ともいえる飲み会の誘いがかかるのであった。しかし、あまり社交的ではない明広は、大抵はその誘いを断っていた。
100万円を届け出てから約2ヵ月が経過した。
幾重にもテーブルの上に積まれているコンビニ弁当の空容器は倒壊寸前だ。倒壊の危機を察知した明広はやむを得ずテーブルの掃除をしていた。その時、明広は一切れの紙を発見した。そこには『拾得物件預かり書』と書かれている。あと1月で拾い主に受け取る権利が生じるようだ。警察の話によると、落し主が現れた場合は連絡があるという。今だにその連絡は受け取っていない。
なんとなく落ち着かない雰囲気で明広は給料日を迎えた。そして、珍しく大学の友人たちと飲みに出かけた。2次会を終え、3次会、4次会と上気分で飲み明かしたのであった。飲みすぎである。
あと2週間で3ヵ月が経つ。今だに警察から、落し主が現れたという連絡はない。明広の胸では"期待"の2文字が鼓動を開始していた。
「ちょうど100万円のお釣りになりまーす」
会計中の客は目を見張った。明広は200円を手渡した。そして、隣でレジを打っていた店長に叱られた。
あと1週間だ。胸の中では"期待"の2文字が大きく躍動していた。
頭の中は100万円でいっぱいだ。ATMでお金を引き出した時、明広は引き出したお金を手にし忘れたことに気付かなかった。明広は5万円をATMに置き去りのまま銀行を後にしていた。その日の夜に、引き出したお金がないことに気付いたが、どこで無くしたのかは最後まで思い出せなかった。
明日の午前10時で3ヵ月が経過する。いまだに連絡は無い。
明広は100万円を受け取ると確信した。5万円を無くしてはいたが、もう気にならない。
それから2日間は100万円の夢にうなされ続ける羽目になった。
さて、昨日の午前10時を経過した時点で、100万円を警察署に届けてからちょうど3か月だ。結局3か月の間、警察からの連絡は一切なかった。明広は拾得物件預かり書と、一応のための印鑑と身分証明書を懐に警察署へ向かった。時刻は午前10時である。普段であればまだ布団の中にいる時間だ。しかし、少しでも早く警察署に行かねば100万円を手に入れられない気がしていた。
「3か月前に100万円を拾ったのですが…」
消え入るような、しかし喜びと期待が含まれた声で窓口の警察官に声をかけた。様々な思いから期待と緊張は隠せない。拾得物件預かり証を手渡すと、少し待つよう言われた。100万円が手元に来ることを考えると、明広にとって待たされた5分という時間は数時間に感じられるほど長かった。
先ほどの警察官が笑顔で戻ってきた。そして明広に茶封筒を渡した。小さな茶封筒にまとめてから渡してくれた親切さに感謝しつつ明広はそれを受け取った。しかし、100万円とはこんなに薄いものなのか。封筒を手渡したあと、警察官は続けた。
「一昨日のお昼ごろに落とし主が現われて、落した100万円を受け取っていきましたよ。その封筒はお礼だそうです。良かったですね」
封筒の中を確認すると、1万円札が5枚入っていた。
明広を簡単に押しつぶせるほど巨大な、そしてどろりと渦巻く真黒な影を背に、明広はずしんずしんと重々しい足取りで警察署を後にした。
警察署を後にする前に聞いた話によると、落し主は70歳代くらいでまだまだ元気そうな白髪の老人であった。うっかり置き忘れてしまっただけとのことだ。
あんな人通りのない道の端に、うっかりと?
そんなまさか…。
帰宅後、郵便受けには警察から届いた1通の通知が静かに横たわっていた。
100万円は大金といえないかもしれません。しかし、人の心を惑わすには十分な金額であると思います。一度は手放しても、それが自分の物になるかもしれないという期待が芽生えたならば。それは、すでにお金の力に振り回されているということなのかもしれないですね。