美瑛の丘
ジョン・F・ケネディ国際空港から成田国際空港を経由して新千歳国際空港に降り立った綾乃は、ターミナルビルの地下に降りてJR北海道のホームに立った。
自動車の運転免許を持っていない綾乃が、浦河にある相川厩舎に行くには、日高本線の大部分が不通になっている今では、いったん札幌に出てから高速バスに乗るのが唯一の方法だった。
だが綾乃は、回り道になることを承知のうえで、旭川行のL特急スーパーカムイに乗り、富良野線に乗り継いで美瑛に向かった。
美瑛は、北海道のほぼ中央部、上川盆地と富良野盆地の間に広がる町だ。広大な丘陵に広がる牧草地や耕作地の風景が人気を呼び、年間百二十万人もの観光客が訪れる北海道を代表する観光地だ。訪れた人のなかには、その風景に惹かれて移住する人も少なくないという。
美瑛駅に着いた綾乃は、駅前のレンタルショップでスクーターを借りた。重い機材を持って広大な丘陵を巡るには、原動機が付いた乗り物は必須だった。
真夏とはいえ、北海道の空気は冷涼だった。風を切るというほどの速度ではなかったが、心地よい風を全身に受けながら、青空にスカイラインを描く丘の風景の中を駆けるのは、それだけで心が躍ることだった。ましてや、そこは綾乃にとって「聖地」だった。
「パッチワークの道」を走り、綾乃は「ケンとメリーの木」に近い駐車場にスクーターを停めた。美瑛の風景を撮れると思うと、綾乃の胸は高鳴った。
しかし、押し寄せる観光客が途切れた一瞬を狙って撮影する写真は、とてもではないが満足のいくものではなかった。被写体に応じた光線の差し込み具合なども、限られた時間で理想を求めることなどできなかった。
「ケンとメリーの木」だけでなく、タバコのパッケージに使われた「セブンスターの木」や「マイルドセブンの丘」も同じだった。
空しい気持ちを抱きながら緩やかな登り坂を走っていると、牧草地の外れに建つアーリーアメリカン調の農舎と小屋が見えてきた。
それは小さなベーカリーで、木の看板を掲げた駐車場には、乗用車が三台ほど停まっていた。
もうお昼はだいぶ過ぎていたから、お腹はすいている。ランチはパンにしようと思い、綾乃は砂利の駐車場にスクーターを停めた。
重いヘルメットを脱ぐと、髪を揺らす風が心地よかった。
白樺が植わった前庭を抜け、可愛らしい造りの木のドアを開けて店内に入る。それほど広くはない店だったが、大きく開いた窓からは、緩やかにうねる畑や牧草地が見渡せた。
木製のテーブル席には三組の客がいて、楽しそうに食事をしている。レストランも兼ねているようで、ランチメニューも充実していた。時を忘れそうな雰囲気が気に入った綾乃は、窓際のカウンター席に座ってチーズフォンデュセットを注文した。
運ばれてきたチーズフォンデュは、天然酵母パンの器にたっぷりと溶けたチーズが入り、ソーセージとじゃがいものほかに、ニンジン、カリフラワー、カボチャ、ブロッコリーにパプリカなどの色鮮やかな温野菜が添えられていた。メインの他に、トマトとサニーレタスのサラダに、ポタージュのスープとアイスティーもセットされていた。
溶けたチーズをまとったソーセージや温野菜が、空腹を満たしていく。天然酵母パンも、もっちりとした食感がたまらなかった。そうとうなボリュームだったが、窓の外に広がる丘の景色が食欲を刺激し続け、気が付くときれいにたいらげていた。
食事でお腹が満たされると、落ち込んでいた気持ちも持ち直した。
あらためてメニューを見ると、店主のメッセージカードが添えてあった。そこには、美瑛の風景に惹かれて二十数年前に移住してきたことが、飾り気のない文章で記されていた。
席を立ち、相川厩舎に持っていくお土産用のパンを買い込んだあとで、綾乃は店内を撮影していいかとレジの女性店員に尋ねた。
女性店員が厨房に声をかけると、エプロンをかけた店主が出てきた。 メッセージの文面から受けた印象のとおり、素朴な印象のする四十台くらいの男性だった。
「素敵なお店ですね。風景にも、自然な感じで馴染んでいるし」
人気のある店のようだから、そんな言葉は何度も聞いているのだろうが、店主はほんとうに嬉しそうな笑みで答えた。
「ありがとうございます。まあ、こうなるまでには、それなりに時間はかかりましたがね……」
カラフルな外観の店が、風景に溶け込むようなたたずまいを得るまでには、相応の時間が必要だっただろう。しかし、店主の言葉には、それ以上の意味が込められているように感じた。
店主は、綾乃が持つフィルム式一眼レフカメラのオリンパスOM-1に目をやると、感心したように言った。
「これはまた、ずいぶんと年代物ですね。驚いたな。若いのに、こんな難しいカメラを使うんですね」
「フィルムカメラを使うのは、あたしのこだわりなんです。いつか、現像から焼き付けまで、自分の手でやりたいから。それでこそ本当に写真を撮ったと言えるんじゃないかと、思っているんです」
「こだわり、ですか。私も昔はバイクのメカニックをやっていましたし、今はこの美瑛の地にも、パンや料理にもこだわりがある。なるほど、よくわかりました。そういうことでしたら、どうぞお好きなだけ撮影してください」
店主は、客を被写体にしないことを条件に、店内の撮影を許可してくれた。
店内をひとわたり撮影したあと、礼を告げて店を出ようとした綾乃を、店主が引き止めた。
「白金の『青い池』が、この時期にしては珍しく良い色を出していると聞いています。知り合いの写真家の話なので、信用できますよ」
『青い池』は、その写真がスマートフォンやノートパソコンの画面を飾ったことで有名になった場所だ。美瑛からは少し離れた白金温泉の近くにあり、綾乃のスクーターなら小一時間はかかるはずだ。しかも『青い池』がほんとうに美しい色を見せるのは、季節、時刻、気象などの条件が揃ったときだけだ。だから綾乃は、今回の目的地からあえてそこを外していた。
だが、店主の言葉を聞いているうちに、行ってみたいという気持ちが強くなってきた。あるいはそのせいで、札幌からの高速バスに間に合わなくなるかもしれない。しかし、風景写真はチャンスを逃したら終わりだ。たとえ一分でも時間がとれるのなら、チャンスに賭けてみようと思った。
情報を提供してくれたことに、あらためて礼を告げて、綾乃は店を出た。地面に落ちる影はまだ短かかった。急げば、光線の具合のいいうちにたどり着けるだろう。
綾乃はスクーターに跨り、『青い池』までの地図を思い描いてからアクセルを開いた。