ハーメルンの笛吹き 4
胎児は怒っていた。
「母」を傷つけようとした相手に対し、恐るべき力をぶつけようとしていた。
契約遂行を邪魔させまいと、ペルは刃の前に飛び出した。
その7 ハーメルンの笛吹き 4
それは全く新しい紫水晶の空間であり、身を刺すほどの神聖な空気に満ちていた。
無限に広がる空間の中には巨大な紫水晶の群生があちこちにそびえており、そこには途方もないほどの力が蓄積されている。
白い輝きに守られた胎児は、紫の瞳でわたしを見つめている。
頭を逆さにして丸まった姿で、胎児はかすかに手足を動かしていた。
「かあさん」
と、胎児は言った。
わたしは、地中どこまでも果てしなく続いていそうな紫水晶の床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
同時に胎児も浮上し、わたしの目線と同じ高さに来るのであった。
非常に、広大な空間である。
ゴルデンのそれよりも果てしがないほどだ。
なによりも、この痛いほどの清浄さである。
類似した空気を、わたしは知っていた。
(白い、羽根の飛び交う空間――)
わたしは改めて胎児を見た。
頭を下にして丸まった姿で、顔立ちはまだ未完成であり、誰に似ているか等はわからない。
ただ、その強い紫の瞳は、はっきりとゴルデンから受け継いでいる。
(この子は、確かに「世界」を継ぐ者なのだろう)
……。
胎児は瞬きをし――唐突に紫の瞳が強烈に輝いた。
四方から圧迫する様な空気が押し寄せ、わたしは立っていられずに膝をつく。即座にワンズを胸に置き、防御の魔法を使う。
凄まじい。あまりにも凄まじい、圧力である。
「……かあさんを、飲もうとした」
胎児が言葉を発した。
ぴりぴりと肌に当たり、当たったところが裂けて血が噴き出しそうな空気である。
わたしは歯を食いしばる。防御の魔法が、やっとのことで持ちこたえているが長時間は無理だ。
これは、怒りである。
胎児は、怒っている。
まだ表情をつむぐことのできない顔面は、静かにこちらを向いているだけだ。
しかし、胎児は激怒していた。その恐ろしい程の怒りが、強大な力を蓄える魔法空間でびりびりと震えているのである。
わたしは知る。
この胎児は確かに強大な力を持ち、なるほど「世界」を継ぐ運命の子なのかもしれない。
だが、今は胎児に過ぎない。なんら経験を摘まない、まっさらなゼロの状態なのである。
彼の現す感情はあまりにもむき出しであり、しかもその強大な力を抑える術を知らず、思いのままに爆発させてしまうのだ。
「おまえは今、自分よりも強い者を胎内にはらんでいる。だから、命を落としやすい状況にある……」
ゴルデンの言葉が蘇る。
これでもかというほど、その言葉が現実であることを知らされ、わたしはただ無言で防御をしつづけ、胎児を見つめていた。
恐ろしいのと同時に、名状しがたいものがふつふつとこみ上げてくる。
この胎児は、わたしを「かあさん」と呼び、わたしが命の危機に瀕していたことについて激しく怒っている。
彼の怒りは今、あの闇の笛吹きに向けられており、そこにはいかなる事情をさしはさむ余裕がない。
わたしに刃を向けた、ただそのことだけで、彼に我を忘れさせるには十分すぎるのだった。
(……契約遂行の差しさわりになる)
と、思うと同時に、こみ上げてくる温かなものに、わたしは唖然とする。
それは、母性――とでもいうべきものか。
「怒ることはない。これは『仕事』なのだから」
わたしは胎児に向け、ゆっくりと言った。
だが胎児は怒りを鎮めることはなく、肌を刺すような感覚はますます強烈になった。まるで火傷を負わされたように、肌がひりひりとする。
異空間の空気そのものが、怒りの炎を上げている――。
「許すことは、できない。かあさんを傷めるものは」
また、紫の瞳が異様な輝きを帯びた。
映像が浮かび上がる。
渦巻く濁流の中に、微動だにせず立ち尽くしている男。
笛を口に当て、不思議な調べを奏で続ける。
その旋律は、孤独に苛まれ身の置き所を失った人々の心を奇妙に惹きつけ、引き寄せる。
濁流の中であっても、人々はそれを求めずにはいられない。そこまで行かねば済まない。
……。
この男の契約を遂行する。これがわたしの使命なのだ。
魔法が跳ね返されてしまい、すんでのところで濁流に飲まれるところであったが、まだわたしは命を繋いでいる。契約を遂行する義務が、わたしにはある。
「そんな綺麗な魔法じゃ、誰も救えないんだよ」
わたしは身震いをした。
肌に触れる空気が酷く痛いのと、闇に縋らずにはおれなかった魔法使いの深い絶望のために、鳥肌が立つようだった。
闇は確かに温かく、どこまでも甘く包み込むだろう。
そこを居場所とし、そして他の命をも呼び込まずにはおられない。それを救いなのだと心の底から信じている。
(おいで……ここは良い場所だ……温かく優しい……もう孤独ではない……)
(抱いて)
人々の腕が渦を巻く流れの中から突き出して天を求める。蠢く掌はしかし、何も掴むことができないまま無情にも飲み込まれてゆく。
(温めて)
命を失う寸前で、この世に縋りつこうとする者たちの悲鳴が激しく上がる。
その中を切り裂くように、男の笛の音は鳴り響く。
(……許して)
闇は許す。どんな甘えも醜い嫉妬も、情けない孤独も。
全てを包み込み、飲み込んでしまう。
……。
わたしは闇に身を落とした笛吹の魔女の、心を見た。
居場所がないと思い、孤独に耐えかねた彼の心は、ひどく繊細だ。わたしは彼を覆う闇の中に、微かに光る粒子を見た。それは人間の残渣である。虹色に光りながら空気中に散ずるはずのものが、闇にからめとられて、そのまま男の体にまとわりついているのだった。
闇の魔女になる前の彼は、美しいものを好み、儚く四散する人間の残渣を惜しんでいた。
人間の残渣を愛おしいと思い、それを失うことを悲しいと思っていた。
……。
(この男が魔女になった経緯にも、契約がある)
苛烈さをます異空間の空気に喘ぎ、押しつぶされそうな防御の魔法を必死で保ちながら、わたしは「読み取り」を続ける。
笛吹の魔女が、魔女になった経緯――。
目を凝らすと映像が次々と浮かび上がる。
めらめらと紫の炎が燃え上がりそうな空間の中で、奇妙に揺れながらも、映像は立ち上った。
今にも破壊されそうな防御の魔法を保ちつつ、わたしは神経を集中させる。
そして――読解は終了した。わたしは笛吹男の過去を知り、経緯を知り、魔女になった理由の魔法の契約についても理解することができた。
(この契約を解除せねばならぬ)
今、彼から飛ばされて受け取った、成立した契約を遂行するのではなく、彼が魔女になった際の契約を破棄すること。
そうすれば、彼は「許さ」れ、彼の中に閉じ込められている孤独な魂たちは「抱かれて温められ」ることに繋がる。
わたしは、運命の縮図を読み間違えていたのではなく、魔法を当てる部分を間違えていたのだった。
(……できる。この契約を遂行することが、できる……)
己の失態を取り戻すことができると確信したと同時に、恐ろしい予感が過った。
胎児が、わたしを見つめている。
否、胎児は、わたしを通して「依頼主」――闇の笛吹の魔女――を、凝視しているのだ。
彼の考えていることは、母親であるわたしには手に取るように分かった。
(許さない――)
彼の怒りは今にも「依頼主」をちりぢりにし、完全に消滅させようとしていた。
「いけない」
わたしはとっさに手を伸ばし、胎児を抱き取ってあやそうとした。
しかし、白い輝きにくるまれた胎児に触れかけた瞬間、激しい火花が飛び散り、あっという間にわたしは舞い飛んだ。
紫水晶の空間をどこまでも飛ばされ、そして落下する。背中をしたたかに打ち付け、わたしは呻いた。
そしてわたしは更に知ることとなる。
わたしが衝撃を受けた瞬間、胎児の姿が薄くなった。
はっとして身を起こすと、そうしている間に胎児の姿はまた復活し、元通りの強烈な怒りを発している。
(わたしが傷つくことは、この胎児の命に関わることなのか……)
起き上がる時、下腹に激痛が走った。
「かあさん……」
痛みに耐えつつ、ワンズを胸に置くわたしに、胎児は悲し気に呼び掛けてくる。
「わたしは、悪い子?」
間違っているの?
かあさんは怒っているの?
……。
「そんなことは……ない」
胎児から発せられる激しい波動が、ほんの僅かだが緩んだ。
だが、胎児はまだ怒りを抑えきれずにいる。
「かあさんを傷める者を、許すわけにはいかない……」
浮かび上がる映像の中では、濁流の中に立つ笛吹男をめがけて、凄まじい怒りをはらんだ紫水晶の思念の矢が今にも放たれようとしていた。
わたしはワンズを握りしめ、精一杯防御を厚くしながら胎児に近づき――そろそろと手を伸ばした。
白い輝きに触れる寸前で手を止め、わたしはゆっくりと言った。
「大丈夫だ。怒るな――あの男を殺してはならない」
胎児の瞳がゆっくりと動いた。
一瞬の静けさが訪れる。
わたしは手の甲がずきずきと痛んでいることに気が付き――擦りむいた部分が血を流しているのを見た。
胎児の瞳はそれを捉えている。
「おぎゃあ、ああああああ……」
そして、大砲のような怒りの矢が放たれた。
(ああ、子よ――)
紫の嵐が髪と外套を激しく翻弄する。
許さ……ない。
凄まじいまでの思念の矢は、まっすぐに「依頼人」を目指している。わたしはとっさに動き、自分の体でその矢を食い止めようとした。
どんなものでも貫き通す、強力な紫水晶の矢じりが、うねるような嵐を巻き起こしながら向かって来る。
わたしはありったけの力をワンズに込め、できる限りの防御をしようと努めた。
その時、目の前に黒い外套と黄金の巻き毛が過る。あっと思った時には、わたしはゴルデンに横抱きにされていた。
ゴルデンはすり抜けざま、黄金のワンズを一振りする。激しい嵐のような怒りの矢じりは瞬間、打ち砕かれ紫水晶の空間の中に派手に飛び散ったのであった。
「お、ぎゃあああああ……」
(かあさん、かあ……さん)
ぐにゃりと空間が歪み、わたしは別の異空間に移った。同じ紫水晶の異空間ではあるが、そこはゴルデンの場所だ。
ゴルデンはわたしを降ろすと、何とも言えない表情でこちらを眺めた。
「余計なことを」
と、言いかけ、わたしははっとする。胸元のリボンを探ると、ぷつりとちぎれて短くなった金の髪の毛が摘ままれた。さっきの激風で千切れ飛んだのであろう。
わたしは目を見開いてゴルデンを見上げた。
「約束だったな」
ぽつりと言うと、ゴルデンは紫の瞳でわたしの目を覗き込む。
無数の汗の玉が湧き出し、わたしは後ずさる。
今ここで、契約遂行を中止するわけには。ゴルデン。
「……どっちにしろ、今のおまえでは無理だ」
ゴルデンはゆっくりとこちらに迫りながら言う。
「その胎児をはらんでいると、強大な力が様々な危険を引き寄せる」
わたしは一歩一歩後ずさりながらも、もう逃げることができないことを十分すぎるほど知っていた。
「……今のおまえでは、その危険を回避することができない」
それでも抗わないわけにはいかなかった。
木のワンズをかかげようとしたが、ゴルデンは瞳に力を籠め、思念の力のみでわたしの手を払った。ワンズは手を離れ、くるくると宙を飛び、そして音を立てて落ちた。
紫水晶の床を滑り、ワンズはゴルデンの足元で止まる。
ゴルデンはワンズを拾い上げると、その手の中でワンズは瞬く間に消滅した。
次にゴルデンはわたしを見つめる。
不思議なほど穏やかな瞳が近づいてくる。
わたしは魔法にかけられたように動くことができぬまま彼を待ち――そして、彼はわたしの肩に片手をかけ、もう片方の手で顎を上向けたのだった。
わたしは紫の瞳を見上げながら、様々なこと――師に引き渡されたときのこと、師との生活のこと、魔女の愛弟子と呼ばれるようになり、今に至るまで使命を果たしてきたこと――を、思い起こしていた。
(師よ、師よ)
魔女の愛弟子として、わたしは「依頼」を受け、契約を遂行しなくてはならない。
最後に大きな契約が残っているではないか。
世界が、師が、その遂行を望んでいる――。
(師よ、あなたの元にいくことが、叶わない……)
例え命を摘み取るための再会であるにしろ、わたしは師に会いたかった。
愛弟子として、師の教えを貫く姿を見せたかった。
(師よ)
ゴルデンがまつげを伏せ、軽く開いた唇を寄せる。
上品な香、温かな吐息が頬に流れ、わたしは目を閉じた。
(もう、おしまい、か――)
愛撫かと思うほどの優しさで、ゴルデンの手が肩から背中に移り、体を引き寄せ――わたしは彼の体温を感じた。
次にわたしは、驚愕のために目を見開いた。
ゴルデンは、口づけをわたしの額に落としたのである。
唇ではなく、額に。
わたしは目を見開いて接吻を受けた。
背中を引き寄せた腕は胴に回され、顎を上向けていた指はうなじを回り、わたしの髪の毛の中にもぐった。
(なん、だ……)
魔女の愛弟子を剥奪する、処分の口づけではない。
ゴルデンは静かに唇を離すと、もう一度わたしの目を覗き込んだ。
無表情である。
否。
……彼は、その表情を、浮かべることが、できない――。
「俺が、やる」
わたしは茫然としたまま、ゴルデンが離れてゆくのを見ていた。
ゴルデンはゆっくりと遠のいてゆき、周囲の紫水晶が酷く眩しく輝きを放つ。
「ゴル……」
何が行われようとしているのか悟った時、わたしは紫水晶の中に閉じ込められていた。
わたしを包み込んだ紫水晶は、豆の木が空を目指すかのようにどこまでも伸びて行き、遙か高い場所で、ようやく動きを止めたのである。
紫水晶の塔の最上階、どこにも扉のない小部屋に、わたしは閉じ込められていた。
一つだけぽっかりと開いた窓に駆け寄る。
わたしは息を飲んだ。
そこは紫水晶の空間ではなく、見知らぬ森の中である。
穏やかな日差しが差し込み、小鳥が歌い、蝶が舞う世界だった。
そこは、ゴルデンの魔法の幻想世界だ。
魔法の中に、わたしは封じられたのである。
「ゴルデン、出してくれ」
窓から外に向かい、わたしは叫んだ。
チチ、と小鳥が驚いたように目の前をよぎる。美しい、青い羽根の小鳥――。
「ゴルデン、ダメだ……」
(そこで、待っているが良い)
唐突に声が脳裏に届いた。
冷たい響きを持つ、ゴルデンの声である。窓にしがみついたまま、わたしはその声を受けた。
(笛吹男との契約遂行も、西の大魔女の命を摘む件も、おまえが関わることを、禁じる)
「何を、言っているんだ……」
震える声でわたしは言い返す。
どこにもいないゴルデンに向かい、窓の外に向かい、穏やかな風で髪を揺らしながら。
(全て、俺がやる)
「……ゴルデン」
(魔女の愛弟子の代理として、東の大魔女が)
声は途絶えた。
ゴルデンは飛び去ったのだろう。
わたしは窓枠に額を落とし、床に膝をついた。
「ゴルデン……」
息を吹き込むことで魔法になってしまうから、唇への接吻では思いを伝えることができないのです。




