青い池にて
『青い池』は、綺麗なコバルトブルーの水をたたえていた。
OM-1で何枚かの写真を撮ったあと、綾乃はカメラをデジタル一眼レフのキャノンEOS Kiss Digitalに持ち替えた。
青い色が出やすいようにホワイトバランスを設定し、思いつくままにスナップ写真を撮っていく。
思っていたよりもいい写真が撮れた。無理をしたが来てよかったと思いながら、綾乃はまたシャッターを切った。
そのときだった。背後から、よく通る男性の声がした。
「そなたは何をしているのだ」
流暢な日本語だったが、その言葉づかいやイントネーションは、日本人とはすこしだけ違っていた。
振り向くと、そこには常識の存在を疑うような、二人の男が立っていた。一人は、オールバックになでつけた長い黒髪を後頭部でひとつ括りにした男で、いかにも意志の強そうな顔つきと体格の持ち主だった。もう一人は、ライトブラウンで自然なウェーブのかかった髪を肩口まで伸ばした男で、髪と同じブラウンの瞳が優美な印象を添えていた。どう見てもヨーロッパ系の人種の男たちだったが、なぜかその身にまとっているのは、アイヌの伝統的な衣装である白布切抜紋衣カパラミプだった。
そのギャップに混乱した綾乃は、話しかけられたのが流暢な日本語だったということより、男たちが外国人だという現実を優先した。
「May I help you?」
英語で答えた綾乃に、こんどは男たちが驚いたような表情を浮かべた。
二人の奇矯な男たちと綾乃のすれ違いは、急ぎ足でやってきた日本人のカップルの仲立ちで解消した。
山口正志と白石千絵と名乗った二人は、爽やかという表現が似合うカップルだった。黒い短髪でオリーブのシャツと黒いカーゴパンツといういでたちの正志は、言動に優しさがにじみ出るような男性だったし、茶色がかったストレートヘアに、コットンのピンクのキャミソールと白いボレロを合わせ、紺のフレアスカートを履いた千絵は、品の良さと真面目さが同居したような印象の女性だった。
綾乃に声をかけてきた二人は、グランドロン王国から来た国王レオポルドと、フルーヴルーウー伯爵マクシミリアンであると名乗った。この二人は、その身なりや言動の奇抜さに加えて、カメラを知らなかったり天体物理学を占星術と混同したりするような、いささか時代遅れな知識と感覚の持ち主だった。正志の説明では、屈斜路湖畔の宿に同宿したことがきっかけで、四人は同行することになったらしい。国連加盟国にグランドロンという名の国家はないから、綾乃は正志たちに事情を聴きたくて目を向けたが、二人は曖昧な笑顔で肩をすくめるだけだった。おそらくは、どこかの王族か貴族がお忍びで旅行をしているのだろう。綾乃は、それ以上の追及はしないことにした。
お姉さん、と呼びたくなるような柔らかな雰囲気の千絵と話をするうちに、一行が綾乃と同じ相川厩舎へ行く予定だということがわかった。こんな場所で偶然にも、同じ目的地に向かう人々と出会うなんて、世間は広いようで狭いものだと綾乃は驚いた。
一行には、他にも同行者がいた。ミツルというナギという名前の中学生の兄弟で、ヒッチハイクをしながら相川厩舎をめざして、偶然通りかかった正志たちと同行することになったのだという。ミツルは、短髪で背が高くどこかしっかりした印象があり、ナギは、柔らかそうな明るい色の髪がふわりとした印象を与える少年だった。
レンタカーにはまだ空席があるので、一緒に乗っていかないか、という正志の誘いは、これから札幌に戻ってもバスに乗れそうもない綾乃にとっては、まさに渡りに船だった。綾乃は、迷うことなく、正志の好意に甘えることにした。
「ぜひ、お願いします」と答えた綾乃を見て、なぜかレオポルドとマックス、それにミツルが嬉しそうな表情を浮かべた。
美瑛駅前でスクーターを返却し、綾乃は正志の運転するミニバンの最後部座席の窓側に乗せてもらった。綾乃の隣、つまり中央には小柄なナギが座り、反対側の窓際にはミツルが座った。二列目に陣取った大の男二名と同席せよ、というレオポルドの誘いは、断るまでもなく物理的に不可能だった。
正志の運転は終始おだやかで、ミニバンの乗り心地もよかったせいか、ほどなくナギがゆらゆらと揺れ始めた。そして、綾乃の肩にその頭がふわりともたれかかってきた。
まだ出会ったばかりだというのに、無邪気に身体を預けて眠るナギを見ていると、もしあたしに弟がいたらこんなこともあったのかなと、綾乃は自分でも驚くほど優しい気持ちになった。そして、そんな気持ちになった自分がどうにも可笑しかった。
綾乃が漏らした含み笑いで、ナギが眠っていることに気づいたらしいミツルは、あわててナギを起こそうとした。綾乃が「このままにしておいてあげましょう」と制すると、ミツルはなぜか残念そうな表情を浮かべて、小声で「すみません」と告げた。
運転席の正志と助手席の千絵は、ことあるごとに優しい言葉を掛け合っている。お互いを思い合う心が、その会話の端々に感じられた。
綾乃はふと、高校まで一緒だった幼馴染のことを思い出した。いつまでも手をつないで歩いていけると思っていたのに、気が付いたらアイツとあたしとでは歩く速さが違ってしまっていた。そのこと自体に後悔はなかった。けれど……。
この速さで歩いているあたしは、もしかしたら、なにかを無くし続けているのかもしれない。
そんな疑問を、綾乃は漠然と感じ始めていた。
富良野盆地を抜けたミニバンは、国道二三七号線をひたすら南下していた。目的地の浦河は、遠くに見える日高山脈の彼方にある。今のスピードなら、到着するのはきっと日が暮れる頃になるだろう。