その4
ごく普通、無難に自分の踊りを終えて、元いた場所に戻り体育座り。その間も、輝くんはずっと悩ましげに腕を組んで唸り続けていた。
その後、私と輝くん以外のクラスメイト14人の踊りが終わる。今回は怒号は飛ばない。
「柚希輝。お前が最後だ。出てきなさい」
「はい……」
先生に言われ、輝くんは渋々といった様子でみんなの前に出る。
なにをそんなに嫌がっているのだろう。
星の髪飾りをはずして、続いてツーサイドアップをほどく。口にヘアバンドを咥えながら、後頭部で髪をまとめてポニーテール。
「大丈夫です」
輝くんが先生に向かって告げた。音楽が流れ始める。
私たちがそうしたように、輝くんはすっと右足を前に差し出し──、
天使が舞った。
そうとしか言い様のない情景だった。
しなやかに持ち上げられた手のひらが、その脚が、その顔が。すべての一挙手一投足が、見る者すべての心を奪う。
私たちと全く同じ振り付けのはずなのに、全くそうとは信じ難い。
この衝撃は、輝くんの歌唱を聞いたときのそれを遥かに凌駕する。
歌もこのくらいのレベルが輝くんの全力なのだとすれば、
「わかる気がする……」
先ほどの『最後の演舞』すら霞んでしまう。歌い終わったあとの輝くんが、自らの成果を卑下してしまっても仕方ない。
そう、思った。
そう、思えた。
曲が終わって、一礼。皆は拍手すら忘れて呆然。
彼は満面の笑みを浮かべる。どうやら、本人としても満足のいく出来だったらしい。
「……先生?」
輝くんは先生に問いかける。先生ははっと我に帰った様子で、「あ、ああ。そうだな」と返す。
「こんなの、勝てるわけないじゃない……」
誰かが呟いた。全くもって同感だ。
それと共にチャイムが鳴る。
「これにて授業終了だ。一人、あまりにも飛び抜けていたが、他の皆も例年より水準が高い。落ち込まずに頑張ってくれ」
先生はそう締めくくった。
「柚希」
私たちがまた更衣室に向かおうとすると、先生が輝くんを呼び止め、
「あと、ひとつだ」
よくわからない言葉を放った。
「最初の演技の授業はいつだ?」
「えっと、確か。火曜五限、だったと、思います」
「そうか。さっき、八重崎先生とも話をしたんだが……」
先生は輝くんになにか耳打ち。輝くんは「ほ、本当ですか?」と顔が輝く。
「ああ。お前の実力もさることながら、こうしなければ皆の士気が下がるという懸念もある」
「ありがとうございます。明日も力を出せるように頑張ります」
鏡張りされた踊りの教室を出た私たちは、更衣室までの道なりで言葉を交わす。
「先生になんて言われたの?」
「ふふっ、ないしょ」
ポニーテールを揺らして、小悪魔的に微笑む輝くん。いたずらっ子な笑みもかわいい。
何を言われたかは概ね察しはつくけど、その私を驚かせたそうな様子を見ていると、なんだか指摘するのは憚られた。
「なんで踊る前あんなに悩んでたの?」
「あのときはごめんね。歌が失敗しちゃったから、どうしても半端なことできなくて、しっかりイメトレしなきゃって」
あの踊りを見せられたあとだと、歌が失敗だったと言われても納得してしまう。輝くんの恐ろしいポイントだ。
歌は素晴らしいけど、まだ人間技だった。
対して踊りは、人間の域を越えた領域に片足を突っ込んでる。そう思わされてしまった。
結局、午後の授業は輝くんが力を見せつけるだけの時間だった。
教室に戻ってホームルーム。響先生が入ってきた。
「みなさん、今日一日終えて、お勉強のほうはみなさんなら問題ないでしょうが、演劇関係の授業はいかがでしたか? 八重崎先生は特に言い方がきつくて、先生の中にもレッスン中に泣いちゃう人が出てくるくらいなので気にしちゃいけませんよ」
やっぱりそうなんだ。先生も泣くというけど、その筆頭は響先生なんじゃないかと思う。
元から涙目のイメージがあるキャラだった。この世界の男の娘響先生はそれっぽい雰囲気にさらに拍車がかかってる。
「で、ですね。これから7時間目は今年度数学編第一回のアドバンスド勉強会です。教室は上の多目的教室。先生は私です。該当科目の高校レベルは全部身に着けてる前提で、大学レベルの勉強をする会なので。ぜひ来てくださいね」
曜日ごとに、数学、物理、化学、英語、生物をやるらしい。
「全部参加してもいいですし、どれかひとつだけでも、はたまた全部不参加でもおっけーです。卒業には関係ありません。普通の授業と違って、欠席の連絡はいりませんので、お気軽に。不参加の皆さんはまた明日お会いしましょう」
そうしてスカートを翻し、るんるん言いながら教室を去っていった。そんなにアドバンスド授業とやらが楽しみなんだろうか。
響先生はつきロンでもマニアックな数学を語るエピソードが多い。某主人公が記憶喪失になる乙女ゲーの攻略対象で、数学科大学院生と設定に明記されているキャラがいたけど、響先生も数学で大学院を出ている。その設定がこの世界でも同様なのかはわからないけど、様子を見る限り可能性は高そうだ。
「瑠美!」
輝くんが目をキラキラさせて私の机でばんっと手を叩きつける。星を髪飾りだけでなく目の中でもはためかせていた。
「七限いこ!?」
更衣室で整え直したツインテを揺らして、輝くんは言ってくる。
「輝くん、数学得意なの?」
「人並み。だけど面白そうじゃん! 大学レベルの数学が習えるって。かっこいい!」
そうだよね。輝くんはそういうのにわくわくしちゃうタイプだもんね。
輝くんが行くならと私も参加を決意。二人で一緒に多目的教室に向かった。
大学の大教室のような階段状の教室。中に入ると最前列に座る二人が目についた。
千景くんと、宮小路さん。
千景くんは三年間学業成績トップであり続けてるという設定があったはず。宮小路さんもいかにも賢そうだ。
「やあ瑠美。君もここに参加するんだね。勉強熱心なのは素晴らしいことだ」
微笑む千景くん。輝くんに腕を引かれる形で来ただけなのに、なにか激しく誤解されてる気がする。
パーティーの時も思ったけど、千景くんと宮小路さんが並んでるのはとても絵になる。二人とも清楚系お姉さんといった見た目。千景くんはカッコいいお姉さんで、宮小路さんは優しくそれでいて芯のあるお姉さんって感じ。実際にはどっちもお兄さんだけど。
この二人以外の生徒は数人。あちこちに空席が目立つ、というか、埋まってる席がとても少ない。
七時間目。響先生が教室に入ってくる。
「みなさんー。今年度もアドバンスド授業、楽しくやっていきましょう。数学の担当は昨年に引き続き、わたくし愛華響です。よろしくお願いします」
タブレットを両腕で腰の下に携え、ぺこりとお辞儀。
「前々年はガロア理論。昨年は複素解析とリーマン面をやりましたが、今年は積分論をやろうと思います。余力があれば先生の専門である確率論も」
積分も確率論も、高校レベルなら学んだけど、響先生が言ってるのは絶対そういうことじゃないんだろうな。
「とりあえず、二年生以上には事前にお話していたとおり、まずは天海千景くんの発表から始めます。では天海さん、お願いします」
「はい」
千景くんは響先生と入れ替わりで電子黒板の前に立ち、パワポを表示させる。
「先生がおっしゃられた通り、今年のテーマは積分論ということで、その土台である測度論について、発表します。これは大きさ、という概念を数学的に扱うためのもので……」
そこからは、よくわからない世界が広がっていた。
訳のわからない数学用語のオンパレード。長々と続くとなかなか苦しい。
宮小路さんは熱心にノートをとっている。輝くんは、私をここに引っ張ってきておいて、はやくも机に突っ伏してすやすやと眠っていた。ツインテが机から垂れているのが目につく。
「天海さん」
響先生が手をあげる。
「測度の可算加法性と言いますが、ここで非可算加法性を認めると、どのような問題が起きると思いますか?」
「たとえば、閉区間0から1をオメガ、σ加法族をボレル集合族として、ルベーグ測度を考えます。このとき、全空間の測度は1ですが、各点の測度は0です。非可算加法性を認めると、全空間の測度と各点の測度の和が一致しません」
「じゃあ次に、ファトゥの補題で真に不等号が成り立つ例を挙げてください」
「えっと、こんな感じです」
千景くんはタッチペンでよくわからない数式を書く。1の右下に色々書いてるのはなんなんだろう。
「では最後に、ルベーグの収束定理の条件を満たさないけども積分と極限が交換可能な例を挙げてください」
「それは考えていませんでした。しばしお待ちを」
何やら腕を生んで熟孝しだす千景くん。なにやら手元のノートで色々計算をしている。
「わかりました。ここをこうして……」
なにやら三角関数のようなものを書く千景くん。
「おーけーです。大変よく勉強してきましたね。素晴らしい」
満足げに微笑む響先生。
少しでもついていこうとした私がバカだった。脳みそ焦げそう。
それにしても、つきロンでも千景くんはお勉強できるキャラ付けがされてたけど、こんな異次元レベルだとは思わなかった。
「次週はルベーグ測度の構成です。この発表は誰にしましょう……。見城さん、やってみますか?」
私はぶんぶんと首を振る。冗談じゃない。
「柚希さんは……、お休みのようですね。やめておきましょう」
「ふぇ……?」
輝くんは変な声と共に顔を起こした。ヨダレが頬を伝ってる。
宮小路さんが「じゃあわたくしが」と手を挙げてくれたお陰で、とりあえず事なきを得た。
「はい。今日のアドバンスド授業はここまでです! 今後も数学は大体こうしてゼミ形式でやっていきます。一年生のお二人も、来週からも是非参加してくださいね!」
響先生の去った教室。私は荷物をまとめてる千景くんのもとへ。
「やあ、瑠美。清聴、感謝する」
なに一つ理解してないけどね。ほんとに清聴してただけだ。
「千景くんがそんなに勉強熱心な人だったなんて」
「僕は将来学者になりたいんだ。数学はすべての土台。ことさらきっちりやっておかないと」
決意のこもった言葉。しっかりものの千景くんらしい台詞だ。
友紀ちゃんも、ルートによってはその頼りがいのある姿にすっかり惚れ込んでしまう。それ以外のルートでも、友紀ちゃんの助けになる場面は多い。
つきロンにおいて、千景くんはクールなお兄さんキャラといった感じの人だった。見た目はお姉さんになっても、雰囲気そのものは変わらない。
その直後、教室の扉が勢いよく開く。
「はろー! みんな元気にしてるー!?」
パァン!と引き戸が壁に叩きつけられる音。私は驚いてそちらに目線を向け、つい顔が曇った。
琴葉ゆかり。
遠山さん曰く『淫乱メス男子』というとんでもないあだ名のついている、この間「この学校の男子はあたしのものだから!」と叫んできたヤバい三年生。
どうやら、また私たちに頭痛の種を運んできたらしい。




