祭りの夜
その夜は、浦河の町をあげての盆踊り大会だった。
用意してもらった浴衣を着て、しかし綾乃は、踊りの輪には加わらなかった。
中央に建つ櫓の上では、上半身裸の鏡成太郎が太鼓を打ち鳴らしていた。バチが躍るたびに、玉のような汗が飛び散る。その音には、空間に響き渡るような清澄さとともに、心の奥底から奮い立たせられるような力強さがあった。
音頭が高揚すると、踊りも熱くなる。踊る者たちの興奮は、音頭を奏でる者たちに伝播する。渦巻くようなエネルギーの集積を感じながら、綾乃はシャッターを切った。
「綾乃どの」
聞きなれたレオポルドの声がした。彼は、テレビや演劇で有名な役者のコスチュームかと見まがう、黄金色の浴衣を着ていた。似合ってはいなかったが、黄金とレオポルドは妙に釣り合って見えた。
「そなたは、踊らぬのか」
綾乃は、はいと頷く。
「写真家は、常に被写体との距離をわきまえているので」
「なるほど。芸術家には計算高さも必要というわけだな。だが、この熱狂と交わらずに、それを他人に伝えることができるものなのか?」
レオポルドの問いが、初日にコトリから投げかけられた言葉と重なる。
『あなただからこそ撮れる風景があるのではないか』
あたしが写真で伝えたいこと、それは、被写体が持っている「意味」であるはずだ。
「交わるのではなく、理解することが必要なんです。目の前にあるものがなんなのか、それがわからなければ、誰かに使えることなんてできないから」
なにかを納得したようにうむと頷いてから、レオポルドは綾乃の手をとった。
「そなたのようにな、聡明で強い女は得難い。だが、ときには堅苦しいことを抜きにして、心から素直に楽しむことも大事だぞ。せっかくの祭りだ。さあ、余とともに踊ろう。これは王の命令であるからな、拒むでないぞ」
その言葉には、威厳とともに優しさがあった。その手には、強い力とともに温かさがあった。もしこの人物が為政者なら、きっとその国の民は幸せにちがいない。
綾乃はレオポルドに礼を告げると、ヨーロッパ式のカーテシーで誘いに応じた。
「そのように畏まらずともよい。言ったであろう、そなたのような女は得難い、とな。ときにそなた、だれぞ……」
なにかを言いかけたレオポルドを、わざとらしい大きな咳払いが制した。マックスだった。レオポルドはやれやれという表情で、かぶりを振った。
「またか。いったい何度、余の恋路を邪魔すれば気が済むのだ。だいたいだな……」
未練がましく言い募るレオポルドの黄金の浴衣が、マックスに引っ立てられて踊りの輪の中に紛れていった。
盆踊りが終わったあと、綾乃はひとりで岩風呂に浸かっていた。
近くの草原からは虫の声が、遠くからはかすかな潮騒が風に乗って聞こえてきた。
「おじゃまします」
自然のかそけき調べに、ふたつの女性の声が重なった。コトリとダンゴだった。
長湯をするつもりはなかったから、綾乃は立ちあがってバスタオルを胸に巻きつけた。髪の先から肩口に滴った雫が、腕を滑り下りて指先に留まったあと、ぽとりと湯船に落ちた。
「ねえ、ちょっとお話し、しようよ」
ダンゴの声がして振り向くと、好奇心を浮かべた眼差しが綾乃に向いていた。
綾乃はバスタオルを外して、再び湯船に身を沈めた。胸に張り付いていた二つの重みがなくなり、無垢の白い双丘が押しのけた湯が水面を乱した。
「綾乃ちゃんは、彼氏とかいるの?」
ダンゴの問いかけに合わせて、コトリも遠慮がちな視線を投げてきた。
「たぶん、いないと思います」
綾乃のあいまいな答えに、コトリがぽつりとつぶやいた。
「いつも、なにかに追われているみたい。だから?」
綾乃は舌を巻いた。ほんとうにこの人は、鋭いところを突いてくる。
「はい。やらなくちゃいけないことや、やりたいことがありすぎて。今は、恋愛をしている時間なんてないんです」
綾乃がそう答えると、コトリは穏やかな微笑みを浮かべた。
「でも綾乃ちゃん、なんだか……」
コトリの唇が、その言葉を紡いだ。
「――」
綾乃は、はっきりと答えた。
「――」
白樺の疎林を抜ける径を、綾乃は足早に歩いていた。
腕時計を見ると、日付は八月十四日に変わったばかりだった。
二日間にわたる厩舎での仕事は終わり、昨日は朝から襟裳岬の観光と帯広の花火大会を見物しに出かけた。花火大会で盛り上がったあと、一緒に過ごした仲間たちは、三々五々と離別していった。
厩舎に戻った人々も、余韻を楽しむように静かに過ごしていた。
けれど綾乃には、どうしても今日このときに、やっておかなければならないことがあった。
足元を照らす懐中電灯の光だけを頼りに、綾乃はシルエットになった疎林を歩く。やがて、径は林を抜け出して、凪いだ草原に出た。海から吹きあがってきた夜風が、綾乃の短い髪を撫でていった。
ふりあおぐと、漆黒の夜空に満天の星々が瞬いていた。西の空には、夏の大三角が見える。綾乃の心の奥が、きゅっと締め付けられた。
綾乃は三脚を立てて、OM-1を夜空に向けて据え付けた。
まるでそれを待っていたかのように、夜空に光の矢が走った。
カシオペア座のW型のアステリズムに近い、ペルセウス座のあたりから放たれた光の矢は、あるものは天頂に向けて走り、あるものは地平線に向けて落下するように消えた。
同時に、スマートフォンの液晶画面が光って、メッセージの着信を知らせた。
『ともゆき:京都SOS。雲が多くて条件悪い。でも意外と多いね。残り福かな』
『しおり:三鷹SOS。こちらも観測を始めました。雲もあるし空も明るいので、あまり見えません』
やや遅れて、三つめのメッセージが届く。
『ありす:朝陽北高校SOS。観測をはじめました。この雲と弥生ちゃんを、なんとかしてください』
綾乃もスマートフォンでメッセージを送る。
『こちらニューヨークSOS。今は夏休みで、北海道にひとりでいるよ。こっちは最高の条件だから、あたしの写真、期待していてね』
わずかな間があって、みっつのメッセージがほぼ同時に届いた。
『ともゆき:え』
『しおり:どうして北海道?』
『ありす:……』
三者三様の反応に、綾乃は声を上げて笑い、そのまま草原に寝転んだ。
そういえば、彼はよくこうして、なにをするでもなく夜空を見上げていたっけ。
綾乃は、夜空に手を伸ばした。その指先を、一筋の流星がかすめていった。
幼馴染と一緒に流星に掛けた願い事が、あざやかによみがえった。
急に胸が苦しくなり、視界が滲む。零れ落ちそうになるものをこらえるために、綾乃はぎゅっと目を閉じた。
この気持ちはなんだろう。あたしは、いったい、どうしてしまったんだろう。
コトリは言った。
『寂しそうだよ』
あたしは答えた。
『そんなことないです』
けれど……。
不意に、しかし、あまりにも自然に。綾乃は、それに気づいてしまった。
かすかな吐息とともに、独り言がその艶やかな唇から漏れ出す。
「なんだ、そうだったんだ」
わかってしまえば、それはとても当たり前のことだった。そして、そうであるなら、やるべきことは決まっていた。
綾乃は、伸ばした手で夜空の星を掴むように、ゆっくりと身体を起こした。
スマートフォンの電話アプリを起動する。バッテリーの残りは、もうわずかだった。
なんだか、あたしらしくないけど……。
リストから選んだその番号をコールする。ルルルルという、柔らかな呼び出し音が聞こえてきた。
震える胸に手をあてて、綾乃は思った。
こんな夏休みも、いいよね。