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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第八部 ラプンツェル
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ラプンツェル 4

その村の外れには、朽ちかけた公園があった。

夜明けの闇に沈む公園の中で、ぶらんこが揺れており、そこには「依頼主」が座っていたのだった。

その6 ラプンツェル 4


 夜の冷気が漂うホームは薄く靄がかかっており、時折柔らかな風が流れた。

 春の風である。ほのかに青臭い香りが漂い、肌に当たる感触は心地よかった。

 無人の改札をくぐり、暗い待ち合いを抜けて外に出ると、空は僅かに白みかけており、夜は今、あけようとしていた。


 農村である。豊かな部類の村だと言えよう。駅前は朝市が開かれるらしく、露店の支度ができていた。

 ただ色とりどりの天幕が立ち並んでいるだけである。市を通り抜けると、ささやかな商店街に出るが、街灯が点々と灯っており、人通りのない道を静かに照らしていた。

 空には白い三日月がへばりついており、村人たちは未だに眠りの中にいる。

 

 早朝の汽車は、汽笛もあげずに出発した。

 ガシュガシュと機関車の音が遠のくのを背後に、わたしは夜明けの道を歩き始めた。


 

 (……どうして)

 キイキイ……キイ。


 するり、と冷たい手が体を這うような感触を覚える。この「依頼」は、そういう触感を伴うのだ。

 そして、その感じが、わたしの胸を騒がせるのである。ともすれば激しい焦燥が湧き上がり、今にも叫んで走り出しそうになる衝動を抑えなくてはならなくなる。

 行かなければならない、あの子が待っている――。


 (どう、して……)

 ……キイ。


 ぶらんこが揺れている。今も揺れ続けている。

 村人から忘れ去られた小さな公園の中、雑草に隠れた、さび付いたぶらんこ。

 「依頼主」はぶらんこ遊びに熱中し、遊んでいる間にきっと母親が迎えにきてくれると信じていた。

 遊び疲れて夜になっても、母親は現れなかった。それどころか、誰も――それは忘れられた公園だったから――通りすがりの村人すら――「依頼主」の、前には現れなかったのである。

 

 

 ひもじい。

 寒い、怖い、おかあさん――おかあ、さん。



 ……。


 気が付くとわたしは小走りになっていた。

 舗装された道を、軽い音を立てながら、相当の距離を走り抜けてしまっていた。軽く汗ばんでおり、息も切れているほどだ。

 激しい鼓動に耐え兼ね、わたしは足を止め、前かがみになって呼吸を整えた。

 (いけない)

 木のワンズを外套の内側で握りしめ、胸に置く。

 

 この思念自体は、それほど強烈なものではない。魔法になんらかかわりのない、普通の子供の幽霊からの、ほんの微かな波なのだ。衝撃を受けているわけではなく――ただ、心を揺り動かされているのだった。

 子供の泣く声。さみしいという訴え。はやく来て、抱きしめて、おかあさん、おかあさん――。


 ……。


 ああ、まただ。

 わたしは歯を食いしばってワンズを握りしめた。

 魔法による影響ではないのだから、ワンズはあまり効力を発揮しない。だがわたしは、何とか自分を取り戻した。

 

 (かあさんには、あたしがいる――)


 力強い思念が首筋から体内に入ってきて、どっしりと胸の中に腰を下ろしたのである。

 紫水晶の強い気配だった。これは、わたしの胎児、あのさいはての塔にいまだ閉じ込められているあの子からの守りだった。

 

 今にも泣きだしそうなのに、健気に待ち続けている。

 このまま閉じ込められたきり、見捨てられるかもしれないという怯えなど、そこには一切なかった。

 ただ信じて待つ。狂信的なほどに、無我夢中で。

 ……これが、子供なのだ。


 (わたしは、待ったことなどなかった)

 母親など。


 わたしにとって、「母親」は、常に背中を向けた存在である。

 「母親」にとってわたしは、生まれてきてほしくなかった存在であり、可愛らしいなどと思うことができる代物ではなかった。そして、その奇妙な冷たい感情は、母自身を苛んでいた。

 わたしを見る度に自責の念にかられるので、母はわたしから目を逸らし続けた。

 それで、白雪に対する愛着に拍車がかかったのだろう。

 わたしを疎むことで自分が傷つき、その傷をいやすために白雪を愛する――。


 だから、わたしは、母を待ったことなどなかった。

 そんな気持ちなど、想像もできなかった。

 わたしはもともと、誰かの「子供」ではなかったのだと思う。


 ……。


 汗を拭き、息を整えると、ようやく落ち着いてわたしは歩き始めた。

 舗装された通路はやがて、両脇に畑が広がる細い農道に変わる。様々な芽吹きが見られる畑の中には時折、菜の花畑も混じるのだった。

 夜明けの白い光に照らされた黄色の花たちは生気に溢れている。夜露に濡れてささやかな滴を伝わせながら、日が出るのを待ち続けていた。まだ暗い空に葉を広げ、今か今かと。


 空は少しずつ白みかけているが、骨のような白さの三日月は相変わらず貼りついており、まだ朝ではないと主張しているようである。

 

 わたしはゆっくりと土を踏みながら進み、何回か、分かれ道の中から進む方向を選んだ。「依頼主」の微かな気配を辿り、ついにわたしは件の公園を見つける。

 朽ちかけた木の柵で囲まれた四角い敷地は雑草で覆われている。

 周囲は畑であるが、たまたま、持ち主が手入れを怠ったらしい、荒れた畑ばかりなのだった。滅多に人が来ない区域であることは、やけに陰気な空気からも分かる。


 荒れた公園から更に向こうにいったところに、教会の屋根が見えている。そこに墓場があるらしく、夜明けの薄闇の中で、黒い十字架が無数に立ち並んでいる様子が分かった。

 ほの白い夜明けの光で浮き上がって見えるが、夜になれば、この界隈暗さはいかほどか。

 わたしはあたりを見回した。

 街灯はあるが、並ぶ間隔が非常に広く、とてもではないが、この道は明るいとは言えないだろう。

 ましてや、公園は。


 ……。


 (暗い、暗い暗い……怖い)

 キイ。

 (怖いよ……おかあさん――)

 キイキイ……。



 今度は、取り乱すことなく聞くことができた。

 確かにわたしの中に、胎児からの思念が居座っている。強い意思を持つ、純粋な思い――あたしの、かあさんなの。これは――それが、わたしをしっかりと支えているのだった。


 わたしはワンズを握りしめ、公園の中に足を踏み入れた。

 雑草が膝まで生い茂るすたれた公園は、夜明けの暗がりの中に沈んでいる。

 規則的な音が、小さく聞かれた。

 

 土を盛り上げた小山は雑草が茂っており、奇怪な影を曝している。

 丸太で作られたシーソーは風雨にさらされたために腐って朽ちており、乗った瞬間にぼろぼろと崩れるだろう。

 同じく丸太で作られたベンチには苔がびっしりと生えており、ところどころに名もないつる草が絡んでいるのだった。


 その荒れた公園の中に、ぶらんこの音が(キイキイ……)暗く響いている。

 

 キイ……。


 ざわざわと草をかき分け、ヒメジョオンやマツヨイグサが、いびつな程に太く育った小山を回り、音のする方へ向かう。

 そこには木製のぶらんこが吊るされており、小さな子供が一人で座り、機械的にぶらんこを漕いでいるのだった。


 何も見えていないとび色のまなざしで、幼女は足でぶらんこを漕ぐ。

 茶色い髪の毛を頭の上で一つに縛っており、竹ぼうきの先のように四方に跳ねていた。

 服は――汚れいていた。着の身着のままといった風で、薄着である。短い衣服から覗く足は擦り傷だらけであり、彼女は裸足だった。

 わたしの「依頼主」である。

 もう、この世に生きてはいない、「依頼主」――。


 わたしはぶらんこを漕ぎ続ける幼女の前に、ゆっくりとひざをついた。目線を彼女に合わせるようにし、彼女がわたしに「気づく」のを待つことにした。

 汚れた頬や、無心な表情が、ふいをつくようにわたしの中に差し込んで、ようやく鎮まった水面を、また荒立てようとした。すぐにわたしはワンズを握りしめ、さいはての塔を思った――子よ――そのまじないは効力を発揮し、わたしはすぐに自分を取り戻すことができたのである。


 幼い幽霊は、自分の放つ思念が至近距離で跳ね返されたことに気づき、ようやく顔を上げた。

 視線がかみ合い、(キイ……)彼女はやっと、自分が「見られている」ことを(キイキイ……)知る。


 キイ……ギッ。


 ぶらんこは軋み音を立てて止まり、幽霊はそこから静かに降りた。ひざまずいたわたしの顔と幽霊の顔が同じ高さである。

 幽霊は首をかしげ、まじまじとわたしを見つめ――そして。


 「どうして」


 無垢なとび色の瞳で、そう言った。

 

 「どうして、おかあさん」

 あどけない口調である。たどたどしく、思いをなぞるように、小さな口から紡ぎだされる言葉。

 怒りではない。悲しみ――否、この幽霊はあまりにも幼すぎて、自分の感情の種類すら把握できていない。自分が置かれていた状況すら理解できないまま、命を失ったのであろう。


 わたしの目には、この子供の運命の縮図――すでに命を失い、枯れ果てた土色をしているのだが――が読み取れている。あまりにも惨いことであるが、この子供がここに置き去りにされ、母を信じ求めながら、飢えと寒さに苛まれて死んでいったことは、もともとこの子供が背負っていた運命の縮図の中にしっかりと書き込まれている。

 なるべくして、こうなった。

 最初から、こうなることになっていた――。

 

 だから、この「依頼」は契約成立しないのである。等価交換の法則を持ち出すまでもなく、この子供は運命の縮図において「正しい」状況に置かれているからである。なんら、運命の縮図は歪められていない。だからこれは「正しい」のである。


 魔法使いの目から見れば。


 だが、この「依頼」を受けよと聞こえない声が指図し、わたしの背中を押すのである。

 その声は、さいはての塔にいるわたしの胎児からのものである。


 ……。


 どうしたものか。

 わたしは黙って幽霊と目を合わせていた。

 また、幽霊は言った。


 「おかあさん」

 幽霊は言う。その足元には影はない――。

 「だっこ」


 透けるような手を広げ、生真面目な眼で訴える。

 腕を広げ、抱擁を求める彼女を前にし、わたしはただ無言だった。

 さあっと夜露を含んだ風が吹き、雑草が大きく揺れる。

 髪の毛が巻き上がり、一瞬、わたしの視界は遮られた。


 

 抱いて温もりを伝えることができたなら、この幽霊は一瞬にして満たされ、幸福のうちに消えるだろう。そして次の生に向かうことができるに違いないのであるが。

 (触れることはできない)

 実体のない幽霊を、抱きしめることなどできるはずがない――。


 風にあおられた瞬間のうちに、わたしは素早くこれだけのことを考えていた。

 髪の毛を振り払うと、そこに立っていたはずの幽霊の姿がなかった。代わりに、宙を漂うようなすすり泣きの声が聴こえるばかりである。


 だっこ……。

 「どうして……」

 おかあさん、だっこ……。


 ……。


 ふいに、耳元で軽い溜息が聞かれた。

 吐息まで伝わってきて、わたしはぎくりとする。――誰もいない。

 だが、確かに濃厚な気配を感じたのである。それに、あの香りと。

 ゴルデンが、側にいる――。


 「宿っているのだ……」


 それだけを、苛立ちを込めた小声でささやくと、唐突にその気配は消えた。

 ばさりと外套が風に翻る音まで聞こえてくる。

 愕然としてわたしは立ちすくんだ。

 今、確かにゴルデンがすぐ側に立っており、そしてすり抜けるようにしてこの場を離れた。

 (どうして、姿を見せないのだ……)

 こみ上げてくるものを、わたしはぐっと抑えた。

 

 ゴルデンの気配を追い求めようにも、もう、その気配は完全に消え去っており、尻尾を捕まえようがなかった。追跡する余地もないほど遠い場所に、ゴルデンはいるらしい。

 ほんの一瞬、側にすり寄り、一言だけを残してまた立ち去ったのである。

 (ゴルデン……)


 激しい焦燥が湧き上がり、呼吸が乱れかけたが、わたしを引き留めたのはやはり胎児の意思だった。

 (あの子を、助けてあげて……)

 胎児が強く訴えているのである。わたしの中に居座り、わたしの体を操るかのように。

 抗うことは、できそうになかった。

 わたしは大きく息を吸うと、目の前のぶらんこを見つめる。

 ぶらんこは、ゆっくりとまた揺れ始めるのだった。


 (だっこ……)

 (どうして……)

 (悪い子だから?)


 ……。


 瞬間的にわたしは悟った。

 脳天から解答が差し込んできたのである。

 「宿って」いる。子供の幽霊は、ぶらんこに「宿って」いるのだ。


 わたしは急いで揺れるぶらんこを掴んで動きを止め、その場に座り込むと、泥だらけに汚れたぶらんこの板を抱きしめたのだった。

 「悪い子ではない――」

 両腕の中に汚れた板を掻き抱き、頬ずりをし、胸の鼓動を聞かせるようにし、全身の体温が伝わるよう、手でさすった。

 すると、たとえようもない幸せな波動が舞い上がり、わたしを包み込んだのである。

 

 (……おかあさん)


 という呟きを残し、すすり泣きの気配は消えた。

 ぶらんこの板から顔を離すと、きらめく人間の残渣が夜明けの闇の中に霧散し、空気に溶け込もうとしているところだった。その残渣こそが「依頼主」だったのである。


 無数のきらめきが立ち上る中、わたしは腕の中のぶらんこの板を眺めていた。

 最後のきらめきが消滅し、幽霊がすっかり浄化されてしまった時、わたしは自分が涙をこぼしていることに気づいたのだった。


 否、わたしではない――これは、胎児の涙だ。

 さいはての塔で、長い間わたしを待ち続けている、わたしの子の涙――。


 「早く、来て」

 と、子は体をねじるようにして叫んでいる。

 「早く来て、抱いて、ここから出して――」


 ぶらんこの板をそっと離すと、僅かに揺れて、それはもう動かなくなった。

 わたしは涙を拭うと立ち上がり、空虚な下腹に手を当てる。

 朝の弱い光が辺りを照らし出し始めており、夜露に濡れた雑草は、水の玉を跳ね飛ばしながら風に揺れているのだった。


 (行かなければならない、早く――早く)


 待っているのだ。

 涙を堪え、信じることしか知らない胎児が、今も――。


 (ああそうか)

 ゆるやかに胸の中に広がるものに、わたしは目を見開いた。

 悲しみを含んだ、重くて温かなもの。抗い難い強いくびきだ。ああ、これが――。


 (これが、『母親』)


 公園を出て、あぜ道を戻りながら、わたしは空を見上げる。

 相変わらず張り付いたままの、薄い三日月よ。

 まだ空に残る夜空の輝きよ。

 

 わたしは、飛ばなくてはならない。

 飛んで、あの天空に突き刺さるような塔の最上階に。



 (ゴルデン、でも、どうしたら)

「母」というものがどんなものなのか

「子」がどんなものなのか

それを知るところから、ペルは始めなくてはならなかったのです。

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