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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第八部 ラプンツェル
69/77

契約 遂行

ゴルデンと、師と。

どちらも死に瀕していた。

ペルは愛弟子として、最後の仕事に臨む。

その2 契約 遂行


 黒曜石の一閃は、おのれのすべての力を金のワンズに託し、巨大な魔法陣を描こうとしていたゴルデンの中心を、確かに貫いた。

 視界を遮る横殴りの吹雪の空である。

 濃い灰色の空間で、獣人の姿をした東の大魔女は、驚愕の表情を紫の瞳に浮かべ、ゆっくりとわたしを見下ろした。

 

 視線が、合う。



 彼の名を呼ぶわたしの声が、吹雪にかき消された。

 輝く紫の瞳は、傲慢で強い彼そのものである。

 どんな姿をしていても、どんな状況であっても、彼はゴルデンだった。

 わたしは木のワンズを両手で握りしめたまま、瞬きすらできずに彼の視線を受け止めていた。

 (どく……ん)

 わたしの中心にある、黒曜石が激しく振動している。

 今、わたしは血の涙を流している。

 (どくん……どく、どく……ん)


 ビロードのような黒と金の体毛に覆われた彼の顔、むきだした犬歯、吹き荒れる風にまくりあげられる紫の裏地。

 ゴルデンの瞳には、怒りはない。

 悲しみもない。……わたしには、彼が苦笑しているように見えた。

 (その姿では、あなたがどんな表情をしているのか、よく見えない――)


 だが、次の瞬間、逆方向から噴き上げられてきた吹雪の風に、ゴルデンの外套の前がおおきくまくり上げられ、わたしは意識を失いかけた。


 大きな、空洞が――。

 (ゴルデン、ゴルデン、ゴルデン――)

 後ろに倒れかけた時、まるで平手打ちのように粉雪の嵐が頬に当たり、わたしは正気を取り戻した。

 宙に浮いたまま、微動だにせずこちらを見下ろす異形の彼。その胸の中心に、大きな空洞が開いている。なにもない空洞である。

 (わたしが、した――)

 その空洞の向こう側は、ただ空しく、吹雪の灰色の空が見えるだけだ。

 (わたしが、彼を――)


 ぴしり、と鋭い音がした。

 激しい胸の痛みが走る。今、わたしの黒曜石に大きな亀裂が走った。この亀裂は癒えることがない。この亀裂を抱いたまま、わたしは生き続けなくてはならない……。


 「ゴルデーン」


 宙に向かい、叫んだ。

 だが、彼は相変わらず浮かんだまま、こちらを見降ろしている。

 その遠い場所から、穏やかな彼の思念が降りて来た。


 (おまえに、討たれるとは、な)


 その声を最後に、彼は静かにまぶたを伏せると、前のめりになり、頭から雪の中へ落ちたのであった。


 「ゴルデン」

 (いやだ)

 「ゴルデン、ゴルデン」

 (冗談じゃ……ない)

 

 雪をかき分けながら彼の落下した場所へ急ごうとするわたしを、引き留める手があった。

 はっと振り向くと、悲し気な目をした老婆――オパールの魔女――が、わたしの外套を引いている。

 年老いた母親の姿をしたオパールは、片腕で西の大魔女を抱きかかえていた。

 もうまもなく、己の寿命を全うする、わたしの師を看取ろうとしている。


 「魔女の愛弟子の、最後の仕事をなさい」

 震えるような優しい声であったが、そこには大地のような強さと厳しさが込められていた。わたしは歯を食いしばり、拳を握りしめると、両方の目に涙を溜めながら向き直り、オパールの腕の中の師の元へ歩み寄る。


 腰まで雪につかりながら、わたしは師の側へ行き、そっと師の手を取った。

 すでに色濃い死の影を目の下に作りながら、師はうっすらと目を開く。逝去の直前でありながら、そのまなざしは強く、全てを見通すような叡智をたたえていたのであった。


 「師よ」


 わたしがささやくと、師はゆっくりと頷き、握りしめた手を、わたしの手の中で開いた。

 ころん、とひとかけらのトラメ石が転げ落ち、わたしは掌でしっかりと受け止める。

 師の、運命の縮図が――。

 

 「……愛弟子、ペル」


 その言葉を最後に師はまぶたを閉じ、オパールの魔女の胸に頭をうずめるのだった。

 まだ、師の命が香る間に、わたしはしなければならない。


 契約の、遂行――魔女の愛弟子の、仕事を。


 

 目をとじると涙が飛び散り、それはたちまち細かな氷となった。

 頬を粉雪に包まれながら、わたしは外套のポケットから小瓶を取り出し、栓を抜く。

 たちまち、羽根の形をした依頼が飛び出して、吹雪の中でふわりと輝いた。


 無垢の、輝き。世界の、白――。


 「西の大魔女の代理、魔女の愛弟子が、この契約を遂行する――」


 涙が吹きこぼれる。無数の細かい氷の粒がわたしの顔のまわりを舞い飛び、それらは吹雪に混じって散った。

 わたしはトラメ石の欠片を乗せた掌を宙に掲げた。

 トラメ石はグレーの空に浮かび上がり、鼓動するかのように何度か光を放った後、目を貫くほどの強烈な閃光が走った。

 石は粉々に砕け散る。

 そして、「依頼」の象徴である白い羽根は、契約が遂行された証として、唐突に消えてしまったのだった。


 荒れ狂う吹雪、絶え間ない暴風に混じり、旋律が届く。

 最初は微かに。次第に力強く。

 パイプオルガンの音色だった。


 (おにい……ちゃん)


 わたしの前に、映像が浮かび上がる。

 紫水晶の塔の中にいる、鳥に侵された世界。

 体を覆う羽根が、ゆっくりと散ってゆく。皮膚から剥がれ落ち、次々と宙に舞う。


 美しい白い体が露になり、紫の瞳から、ほんのわずかな涙がこぼれた。

 (おにいちゃん、おにいちゃん……)

 思いを凝縮した(嫉妬、執着――闇)涙は、人間の残渣そのものである。プリズムのような残光を残しながら涙は宙に分散し、消えてなくなった。


 (……)


 もう、狂おしい執着や嫉妬から発せられる、切ない呼び声は、聞こえない。


 

 らせんのようなパイプオルガンの音色は、やがて別の旋律に移り、それは安らぎと、静寂を歌う。

 剥がれ落ちた羽根は塔の窓から外へ飛び出し、青い空へ向けて散った。

 今、世界は己の闇と決別し、彼女の心から醜い執着は完全に消えたのである。黄金の髪の毛が風に踊り、穏やかに微笑む彼女には、どのような陰りも感じられない。

 伸びやかな肢体、純白の体。

 美しい世界、健やかな世界。

 

 世界の病みは完全に癒された。

 あの青い清浄な空間を覆う、分厚い闇の層が徐々に薄れてゆくのだろう。

 世界と我々を隔てていた闇は、いつか消滅するのに違いない。次の代の世界、わたしの胎児がその役割を追う頃には、もしかしたら――。



 わたしは、この契約が完全に遂行されたことを知った。

 それを告げるパイプオルガンの旋律は、また静かに遠のいてゆき、後には激しい吹雪の轟音が残っている。


 ……。


 

 「師よ」

 木のワンズを握りながら、わたしはオパールに抱かれる師を振り向いた。

 (わたしは、あなたの教えを守ることができたのだろうか――)


 しばらくの沈黙の後、師は目を閉じたまま、言った。

 「……で、良い」


 わたしはワンズを握る手をだらりと下げた。

 オパールは師のあたまを固く抱き、老いた顔をこちらに向ける。静かな表情だった。


 「この子を看取るために、行きます。あなたは――」

 不可思議なオレンジ色の瞳に、ふいに優しい微笑を浮かべて、オパールは言った。

 「彼の元へ行くのでしょう?」


 オパールと、オパールに抱かれた師は、ゆっくりとその姿を薄くしていった。吹雪の中に消え失せる寸前に、オパールの声が微かに伝わる。

 「あなたは、もう『母』なのです。己のなすべきことを――」


 

 なすべき、こと。


 雪に埋もれていた痕跡だけを残し、二人の姿は消滅した。

 きっと、二人だけの場所で最期の時間を過ごすのだろう。あと僅かな命のきらめきを、いつくしみながら。


 

 ……。


 わたしは、ゴルデンの元へ行かねばならない。

 今度こそわたしは雪をかき分け、ゴルデンが落ちた場所へ急いだ。吸い込む空気の冷たさで、気道が凍りかける。固くなってゆきそうな体を必死に動かし、わたしはゴルデンを探した。

 ――見つけた。

 雪の白の中に、風に激しくまたたく黒い布切れがうずもれている。彼の外套だ。

 半狂乱になり、わたしは雪を漕いでその目印にたどり着いた。雪に半分うずもれたゴルデンが、獣人の姿で目を閉じていた。

 雪まみれになりながら彼を抱き起すと、紫の瞳が開き、わたしを映した。

 

 (ああ、彼は――)


 中心の紫水晶を失い、あの強大でゆるぎない力は消え去った。

 ただの人外、異形の姿のもの。


 ゴルデンは、犬歯を見せてにやりと笑った。

 何を笑っているんだ、とわたしが嗚咽交じりに毒づくと、ゴルデンは腕の中で肩を竦めて目を逸らした。


 「言っておこうか」

 意外にもしっかりとした声で、彼は喋った。

 その声も、瞳も、まぎれもないわたしのゴルデンのものだ――わたしは歯を食いしばり、固く彼を抱いた。


 「……まあ、聞け。俺が大魔女になる際の契約だ」


 絆で結ばれた者に、己の醜い姿をさらけ出し、幻滅を呼ぶ。そして、死んでゆく――。


 ……これが、俺が『母』と結んだ契約なのだ。



 わたしは目を見開いて腕の中の彼を見つめた。

 「絆で結ばれた者」が、誰を指すのかを悟った時、わたしの中に残っていた最後のわだかまりが溶けて消えた。

 (あなたは)

 わたしは彼の紫の瞳を見つめた。涙でぼやける視界の中で、その瞳は燦然と輝いている。

 

 (あなたは、そんな契約を)

 あの、強奪の儀式の際に――。


 瞳は確かに彼のものであるが、黄金の飾り毛とビロードの黒い短毛、それに覆われた顔は既に人間のものではない。

 耳は尖り、大きく裂けた口からは鋭い犬歯が覗いている。奇怪な顔、異形の姿。

 獰猛で、凶悪なけものの姿だ――。


 (あなたは、なにを、言っているのだ)


 わたしは片腕で彼の体を抱き、もう片方の手で、その異形の顔に触れた。

 ぼたぼたと涙が顔の毛皮に落ち、毛並みに沿って滑って散った。


 「それがあなたの契約なのか」

 震える声でわたしは言った。

 「だが、それは今は成立しない。わたしはあなたを、美しいと思うのだし、愛しているのだから」


 紫水晶を失い、力を奪われた彼が、既に大魔女を剥奪されていることは目にも明らかである。

 ただのけだもの、異形に過ぎない彼である。

 だが――。


 「……契約は、成立していない。あなたは、死にはしない――」


 

 紫の瞳がゆっくりと動き、再びわたしの視線とかみ合った。

 わたしは彼の顔に自分の顔を近づけると、大きく裂けて犬歯を剥きだしたその口に、接吻をした。

 驚いた彼が身をよじり、拒否しようとしたが、ありったけの力で彼の頭を抱え込み、それでも抵抗が続くので、三角に飛び出したけだものの耳を掴んでねじった。

 かつて彼がしたのと同じように、わたしは全身全霊の力を振り絞り、わたしの黒曜石の半分を亀裂に沿って割り、彼の中へ流し込もうと試みていた。

 

 (命を――力を――半分、あなたに)


 非常に高度な魔法である。本来ならば、大魔女クラスの力の持ち主でなければ、扱うことができないようなものだ。

 それに、今のわたしには残力があまりない。先ほど放った黒曜石の一閃で、ほとんど使い果たしたといっても良かった。わたしには休息が必要であり、そうしなければ、魔法を思いのままに操ることはむつかしかった。


 それでも、やらねばならない。

 

 もがいていた彼は、やがて体にこめた力を抜いた。

 毛むくじゃらで、鋭い爪を尖らせた彼の手が、雪の中から出てきてわたしの背中を抱いた。

 わたしは力任せに耳を掴んでいた手を離し、彼の抱擁に応えた。

 

 (どんな姿であっても――)


 

 唐突に手ごたえが消えた。

 はっとして目を開けると、腕の中いっぱいにあった獣人の姿は消えており、代わりに華奢で上品な黒猫が、ぐったりとしていた。

 つるりと雪の中に取りこぼしそうになりながら、わたしは黒猫を両手で抱き、激しくゆすった。

 猫は温かい。確かに生きている。――だが、意識が、ない。


 (ゴルデン――)


 

 わたしは猫を抱きしめ、ゆっくりと頬ずりをした。

 最も、力を消耗しない姿に身を落とし、命を繋ぎとめようとしている。

 この姿は、あるいは永久にこのままかもしれないが――彼は、生きていた。


 生きていた。

 (いい。十分だ……)

 わたしはもう一度彼を抱きしめ、その狭い額に接吻を落とすと、最後の力を振り絞って意識を集中させた。

 恐ろしい勢いの吹雪が体に叩きつけており、同時に重度の疲労で、今にも倒れてしまいそうだった。

 だが、なんとか成功する。

 空間はぐにゃりと歪み、わたしは猫を抱いたまま、黒曜石の異空間に転がり込むことができた。


 

 ……。


 頑固な程に力強い、黒曜石よ、夜空のきらめきよ。

 わたしは猫を抱きながら、前のめりに倒れ込む。

 この頼りない肉体は限界を迎えかけており、骨の髄まで吹雪にやられ、凍り付きかけていた。

 (休息を、休息、を――)


 ……。


 わたしは、体を黒曜石が包み込むのを感じる。

 倒れた足元から固めるように、黒い結晶が盛り上がり、覆い隠す。

 無機質な冷たさが皮膚に触れるのだが、不思議に温もりを感じる。わたしの石、黒曜石。


 次第に体は黒曜石に包まれゆく。

 目を閉じたまま、わたしはいつしか黒曜石の中にいた。

 このままわたしは、眠らなければならない。休息を取らなければならない。


 わたしに与えられた使命に向き合うには、力が、命が必要なのだ。

 このまま死ぬことは、どうしてもできないのである。

 それに――。


 (かあ……さん)


 呼ぶ声が、聞こえる。


 (かあさん……かあさん)


 わたしを求め続ける声が聞こえるのだ。

 あの子を抱きしめることが叶うまでは、どうしても――。


 

 

 ……。


 悠久の時間を超えて、石の結晶は形作られる。

 壊れた石、砕けた石の跡に、新たな強い石が作られる。

 石と魔女の絆は切れることがない。魔女が生きている限り、石は魔女を見捨てることは、ない――。


 (かあさん、かあさん――)


 

 ゆっくりと、目を開く。

 どれほど、わたしは眠っていたのだろうか。

 だが、体に漲る爽快感と、どっしりと芯の通った、安定がわたしの中には根付いていた。それに、いきいきとした強い黒曜石が、わたしの中心で輝いているのである。


 わたしは、再生した――。


 体を包んでいた黒曜石の結晶は、もう、消えている。

 ゆっくりと起き上がると、わたしは腕の中で眠っていた、美しい黒猫がいなくなっているのに気づく。

 (ゴルデンが、いない)


 黒曜石の空間を見回るが、動くものの気配はなかった。わたしは立ちあがり、静かに伸びをした。

 長い間の休息で、からだは少しなまっているようにも思われる。


 かあ、さん。


 声が、聞こえた。

 わたしは動作を止めた。



 ……。

 かあさん――かあさん――。


 

 迎えに、きて……。 


 

 (待ち続けている、わたしを)

 あの子が――。

ラストに向けて、物語が駆け出しています。

どうぞ、最後まで見届けて頂けましたら、幸せと思いますm(__)m

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