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その8

新宿駅で中央線に乗り換え、俺たちは高円寺に向かった。

車内で「パンクロックの歌姫」に気づいた者はいなかった。世の中なんてそんなもんだ。意外なことは大抵見過ごされる。

アイヴィーは赤い革ジャンをライヴ中に脱ぎ捨て、黒のタンクトップ一枚。俺は着ていたシングルの革ジャンを彼女に渡した。

汗が引くと、1月の空気が身に染みる。一応ジップシャツを着込んでいるが、早くギヤまで行かないと風邪を引きそうだ。

電車の中、俺たちは無言だった。

高円寺駅に到着すると、すぐにギヤに向かうつもりが二人とも疲労感がドッと押し寄せてきた。ホームに帰ってきた安心感だろう。

俺たちは駅前のロータリーにある広場でひと休みした。冬の夜、他には誰もいない。また二人きりだ。

身を切るような寒さが今はまだ心地良い。ライヴの前に、いったん家に帰って着替えよう。

「ここさ、アタシと松下のおばちゃんが初めて出会った場所なんだ。」

唐突にアイヴィーが口を開いた。

「へえ、そうなんだ。」

「ここからいろいろと始まったんだ。アタシ、何かあると、ここへ来て考えごとするんだよ。あの時のこと、思い出しながら。」

サイズの合わない革ジャンをしっかりと羽織り、アイヴィーは俺と並んで座っていた。寒さを微塵も感じさせない。

「今ごろ、どうなってるだろうかな。」

「ねー!今ごろ仲間うちだけじゃなくて、一般のニュースとかになってんじゃない?アタシ、SNSとか恐くて観られないよ。」

苦笑まじりにアイヴィーは顔をかく。

「出過ぎたマネして、ホントすまなかったな。」

「ううん、アタシの方こそみんなにいろいろ…心配かけて。みんな、今夜どんな思いで来てくれたか。おばちゃんも写真を撮ってくれたか。ミッチがどんな気持ちで助けてくれたか。ホント、嬉しい。ミッチ、ありがとね。」

アイヴィーは真っすぐ前を見ながら言った。

「俺だけじゃないよ。松下のおばちゃんもゴンも…。」

「ショージもジャッキーも、それから他のみんなも。分かってる。」

「シンのためだしな…。」

「分かってる。シンのため。そして、アタシのため。いつもそうだったよね、ミッチは。」

その口調に、俺はいつもと違う響きを感じ取った。

「常に誰かのために気配りしてくれるミッチ。頼りになるミッチ。でも、アタシとシンはその中でいつも特別扱いだったよね。」

「俺は…。」

「ミッチ。アタシね、今だから言うけど…最初の頃、ミッチに惹かれてた時もあったんだよ。」

俺は思わずアイヴィーを見つめた。アイヴィーはまだ前を向いていた。

「アタシとシンは出会うべくして出会ったと思うよ。でも、それは結果としてそうなった話だから…あの頃に別の道があったなら、それがハッキリ示されていたなら、アタシが選んだ人はシンじゃなかったかもしれない。」

今まで考えたこともなかった。

アイヴィーが俺を想ったこともあったなんて。

「ミッチにはミッチの考え方、やり方があって、それは人それぞれだから。アタシにはマネできないし、いつもいつも“すごいなー”と思ってるよ。」

「そんなこと…。」

「そのままのミッチが、ミッチらしくていい。だけどミッチ、ときどきとっても苦しそうに見えるから。だからさ、アタシとしては…今までのお礼と、今夜のお礼にね。」

そう言ってアイヴィーは立ち上がり、俺に向き直った。

「ミッチがもっと自由になれる、おまじないをしてあげるね。」

そう言って、アイヴィーは俺の頬を両手で挟み込んだ。

俺は思わず目を閉じた。

アイヴィーの柔らかい唇が、俺の額に触れた。

俺の顔を挟んだ手も、俺の頭に落ちかかる髪の香りも、おでこに当たるキスの感触も、すべてが優しかった。

どれくらい、そうやっていたんだろう。

俺は目を開けた。

アイヴィーはいなくなっていた。

俺の革ジャンを目の前に残して。


俺は座ったまま動けない。

寒さは気にならなくなっていた。

長い間、そうやって俺は座っていた。

ポケットからサングラスを取り出し、目を覆う。

流れ出る涙を隠すために。

アイヴィーは、知っていた。

いつからだろう。彼女はすべて知っていたんだ、俺の気持ちを。

何も分かってないのは俺の方だった。

そう。俺は苦しかった。今までとても苦しかった。

俺はいつも感じる前に考えてきた。そこから導き出される答えはだいたい正しく、周りのみんなに配慮して、安全で筋の通った道だった。

その隣には常に、踏み分け道もない荒れた地面を全速力で走り抜けるアイヴィーとシンがいた。

俺は二人が心底うらやましかった。いつもそうなりたいと願い、そしてなれなかった。

だから俺はそんな二人に惚れた。

そして、それでも二人に近づけなかった。

俺はアイヴィーに恋をした。そして思いを遂げられなかった。それはシンがいたからとか、俺なりのスタンスがあったからじゃなくて、俺が臆病だったからだ。

運命だから仕方ないとか、ここで引いた方がいいとか、シンと争うつもりはないとか。

もっともな理由を百も二百も並べて、俺はアイヴィーへの想いにフタをした。それでも大きすぎる気持ちは“出してくれ”と叫び続け、それは俺を長年苦しめていた。

俺はシンと本当の仲間になりたかった。そして自ら線を引いていた。

松下のおばちゃんに駅で言われたことを、俺は何度も何度も考えた。そして、今やっと本当の意味が分かった。

俺はシンとうまくやっているつもりだった。それは間違いなかった。

でも、本当の仲間に「うまくやる」必要なんかなかった。

不器用でもいいから本当の感情をぶつけ合って時には喧嘩をしたり、それで十分なんだと。

シンはずっと待っていたんだと思う。俺が踏み込んでくるのを。俺が腹の底を見せてくる瞬間を。

でも俺はシンの性格を気遣うふりをして、それを避けてきた。だからシンも何も言わなかった。

シンが俺に言わないんじゃない。俺がシンに言わせなかったんだ。言わせないくせにシンが踏み込んでこないことに苛立ち、また苦しんでいた。

そうだよ。俺は恐かったんだ。

自分の感情を優先して、そのために何かが壊れてしまうことを。傷つくことを。元に戻らないことを。

そんな俺をアイヴィーは否定しなかった。そして彼女なりのやり方…唇のおまじないで、俺の心を縛っていた呪縛を解き放ってくれた。

もっと自由に。

俺は俺だ。俺らしく考え、行動すればいい。

ただ、本当に大事な感情には嘘をつかないで。我慢する必要なんかどこにもない。

感情は嵐だ。嵐が過ぎれば土台が残る。もっと頑丈で強い土台が。

時には何かが壊れることもある。何かが始まることもある。

それは恐れるようなことじゃない。

そうだ。前へ進もう。

俺らしく進んでいこう。

俺は立ち上がった。雪がチラチラと舞い始めた高円寺。

アイヴィーは俺の革ジャンを置いていった。

今ごろは、ギヤで仲間に囲まれ大笑いしているはずだ。

見てろ。

絶対にお前よりいい女を見つけて、俺は幸せになってやる。

そして、シン。

アイツが刑期を終えて出てくるとき、俺はアイツにこれ以上ない本音をぶつけてやる。

そう。一発ぶん殴ってやるさ。話はそれからだ。

俺は少しだけ微笑んだ。そして深呼吸をすると、革ジャンをゆっくりと拾い上げ、高円寺の街を歩き出した。


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