小論/面倒ということ
「面倒だから、やりたくない」と子どもが渋る。それに対して大人は、「大事なことなのだから、面倒がらずにやりなさい」と言い含める。子どもの言うことも、それに対する大人の対応ももっともなことである。
面倒なことは、本当は大人だってやりたくないものだ。面倒なことを避けたいのは誰だって同じである。
けれど、面倒だからといってやらなければ、生活がルーズになってしまう。そうなれば色々困るから、躾として、大人は子どもに無理にでもやらせようとする。それはそれで間違ってはいない。
ある作業が”面倒”なのは、実は、そのやり方に間違いがあるからだ。作業の中味ではなく、それを実行していくための手立てに、不条理なり無駄さ加減を覚えるからである。それを実行するのに、余分な力と無駄な時間を割かなければならなさそうな恐れを感じるとき、「イヤだなあ」という気持ちになる。その気持ちが、”面倒だ”という表現になって現れるのである。
その作業が有意義で、面白いことだと分かれば、積極的に取り組める。面白いことには時間も労力も惜しまないものだからだ。
有意義で面白いと思えるような方法で取り組めれば、面倒だと思われたことも楽しくなるのである。楽しく取り組める姿勢こそ、物事を完遂する上で何よりも大事だろう。
気が進まなければ面倒になるし、逆に、他人から見て面倒と思えることも、その人にとっては面倒ではないことが結構ある。面倒なのかどうかは、その人の気持ち次第である。
”面倒だ”は、”やりたくない”という気持ちの現れである。”やりたい”と思うことは、決して面倒なものではないのだ。
面倒なことに取り組むことが立派であるとか、努力家であるとか賛美されることがあるけど、そう簡単に決めつけられるものでもないだろう。面倒なことをわざわざ好んでやる必要はない。少しでも楽な方を選ぶのは悪いことでもなければ、また、非難されるようなことでもない。
必要から取り組むのなら結構だが、無駄な努力に過ぎないと感じるようであれば、わざわざ面倒なことをしないで、頭を使ってより楽な方法を探すべきだろう。その方が、むしろ賢いやり方だと言える。正しいやり方は、決して面倒だと感じることがないのだから。
面倒と思うかどうかは、作業の手順が妥当か否かの判断を行う上で、大きな決め手となるものである。
面倒で無駄だと思うやり方は、それこそ間違っている。
より効率的な、あるいは有効な手段がちゃんとあるはずだ。その方法をみつければ、面倒だと思われていた活動が楽しく、有意義なものになるのである。