その5
そして俺たちは松下のおばちゃんと出会った。
アイヴィーがライヴハウスに導いた、とてつもないパワーを秘めた60歳の女性カメラマン。
俺は必然的に自分のバンドと松下のおばちゃんを繋ぐ連絡役になった。高円寺のバンドマンにとって、松下のおばちゃんは徐々に心の拠り所、何でも話せるお母さん役になっていったが、それは俺も例外ではなかった。
ただ、アイヴィーやゴンのように親密に、とまではいかず、俺は俺なりの距離で、しかし敬意を払って接していた。
「ズギューン!」のレコ発で松下のおばちゃんが撮影した写真が新聞に載り、そこからアイヴィーと「ズギューン!」は上昇気流に乗った。
一方、同じ日に松下のおばちゃんを喧嘩に巻き込み負傷させたシンは、どん底まで転げ落ちていった。
それはギヤへの出演をあからさまに嫌がることから始まった。あの日以来、シンはギヤに顔出しをしなかった。
それでもどうしても断れない企画があり、俺たちはギヤ出演を決めた。
その日、シンは初めてライヴをすっぽかした。
ライヴの途中で客と喧嘩をしたり、気に食わないことがあって途中で出て行ってしまうことは今までもあった。
しかし最初からライヴに来ないのは初めてだった。
俺たちのバンドはギターが2人編成なので、それでもライヴをやれないことはない。中途半端ながらも、何とか演奏を終えた。シンにもその打算があったのかもしれない。
シンがライヴに来ない日は次第に増え、スタジオも欠席が目立つようになった。他のメンバーたちのいら立ちは日に日に募り、俺はシンの代わりに何度も責められた。
シンに直接意見するやつはいなかった。
とはいえ、それは俺も同じ。何を言えばいいのか、今回ばかりは俺にも分からない。説教をすれば怒り狂うだけだろう。怒鳴り合えばおしまいだ。結局いつも通りに接する以外になかった。
松下のおばちゃんも心配してくれていた。
「アタシ、シンちゃんと話してみるわよ。」
おばちゃんはそう言って、実際にシンと話したようだ。何を言ったのかまでは知らない。
だが、松下のおばちゃんの言葉もシンには届かないようだった。事態は何も変わらなかった。
俺はアイヴィーが何を思っているのか知りたかった。
「ズギューン!」はこの数ヶ月の間に、高円寺ギヤの枠をはるかに超えて広い世界に飛び出すバンドになっていた。なかなか会う機会も少なく、連絡を取るのもはばかられた。
それに、何といっても二人は一緒に暮らしているのだ。アイヴィーは俺以上にシンのことを心配しているだろう。
ただ、同じ屋根の下にいても二人の立場は以前とは大きく変わってしまった。
俺は知っている。レコ発の日の出来事は、単にものごとが変わる「きっかけ」に過ぎなかったことを。
その前から、シンはアイヴィーに対してある種の「焦り」を感じていたように思う。
初めて高円寺にたどり着いた、何も知らない田舎の女の子。シンはシンなりの方法で、その子…アイヴィーを引っ張り上げた。最初はそれが自然な関係だった。
そしてアイヴィーは今、シンのはるか先を走っている。
シンはシン。アイヴィーはアイヴィー。それぞれの方法でそれぞれの音楽を、生き方を貫いていけばいい。理屈では分かっているはず。
それでも、希望に満ちあふれキラキラと輝くアイヴィーが、シンにはずいぶんまぶしく見えていたはずだ。ずっと二人のそばにいた俺には分かる。
俺自身、アイヴィーがまぶしくて仕方ないのだから。
とにかくシンは自分で立ち上がらなければならないし、手を貸せるのは恐らくアイヴィーだけだ。結局、最後は二人の問題。俺は見ているしかない。
それでも俺は、無性にアイヴィーと話がしたかった。
深夜、電話が鳴った。
「もしもし、ミッチ?」
「アイヴィー。どうした?」
「仕事中じゃないの?」
「今日は休みなんだ。何かあった?」
「ああ良かった。ねえ、シンと一緒じゃなかった?」
ここ数日感じていた胸騒ぎの理由が分かった気がした。
「いや、一緒じゃなかった。ここ2日間、連絡を取ろうとしても、つながらないんだ。」
「アタシも。家にも帰ってこないし、誰も姿を見てないって。」
「今までにこういうことはあった?」
「ううん、ライヴで帰ってこないとかはあるけど…1日すれば何かしらの連絡はつくはずだから。」
「アイヴィー、今どこ?」
「家。今からギヤの方まで行こうかと思ってる。」
「俺も行くよ。」
「いいの?」
「アイツはお前の彼氏かもしれないけど、俺にとっても大事な相棒だ。」
「…ミッチ、ありがと。」
俺は電話を切って、上着をひっつかむと外に飛び出した。
アイヴィー、松下のおばちゃんと一緒に高円寺の思いつく限りの場所を探し回ったが、夜が明け始めてもシンの姿はおろか手がかりすら掴めなかった。
途方に暮れたまま、俺たちはアイヴィーとシンのアパートの前まで戻ってきた。松下のおばちゃんは帰り、俺たちはアパートの前に座り込んだ。
「こんな時に何だけどさ…メジャー、行くんだってな。アイヴィー、おめでとう。」
「あ…うん、ありがと。」
アイヴィーは疲れた様子で赤い髪をかき上げた。
彼女が「ズギューン!」を離れてソロで大手レコード会社からデビューすることは、ゴンから聞いていた。
アイヴィーの実力なら心配いらない。初めて会った時から彼女の輝きに魅せられてた俺が言うのだから。「ズギューン!」のメンバーも応援しているし、高円寺の仲間も同じ気持ちだろう。
ただ、これでアイヴィーが完全に高円寺から消えてしまうことに一抹の寂しさを感じていた。
そこにシンの失踪だ。こんな日に限って。
いや、こんな日だから…なのか、シン?
「アタシ、やっぱりそれどころじゃないよ。」
不意にアイヴィーが発したひと言で、俺は我に返った。
「何のこと?」
「メジャーだよ。シンがいなくなっちゃったのに、悠長に自分のことを考えていいのかなって。」
アイヴィーの声は疲れ切っていた。
「アタシ、ここ最近ずっとシンが感じてることに踏み込めずにいた。全然バンドの話もしなくなったし、アタシの状況をどう思ってるのか、何も言わないし…。」
「…。」
「シンが消えちゃったのはアタシのせい。どう考えても、そんな答えしか出てこないんだよね。いまアタシが向こうに行っちゃうのは、シンを見捨てることになるように思えてさ。」
「アイヴィー、それは違う。」
思わず口調が熱くなった。アイヴィーもこっちを振り返った。
「シンはたぶん自分の考えでいなくなったんだ。事故なら今頃どっかで騒ぎになってる。シンにはシン自身の問題があって、それはお前にも解決できない。」
「ミッチ。」
「そりゃ、シンが失踪したのはお前のことも多少関係があるんだろう。大いにあるかもしれない。じゃあ、お前がメジャーを諦めてシンを探し出したら、シンはハッピーなのか?逆じゃないかな。さらに自分を責めるだろうな。お前の夢を潰した自分をな。」
アイヴィーにここまで強く何かを言ったのは初めてかもしれない。彼女はじっと聞いていた。
「お前はお前で、自分の道を進まないと。その先にしか二人の問題を解決する方法はないと思う。」
「そうだよね…。」
「それにお前が有名になれば、それだけシンがどこかでお前を目にする機会も増える。それはシンのためでもあるんだ。」
「…ミッチ、ありがと。」
空はすっかり明るくなった。俺はこわばった身体を伸ばす。
「それに俺も、お前がメジャーで歌う姿を見たいよ。」
紛れもない本音。これ以上ない本音。
俺も疲れてるんだ。
「うん。」
一晩中張りつめていたアイヴィーの顔が少しだけ緩んだ。その顔を見られただけで、俺には十分だった。
「じゃあ、俺も帰るわ。」
そう言って俺は立ち上がった。
アイヴィーが俺に抱きついてきた。
思いがけないことだった。
「ミッチ、本当にありがとうね。一晩中一緒に探してくれて…心強かったよ。」
アイヴィーは俺の背中に両腕を回してつぶやいた。
アイヴィーは感極まると、誰彼かまわずよくそういうことをする。彼女にしてみれば自然な行為なんだろう。
ただ、俺は今までそういうことをされたことがなかった。アイヴィーが感情的な時も、俺はいつも冷静だった。今までは。
俺のさっきの言葉が、彼女の気持ちのどこかに触れたんだろうか。
「シンのことは任せておけ、俺が必ず見つけ出すよ。アイヴィーは自分のできることを精一杯やればいい。」
俺は自分の感情を強く自制し、シンとアイヴィーを気遣う言葉に終始した。片腕をアイヴィーの背中に添え、ポンポンと叩く。それ以上はためらわれた。
もし俺が同じように両腕を回したら…たぶん俺は自分を保てないだろう。
そんな自分にやや嫌悪感を覚えながら、俺はアイヴィーと抱き合った。




