ラプンツェル 7
胎児を宿す塔を守る結界を破ったゴルデン。
全ての魔力を使い果たし、消えゆく直前に、二人はようやく気持ちを通じ合わせることができた。
結界が破られ守りの魔法を失った塔は、まもなく崩れようとしていた。
その9 ラプンツェル 7
気の遠くなるほどの時間――と、未だ生まれ落ちていないものには思われた――を、この紫の部屋で過ごし、変わらぬ風景ばかり眺めて生きていた。
アーチ形の巨大な窓から見えるものは、あたたかく明るい日差しと緑にきらめく木々たち。蝶や鳥、時折風で舞い上がった花びら――。
青い空にはゆっくりと流れる白い雲。
……その、未だ生まれ落ちていないものは、窓から同じ風景ばかり眺めて生きていた。
待っている人が、いる。
(かあさん、迎えに来て……)
涙を見せることはできない。
「世界」を担う者は、常に静寂で清浄な祈りに満ちていなければならないと「あの方」が言うから。
寂しくはない。ここには温もりがある。
すっぽりと包み込み、全てを守り抜いてくれるような、力強い掌の中で、眠り、目覚め、また眠り――。
この安心感、安定感。
それは「とうさん」の力だと、「あの方」は言う。
「とうさん」に守られている限り、安心なのだと。だから、「迎え」があるまでは、ここにいるべきなのだと――。
それでも時折どうにもならないほどの切なさが全身を襲うことがある。
離れてはならないものから離れているという虚無感。長く時がたつほどに、忘れ去られてしまうのではないかという得体の知れない恐怖。
それから逃れるために、長く伸びた黒い髪を編み続けた。
もう、髪は部屋を二巡りするほどに伸びてしまい、艶のある黒の三つ編みが、丈夫なロープのようだった。
この髪の長さが、待ちわびていた時間の長さ。
(かあさん、早く……)
窓枠に頬杖をつき、変わらぬ穏やかな風景を眺め――その、未だ生まれていないものは前髪に風を受ける。
空を見上げ、穏やかな陽光に目をすぼめ――そして、それを見た。
それを。
突如、紙を破るように空に走った、大きな紫の亀裂を。
目を見開いた時、その亀裂から凄まじい程の紫の閃光が飛び込んできた。
あっと目を閉じ、顔を伏せる。
これまでこの場所を包み、守ってきてくれたものが、今、破壊されようとしていた。
あたりは紫の輝きで埋め尽くされ、わたしは目を開けていられなかった。
バリバリという凄まじい雷鳴が耳を打ち、激しい風が巻き起こる。大量の砂が渦を巻いて躍り上がり、わたしは息をするために口元を覆わねばならなかった。
ようやく砂の嵐が止み、目をくらませるような光が薄れる。
砂まみれになりながらわたしは立ちあがり、乱れた髪の間から目を開いた。
青い空と潮風――非常に低い位置を、鳥がかすめるように飛んだ。目の前で鳥が飛び去るのを見送り、わたしは髪をかきあげ、そして彼の姿を探した。
依然として塔は空に突き立っており、彼は黒の外套を潮風に巻き上げさせながら、立っていた。
掲げていた金のワンズを静かに降ろし、外套にしまいこんでから、彼はゆっくりと振り向いた。
黄金の巻き毛が激しくあおられている。
見え隠れする紫の瞳は、強い輝きを持ってわたしを見ていた。
「ゴルデン」
わたしは名を呼びながら立ち上がり、砂に足を取られながら駆けた。
いつまで彼の魔法が保たれるのか、わからない。だが、時間がないと彼は言ったのだ。
その姿でそこにいてくれる間に、僅かでもいい、彼の温もりを。彼が確かに存在しているという証を――。
息を切らして駆けてくるわたしを、ゴルデンは最初、無表情で眺めていた。
やがて、その表情に穏やかな微笑が現われ始める。ただ強いだけだった紫の瞳に、柔らかな――甘いといって良いほどの――光が宿った。
(間に合え)
わたしは手を精一杯伸ばし、彼に触れようとした。
既に足元から薄くなりかけていた彼もまた、腕を伸ばした。
白手袋の指先をわたしは掴み、彼もまたわたしの手を握りしめ、引き寄せた。
息が、できない――。
背中と腰に回された腕には力が籠められ、痛い程だった。もう逃れることのできない屈強な絆で縛られていることを、わたしは知った。
その香りと温もりと、荒々しい感じを、残らず記憶に刻みつけようと、それだけをわたしは考えた。
わずかに腕が緩んだ隙にわたしは顔を上げ、それと同時に、接吻が降ってきた。
開いた唇から、体内に吹き込まれたものがある。
最後の力を振り絞り、彼はわたしに魔法を贈った。
守りの魔法だ。
唇が離れ、わたしは目を開いた。
薄れゆく彼の顔の中で、紫の瞳が最後まで輝いていた。
やがて彼は消滅し――わたしは一人、砂の中に立っていた。
愕然と――恐ろしい程の孤独に打ちのめされそうになりながら――立ち尽くしていた。
砂が舞い上がり、わたしは我に返る。
(だめだ)
ぐずぐずしていては、ならない。
わたしは目の前の石の塔を見上げる。青空に突き立ち、ここからでは頂点を見ることができないほどの高い塔だ。
今、ゴルデンはこの塔を守っていた結界を破壊した。
ぴし……。
ぴし、ぴし……。
目を見開いたわたしの前で、石の塔の外壁に、ゆっくりと亀裂が入り始める。
穏やかな速度で、それでも確実に、石の塔は朽ち果てようとしていた。
「子よ」
わたしは叫んだ。
木のワンズを掴んで振り上げると、大空に向かい魔法陣を描く。
飛翔の魔法が発動し、潮風に吹きあげられるようにして、わたしは宙を舞い上がった。
(かあさん――)
悲鳴のような響きで、胎児の思念が伝わる。
わたしは腹這いの姿勢で空高く舞い上がり、いくつか薄い雲の膜を突き破りながらも上昇を続けた。
(子よ――)
蔦の這う外壁が続いた。
果てしもない高さを舞い上がり続け、ついにわたしはそれを見つける。
アーチ形にくりぬかれた窓から覗く、美しい娘の姿を。
「かあさん」
娘は悲鳴じみた声で叫び、窓から身を乗り出して片手を伸ばした。
未だ飛翔の舵を取り切れないわたしは、強い潮風にあおられて塔から突き放される。
「かあさん――」
娘は叫ぶと、ふいに何かを掴んで窓の外に投げた。
黒い、つやつやしたロープである。非常に長いそれは、まるで蛇のように宙をうねった。
魔法の力を与えられ、くるくると宙を踊りながら、こちらに伸びている。
容赦なく風にあおられ、しかもまだ上昇を続けていたわたしは、必死に手を伸ばしてロープの先端を握った。そして、そのロープが長くて美しい黒髪でできていることを知った。
三つ編みの髪の毛を手繰り寄せながら、ゆっくりとわたしは塔に近づいた。
アーチ形の窓から娘が体を乗り出しており、紫の瞳を喜びで輝かせている。ぱっとそこだけ光が当たったような、清浄で強い空気に満ちていた。
面影の中に、ゴルデンが生きている。
ついにわたしは窓にたどり着き、転がり込むように部屋の中に飛び込んだのだった。
「こんなに――こんなに」
娘の姿に、わたしは何と言えば良かったのか。
わたしのすぐ目の前で、目を輝かせて見上げている、この美しい娘に。
「こんなに……待たせてしまった」
娘はわたしに抱き着き、頭を肩に乗せて目を閉じた。
これはわたしの子、未だ産まれていない、わたしの胎児――。
急ぎなさい。
そんな声が聞こえてきた。はっと顔を上げると、部屋の中に見覚えのある少女が立っていた。
白いリネンを纏った、金の髪の毛に紫の瞳の世界である。
「塔が朽ちかけているわ。早く――」
静かに世界は言った。
わたしの胎児は、わたしの肩に頭を預けていたが、ゆっくりとそこから身を離した。
そこに立って見守っている世界に向き直り――子は、言った。
「行きます……」
それは、永久の別れの言葉のだった。
毅然とした響きの声、そこには迷いは欠片ほどのない。
湿っぽい感情や未練が込められているよりも、その潔さが深い絆を感じさせた。
かつての師とわたしのように、世界と胎児は教えの絆で結ばれている。
子は今、世界のもとから離れようとしていた。
世界は静かに頷くと微笑み、祈るように手を組み合わせた。
瞬間、部屋は白く清浄な輝きに抱き取られ、次の瞬間、わたしは下腹部に強い衝撃を感じた。
あの美しい娘の姿は既に消えている。
わたしは自分の下腹に、穏やかな温もりがあることを知った。そっと手を当てると、合図するようにうごめきが返ってくる――。
世界はもう一度頷くと、突如その姿を消した。
わたしは自分の足元に亀裂が入るのを見た。ぴしぴしと軽い音があちこちで聞かれ、見回すと部屋の壁にも無数の細かい亀裂が現われている。
天井からは、ぱらぱらと粉が落ちてきて――今この塔は、壊れようとしていた。
卵が割れて、雛が飛び出すように――。
わたしはアーチ形の窓から身を乗り出し、潮風がわたる青い空を見た。
そうしている間にも、ぴしぴしと塔全体に細かい亀裂が回り込んでおり、軽い振動が足元から伝わり始める。
(魔法陣を描く余裕はなさそうだ……)
どうすればよいのか、考えるまでもなかった。わたしは窓枠に足をかけ、そのまま宙に飛び出していた。
すぐさま頭が下になり、体は落下の一途をたどる。
大きな――果てしもなく大きな青空が目の前に広がり、わたしは清浄な風を全身で感じた。
真っ逆さまに落下しながら、木のワンズを青空に向ける。魔法陣を――。
「愛弟子よ」
師の深い声が。
「飛ぶのだ」
ゴルデンの紫の瞳が。
わたしを導いた大魔女たちの声が、聞こえたような気がした。
飛翔の魔法は難なく発動し、頭を下にして落下していた体は軽やかに浮き上がる。潮風が吹いていたが、もうわたしは風にあおられることはなかった。
強い芯のようなものが体の中に出来上がっており、わたしは空中でも自在に舵をとることができるのだった。
これは、胎児の力だ。
下腹に手を当てた時、背後で塔が崩れ落ちる音を聞いた。
振り向くと、天空に突き立っていた石の塔は既に見る影もなく、遙か下の砂の大地では、大きな砂埃が舞い上がっているのだった。
……。
砂の上に降りると、わたしは足を踏みしめて歩き出した。
ざん、ざん……と、青い水が打ち寄せては飛沫を上げている。波打ち際を歩くと飛沫が口に入り、ひどくしょっぱいことに気づいた。
ここは湖ではない――湖の水は、しょっぱくはないのだ……。
わたしは立ち止まり、砂の中に腰を下ろした。
陽光を受けて熱い程の温もりを持った砂は、わたしの腰を抱きとめて癒すように温める。
風に髪をあおられるまま、わたしは打ち寄せる波の遥か向こう、空と水が合わさる水平線を眺め――ふいに、身をねじ切られるような心細さを覚えたのだった。
終わったのだ。
全ては、本当に終わってしまった。
師も、そしてゴルデンまで――。
(これから、どうしたら)
次々に涙が零れ落ちた。
心細さが生む涙である。このような涙を、自分が流すことがあるのかと驚き呆れながらも、わたしは泣き続けた。
今、わたしに必要なものは、無条件の受け入れと励まし、背中を押してくれる温もりだった。
これからどうしたら良いかなど、本当は分かっていることだ。
わたしの使命は一つである。
(大魔女の候補は、未だに見つかっていない……)
これまで東から西へと旅を続けていたが、どの町にも大魔女に相応しい魔女はいなかったではないか。
それならば、わたしはどこへ行けばいいのだろうか。
(あの、水平線の、彼方へ――)
わたしは立てた両膝の間に顔をうずめ、少しの間眠ろうと思った。
酷く疲れており、気持ちが萎えていた。
休みたい、休みたかった。
……。
柔らかな気配とムスクの香りを感じて顔を上げると、そこは砂浜ではなく、見覚えのある異空間だった。
無数の色の粒子が宙を舞い、果てしない程の安らぎが満ちている。それはオパールの空間だった。
さらりと衣擦れの音が近づき、老婆の姿のオパールがうずくまるわたしの側に膝をついた。
穏やかなオレンジの瞳には強い孤独と、その孤独ゆえの温もりが満ちている。全てを包み込むような微笑みでオパールはわたしを見つめると、腕を伸ばしてわたしの頭を抱いた。
わたしはオパールの膝に頭を乗せ、心行くまで泣くことを許されたのだった。
「一人なのです、母よ」
涙が引けてきて、まだしゃくりあげは続いていたが、落ち着いてきたわたしは言った。
オパールよ。
子にして最愛の存在であった、わが師トラメを見送ってから、彼女こそ一人で生きて来た。
何人もの大魔女を選び、見守り、その死を迎えてきたオパールは、穏やかな老婆の姿で自分もまた最後の時を待っている。いつかオパールも消えるのだろう。
そしてわたしは、今度こそ一人になる。温もりのない世界に生き続けなくてはならぬ。
これが寂しさというものであることを、母の膝の上で、わたしは知った。
さみしいという気持ちを、感じたことがなかった。
これは人間の残渣ではなく――わたしの中に出来上がった、新たな結晶なのだった。
しわが刻まれた手が、わたしの頭をなでた。
静かな声で、オパールは言った。
「一人だからこそ、行かねばならないのです、愛弟子よ」
……愛弟子よ。
その懐かしい響きは寂しさで冷たく冷えた胸の中を温めた。わたしは顔を上げた。老婆のオパールは何度か頷き、しわだらけの指先でわたしの涙をぬぐい取った。
オパールは、わたしを愛弟子と呼んだ――。
「するべきことを、しなさい」
……愛弟子よ。
オパールはゆっくりと立ち上がった。
わたしもまた、身を起こし、立ち上がった。
依然として寂しさは残っていたが、思いもよらないものが胸の中に芽生えている。最初はおずおずと、次にはっきりと悟り、わたしは――。
「行きなさい」
オパールの異空間の扉が開き、無数の色の粒子が渦を巻いてわたしを押し出した。
怒涛の激しさではなく、優しく包み込むようなうねりが体を送り出す。
扉の外に飛び出し、そのままわたしは現実の世界へ舞い戻った。
きらめく色の粒子が背中を押している。
髪が、スカートが心地よい風に翻り、わたしは宙を舞った。くるくると踊るように舞いながら、わたしは、声を立てて笑ったのである。
自由だ。
潮風が吹き付ける中、わたしは好きな風を選び取り、そこに乗る。
背中を押してくれる風。新たな場所へ送り出してくれる風。
胸の中に芽生えたものは、自由を謳歌する喜び。開放を受け入れる心。
ここは、結界を通り抜けた場所なのだ。
魔法のくびきを断ち切られ、全ての運命や契約から自由になる場所なのだ――。
けらけらと笑いながら、わたしは風と遊んだ。
そして、髪を風にあおられながら、向かうべき方向、遙かな水平線を見据えたのである。
この青い水を超えた場所に、きっと新たな大地が待ち受けている。そこにこそ、大魔女の候補がいるのに違いなかった。
師トラメやゴルデンと同等な――否、それを超えるほどの力と心を持つ、強大な魔法使いが、必ず。
陽光を遮るものがない空気の中を、十分にあたためられて、わたしは空を舞う。
軽々と飛び続け、どれほどの距離にも屈しない。必ずあの、水平線の彼方へ行き着き、新たな大魔女を見つけ出す。
下腹に手を当てて、そこに確かな温もりがあることを確かめてから、わたしは飛行を始めた。
宙から宙へ、見えない飛び石を踏んでは飛びうつるような軽やかさで、駆ける。
青い清浄な空間を、わたしは疾走する。
砂浜の上空を過ぎ、わたしの下には白い波を立てる青々とした水が広がっていた。
懐かしい香りの風と、わたしと方向を同じくする白い鳥たちが次々に通り抜けてゆく。
駆ける。わたしは、駆けてゆく。
ふいにわたしは、それを感じる。
黒く華奢で、とても優雅なそれは、砂の上を身軽に飛び越えている。
やがてそれは潮風の流れの一つを選び取り、そこに飛び移ると、またたくまに宙に躍り上がるのだった。
風と同じ速度でそれは青い空を走り、わたしに追いつこうとする。
わたしは振り向き、それに向けて両腕を広げた。
物言わぬ黒猫が空を駆けており、紫の瞳を煌めかせている。
見えない階段を次々に飛び上がるように猫は走り、やがてわたしに追いつくと、肩に飛び乗ったのだった。
ごろごろと喉を鳴らして頭をすりつける黒猫に、わたしは頬ずりをした。
黒猫からは、魔法の気配はない。
全ての魔力を使い切った彼は、この現身を残し、深い眠りについたのだろう。彼が目覚めて再び姿を現した時、わたしはどれほど変わっているだろうか。
猫の体温がわたしの肩と頬を温める。
しゅっとした尻尾が首を叩き、さあ行けと促した。
わたしは潮風に背中を押され、再び疾走を始める。
水平線の彼方へ。
最後に終章を綴り、魔女の愛弟子のおはなしを完結させることとします。
読んでいただいた皆様、心からありがとうございます。