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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第七部 ハーメルンの笛吹き
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ハーメルンの笛吹き 3

ゴルデンとの最後の食事。

それは、ペルに様々なことを気づかせるのだった。

その6 ハーメルンの笛吹き 3


 宿の1階にある食堂はまだ開店しておらず、二階の部屋に運ばれてきたものを食べることとなった。

 テーブルなどはなく、皿を床に置き、向き合って座って食事を摂る。

 温めた牛乳と、昨夜の残りであろう野菜スープ、そして固いパンである。申しわけに、古い真鍮のポットに熱いコーヒーが入っている。

 ただそれだけのものであるが、これほど落ち着き、ゆったりと食べることができたのは、ゴルデンと旅をして以来、初めてのように思えた。


 カーテンは開かれており、窓からは早い午前の光が飛び込んで来る。

 冬の薄い日光ではあるが、日差しは確かに空気を温めており、屋根から下がったつららからは水が滴っていた。


 (ぽたり……ぽたり、ぽた……)


 食器を使う音が穏やかに聞こえ、その合間を縫うように、水が滴る音が耳に届いた。

 窓から覗くつららの先は日を浴びて輝いている。目のふちに焼きつくほど眩しいのである。

 わたしは俯いて食事を摂っていた。

 ゴルデンは終始無言であり、いつもの上品な食べ方で、しかも手早く片づけており、今は既にコーヒーを啜っているのであった。


 わたしもまた食事を切り上げ、カップにコーヒーを注いだ。

 熱い湯気が立ち上る――。


 ゴルデンの長いまつげが伏せている。

 砂糖も何もいれないコーヒーを、静かに飲んでいる。

 穏やかな日差しが彼の顔に陰影を付け、わたしは思わず見つめていた。


 (この時間が、続いたなら――)


 見事な金の巻き毛は、髪の毛の一本に至るまで日光に輝いている。

 紫の瞳はまつげの下に隠れ、今は何も見ていない。

 白い肌に浮き上がる金のそばかす。

 カップの持ち手に通された繊細な指、優雅で華奢な体つき、ただ胡坐をかいて座っているだけなのに、そこが王座であるかのような――傲慢な程の、存在感。


 彼は、東の大魔女である。

 誇り高い、魔女たちの審判者である。

 強大な力を持ち、彼に太刀打ちできるものは数少ない。彼と互角の力を持つものがあるとすれば、それは。


 (……師よ)


 西の大魔女と東の大魔女。

 契約を遂行する者と、それを裁く者。

 対になる二つは互角の力と権威を持ち、対峙した時に一歩も譲ることはないだろう。

 赤い髪の毛を一つにまとめ、簡素な黒衣を纏う師と。

 黄金の巻き毛を飾り、少年の姿をした獣人の魔女と。


 (争わせては、ならない――)

 


 コーヒーを啜る微かな音が穏やかに聞こえる。

 火を起こした暖炉で空気は十分に温まり、冬の日差しを押しのける色味で部屋を染めていた。

 そのオレンジ色の温もりが、わたしをあたため、同時に打ちのめすのである。

 ゴルデンと摂る穏やかな食事が、わたしを満たし、引き裂くのだ。

 

 わたしは、覚悟を決めなくてはならなかった。

 

 ゴルデンはカップを口から離し、静かにまつげを開け、わたしの視線を受けた。

 

 (ぽたり……ぽた)


 そして彼は木のワンズを持った片手を突き出し、低く言うのだった。

 「取るが良い、愛弟子よ」


 わたしはワンズを受け取り、その瞬間、封印が解かれるのを感じた。押し込められていた力は解放され、のびのびとわたしは体を伸ばした。

 黒曜石の、力よ。


 「……忘れるな」

 淡々とした調子でゴルデンは言った。

 「おまえは今、自分よりも強い者を胎内にはらんでいる」

 

 だから、命を落としやすい状態にあるのだ――。


 わたしは頷くと、ワンズを外套の内側に潜ませた。

 あの笛の音が聞こえ始めている。呼んでいる。行かねばならない。

 わたしは、行かねばならない――。


 ゴルデンはポケットを探り、わたしの小瓶を取り出した。

 それを受取った時、わたしは完全に自分を取り戻し、どうすることが正しいのかをはっきりと見定めることができたのである。

 

 (師よ)

 綿ぼこりのような闇が沈む小瓶を握り、わたしは思う。

 (わたしは、あなたの愛弟子だ。西の大魔女の愛弟子であり、すべてはその前提の上に立っている)


 師の愛弟子という立場だったから、これまでの旅があった。

 愛を知り、心身が変貌し――これを成長というならば、確実にわたしは成長したと思う。

 人間の残渣をただ吐き出し続けるだけだったわたしの黒曜石は、この旅を通し、著しく研磨された。極限まで無駄を取り除かれた黒曜石は、この旅によって――ゴルデンによって――艶を帯び、強さを補強され、そして、ゆるぎない一本の柱となったのである。

 

 そうであれば、なおのこと、わたしは貫かねばならないのだ。

 魔女の愛弟子たる自分の使命を。

 そして――。


 (西の大魔女の、命を頂戴……)


 そして、契約成立可能な「依頼」を受け取り、遂行しなくてはならないのである。

 わたしは、人間の残渣をまた一つ、吐き出さねばならない。

 見極める鋭い目と、真実を見抜く力、そして絶対的な使命――。

 そこに、芯のぶれたものは入り込むべきではない。


 わたしは、師と対峙しなくてはならない。

 この、哀切な笛の音に乗せられた契約を遂行した後に。


 わたしは。

 (師よ、師よ、師よ……)

 師の、残り僅かな命を。

 (師よ……これが)

 摘み取る。

 (……あなたの教えを守り抜く、わたしの姿)


 

 ゴルデンはわたしの目を凝視していた。

 コーヒーの湯気が我々の間を隔てている。その薄く白いヴェールの向こうで、ゴルデンは微かに頬を緩ませた。

 ゴルデンが、微笑んでいる――。


 「……こういった静かな時間を過ごすのも、悪くはない」

 ゴルデンは微笑んだまま、言った。

 「……様々なことの真実が、見える場合があるものだ」


 (ゴルデンは、わたしの思考を読み取っている)


 紫の瞳に朝日が反射し、眩しくわたしの目を差した。

 一瞬の沈黙の後、ゴルデンは微笑みを消し、打って変わって厳しい表情となった。

 彼の正体である獣人のものに近い、獰猛な程の厳しさ。

 空気をぴしりと打つように、彼は言った。


 「……行け」


 わたしは頷いた。

 立ち上がると、彼に背を向け、部屋を出た。

 

 狭くて急な階段を下り、やっと開店の準備を始めだした食堂を通り抜け――朝日で包まれた村の中に出る。

 こんなささやかな日差しであっても地面の氷は緩み始めていた。


 (ぽたり……ぽた、ぽた……)


 笛が高らかに鳴っている。

 冷たい風を額に受けながら、わたしは「依頼主」の気配を読む。

 ……やはり、あの橋だ。あそこで彼は待っている。


 (抱いて……)

 老若男女、無数の人々の声が悲し気に叫んでいた。

 {抱いて、温めて)

 (わたしを……許して)


 狂おしいまでに魅力的に、笛はなり続ける。

 その笛に惹かれる者は、全て群れから外れた哀れな者たち。居場所のない命。

 絶望した者たちは、例外なくその旋律に魅せられ、追い求め――川に足を踏み入れる。


 (ごうごう……ごう)

 濁流が渦を巻く、川の中へ。

 (きゃあああ……ああ……あああ)

 渦に飲み込まれながら腕が水面から飛び出し、空に向けて救いを求めるが、助ける手立てはない。

 (きゃあああああああ……ああ)


 「だい……て」



 次第に村人たちは姿を現してくる。

 枯れた畑の向こうでは、牛を引き出して、凍った土から食み出ている僅かな草を食べさせている村人たちの姿が見えるのだった。

 朝もやがかかり始め、白い山脈は日差しを受けて神々しいまでに輝いている。その中でひときわ目を引くのは、やはりオパール――「母」――の住む山なのだった。

 オパールの山は、闇の魔女との契約を遂行すべく「依頼主」の元へ向かうわたしを、静かに見守っている。


 ことことと、わたしは歩いた。

 命を失いやすい状態であるという、自分のことを、自覚できないでいる。

 胎内にいる運命の子は、それほど強大な力を持っているという事か。

 母体を喰いつくすほど、すさまじい力を……。


 笛の音は更に高くなる。

 それは奇妙に心を浮き立たせるものであり、確かに誘っていた。

 大きく広がる、闇の腕がわたしには見えた。

 ぐちゃぐちゃと無数の触手を蠢かしながらも、闇は巨大な人の形を取り、大きく両腕を広げているのだった。

 その黒い胸の中は、ひどく温かく、魅惑的である。

 (おいで……温めてあげる……あなたが必要だから……おいで……)


 それは、救いなのかもしれない。

 ある種の人々にとっては、確かに救いなのだろう。

 呼びかけに応えて、闇の腕の中に飛び込んだとしたら、彼らはその闇に取り込まれる。肉体としての彼らは死に、魂は闇に喰らわれる。闇と一体となる。

 (一人じゃ……なくなる……)


 わたしは無言で歩き続ける。

 笛の音に誘われるのではなく、笛の音の主を見据えてわたしは歩く。

 

 凍り、荒れた畑が両脇に広がるあぜ道を通り抜け、やがてわたしはひっそりとした古い吊り橋の前までくる。

 ここまでくると、僅かに見えていた村人たちの姿は完全になくなっていた。

 家畜の匂いが凍てつく空気に漂っているが、その鳴き声はここには届かない。


 聞こえるのは、深い川の流れる音である。


 濃い灰色の空が、ぼんやりと朝の光を帯びて、まばらに光っている。

 吊り橋の向こう側では、日差しが梯子のように降りていた――。


 「来た」


 一言、わたしは告げた。

 すると、ぱたりと笛の音は止み、足元から沸き起こるようにして、男は姿を現した。やはり橋の欄干に身を寄せるようにして立っている。

 闇の力を宿した赤い目は、無表情にわたしを見てるのだった。


 わたしは「依頼」の入った小瓶を取り出すとコルク栓を取った。

 「依頼」はふわりと瓶から飛び出した。丸い藻のような闇はくるくると宙に踊る。男はそれをじっと眺めている。


 「西の大魔女の代理、魔女の愛弟子が『依頼』を受けた。この『依頼』は等価交換の法則に乗っ取っており、契約成立可能である」


 男はゆっくりと向き直った。片手には笛を握りしめている。

 痩せこけた土色の体は立っているのもやっとのようだ。


 もとはただの人間だった彼。何かの因縁で魔女になったものの、闇に飲まれてしまった――。


 わたしは続けた。

 「契約成立の是非を問う。この契約を成立させるか」

 しばらくの沈黙の後、男は無言でわたしを見つめ、ゆっくりと頷いた。

 わたしは大きく息を吸った。

 

 男は、契約を遂行したその後のことを、まざまざと見せつけられたはずである。その上で、契約を成立させたのだ。

 

 「抱いて温めて許してほしい」という「依頼」に対する代償は、「死」だった。

 「死」を持って、彼と彼の中に取り込まれた無数の魂は、母なる大地に抱かれ、温かな日差しの中で許されるのである。闇となって渦巻いていた魂は空気に散らばり眩しい粒子となり、命の源となるであろう。

 植物や虫や鳥や動物を育むものとなり、やがては人の命を繋ぐ元となる。

 それが、彼らの「生まれ変わり」であり「許し」なのだ。


 改めてわたしは、男の背後にある運命の縮図を読みとった。

 奇怪な複雑な図である。これまで見たどの縮図とも違う。

 ひどく入り組んでおり、呪わしいまでに奇妙だった。

 すでに命を失っているそれは灰色にくすんでいるものの、鈍く光を放っており、まだ魂が宿っていることを主張している。

 

 無数の命でできているから、これほどまでに複雑怪奇なのだ。

 わたしは少しの見落としもないよう、全神経をその縮図に集中させた。そして、確かにこれが等価交換の法則に乗っ取った、正しい契約であることを確信する。


 一本の道が見える時、そこには不思議な光が差す。

 それは魔女の愛弟子を導く光。師の教えに他ならない――。


 

 「……ただ、居場所が欲しかっただけなんだ」


 男の中から響いてくる声は、無数の声でできていた。

 わたしは木のワンズを握り、構えながら言った。


 「それほどまでに、孤独が忌まわしいか」


 ゆっくりと、男は頷いた。

 一呼吸置き、わたしはワンズで大きく魔法陣を描く。

 くるくると宙を回っている、玉のような小さな闇が、ぱっと空気に散じた。

 契約の遂行である。


 「孤独に耐えきれず、闇に逃げたことを、許す――」


 温かな、自然の中へ還れ。


 ……。


 考えてみれば、初めてだったのだ。

 闇と契約を交わすことなど。

 

 闇との関りは、正統な魔女にとっては禁忌の一つである。

 闇は穢れである。そして、闇は、得体が知れない。


 

 黒曜石の夜空の輝きが男を包み込み、一瞬にして男は砕けて空気に散った。

 ところが、件の笛の音が再び高鳴りをはじめ――わたしは、川の濁流が生き物のようににゅっと飛び出してきて、目の前の吊り橋に食らいつくのを見た。吊り橋は一瞬にして砕け散り、古い木の木っ端がわたしの目の前を飛んだ。


 (……抱いて……温めて……)

 おどろおどろしいまでの濁流が巻き上がり、何度か曇天に突き上げた後、崩壊した橋の残骸を突き抜けて、こちらに向かって来る。

 (……許し、て……)


 わたしは闇の濁流にワンズを突きつけた。その先端で素早く魔法陣を描き、黒曜石を発動させる。

 鋭い黒曜石の雷がワンズから飛び出して、迫りくる濁流を真っ二つに切り裂いた。

 切り裂かれながらも濁った川の水は、うねる音を響かせながらわたしの左右を通り抜け、濁流の壁を作る。

 

 一瞬でも気を抜いたならば、切り裂かれた濁流は再び合流し、たちまちわたしは闇の流れに飲まれるだろう。

 

 激しく通り抜けてゆく冷たく濁った水。

 左右を走る濁流の壁は、ゆっくりと間隔を狭めている。


 (縮図の読解に誤りがあったのか)


 今にも体を包もうとする濁流を眺めて、わたしは考えた。

 否。

 そんなはずはない。縮図の読解は確かだったはずだ。

 では、この事態をどう説明する。


 「魔法に背を向けられているのだよ」


 ふいに、悲し気な声が聴こえた。

 耳元をごうごうと流れ通り過ぎてゆく濁流から、その声は響いてくる。

 さっきまでの無数の人間の声の合唱ではない。

 それは一人の男の――笛吹の魔法使いの――孤独な声だったのである。


 「俺は、闇に身を投じた。だから、正統な魔法にはすべからく背を向けられている」

 「どういうことだ」

 全神経をワンズに集中させながら、わたしは低く答えた。

 すすり泣くような含みを込めて、男は言った。


 「そんな綺麗な魔法じゃ、誰も救えないんだよ」

 

 ごうごうと音を立てて、濁流の壁が迫っていた。

 わたしは思わず、胸のリボンを片手で探った。そこにはゴルデンの髪の毛が巻き付いている。

 この髪の毛がちぎれたり、取れたりした瞬間に、魔女の愛弟子を剥奪される――。


 間隔を狭めた濁流が、ついにわたしの体を挟み込んで押しつぶそうとした瞬間、空間がつよくねじられた。

 わたしは逆さになり、激しい勢いで回り――そして、落ちた。

 

 頬を押し付けた、その床は冷たく心地よい感触である。

 危険を目前にして、わたしは異空間に吸い寄せられたらしい。静かに身を起こすと、ゆっくりと見回した。


 黒曜石の空間ではない。

 一面の紫水晶が眩しい。紫水晶の異空間。だが、これは――。


 (ゴルデンの空間ではない……)


 ゴルデンの異空間とは違う空気が漂っている。

 そして、これは恐ろしい程清く澄んでおり、ここにいるだけで心身が侵されてしまいそうな思いがした。

 厳しいまでの純潔が、そこにはあった。


 「……かあさん」


 幼い声が落ちて来た。

 もう一度、声は同じことを繰り返した。

 わたしの目の前で白い輝きが生まれ、その中には件の不思議な胎児が丸くなっている。

 

 ここは、わたしの胎内に宿る者の異空間。

 新たな、紫水晶の空間――。

酷く抽象的な回になりました。

闇に救いを求めるものにとって、魔法の契約から与えられる正統なものなど意味がない……

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