浦河夢現
相川厩舎に着いた一行は、他の参加者とともに、盛大なウエルカムパーティで歓待された。
厩舎の主人である相川長一郎と重奏の夫妻の挨拶から始まり、簡単なオリエンテーションなどがあって、参加者たちの自己紹介が行われた。
すでに知り合いになっている、正志と千絵、レオポルドとマックス、ナギとミツルのほかにも、たくさんの個性的な参加者がいた。
大型バイクのタンデムで北海道を回っている、コトリとダンゴという愛称の女性たち。富山享志、杉下萌衣、相川真という高校の同級生の三人組。レイモンド、リーザ、そして「詩人」と自称する、エキゾチックな三人組。太鼓の名手である鏡一太郎という老人と、その孫の成太郎。青春18きっぷを使ってやってきた、幸生という名の大学生。かじぺたさんという女性は、参加者というよりはこの厩舎のスタッフのようだった。
自己紹介が終わると、あとは飲めや歌えの大騒ぎになった。
パーティの翌朝から、厩舎での仕事が始まった。
事前に下調べをしていた綾乃は、ある程度の覚悟はしていた。しかしここでの仕事は、すくなくとも綾乃たちにとっては、かなり割のいいものだった。
朝が早く、女性でも関係なく力仕事や汚れ仕事が回ってきたが、他の女性たちも楽しそうに働いていたし、なによりも男性たちが積極的に力を貸してくれたことがありがたかった。
そして、ひと働きすれば、新鮮で良質な食材を惜しげもなく使った食事と、のんびりすごせる時間と、開放的な露天岩風呂という楽しみが待っていた。
初日に綾乃に割り当てられたのは、バケツで飼料を配る作業で、ミツルとナギが同じ仕事に当たっていた。ミツルはずいぶんと張り切っていて、綾乃の受け持ち分まで手伝ってくれた。
思ったよりも早く終わりそうで、うまくいけば、ほかのチームが働いているところを撮影できるかもしれない。そう思った綾乃は、つい急ぎ足になった。だから角を曲がった先にミツルがいることを、すっかり忘れていた。
出会い頭の正面衝突だった。大柄なミツルの体躯は、綾乃にとっては頑丈な壁のようなものだった。短い悲鳴とともに弾き飛ばされて、綾乃は大きく身体のバランスを崩した。
倒れると思った瞬間、身体が重力から解放されたように浮遊した。自由落下よりあきらかに遅い速度で地面が近づいてきて、運動エネルギーの存在を無視するようにふわりと着地した。まともに転倒したとは思えないほどに、身体のどこにも痛みはなかった。
いろんな意味で、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
「大丈夫ですか?」
遠慮がちに差し出されたミツルの手が、一瞬、幼馴染の手に見えた。助け起こされた綾乃は、ミツルに頭を下げた。
「ごめんねミツルくん。それと、ありがとう」
そんな綾乃とミツルの姿を、穏やかな微笑みを浮かべたナギが、すこし離れたところから見ていた。その口がかすかに動いて、よかったね、と告げたように見えた。
二日目の夕方、仕事を終えた綾乃は、カメラを持って牧場の柵の外まで足を延ばした。
夏の陽は西に傾き、空は朱色を残した黄昏だった。
牧草を食む馬の姿を撮影しながら歩く綾乃の前を、いつの間に現れたのか白いシャツを着た少年が歩いていた。厩舎に着いて早々に知り合った高校生、相川真だった。
真は、ヘテロクロミアの持ち主で、人物写真にはあまり興味がない綾乃でも、モデルにしたいと思うほどの雰囲気を発散させる少年だった。
だがそれ以上に、真が宇宙工学を志していると聞いたことで、綾乃は親近感を覚えた。しかし、それはどうやら一方的なもののようだった。アメリカ留学を勧めた綾乃を眩しそうに見たあとで、馬たちと生きていくことも考えているのだと、真は静かに告白したのだ。それは生半可な覚悟ではないと、あのときの彼の眼差しは雄弁に物語っていた。
綾乃は、もういちど真と話がしてみたいと思っていた。
声をかけようとしたが、真は、ふわふわと揺れるような歩みで、牧場の外れにある白樺の疎林に入っていった。
あとをついて行くと、足もとが暗いにも関わらず、獣道のような細い径を迷いのない足取りで歩いていく。やがて道はゆるやかな登り坂になった。まるで綾乃に歩調に合わせてくれているかのように、真の足取りもゆっくりになる。径が疎林を抜け出すと、突然のようにその場所に出た。
南に向いて開けた緩やかな斜面を、丈の短い緑の夏草が覆った草原だった。草原の尽きた先は海に落ち込む崖になっていて、繰り返す波の音が風にのって綾乃の耳に届いた。
そこで綾乃は、思いがけない光景を見た。
どこから現れたのか一頭の大きな馬が、真と仲良さそうに並んで立っていた。海を見ているのか、空を見ているのか、少年と馬は、ただ静かにたたずんでいる。
それは、あまりに美しく、そして儚げだった。
いま、なにかでつなぎとめておかなければ、永遠に失われてしまいそうだった。
けれど、背景の空も海も、黄昏を過ぎて光と色彩を失っていた。西に低くなった夕日も、少年と馬を照らし出すには弱すぎた。
被写体としての条件はあまりに悪かった。シャッターを切っても、あまりいい写真にはならないだろう。だいいち、人を被写体とするなら、事前に承諾を得ないと失礼にあたる。ふたつのネガティブな要素に、綾乃はわずかに躊躇した。
その瞬間だった。
落日の直前の太陽が、海面に光の道を作り、そして少年と馬を照らしてモノクロームの世界のなかに浮かび上がらせた。
一瞬呆気にとられた綾乃は、しかしすぐにEOS Kiss Digitalを構え、電源を入れると同時に、カメラまかせでシャッターを切った。絞りもシャッター速度もピントの深度も、いっさいがカメラ任せだった。カメラの能力を試すような撮影は、たった一コマで終わった。日が陰り、光を失った風景は、ふたたび黄昏の底に沈んでいた。
呆然とファインダーを覗く綾乃の傍らを、一陣の風が吹き抜けた。そして、にゃあという猫の鳴き声がした。気が付くと、もう真の姿も馬の姿もなくなっていた。
さっき撮ったはずの写真を、液晶ディスプレイに表示する。それを見た綾乃の背中が、ぞくりと震えた。
真夏だというのに、肌に感じる風が急に冷たくなった。足もとにじゃれついていた茶トラの仔猫、マコトを抱きあげる。そのぬくもりが、厩舎に帰り着くまで綾乃を安心させてくれた。
夕食のあと、綾乃は真を捕まえて、夕方のお詫びとお礼を告げた。享志と萌衣がなにごとかと見守っていたが、真は怪訝そうな表情で首を傾げるだけだった。
牧場の端にある草原で大きな馬を見かけたことを相川長一郎に話すと、彼は目を閉じて首を横に振った。
「あそこには、ウチの馬たちはあまり近づかねえんだがな。眺めのいいところだが、崖の方には行かんでくれ」
そう告げると、長一郎は「さて盆踊りに行くべ」と言って足早に食堂を出て行った。