契約 遂行
ゴルデンと、師と。
どちらも死に瀕していた。
ペルは愛弟子として、最後の仕事に臨む。
その2 契約 遂行
黒曜石の一閃は、おのれのすべての力を金のワンズに託し、巨大な魔法陣を描こうとしていたゴルデンの中心を、確かに貫いた。
視界を遮る横殴りの吹雪の空である。
濃い灰色の空間で、獣人の姿をした東の大魔女は、驚愕の表情を紫の瞳に浮かべ、ゆっくりとわたしを見下ろした。
視線が、合う。
彼の名を呼ぶわたしの声が、吹雪にかき消された。
輝く紫の瞳は、傲慢で強い彼そのものである。
どんな姿をしていても、どんな状況であっても、彼はゴルデンだった。
わたしは木のワンズを両手で握りしめたまま、瞬きすらできずに彼の視線を受け止めていた。
(どく……ん)
わたしの中心にある、黒曜石が激しく振動している。
今、わたしは血の涙を流している。
(どくん……どく、どく……ん)
ビロードのような黒と金の体毛に覆われた彼の顔、むきだした犬歯、吹き荒れる風にまくりあげられる紫の裏地。
ゴルデンの瞳には、怒りはない。
悲しみもない。……わたしには、彼が苦笑しているように見えた。
(その姿では、あなたがどんな表情をしているのか、よく見えない――)
だが、次の瞬間、逆方向から噴き上げられてきた吹雪の風に、ゴルデンの外套の前がおおきくまくり上げられ、わたしは意識を失いかけた。
大きな、空洞が――。
(ゴルデン、ゴルデン、ゴルデン――)
後ろに倒れかけた時、まるで平手打ちのように粉雪の嵐が頬に当たり、わたしは正気を取り戻した。
宙に浮いたまま、微動だにせずこちらを見下ろす異形の彼。その胸の中心に、大きな空洞が開いている。なにもない空洞である。
(わたしが、した――)
その空洞の向こう側は、ただ空しく、吹雪の灰色の空が見えるだけだ。
(わたしが、彼を――)
ぴしり、と鋭い音がした。
激しい胸の痛みが走る。今、わたしの黒曜石に大きな亀裂が走った。この亀裂は癒えることがない。この亀裂を抱いたまま、わたしは生き続けなくてはならない……。
「ゴルデーン」
宙に向かい、叫んだ。
だが、彼は相変わらず浮かんだまま、こちらを見降ろしている。
その遠い場所から、穏やかな彼の思念が降りて来た。
(おまえに、討たれるとは、な)
その声を最後に、彼は静かにまぶたを伏せると、前のめりになり、頭から雪の中へ落ちたのであった。
「ゴルデン」
(いやだ)
「ゴルデン、ゴルデン」
(冗談じゃ……ない)
雪をかき分けながら彼の落下した場所へ急ごうとするわたしを、引き留める手があった。
はっと振り向くと、悲し気な目をした老婆――オパールの魔女――が、わたしの外套を引いている。
年老いた母親の姿をしたオパールは、片腕で西の大魔女を抱きかかえていた。
もうまもなく、己の寿命を全うする、わたしの師を看取ろうとしている。
「魔女の愛弟子の、最後の仕事をなさい」
震えるような優しい声であったが、そこには大地のような強さと厳しさが込められていた。わたしは歯を食いしばり、拳を握りしめると、両方の目に涙を溜めながら向き直り、オパールの腕の中の師の元へ歩み寄る。
腰まで雪につかりながら、わたしは師の側へ行き、そっと師の手を取った。
すでに色濃い死の影を目の下に作りながら、師はうっすらと目を開く。逝去の直前でありながら、そのまなざしは強く、全てを見通すような叡智をたたえていたのであった。
「師よ」
わたしがささやくと、師はゆっくりと頷き、握りしめた手を、わたしの手の中で開いた。
ころん、とひとかけらのトラメ石が転げ落ち、わたしは掌でしっかりと受け止める。
師の、運命の縮図が――。
「……愛弟子、ペル」
その言葉を最後に師はまぶたを閉じ、オパールの魔女の胸に頭をうずめるのだった。
まだ、師の命が香る間に、わたしはしなければならない。
契約の、遂行――魔女の愛弟子の、仕事を。
目をとじると涙が飛び散り、それはたちまち細かな氷となった。
頬を粉雪に包まれながら、わたしは外套のポケットから小瓶を取り出し、栓を抜く。
たちまち、羽根の形をした依頼が飛び出して、吹雪の中でふわりと輝いた。
無垢の、輝き。世界の、白――。
「西の大魔女の代理、魔女の愛弟子が、この契約を遂行する――」
涙が吹きこぼれる。無数の細かい氷の粒がわたしの顔のまわりを舞い飛び、それらは吹雪に混じって散った。
わたしはトラメ石の欠片を乗せた掌を宙に掲げた。
トラメ石はグレーの空に浮かび上がり、鼓動するかのように何度か光を放った後、目を貫くほどの強烈な閃光が走った。
石は粉々に砕け散る。
そして、「依頼」の象徴である白い羽根は、契約が遂行された証として、唐突に消えてしまったのだった。
荒れ狂う吹雪、絶え間ない暴風に混じり、旋律が届く。
最初は微かに。次第に力強く。
パイプオルガンの音色だった。
(おにい……ちゃん)
わたしの前に、映像が浮かび上がる。
紫水晶の塔の中にいる、鳥に侵された世界。
体を覆う羽根が、ゆっくりと散ってゆく。皮膚から剥がれ落ち、次々と宙に舞う。
美しい白い体が露になり、紫の瞳から、ほんのわずかな涙がこぼれた。
(おにいちゃん、おにいちゃん……)
思いを凝縮した(嫉妬、執着――闇)涙は、人間の残渣そのものである。プリズムのような残光を残しながら涙は宙に分散し、消えてなくなった。
(……)
もう、狂おしい執着や嫉妬から発せられる、切ない呼び声は、聞こえない。
らせんのようなパイプオルガンの音色は、やがて別の旋律に移り、それは安らぎと、静寂を歌う。
剥がれ落ちた羽根は塔の窓から外へ飛び出し、青い空へ向けて散った。
今、世界は己の闇と決別し、彼女の心から醜い執着は完全に消えたのである。黄金の髪の毛が風に踊り、穏やかに微笑む彼女には、どのような陰りも感じられない。
伸びやかな肢体、純白の体。
美しい世界、健やかな世界。
世界の病みは完全に癒された。
あの青い清浄な空間を覆う、分厚い闇の層が徐々に薄れてゆくのだろう。
世界と我々を隔てていた闇は、いつか消滅するのに違いない。次の代の世界、わたしの胎児がその役割を追う頃には、もしかしたら――。
わたしは、この契約が完全に遂行されたことを知った。
それを告げるパイプオルガンの旋律は、また静かに遠のいてゆき、後には激しい吹雪の轟音が残っている。
……。
「師よ」
木のワンズを握りながら、わたしはオパールに抱かれる師を振り向いた。
(わたしは、あなたの教えを守ることができたのだろうか――)
しばらくの沈黙の後、師は目を閉じたまま、言った。
「……で、良い」
わたしはワンズを握る手をだらりと下げた。
オパールは師のあたまを固く抱き、老いた顔をこちらに向ける。静かな表情だった。
「この子を看取るために、行きます。あなたは――」
不可思議なオレンジ色の瞳に、ふいに優しい微笑を浮かべて、オパールは言った。
「彼の元へ行くのでしょう?」
オパールと、オパールに抱かれた師は、ゆっくりとその姿を薄くしていった。吹雪の中に消え失せる寸前に、オパールの声が微かに伝わる。
「あなたは、もう『母』なのです。己のなすべきことを――」
なすべき、こと。
雪に埋もれていた痕跡だけを残し、二人の姿は消滅した。
きっと、二人だけの場所で最期の時間を過ごすのだろう。あと僅かな命のきらめきを、いつくしみながら。
……。
わたしは、ゴルデンの元へ行かねばならない。
今度こそわたしは雪をかき分け、ゴルデンが落ちた場所へ急いだ。吸い込む空気の冷たさで、気道が凍りかける。固くなってゆきそうな体を必死に動かし、わたしはゴルデンを探した。
――見つけた。
雪の白の中に、風に激しくまたたく黒い布切れがうずもれている。彼の外套だ。
半狂乱になり、わたしは雪を漕いでその目印にたどり着いた。雪に半分うずもれたゴルデンが、獣人の姿で目を閉じていた。
雪まみれになりながら彼を抱き起すと、紫の瞳が開き、わたしを映した。
(ああ、彼は――)
中心の紫水晶を失い、あの強大でゆるぎない力は消え去った。
ただの人外、異形の姿のもの。
ゴルデンは、犬歯を見せてにやりと笑った。
何を笑っているんだ、とわたしが嗚咽交じりに毒づくと、ゴルデンは腕の中で肩を竦めて目を逸らした。
「言っておこうか」
意外にもしっかりとした声で、彼は喋った。
その声も、瞳も、まぎれもないわたしのゴルデンのものだ――わたしは歯を食いしばり、固く彼を抱いた。
「……まあ、聞け。俺が大魔女になる際の契約だ」
絆で結ばれた者に、己の醜い姿をさらけ出し、幻滅を呼ぶ。そして、死んでゆく――。
……これが、俺が『母』と結んだ契約なのだ。
わたしは目を見開いて腕の中の彼を見つめた。
「絆で結ばれた者」が、誰を指すのかを悟った時、わたしの中に残っていた最後のわだかまりが溶けて消えた。
(あなたは)
わたしは彼の紫の瞳を見つめた。涙でぼやける視界の中で、その瞳は燦然と輝いている。
(あなたは、そんな契約を)
あの、強奪の儀式の際に――。
瞳は確かに彼のものであるが、黄金の飾り毛とビロードの黒い短毛、それに覆われた顔は既に人間のものではない。
耳は尖り、大きく裂けた口からは鋭い犬歯が覗いている。奇怪な顔、異形の姿。
獰猛で、凶悪なけものの姿だ――。
(あなたは、なにを、言っているのだ)
わたしは片腕で彼の体を抱き、もう片方の手で、その異形の顔に触れた。
ぼたぼたと涙が顔の毛皮に落ち、毛並みに沿って滑って散った。
「それがあなたの契約なのか」
震える声でわたしは言った。
「だが、それは今は成立しない。わたしはあなたを、美しいと思うのだし、愛しているのだから」
紫水晶を失い、力を奪われた彼が、既に大魔女を剥奪されていることは目にも明らかである。
ただのけだもの、異形に過ぎない彼である。
だが――。
「……契約は、成立していない。あなたは、死にはしない――」
紫の瞳がゆっくりと動き、再びわたしの視線とかみ合った。
わたしは彼の顔に自分の顔を近づけると、大きく裂けて犬歯を剥きだしたその口に、接吻をした。
驚いた彼が身をよじり、拒否しようとしたが、ありったけの力で彼の頭を抱え込み、それでも抵抗が続くので、三角に飛び出したけだものの耳を掴んでねじった。
かつて彼がしたのと同じように、わたしは全身全霊の力を振り絞り、わたしの黒曜石の半分を亀裂に沿って割り、彼の中へ流し込もうと試みていた。
(命を――力を――半分、あなたに)
非常に高度な魔法である。本来ならば、大魔女クラスの力の持ち主でなければ、扱うことができないようなものだ。
それに、今のわたしには残力があまりない。先ほど放った黒曜石の一閃で、ほとんど使い果たしたといっても良かった。わたしには休息が必要であり、そうしなければ、魔法を思いのままに操ることはむつかしかった。
それでも、やらねばならない。
もがいていた彼は、やがて体にこめた力を抜いた。
毛むくじゃらで、鋭い爪を尖らせた彼の手が、雪の中から出てきてわたしの背中を抱いた。
わたしは力任せに耳を掴んでいた手を離し、彼の抱擁に応えた。
(どんな姿であっても――)
唐突に手ごたえが消えた。
はっとして目を開けると、腕の中いっぱいにあった獣人の姿は消えており、代わりに華奢で上品な黒猫が、ぐったりとしていた。
つるりと雪の中に取りこぼしそうになりながら、わたしは黒猫を両手で抱き、激しくゆすった。
猫は温かい。確かに生きている。――だが、意識が、ない。
(ゴルデン――)
わたしは猫を抱きしめ、ゆっくりと頬ずりをした。
最も、力を消耗しない姿に身を落とし、命を繋ぎとめようとしている。
この姿は、あるいは永久にこのままかもしれないが――彼は、生きていた。
生きていた。
(いい。十分だ……)
わたしはもう一度彼を抱きしめ、その狭い額に接吻を落とすと、最後の力を振り絞って意識を集中させた。
恐ろしい勢いの吹雪が体に叩きつけており、同時に重度の疲労で、今にも倒れてしまいそうだった。
だが、なんとか成功する。
空間はぐにゃりと歪み、わたしは猫を抱いたまま、黒曜石の異空間に転がり込むことができた。
……。
頑固な程に力強い、黒曜石よ、夜空のきらめきよ。
わたしは猫を抱きながら、前のめりに倒れ込む。
この頼りない肉体は限界を迎えかけており、骨の髄まで吹雪にやられ、凍り付きかけていた。
(休息を、休息、を――)
……。
わたしは、体を黒曜石が包み込むのを感じる。
倒れた足元から固めるように、黒い結晶が盛り上がり、覆い隠す。
無機質な冷たさが皮膚に触れるのだが、不思議に温もりを感じる。わたしの石、黒曜石。
次第に体は黒曜石に包まれゆく。
目を閉じたまま、わたしはいつしか黒曜石の中にいた。
このままわたしは、眠らなければならない。休息を取らなければならない。
わたしに与えられた使命に向き合うには、力が、命が必要なのだ。
このまま死ぬことは、どうしてもできないのである。
それに――。
(かあ……さん)
呼ぶ声が、聞こえる。
(かあさん……かあさん)
わたしを求め続ける声が聞こえるのだ。
あの子を抱きしめることが叶うまでは、どうしても――。
……。
悠久の時間を超えて、石の結晶は形作られる。
壊れた石、砕けた石の跡に、新たな強い石が作られる。
石と魔女の絆は切れることがない。魔女が生きている限り、石は魔女を見捨てることは、ない――。
(かあさん、かあさん――)
ゆっくりと、目を開く。
どれほど、わたしは眠っていたのだろうか。
だが、体に漲る爽快感と、どっしりと芯の通った、安定がわたしの中には根付いていた。それに、いきいきとした強い黒曜石が、わたしの中心で輝いているのである。
わたしは、再生した――。
体を包んでいた黒曜石の結晶は、もう、消えている。
ゆっくりと起き上がると、わたしは腕の中で眠っていた、美しい黒猫がいなくなっているのに気づく。
(ゴルデンが、いない)
黒曜石の空間を見回るが、動くものの気配はなかった。わたしは立ちあがり、静かに伸びをした。
長い間の休息で、からだは少しなまっているようにも思われる。
かあ、さん。
声が、聞こえた。
わたしは動作を止めた。
……。
かあさん――かあさん――。
迎えに、きて……。
(待ち続けている、わたしを)
あの子が――。
ラストに向けて、物語が駆け出しています。
どうぞ、最後まで見届けて頂けましたら、幸せと思いますm(__)m