~閑話~我が 背
ゴルデンの痕跡を追い、オパールの魔女の住処へと続く「扉」を探すペル。
風景は寂しくなってゆき、人家もまばらになる。
そしてペルはたどり着くのである。
「母」への案内人の住む家へ。
その9 ~閑話~我が 背
徒歩の旅は思いの他長く続いており、えんえんと連なる山が近づくにつれ、人の数は減ってゆく。
まばらな粉雪が時折降るほかは、天気は晴れ渡っていた。
そのために、舗装をされていない道はいびつに凍り付いており、気を抜くと木靴が滑るのだった。
いま、わたしが頼るのは、ゴルデンの残した気配のみである。彼の痕跡を探し出し、それを頼りに次の一歩を踏み出しているのだ。
幸い、ゴルデンは無頓着に己の思念の残渣をそこらに放り投げている。
(東の大魔女は、己の思考をブロックしているくせに、思念の残渣については扱いが雑だ……)
ゴルデンは様々なことを考えている。
次第に閑散として行く風景は、まだらに霜がおり、土と白色、そして山と空ばかりである。時折見える人家は非常に貧しいものであり、一晩の宿を頼みに行った先が廃屋だったことも多々あった。
その、世に見捨てられた、殺伐とした風景の中で、ゴルデンの思念の残渣は際立って鮮やかである。
もう既に人の手が入っていない荒れ果てた畑。その中に心細く伸びる一本のあぜ道を歩きながら、わたしは彼を知る旅を続けている。
彼の――ゴルデンの音色は、ヴァイオリンである。気品がありながら、時折荒々しく高鳴る旋律が、彼の魔法の調べだった。
わたしはその調べを追う。
ふわりふわりと、霜や朝方の霧から沸き起こる思念の残渣の中には、やはり彼の妹の姿があった。
一際美しい記憶としてそれらは輝いている。それを見つける度、わたしの胸は締め付けられるのだった。
嫉妬ではない。
わたしの中から嫉妬が消えたのは、いつからだったか。
……。
彼の妹への想いを見て胸が締め付けられるのは、わたしがこれから行おうとしている契約遂行、そしてその結果について考えてしまうからである。
西の大魔女、わたしの師の命を摘み取ることで、世界は己に救う闇を手放すことができる。
それはつまり、世界が執拗に抱き続ける兄への思慕を消去することなのだ。
(おにいちゃんの中に、わたしを永遠に刻み付けるために――)
彼の思念の残渣の中には、時折わたしの姿も見つかった。
それは、妹に対する思念とは全く異なり、憎らしさや怒り、苛立ちなどが強調されている。綺麗な記憶とは言えないものばかりだ。非常に暗く、地味な印象で、わたしは彼の中に焼き付いている。
その映像を見た瞬間、酷く苦々しい声で 「可愛げのない……」と呟く彼の想いも聞かれるのだった。
だが、わたしはその声でひどく温められていた。
「可愛げのない……」
「愚かな……」
「どこまで俺に面倒をかけるか」
「……迷惑な……」
吐き捨てるような呟きは確かに彼の声であり、そこにはあたたかさがあった。
繰り返す昼と夜を歩きながら、わたしは一人で時折微笑んだ。
微笑み。
自分が微笑むことなど、あるのだろうかといぶかしんだのだが、わたしは微笑んでいるのである。彼を思うと微笑みが零れるのだ。
旅が進み、人家が滅多に見られなくなる程の僻地になり、凍る山脈が近づくほどに、ゴルデンの思念の残渣に登場する魔女の愛弟子、ルンペルシュティルツヒェンの姿は多くなった。
胎児のこと。
そして、わたし。
また胎児のこと。
時折、世界。
そして、わたし、わたし、わたし――。
(愛着なのだろうか)
全く可愛げのない、ぶっきらぼうなわたしの姿ばかり眺めていると、さすがに少し呆れてくる。
(何を考えているんだ……)
上目で睨む表情。歯を食いしばって胸倉を掴もうとする寸前。振り向いて、疑い深そうに眺める目つき。
(こんな顔ばかり……あなたは、何を思って)
そして――。
「何、考えてるんだ……」
人がいないから良かった。
わたしは思わず大きな声を出してしまい、自分の声で飛び上がったのだった。
枯れた草木が茂る中に、思念の残渣が煌めいている。
朝露がちりばめられたように輝くそれは、あの晩、思いがけなく見せてしまったわたしの裸体であった。
(寝ぼけていたように見えて、ずいぶん詳細に眺めていたものだ……)
ついに頭を抱えたくなって、わたしはその残渣から目を逸らした。
東の大魔女も、煩悩を残しているということが、よくわかった。
これは、再会した時に頬を張ってやっても良いだろう。
同時にわたしは、このようなことも思った。
(師も――そうなのか)
女性に動揺する心を持ち合わせているというのだろうか。
……。
またまもなく夜が訪れようとしている。
凍てつく夜、体を苛む夜が。何とか今晩の宿を求めなくてはならない。
慢性的に凍っている道、張った氷の下には思いがけない程鮮やかな緑が見えた。枯れる前に氷漬けになったのだろう。
その氷の道が、おぞましいほど赤い夕陽に染まってゆく。
山村の夕日は目を見張るほど大きい。
山脈の向こう側に沈む刹那、日はいびつに歪み、大きく膨れ上がるのである。
空は鮮やかな赤に燃え上がり、山々も赤に染まり、そしてあっけなく夜を迎えるのだ。
吐息が白い煙となり、赤く燃える空に消えてゆく。
見渡す限り、氷の大地だ。
わたしは歩きながら目を凝らし、日が最後のひとかけらを残す段階になって、ようやく一軒の家を見つけた。
この地帯には電気も通っていないだろう。
だから、その家の窓が暗く温かいのは、暖炉の明かりに間違いがなかった。
小さな平屋の家であり、わたしは外套を掻き合わせると、力を振り絞ってそこを目指す。
吸い込んだ息も凍っているようなこの寒さは、わたしを酷く消耗させていた。ぐらぐらと足元が揺れ、頭の中が回るような感覚がある。おまけに、外気からくる寒気ではない、体の内側からの冷たい感触――悪寒も感じ始めていたのだった。
宿を断られるかもしれないという危惧はなかった。
なぜなら、その家にもゴルデンの痕跡が鮮やかに残っていたからである。
次第に濃くなってゆく冷たい闇の中で、わたしは、ゴルデンがその家の玄関に立ち、招き入れられる幻想を見た。彼は確かにその家に立ち寄り、一晩を過ごしたのである。
まるで這うように、やっとのことでその家にたどり着く。
非常に古びた壁は表面が剥がれかけているが、家そのものは頑丈な造りだ。重たげなつららが連なる軒下を眺めながら、わたしは不愛想な木の扉を叩いた。
すると、すぐに扉は開いた。
ふわりと温かな空気が流れ出す。出てきたのは、小柄な老婦人だった。こっぽりとショールをはおり、分厚いスカートを引きずっており、頬は林檎のように赤いのだった。
老婦人は、眼鏡の奥の優しい灰色の目でわたしを見て、驚きの表情を浮かべた。
立っているのもやっとのわたしの手に触れ、中に入るよう促す。
「なんということ――死んでしまうよ。こんなところをそんな軽装で歩くなんて」
足を踏み入れた瞬間、むせかえるほどの温もりに包まれる。
パチパチと炎が踊る大きな暖炉。その横に積まれた大量の薪。
温かなスープの香りも漂っている。
わたしは安堵し、その場で膝をついたのだった。
……。
ゴルデンが、額を冷やしてくれている。
淡々とした表情で、まるで義務のようにそっけなく、彼はわたしを介抱する。
その背後では豊かな暖炉があり、世界をまるごと温めるようなオレンジの炎が踊っているのだった。
わたしは起き上がった。
わたしは簡易ベッドのようなものに寝かされており、ゴルデンは床に敷かれた分厚いえんじ色のカーペットに腰を下ろしていた。
ゴルデンは呆れたような目をしていた。
「貴様は、子供か」
何度も熱を出す奴があるか……。
わたしは自分の額に手を当て、自分の体の調子を感じてみて、熱がすっかり引いていることを知った。
ゴルデンが今にも次の悪態をつきそうだったので、わたしは彼をきつく睨み、言ったのである。
「わたしが子供ではないことは、見て知っているだろう」
……。
ゴルデンは拍子抜けしたような顔をした。
それで、わたしは消えかけていた羞恥心が呼び戻され、全身が熱くなったのだった。
こちらに背を向けて、ゴルデンは笑いをかみ殺した声で言った。
「自分で言って、なにを照れているのだ……」
ゴルデンの背中。
黄金の巻き毛。
その背中が、ゆっくりと遠ざかってゆく。
暖炉の、向こう側に――。
「ゴルデン」
自分の声で目が覚めた。
穏やかな眼鏡の老婦人が覗き込んでいる。
天井は暗かったが、大きな暖炉から放たれる炎の光が部屋全体を照らし出し、奇妙だが頼りがいのある影をそこらじゅうに揺らしているのだった。
炎の影が踊る天井を眺め、そしてわたしは上半身を起こした。
老婦人は静かに、温かなスープの皿を差し出してくる。わたしはそれを受け取り、口にした。
ソファの上に、わたしは寝かされていた。
分厚い毛布が体にかけられており、ブラウスの首元はゆるめられていた。
床には濡れた布が落ちており、その布でわたしの額を冷やしてくれていたらしかった。わたしが起きあがった拍子に落ちてしまったのだろう。
「……『母』の元に行かれるのだね」
老婦人がふいに、そう言った。
わたしはスープを飲む手を止めた。
老婦人は眼鏡の奥の灰色の目で、静かにこちらを見つめている。しわだらけの口元はほころんでいた。
「ここいらに来る人は、みんなそうだからね」
わたしは『母』に繋がる扉への案内人というわけさ。
……。
わたしはまじまじと老婦人を見つめ、「読み取ろう」とした。
老婦人はゆるゆると首を振った。やはり柔らかく微笑んでいる。
「無駄さね。あたしには、魔法は通じない……」
掴み取ることができる、情報がまるでないのである。
だが、わたしは彼女の中に、果てしないものを見た。
山、空、山――春の美しさ、夏の輝き、秋の煌めきと儚さ、そして冬の温もり。
鮮やかな山野草も、蝶も、愛らしいオコジョや珍しい鳥も、彼女の中で安らいでいる。
(人間では――ない)
「『母』が、あたしみたいな存在を必要として、ここに置いてくださったのさ」
(だが、魔女でも、ない……)
この老婦人から、魔法の力は一切感じないのだ。
命の寄せ集め、である。
この不毛の土地に生きる生命たちのきらめきが集まり、彼女を形作っているようだった。
「春には、あたしは消えてなくなり――季節をひとめぐりしてから、またここに帰ってくる。そう、冬はね」
飲み終えたスープの皿を受け取ると老婦人は立ち上がり、台所へ向かった。そして、古めかしいカップを持って戻ってきた。
飲むように勧められて口をつけると、ブランデー入りの紅茶である。
体が内側から熱くなるのだった。
「今夜はここにお泊り。明日になれば、『扉』まで案内してあげよう」
わたしの側に椅子を引いてきて、自分もまた飲み物を飲みながら、老婦人は言った。
暖炉から放たれるオレンジの光に飲まれてしまいそうな小柄な姿である。
丸まった背中も、ひっつめた白髪の頭も、弱弱しく優し気に見える。にもかかわらず、彼女からは無条件で安心できる力強さが溢れていた。
「以前、ここに巻き毛の少年が来なかっただろうか」
紅茶を啜りながらわたしが言うと、老婦人は頷いた。目を細めている。
ずずず、と熱い飲み物を啜り上げる音が響いた。
やがて老婦人は言った。
「ああ――来たよ」
とくん、と心臓が温かく高鳴った。
「……元気だっただろうか」
わたしが言うと、老婦人はおかしそうに目を笑わせて、わたしの顔を覗き込みようにした。純朴な顔に、さらに皺が寄った。
「ああ、夫を追っているのだね、あんたは……」
元気だったよ、心配などいるものか。
老婦人はそう言い、またブランデー入り紅茶に口を付けた。
ぱちぱちと炎がはぜている――。
わたしは、思いがけないほど落ち着いてその言葉を受け取ることができた。
否定することも、狼狽することもなく、淡々とそれを受け取り、受け入れた。
自分もまた、インクを溶かし込んだような濃い色の紅茶を啜り、そして、答えたのである。
「元気でいるならば、良い……」
……。
炎の影が揺れる壁に、天井に、家具に、わたしはゴルデンの幻影を見た。
あの簡素なテーブルに彼は着き、わたしが飲んだのと同じ温かな穀物入りのスープを飲んだ。
そして、同じ寝床で横になり、彼はウイスキーを飲んだのであろう。
冷たい風の音が家の外を駆け抜けて行き、窓はガタガタと揺れた。
カーテンのない窓からは満天の星空が見える。
やがて時がくると、無数の流れ星が飛び始め、流星群が始まったのだった。
「この季節の風物詩さね」
老婦人は窓に目をやるわたしに、軽く解説した。
飲み干したカップを受け取ると、老婦人は立ち上がる。
「それでは……おやすみ」
テーブルの上に置かれたカンテラに、マッチで擦った火を灯しいれ、老婦人は静かに部屋を出た。
炎の影が薄く揺れ、老婦人の長い影法師が床から壁、天井に向けてゆるやかに動く。
扉を閉める直前、彼女はもう一度わたしを見て、頷くと、言った。
「……全ての迷いを、置いてゆくのだよ」
ここに。
この、休息の家に――。
(ゴルデンにも、置いてゆくような迷いがあったのだろうか)
軽い音を立てて扉は閉じた。
わたしはソファに寝転がり、炎の影が踊る天井を見上げ続けていた。
もうじき眠りの腕が、物憂いわたしを抱き取りに来るだろう。
そして、眠りの中に置いてゆくのだ。
迷いを。すべての迷いを――。
愛弟子のささやかなラブストーリーとなります。
次回より最終章、ラプンツェルに入ります。
読んでいただいて、本当に幸せと思います。




