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その4

「俺、引っ越すからよ。」

リハーサルの休憩時間。スタジオの片隅でシンが俺に告げた。

「高円寺を離れるのか?」

「いや、それはねえけど。少し広いとこがいいから、駅から遠くなる。」

「そうか、了解。」

デモ音源やライヴでの忘れ物などを、俺はシンの家に届けに行くことがある。シンなりに気を遣って教えてくれたんだろう。彼にとっては連絡事項に過ぎなかった。

でも、俺はどうしても、その理由を聞かずには…。

「なに、同棲でもすんの。」

「おお。」

「アイヴィー?」

「おお。」

いつものシンらしくなく、少し恥ずかしそうな態度。

やっぱり。

判決は下った。不思議と俺は冷静だった。

そんな気は前からしていた。

俺たちの出会いから数ヶ月。アイヴィーとシンの距離が徐々に縮まっていくのは感じていた。

気がつくと、いつも二人一緒にいる。

あからさまにベタベタはしないが、アイヴィーはシンの粗野な態度にいつも絶妙なツッコミを入れ、シンはそんなアイヴィーを適当にあしらいながらも妙にリラックスしていた。二人は実に自然だった。

実際、ギヤ界隈でも「最近、シンが少し丸くなった」という話は話題になっていた。

いま思えば前兆もあった。

アイヴィーとゴンとスタジオに入る少し前、あるライヴで、シンが「先に帰る」と言って出て行ったことがあった。

あの時、確かアイヴィーも姿が見えなくなった。

今の今まで、気にも留めていなかったが。

「シン、良かったな。」

俺はシンの肩をポンと叩いて、返事を待たずにその場を離れた。

そう、シンとアイヴィーは誰もが認めるお似合いの二人だ。

シンと張り合うつもりもないし、何かを壊してまでぶつかるつもりもない。何より、俺が入り込む余地は全くなかった。

俺は赤いヒモの端をそっと手放した。


俺は新宿にある飲み屋…バーみたいなところでアルバイトをしている。落ち着いた雰囲気の店だ。

シンとアイヴィーの同棲の話を聞いた夜もアルバイトだった。俺は冷静だったが、かといって普通でいられる気分でもなかった。

ときどき、店に来る女性の一人客から声をかけられる。嬉しいけど、普段は誘われても乗ることはない。

その夜、声をかけてくれた客は少しアイヴィーに似ていた。

流されるままに仕事が終わった後にその子と街へ飲みに出て、流されるままにホテルへ行って抱いた。

翌日、起きるとその子から「付き合ってほしい」と言われた。

朝日の下で見ると、その子は全然アイヴィーに似ていなかった。

このままアイヴィーへの気持ちを吹っ切って、俺は俺で幸せになる。一瞬、それも悪くないんじゃないかと思った。

アイヴィーに似ている似ていない、そんな理由で?

それこそ、この子に失礼だろ。

女はオモチャじゃない。

俺は丁寧に、優しく断った。彼女は納得していたようだ。

そして、俺はまたどうしていいか分からなくなった。


それでも俺は、アイヴィーへの思いを忘れようとしていた。

相棒のシンの彼女だという事実はどうしようもない。バンドを続ける以上、二人と離れることはできなかった。俺は可能な限り「仲間として」アイヴィーと接した。

しばらくは俺もアイヴィーとゴンのスタジオに付き合ったが、そのうちにショージが、そしてジャッキーが加わり、俺の出番はなくなった。

それでもギヤに行けばアイヴィーの姿がある。そんな状況にも徐々に慣れ、心は落ち着いていった。はずだった。


「ズギューン!」のデビュー・ライヴ。慣れ親しんだ高円寺ギヤの、何でもない平日のブッキングだった。

バンド名はアイヴィーから聞いていた。

「お前ら全員、撃ち抜いてやるぞ!って感じ?それで、ちょっとバカバカしい響きなの。いいでしょ?」

アイヴィーはそう言って笑った。俺が「アイヴィー」の名前を聞いた時みたいな笑顔だった。

俺はフロアの真ん中、やや前方に陣取り「ズギューン!」の出番を待った。

平日、出演時間も早い。出演者を除けばまだ客は少なく、そのほとんどがフロアでの雑談に気を取られていた。

コイツら全員、今にど肝を抜かれる。

俺は一人でほくそ笑んでいた。

セッティングを終えた「ズギューン!」は楽屋に引っ込むことなく、ゴンがギターをかき鳴らしブレイク一発!アイヴィーがマイクに向かって吠えた。

そこにいた全ての人間が、弾かれたようにステージに目を向けた。

恐らく一番驚いたのは、俺。

予想以上だった。

俺がセッションに参加していた時、まだそれはバンドではなかった。アイヴィーの歌は卓越していたが、それだけだった。

「ズギューン!」となった4人は、粗さも含めて各自のポテンシャルを見事に組み合わせ、「パンク・バンド」として仕上がっていた。

そして、その中心に存在するアイヴィーの圧倒的な存在感!もう彼女は単なるシンガーではなかった。

彼女はまさに、パンク・ロッカーだった。

叫び吠えるような歌い方でも、声の強さ・繊細さ、芯の太さがヒシヒシと伝わる。凡百のヴォーカルとはまったく違う、彼女だけのオリジナリティー。

歌うだけでなく、ステージを所狭しと動き回り、ジャンプし、目をひん剥き、挑みかかるような表情を浮かべ…。

アイヴィーから目が離せなくなっていた。ゴンやショージ、ジャッキーが絶妙のプレイでアイヴィーの歌を光らせているのは分かる。それでも、俺は…。

手のひらにじっとりと汗がにじんできた。唇がやたら渇く。

気づくと、バラバラだったフロアの客が最前列に押し寄せていた。決して多い人数ではなかったが、彼らは貴重な証人となった。

高円寺を代表するパンク・バンド誕生の証人だ。

俺は最初と同じ位置に立ち尽くしていた。動けなかった。

なんてこった。

俺は、「ズギューン!」のヴォーカリストとしてのアイヴィーにも恋をしてしまった。

せっかく、忘れられそうだったのに。

気持ちを押し殺していた分、いちど想ってしまうともう止められない。俺は途方に暮れてしまった。

一体、どうすりゃいいんだ。

シンはビールを片手に、フロアのあちこちを徘徊していた。

なぜかステージには集中していなかった。俺にはシンがイライラしているように見えた。


「ミッチ!観てくれた?」

アイヴィーが向こうからやってきた。顔は紅潮し、まだ息が荒い。目はキラキラと輝いていた。握手のために握った手は柔らかく暖かかった。

「いやあ参った。すごいよ、言葉が出ない。」

それはある種の本音だった。もし今夜のライヴの素晴らしさを語り出せば、恐らくそれ以上の想いを伝えてしまうだろう。余韻が覚めないのは俺も同じだ。

「ホント、『ズギューン!』の陰の功労者はミッチだよ。ミッチがいなきゃ、アタシは今夜ステージに立ってないもん。」

「そんなことないよ、すべてタイミングだから。アイヴィーなら、自力でどうにでもできたよ。」

「いやいや!頼りにしてるよ、ミッチ。」

アイヴィーの何気ない称賛が心に突き刺さる。彼女の手のぬくもりが忘れられなかった。

「ねえ、シンどこ行った?」

「さっき外に出てった。会ってないの?」

「ううん。戻ってきたら楽屋にいて、声をかけたら『初めてにしちゃ、まあまあだな』だって。シンらしいよね。で、気づいたら消えちゃったから。ま、いいけど。」

先ほどのシンの姿がやけに引っかかった。さらに言葉を続けようとした時、後ろから興奮したパンクスがアイヴィーに話しかけてきた。

あっという間にアイヴィーは仲間たちに囲まれた。

「ズギューン!」は大丈夫だ。すぐに高円寺界隈で、その名を知らぬ者はいなくなるだろう。

ふと見ると、ゴンが隣に立っていた。俺たちは無言で拳を突き合わせた。

俺の視線はまだアイヴィーに注がれていた。


俺は自分が一番得意なことをした。

つまり、冷静になって状況を見極め、待つことだ。

しかし、いくら待ってもアイヴィーに対する自分の感情をどうすべきか、その答えは見えてこなかった。

そのまま、2年近くの月日が流れた。


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