ラプンツェル 1
姿を消したゴルデン、大魔女候補、そして「世界」の後継者たる我が子を守る塔を探して、ペルは西への旅を始めた。
夜汽車の中で物思いにふけるペルの前に、世界の幻影が訪れる。
その3 ラプンツェル 1
(かあさん……迎えに来て……)
……。
……ゴトゴトゴトゴト……。
ゴトゴトゴトゴト……。
はっと目を開いた。どうやら眠り込んでいたらしい。
夜汽車である。
無人の車両に、ひとり、わたしは座っている。
視線を横に向けると、車窓は闇夜の黒に塗られていた。黒い鏡のようなガラスには、酷く大人びた自分の顔が映っており、一瞬、自分ではない誰かが覗き込んでいるのではないかと思うほどだった。
どれほどの時間、黒曜石に守られて眠っていたのか分からない。だが、少なくともわたしの姿が、幼い少女のものから娘のそれへ変わるほどの時間は経過している。
今、わたしは背丈が伸び、髪の毛も肩まで落ちていた。ただ無造作に流すだけなのに、髪が長いというだけで外見は別人のように変わる。
衣服も新調せざるを得なくなり、今着ているものは、襟のつまった白いブラウスに黒いジャンパースカートである。スカート丈はひどく長く、くるぶしまで覆うほどだ。ズボンを選ぼうにも、この体に合うようなものがなかったのである。
「お嬢さん、女性もののズボンはおいていないよ」
……。
黒い車窓に映る自分の顔。
大きな黒い瞳はひどく憂いを帯びており、まつげが影を落としている。唇は微笑みを忘れたようにつぐまれていた。表情はやはり、醜い小人――ルンペルシュティルツヒェン――のそれである。
もう分かっていることだが、ゴルデンはどこかで生きている。
わたしは自分の黒曜石の異空間の中を歩き、扉を探したものだ。
彼の黄金の扉。
かつて、その紫水晶の空間の中に、わたしの胎児が閉じ込められているはずの塔があったのだ。
わたしは黄金の扉を見つけることができた。
しかし、扉を開いたそこに広がっていたのは、ほんの小さな紫水晶の群生が芽生えているだけの、小さな部屋だったのである。
あの無限かと思うほど広大な紫水晶の世界は消滅していた。
紫水晶がまばらに敷かれている床を歩き、部屋の中央に、ちょこんと顔を出している僅かな群生のもとでひざまずいた時、わたしは悟った。
魔女としての死を迎えかけたゴルデンは、恐らくわたしの接吻で僅かな力を得たのであろう。彼の紫水晶は死滅を免れた。小さな群生が育ち始めているように、魔力は再生を始めている。
一緒に黒曜石の空間で眠っている間に動けるだけの力を取り戻し、彼はどこかへ去った。
そして、わたしの胎児が閉じ込められているあの塔は、彼の空間からどこかへ移動した。
あの見事な結界ごと、移植されたのだろう。わたしの元に直接響いてくる我が子の声は、健やかなものだ。安全に守られながら成長していることが伺いしれる。
誰の目にも触れず、大事に守られて、成長している。
……かあ、さん。
わたしは目を閉じた。
映像が鮮やかに浮かぶ。
紫水晶の塔の窓から見渡せる、美しい初夏の森。小鳥のさえずり、鮮やかな蝶。
ああそうだ、確かにあの子は守られている。結界の中で、大切に――。
わたしを呼ぶ声は、遙か西から聞かれるようだった。
西の空から声は聴かれ、あの恐ろしいまでの無垢な紫水晶の力もそこから感じられる。おそらく、塔は西の方にあるのだった。
異空間の扉からたどり着くことができないのであれば、現実世界をひたすら移動するしかない。
それで、わたしは再び汽車に乗り、町から町への旅を繰り返しているのだ。
(ゴルデンがいれば、何かの手がかりが得られるかもしれないのだが――)
そもそも彼の張った結界、彼の異空間に作られた塔なのだ。
彼ならば、塔の行方を知っていると思われるのだが、一体どこへ。
ゴトゴトゴト……。
……ゴトゴトゴトゴト。
……。
(ざわ……)
車両内のほの白い照明が揺れる。ふわふわと天井に壁に影が揺れ動いた。
汽車は速度を上げている。汽笛が鳴った。
(ざわ、ざわ……)
窓枠に頬杖をついて眠ろうとしていたわたしは、薄く目を開けた。
神経を逆撫でする様な感覚は、このところ、しょっちゅう感じるものだ。
「闇」ではない。
「闇」は、あの契約が遂行され、世界が健やかな状態に戻り始めて以来、急激にその威力を潜めていった。闇の魔法使いは未だにいる。だが、のべつまくなし、そこらじゅうに漂っていた闇の気配が薄れているのである。
つまり世界は命を繋ぎとめており、しっかりと自分の役割を果たしているらしかった。
この不快なざわつきは、世にある無数の魔女たちの不穏である。
大魔女不在の今、正統な魔女たちを統一する者がいない。「依頼」を引き受け、契約を成立させるものと、それを裁くもの。それらが失われた今、このままでは世の魔法は乱れるだろう。
(大魔女は絶対的な力を持つ存在――)
改めて、思い知る。
その存在があるというだけで、魔女たちは己の魔法を正しいものにしようと励む。
東西の大魔女は、魔法の摂理を守る存在なのである。この世に魔法がある限り、大魔女は必要なのであった。
わたしは、自分が既に「魔女の愛弟子」ではなく、別の使命を背負っていることを知っている。
オパールから引き継いだ「母」が、今のわたしの立場である。わたしは、大魔女を選ばねばならないのだった。
(大魔女を、選ぶ……)
強大な力を持つと同時に、魔法を使う者としての品位がある魔女。
等価交換の法則を深く理解し、真理を見誤らない眼力を持つ――。
そう。我が師のような。
そのような優れた魔女に巡り合うためには、やはり旅をするしかないのである。
わたしは今、ひたすら西へと渡り歩いている。車両の中で、降り立った町の中で、神経を研ぎ澄まし、魔法の気配を探った。だいたいどこの町や村でも、なにかしらの魔法の気配はあるものだが、大魔女候補になりそうなほどのものは、未だに巡り合っていない。
つまり、今わたしは、三つの目的で旅を続けているのだ。
塔を探すこと、ゴルデンを探すこと、大魔女を選ぶこと。
……。
(かあさん……かあさん……)
空になった、わたしの下腹部、子宮に手を当てる。
ここに戻さねばならないのだ。わたしの子を。
やがて「世界」を引き継ぐ、運命の胎児。
ゴトゴトゴトゴト……。
ゴトゴトゴトゴト……。
……キシャアアアアアアアアア……。
車両が金切り声を上げている。カーブに差し掛かったのだ。
汽車は激しく揺れ、わたしも上下左右に揺すられる。
「世界」を引き継ぐのか、あの子が。
改めてそれを考えた時、わたしは素早くこう考え、思わず自分の心の中を見つめたのだ。
(いっそ、見つからないままのほうがいい。そのほうが)
そのほうが、せめて、同じ現実の世界、この場所にいることができるのだから。
「世界」の居場所は、あの青い清浄な空間の中の、白い部屋なのだ。
不可思議な青い球体の中に、「世界」はただ一人で行かねばならないのである。
まるで別の次元、別の場所、この世のどこにもない部屋に、わたしの子が、いつか行ってしまう。
それならば、いっそ。
……。
唐突に汽笛が上がり、わたしは一瞬、息を飲んだ。
我に返り、己の中に浮かんだその迷いに向き合う。
冗談ではない。
世界を正常に戻すために、師は命を差し出し、ゴルデンは散ったのだ。今、健康な状態に戻った世界を、いずれ引き継ぐあの子を、「見つけない」ままにしておくわけには、いかないのだ。
一刻も早く胎内に戻し、この世に産み落とさねばならない。
そして、育み、成長させ、やがて凄まじいまでの力を持つ、「世界」の跡継ぎとなるだろう。
今、わたしは大魔女の「母」であると同時に、「世界」の後継者を育てる使命を担っているのだった。
そこに、迷いをさしはさむべきではない――。
……。
まもなく夜明けが近づいており、汽車は次の駅に到着しようとしていた。
夜汽車の中で、わたしは非常に長いモノローグを繰り返すのである。たいていの場合、夜に乗る汽車は客がおらず、車両はわたし一人であることが多いものだから――色々なことを自問自答するにはうってつけなのだった。
汽車は最後のトンネルにさしかかっており、この長いトンネルを潜り抜けた先は、既に夜が白み始めているはずである。夜明けとほぼ同時に次の町に到着する予定だった。
少し休まねばなるまい。
目を伏せてトンネルを通過する轟音を聞いた。
その騒音に混じり、微かな衣擦れの音が通り過ぎ、ふわりとした空気の感触が鼻に触れる。
誰かが、わたしの前の座席に、腰を掛けた。
しかも、これは普通の人間ではない――。
わたしは頬杖をついたまま目を開いた。
すると、まず視界一杯の白が飛び込んできて、目が眩んだ。頬杖を外し、瞬きを繰り返すうちに強烈な輝きを持つ白は薄れて行き、目の前に座るものは輪郭を現わした。
華奢な少女の姿は徐々に露になってゆき、やがて見覚えのある紫の瞳がわたしを見つめているのだった。
世界、である――。
正確には、世界の幻影というべきか。
既に鳥の羽根は体には見あたらず、細い肢体を衣服に包んだ、あどけない少女の姿になっていた。
その紫の瞳には、かつて見られたような闇は完全に消滅していた。一点の曇りのない姿となった世界は、幻影であっても目を射るほど眩しい。
わたしは眉を顰め、その眩しいものと向き合った。
ずいぶん、久しいものである――。
ゴトゴトゴトゴト……。
ゴオオオオオオオオオオ。
「あの子は、どうしている」
わたしは言った。
暗闇の車窓に映っているのは、わたしだけである。
トンネルの中を通過する轟音にかき消されないよう、はっきりと口を開き、わたしは言った。
世界は無言でわたしを見つめ続け、ずいぶん長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「塔は、わたしの元にあるわ」
わたしは世界を見つめ返した。
塔が、世界の元にある。あの清浄な青の世界の中に、塔があるということか。
素早くわたしが考えたことを、世界は見抜いたように、ゆるゆるとかぶりを振った。
「いいえ、あなたは旅を続けるべきよ。このまま西へ――西へ」
ゴルデンの傲慢な瞳に通じるものがある、優しげなまなざしを窓に向け、世界は目を伏せた。黄金の髪の毛が揺れ、白い輝きはいよいよ強くなる。
目を開いていられなくなり、わたしはきつく両目をすぼめた。
「西のさいはてまで行くのです」
そこであなたは、無限の青に出会う――。
青。清浄なる青。全てを包み、浄化するような。
白い光が車両に満ち渡り、わたしはついに目を閉じた。
まぶたの裏まで焼き付いているようである。やがて、光が収まったように思えた時、わたしは恐る恐る目を開いた。
既にトンネルを通過しており、窓の外は白み始めている。
(西の、さいはて)
灌木が風にそよぐ、不毛の荒野が夜明けの光に照らされ始めているのを眺めながら、わたしはいぶかしむ。
西のさいはてと言えば、わたしと師がかつて暮らしていた、あの館がある場所ではないか。
だが、あの村には清浄なる青などなかった。
……ならば、あの村を超えてさらに西へ行けということなのだろうか――。
(馬鹿な)
あの村を超えて西に行くことはできまい。
なぜなら、それより西に行けば巨大な崖で世界は途切れており、そこから先は人の住む場所ではないとされているのだから。
巨大な結界でこの世は守られており、その結界の途切れ目に行きつくだけなのである。
すると、唐突に映像が浮かんだ。
かつて西の大魔女が住んでいた舘である。懐かしいあの館は魔法の力で守られ、荒れもせず、今もまだあの頃の同じ姿を保っている。
その尖った屋根を超え、村のあぜ道、黄色い花が咲く野原を飛び越えてゆく。
風に乗り、ひたすら西へ。
鳥のようにわたしは飛んでいる。
天空から地上を見下ろし、手足を伸ばして。
やがて村はずれに出て、深いこんもりとした不毛の森が続く。この森の向こう側に行くことは、魔法の禁忌でもあった。
この世を守る結界を突き破ることになるからである。
(結界を、出てしまう)
本能的にわたしは怯えた。
だが、わたしの体を押しやる風は容赦なく吹き続け、わたしはやがて、森の向こう側を見ることになる。
切り立つ崖がある。
恐ろしい、尖った岩がごつごつと飛び出しており、人や動物を遠ざけているようだ。
その不気味な崖を、わたしは飛び越えたのだ。
ぐんぐんと飛び越え、わたしは目を見開いて真下に広がる風景を見つめた。
崖の下に広がるもの。
純白の砂の大地がえんえんと続き――そして、その砂の大地は、青い、ただ青い波立つものに繋がっているのだった。
(なん、だ。これは……)
白い波を蹴立てながら砂の大地に寄せる青は、水である。
途方もない量の水が湛えられており、大きな波を作っては大地に寄せているのだった。
青い水は延々と続き、その向こう側が見えないほどだ。
顔に当たる風は強く、心地よいものである。そして、どこか懐かしい匂いがするのだった。
目の鋭い、白い鳥たちの群れが飛び立ち、わたしはその中をかいくぐって飛んだ。
やがてわたしは見つけたのである。
白い砂浜と、青い水の世界の境界に、塔が空を貫くように建っているのを。
その塔は日差しを浴びてまばゆく輝き、延々と続く青い水のはるか向こう側からでも、目印になるかと思われた。
塔は、今は紫水晶ではできていなかった。ただの白い壁でできており、一番てっぺんの大きな窓以外は、なにもついていないのだった。
地上から遙か遠い高さにあるアーチ形の窓から、頬杖をついて外を見つめている姿を見える。
はっとした。
(あの子、が……)
そこで、映像は途切れた。
そしてわたしは現実に引き戻され、薄汚れた車両の古ぼけた赤い座席に座り続けているのだった。
あの、窓から覗いていた姿。
わたしは胸が高鳴るのを覚える。
人形のような顔立ちは、どことなく我が姉白雪の面影があり、同時にゴルデンの非の打ちどころのない端正さも兼ね揃えている。
何より、強く輝く紫の瞳が、証拠なのだった。
(わたしの、子だ……)
波風に揺れる髪は漆黒の闇色であり、艶があり健やかだ。その髪は非常に長く伸びており、彼女は手持無沙汰そうに、髪を三つ編みにして手遊びをしながら待ちわびているのだった。
美しい、娘。
まだ、この世に生まれていない――。
……ゴトゴトゴトゴト。
ゴトゴトゴトゴト……。
穏やかに汽車は前進する。
荒野はやがてその厳しい姿を緩め始める。
不毛の地の中にちらほらと黄色い花が見え始め――まもなく汽車は、次の駅に到着しようとしていた。
(降りねば、な)
その町に、村に、大魔女候補かゴルデンがいるかもしれない。
そうである限り、わたしは降り立つのである。
駅から駅へ。さいはてを目指して。
愛弟子版ラプンツェルの開幕です。
どうぞ、最後まで見届けて頂けたら幸せでございますm(__)m




