ラプンツェル 6
様々な力に後押しされて、ついに飛翔するペル。
森と崖を飛び越えた先には海があり、胎児が閉じ込められている塔がそびえているのだった。
その8 ラプンツェル 6
西の大魔女の館の、自分の寝床で眠り、そして朝を迎える。
窓から差し込む朝日が部屋を明るく塗り替え、暖炉の輝きも薄れた。ハクセキレイの声で目を開き(……飛ぶのだ)わたしは起き上がった(……飛ぶのだ、飛ぶのだ……)。
着衣し、鏡の前で髪の毛を整えると、改めて室内を見回した。
穏やかな沈黙に沈んだ、心地の良い空間。わたしの居場所。
「この館は、おまえの家である。おまえの休息を守る場所。いつでも戻ってこれるよう、永久の魔法をかけた」
……。
師の言葉が蘇り、わたしの黒曜石に温かなものが巡る。
そうだ、ここはわたしの家、わたしがいつか戻る場所。この場所は、わたしのまほろばとなるだろう。
(帰ってくる、ここに)
師が座り、毎晩書物を読んだテーブルはそのままに。
わたしは部屋を出た。
春はどんどん気配を濃くし、館の外は温かな朝だった。
魔法で守られた畑では、ちしゃが芽を出し始めており、そこにはモンシロチョウがひらひらと舞っていた。
生え茂るままになった草花は朝露に濡れて輝き、ヒメジョオンの群生にはクモが巣をかけており、そこにも水玉が輝いている。
プリズムのような輝きは、人間の残渣が空気中に散じて行く光を思わせた。
(生きている)
小さな羽虫も、靴の下じきになっている無数の草も。
全て呼吸し、生きている。生命の輝きを宿している――。
(世界は生きとし生けるものを包み込み、守っているのか)
羽虫や草花と同じように、わたしやゴルデンも。
……。
とくん、とわたしの中心にある石が脈打った。
黒曜石が喜びを訴えている。トラメ石と紫水晶の力を得て、一際明るく、表情豊かに、黒曜石は輝いていた。
わたしは館から続く細い小道をたどり、西へ向かう。さいはての森が、目前に見えていた。
それ以上先に進むことができない、世界のどんづまりである。森は鬱蒼として、酷く深く、人を寄せ付けようとしていない。
……。
道の両脇は雑草の生い茂る原っぱが広がり、足元では夜の間は閉じていたタンポポが少しずつ花を開こうとしていた。
春のにおいに満ちている。
空は朝焼けが広がり、薄紫の雲がたなびいていたが、やがて力強い陽光が一面を支配し、世界は一気に明るく輝いた。オレンジ色の太陽、生まれたての午前の日差しが村に注がれる。
しかし、さいはての森の奥には日差しは届かないだろう。
わたしはついに、森の入り口に立っていた。鬱蒼とした深い森、木々の間は暗黒であり、足元すら危うい程だろう。
ここから先は、世界の行き止まり。
我々の生きるこの場所は巨大な結界で守られている。その結界の行き止まりなのだ。
(かあ……さん)
目を閉じる。
黒髪を長くのばし、紫の瞳をきらめかせた、わたしの子が今も呼んでいる。さいはての塔の中で。
この森を越えなくてはならない――。
(できる)
黒曜石に温かな力が宿り、穏やかに脈打ち続けていた。こみ上げる大きな喜びは、これは希望。
わたしは、「結界」を飛び越え、世界の向こう側に行くことに、喜びを感じているのだった。
そこに行けば、さいはての塔の中に、大切な胎児がいる。それだけではなく、何かが待っているような気がするのだ。
大気の中にある、様々な力が体に入り込んで行く。
森の輝き、虫やけものの命の欠片。
黒曜石はそれらを受け取り、溢れるほどの温かな力を持つのだった。どんどん膨れてゆく黒曜石の力は、わたしを勇気づけた。やれる。
わたしは木のワンズを取り出し、空を見上げる。
大きな青い世界。そこに、巨大な――こんな大きな魔法陣を描いたことなどない――魔法陣をのびのびと描いた。朝の空いっぱいに広がる魔法陣の中心に向かい、わたしは黒曜石の力を一気に注ぐ。
世界よ、わたしを含む命を包む世界よ――。
これは等価交換の法則に即した魔法。
森羅万象がわたしに力を与えてくれており、無限の不可思議がわたしの黒曜石に取り込まれている。今、魔法は発動した。青空から降りて来た鎌の切っ先が、わたしの足と影を切り離した。
重力から自由になった体は、目が眩むほどの速さで舞い上がる。わたしは空を舞っていた。
(師よ――ゴルデン)
果てしなく舞い上がる体は、容赦ない速さで天空を駆け上り、あっという間にわたしは森を見下ろしていた。
冷たい空気は地上よりもずっと清浄であり、髪は強い風にあおられて四方に吹き乱れた。
重心をとれない不安から、わたしは目を閉じた。額や頬に当たる風は強く、前へ進む方法など思いもよらない。
「念を送れ」
はっとした。
びうびうと耳元を吹き荒れる風に混じり、厳しい声が聞こえたのである。その声は確実にわたしのくじけた心を張り飛ばし、姿勢を正させ、閉じた目を開かせた。目を開いたわたしは、さいはての塔の映像を目の前に見た。
高くそびえるその塔の最上階、アーチ形の窓から覗いている紫の瞳の少女が見えた。
(かあさん)
不意に、下腹から糸のようなものが飛び出し、その少女に繋がり、温かな生命の液がわたしから流れ出すのを感じる。繋がっているのだ。体内にはいなくても、少女とわたしは繋がっている。
強い、へその緒で。
わたしは、ワンズを握る手に見えない手が添えられ、ぐっと包み込まれるのを感じた。大きな温かな手に引っ張られ、わたしはついに飛行を始めたのである。
追い風をとらえ、鳥のように宙を前進する。
下界にはこんもりとした森が広がっていたが、天空を飛ぶわたしの眼には、森の向こう側が既に見えていた。
(ああ――)
森の向こう側は切り立った崖である。そこで世界は途切れているはずだ。
その先は、この世を守る魔法の結界の外である。
「ためらうな、来るのだ」
また声が聞こえた。同時に、わたしの手を包む見えない手に力が込められるのを感じた。
鼓動が高鳴り、思いもよらない期待がこみ上げてきて、わたしの黒曜石は抑えきれない喜びに震え始めるのだった。
(会いたい、はやく行かねば――)
(はやく――はやく)
森の向こう側に飛び出した。
結界の外に出るのだから、それなりの衝撃を覚悟していたのに、何ら抵抗は感じない。楽々と空を飛び進み、いまやわたしは鳥のように両腕を広げて風を受けていた。
わたしは西のさいはてを飛び越えた。
地獄のように切り立った崖が下に見える。もし落下したら、わたしの体は尖った岩に貫かれるだろう。
崖の岩肌には、黄ばんだ何かがいくつも転がっている。
目を細めて凝視すると、それらは古い、風化寸前の白骨だった。
されこうべが転がっている。
非常に古いものである。古の昔、世界の外を見てみようと思い立った人間がいたのかもしれない。
あるいは、魔女が。
切り立った崖を降りようとして手足を滑らせ、そこで命を失った。
その亡骸の残骸が、今も残っているのであろう。
(愚かと笑うまい)
わたしはそれらから目を逸らし、清浄な風を体いっぱいに感じた。
わたしは導かれている。崖を落下して朽ちて死ぬことなど考えることはしない。崖から踏み出した足は確かに何もない宙を踏みしめ、わたしは世界を乗り越えた。
崖の下は白い砂になっており、広々とそれは続いた。
「クエ、クエ」
耳に刺さるような鳥の鳴き声がしたかと思うと、わたしは鳥の群れに正面から遭遇し、飛行する彼らの体をすり抜けるようにして飛び続けた。
鳥は砂の大地の向こう側、青い水をたたえた広大な湖からやってきたのである。
湖の水は空の青を写し取り、どこまでも澄んでいる。そこから流れてくる風は塩辛い味を伴い、何か懐かしい香りがするのであった。
(来た――ついに)
わたしは、あの塔をついに見た。
紫水晶で作られていたはずの塔は、今やただの石の塔である。古びた外壁には強いつる草が巻き付いていた。
どこまでも天空に伸びる高い塔は、遙か最上階以外には窓などなく、もちろん出入り口なども見当たらない。
その、たった一つ開いている窓から、小さな顔が見えるのだった。
窓枠に頬杖をつき、編んだ髪の毛を指でいじり、紫の瞳をつまらなさそうに見開いて――あの胎児は、綺麗な少女の姿になっていた。
未だ生まれていない、わたしの子である。
わたしは息を飲み、両手を広げて、その窓に飛び込もうとした。
ところが、透明な壁にぶつかり、柔らかく跳ね飛ばされて、わたしは地上へ落下した。
(塔が、結界で守られている)
頭から砂の大地に落下してゆく。わたしは木のワンズを胸にかかげた。既に温かな力をみなぎらせていた黒曜石は、すぐに魔法を発動させる。
くるりとわたしは宙を返り、落下の速度も緩まり、つま先から静かに砂の中へ足を降ろすことに成功した。
ざくりとくるぶしまで砂に埋まる。
大地から見上げると、この塔は本当に高かった。胎児のいる頂上の窓など全く見えないほどである。
白い小さなちぎれ雲がゆっくりと流れていたが、その雲の中に突き立つのではないかと思うほど、塔は高かった。
砂の中をざくざくと歩き、すぐ目の前の塔の外壁にたどり着こうとするのだが、どうしても距離は縮まらなかった。
わたしは途方に暮れ、砂の中で立ちすくみ、見えない結界に向けて木のワンズを向けた。
あふれ出る黒曜石の力が結界を打ち砕こうと放たれたが、その力はそのままこちらに返ってくることになる。
跳ね返された魔法を受け、かろうじて防御の魔法を発動させたわたしは、宙を舞うように弾かれ、砂の中へ落ちた。
(どうすれば)
砂に埋もれながら、わたしは石の塔を眺めた。
ぎらぎらと容赦のない日差しが差し始め、思わず目を閉じる。
閉じたまぶたの裏側で、わたしは何かの影を感じた。
誰かが、目の前に立っている――。
「……」
(そこでおまえを待つ者がいるとしたら、それは、運命を共にするもの)
わたしは目を開いた。
黒いズボンをはいた二本の脚があり、風に舞い踊る外套の裾が見えた。紫の裏地が日光を反射して眩しい。
砂の中に埋もれた両手を握りしめた。ぎしぎしと砂が音を立てた。
……わたしは、視線を上に向けた。
逆光で、見えない。
「冗談ではない」
聞き覚えのある声が振ってきた。言葉通り、酷く不機嫌そうな声であり、苛立ちが混じっている。
わたしは静かに起き上がり、相手と対峙した。
黄金の巻き毛、紫の瞳を持つ少年が、頑とした表情でわたしを見上げていた。
……見上げていた。
わたしは息を飲み、激しい衝動に駆られた。その衝動を止める術もなく、勢いよく彼に近づくと、肩を引き寄せて抱きしめていた。
ちょうどわたしの顎の下に、彼の見事な巻き毛が靡いている。涙が次々にこみ上げては溢れ、わたしは嗚咽をかみ殺していた。
「ゴルデン」
名を呼ぶと、彼は窮屈そうに頭を動かした。
わたしは腕を緩め、腰をかがめて彼の視線の前に自分の顔を持ってきた。
なにひとつ変わらない――非の打ちどころのない顔の造りと、強い紫の瞳、傲慢なほど冷静な表情――これは、ゴルデンだ。かつての東の大魔女、そして。
(わたしの、夫)
一つ溜息をつくと、ゴルデンはわたしの顔を白手袋の手で押し戻した。
白手袋に視界を覆われ、わたしは一瞬、まばたきをした。
すぐに白手袋の手はわたしの顔から離れ、わたしの目の前にはまるで様子の違うゴルデンが立っていた。
黒い外套を纏った、すんなりと伸びた長身の姿――。
それは、少年ではなかった。
黄金の巻き毛を輝かせた、紫の瞳を持つ青年が立っている。まるで違う姿だが、面影がはっきりと残っていた。
ようやく彼は腕を伸ばし、わたしの肩を引き寄せたのである。
(ゴルデン)
わたしは、一瞬にして自分よりも背が高くなった彼の首に腕を回した。
「……」
優雅な指が顎を捉え、わたしは顔を上向かせられる。ゴルデンだった。間違いなく、これは。
姿を作り出すことができるほど、魔力が復活したのだろうか。
どうしてここに彼がいるのか。
わからない――。
「ふん、悪くない」
と、彼は呟くように言い、まじまじとわたしを眺めた。無遠慮なまなざしである。
「ここまで貴様を導くのに、結構な力を要した」
俺は疲れている、非常にな。
吐き捨てるような言い方だったが、彼の口元には微笑が刻まれていた。
未だ零れ続ける涙をそのままに、わたしは彼を見つめ続けていた。
夫よ、夫よ――。
白手袋の手がわたしの目元を拭った。眉をしかめて、ゴルデンは言った。
「あまり時間がない。もっと良い顔を見せるがいい」
時間がない、という言葉に、わたしははっとした。
ゴルデンは、このままずっと側にいるわけではないのか。また、どこかに消え去ってしまうというのか。
「どうして、離れる」
彼の胸元を掴みながら、わたしは言った。声が掠れる。……全身が震えた。
「まだ、魔力が完全に復活していない」
ゴルデンは短く答えた。
「この姿を保てるのも、そう長くないということだ。おまけに」
と、背後の塔を振り仰ぎ、彼は言った。
「俺が作り上げたこの結界を打ち壊すのに、また力を消耗する……」
とん、とわたしを突き放し、彼は背中を見せた。
細身の体に纏った外套が塩気を含んだ風をはらんでいる。黄金の巻き毛が靡いていた。
「ゴルデン、わたしは」
その背中に向かい、わたしは衝動的に叫んでいた。
「あなたを愛している。あなたがどんな姿をしていても、それは変わらない」
だから、側にいて欲しい。たがう姿であっても――。
激しい風が耳元を通り抜け、しばらくの沈黙が訪れた。
ばさばさと外套が靡いている。やがてゴルデンは、振り向かないまま言った。
「分かりきったことを、何度も言うな」
面倒くさそうな口調だ。言っていることとは裏腹に、その声には明らかな拒絶が込められている。
わたしは途方に暮れ、そして絶望した。
彼は、わたしの側にはいてくれない――。
「俺の異空間で、おまえが怒鳴り散らした言葉は、残らず耳に入っていた」
はっと、わたしは目を見開いた。
ゴルデンの声に笑いが――否、苦笑が――含まれている。
「よくもまあ、でかい声で、飲んでいるものを噴いたではないか」
彼にしては、最大の努力を払った冗談だったのだろう。それとも、単に事実を告げただけか。
ゴルデンは呟くように言うと、静かに振り向き横顔を覗かせた。口元が微笑んでいる――。
不意にわたしは悟った。
(いたのだ)
ゴルデンは横顔でわたしの表情を読み、ふっと目を伏せた。呆れたように苦笑している。
(ずっと――彼は、側にいた。わたしと旅を続けていたではないか)
たがう姿で。
例えば、わたしの衣服の隅に、買った時にはなかったはずの刺繍があったかもしれない。
小さく上品な、黒い猫の姿が――。
「手間のかかるやつ」
ぼつりと言うと、ゴルデンは再び前を向き、もう振り返ることはなかった。
わたしは彼にすがろうとして手を伸ばしたが、見えない力に弾かれて砂の中に転がった。
わたしは這いつくばりながら、ゴルデンが黄金のワンズを取り上げ、高くそびえる塔に向かい、大きく魔法陣を描くのを見たのである。
(せっかく戻ってきた魔力を、また使い切ってしまおうというのか)
晴天に、突如、ばりばりと紫の稲妻が走り出した。
紫水晶の輝きを持つ雷は塔の真上で渦を巻き――そして。
(……それで、あなたはどうするのだ)
轟音を響かせ、紫の雷が塔に落ちる。
厚紙を勢いよく破くような音が響き渡り、目の前は紫の光で覆い尽くされた。
目を開いていることができず、わたしは腕をかざして顔を守りながら、きつく目を閉じたのだった。
(ゴルデン――)
次回で第八部が終了です。
そして、終章となります。
ここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございます。
できましたら最後まで見届けて頂けたら、幸せです……




