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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第七部 ハーメルンの笛吹き
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ハーメルンの笛吹き 1

ペルを守ろうとするゴルデン。

魔女の愛弟子としての使命を全うしようとするペル。

その「依頼」は契約成立が可能なものである。そうである限り、ペルは行かねばならないのだった。

その4 ハーメルンの笛吹き 1


 穏やかな夜空は、村境の鉄橋を超えた直後に悪天候へと転じる。

 酷く冷え始めたかと思うと、ぱらぱらと細かな氷の玉が降り注ぎ始め、やがてそれは勢いを増し、斜めに殴りつけるような嵐となった。

 屋根のないトロッコである。

 積み荷はおろか、我々は氷のつぶてをもろに受けた。


 ゴルデンは外套を広げてわたしを守った。

 もはやそれは気迫であり、彼の守りの腕から逃れることなど、考えることすらできないほどだった。

 胸に抱かれるようにして風雨から守られながら、わたしは愕然とする。


 (わたしではないのだ)

 守られているのは。彼が身を挺して守ろうとしているのは、わたしではない。

 そっと、下腹に手を当てた。今は蠢きは感じられないが、確かにそこには魔法の胎児が宿っているはずなのだ。

 紫の瞳を持つ、想像を絶する力を持つ運命の子供が、息衝いている。


 (これは――何なのだ)

 ここに宿るものは、一体何なのか。

 

 「おまえの中に宿る『その者』は、おまえの想像を絶するものだ。万一それを失うことがあれば、この世界は計り知れない損失を受けることだろう……」


 ゴルデンはそう言ったのだ。

 世界が損失を受けるほどのものが、ここに芽吹いているという。

 ゴルデンはそれを守るために、必死になっている――。


 額に温かな吐息を受けながら、わたしは彼の名を呼んでみる。

 打ち付ける嵐の音にかきけされてしまうかと思ったが、ゴルデンは反応し、闇夜の中でも際立つ紫の瞳でわたしを見た。

 濡れた髪の毛から滴が落ちており、青ざめた彼の頬に筋ができている。

 

 「この胎児は、一体、何者なのか」

 

 問いかけると、ゴルデンは非常に淡々とした様子で頷いた。今までその質問を待っていたかのように。

 無感情に彼は答えたのである。


 「『世界』になるものだ、愛弟子よ」

 世界、とわたしが繰り返すと、ゴルデンはゆっくりと頷いた。その時、トロッコ列車は最後の鉄橋にさしかかり、ものすごい轟音が耳をつんざいた。

 腰掛けている部分が痛い程振動し、同時に、あたりに風よけがなくなったことで、さらに激しい嵐の生贄となることになる。

 わたしはゴルデンにきつく――思わず目を見開き、息を飲んだ――抱きしめられ、頭を外套で守られていた。

 耳元では彼の鼓動が聞かれ、わたしの目の前は彼の黒い衣服で覆われたのだった。


 (ゴルデン――)


 ……。


 目を閉じて胸に身を寄せたわたしを、ゴルデンは咎めなかった。

 鉄橋を渡り終え、列車がようやく村のホームに到着するまで、わたしはゴルデンの鼓動を――息遣いを、香を、温もりを――感じ続けることができた。

 (ゴルデンの目が、何を見ているのかなど、些細なことに過ぎない……)

 白い羽毛で覆われかけた、美しい少女――。


 (構う、ものか)

 

 わたしは、自分の中に確固たる芯が出来上がっていることを知る。

 黒曜石のように強く、ゆるぎないその芯は、いかなる者にも屈することがない。

 それは魔法の力とは別格のものである。

 それこそが、命の結晶というべきものである。

 

 人間の残渣を吐き出し続けて魔女になる。

 それは、闇になりうる部分を研磨し、核の部分を露にすることである。

 わたしの黒曜石は、純度を上げている。……わたしは、愛を知った。


 それを、ゴルデンの腕の中で自覚することができた。それだけで十分なのだ。


 停車したトロッコから立ち上がり、ずぶ濡れの我々はホームに降り立つ。

 氷のつぶては非常に冷たい雨に変わっており、心細い街灯は、その無数のつぶてを陰気に照らしているのだった。

 それでも村人たちは待ち構えており、合羽で体を守りながら、積み荷を降ろしている。

 機関車から白く吐き出される煙は、みぞれ交じりの雨に打たれながらもホームに広がった。

 ゴルデンは、前回と同じように、動き回る人々の中から適当な人物を選んで近づいている。嵐の闇夜の中に白い息が上がっている。やがてゴルデンは交渉を終え、こつこつと戻ってくる。


 「……行くぞ」


 冷たい程の一言だった。

 どこに行くとも、何をするとも告げない。ただ、行くとだけ。

 雨に打たれながら歩くゴルデンを、わたしは追った。

 

 威勢の良い掛け声が響くホールを抜け、閑散とした夜の通りに出た時、わたしはぎくりと足を止める。

 笛の音が――。


 (……抱いて)


 渦を巻く濁流。

 茶色く濁る川の水はひどく冷たくて深い。そこは死の淵。

 だが、男はその川へ足を踏み入れる。笛を吹きならしながら。


 (抱いて、よ……)


 また来た。

 「依頼」である。

 がん、と頭を打つように必死な思念だ。一人や二人のものではない。子供、大人、女、男――無数の人々の嘆くような声が、濁流の中から漏れ出している。そしてそれらは、真っすぐにわたしめがけ、らせんを描きながら突きかかってくるのだった。


 ごうごう、と濁流が音を立てている。

 だが、笛の音はさえわたり、濁流すら二つに切り開くようだ。

 「依頼」の声が悲痛であればあるほど、濁流は勢いを増すのだった。


 (……抱いて――)


 ゴルデンが立ち止まり、振り向いた。

 わたしは、うち叩かれてぐらぐらする頭に耐え兼ね、水たまりの中に膝をついていた。

 ぐるぐると渦を巻く濁流に、飲まれてゆく――。


 ゴルデンはわたしを抱き起した。

 陰惨なほど暗い街灯が、大粒の霙を照らし出している。

 わたしは顔を上向けられた。ゴルデンの前髪から落ちる大粒の冷たい滴が額に降り注いだ。

 ゴルデンの守りの魔法を口の中に吹き込まれて、わたしはようやく地に足を着くことができる。

 唇を離し、ゴルデンは顔をしかめた。酷く苛立っている。


 一瞬、ゴルデンの突き刺さるような視線がわたしを射ぬき、わたしはぎくりとした。

 彼は今、こう思った。

 守りの魔法を吹き込むと同時に、魔女の愛弟子の称号を剥奪しておくべきではなかったか、と――。


 (彼は、その気になればいつでもそれができる)


 魔女の愛弟子を、剥奪される。

 ……。


 ずいぶん遅れて、身のすくむような恐怖がやってきた。

 あまりにも強大な恐怖のために、わたしは息が詰まりそうになる。

 目の前の東の大魔女は、多少衰弱していようとも、絶対的な力を持っている。途方もしれないほどの魔力は、わたしが太刀打ちできるようなものではない。

 もし彼が本気でそれを行おうとした場合、わたしには逃げる術すらない――。


 わたしの思考を読み取り、ゴルデンはまた顔をしかめた。

 「立てるだろう」

 と言い、わたしの腕を引き上げる。

 足ががくがくと震えていた。わたしは今、とんでもない足かせをはめられている。


 (師よ……)


 ゴルデンは面白くなさそうに溜息をついた。


 ずぶ濡れ同士だから、くっついていても温かくはないだろうと思ったのだ。そう呟いてわたしの手を握った。

 白手袋を通して感じるゴルデンは温かく、わたしはようやく落ち着くことができる。

 彼は、今は、もう考えてはいない……。


 ばたばたと音を立てて濡れた石ころ道を打つ霙は、横殴りから次第に角度を和らげて行った。

 肌が切られるほどの寒さは変わらなかったが、いつしか霙は雨に変わろうとしていた。

 

 笛の音は相変わらず聴こえている。濁流や、痩せた男の背中の映像も。

 そして、無数の人々の嘆きの声が、羽虫のようにわたしにたかっていた。

 (抱いて――)

 (だい、て……)


 笛の音や男の姿には、はっきりと闇が宿っている。この男は明らかに、闇の魔法使いだ。不正な魔法を使う魔女である。

 この男に魅せられた人々は、笛の音につられて川を渡りかけ、渦に飲まれるのだ。

 

 (きゃあ……あああああ……)

 手が――小さな手、大人の手、老人の手――無数の手が、濁流の渦のなかから突き出され、救いを求めるかのように開いている。

 だが、容赦のない渦はそれらを全て飲み込む。後に残るのは、切々とした笛の音だけなのだ。


 ……。


 「契約成立、可能なのだ」


 雨に打たれながら、わたしは言った。

 指を絡めて握る指先が、一瞬わたしの手の甲に爪を立てる。わたしは歯を食いしばった。

 

 「ゴルデン、わたしは魔女の愛弟子だ……」

 契約成立が可能な依頼があるならば、そこに行かねばならない。


 ふいにゴルデンは勢いよく手を振りほどくと、獰猛な光を帯びた紫の目でわたしを睨んだ。

 凄まじいまでの憎悪にわたしはひるみ、思わず飛びのいて指を構える。

 「愚か者」

 ゴルデンはわたしの防御を片手で払いのけると、胸倉をつかんで引き寄せた。それでもあの、無数の怒りの刃は飛んでこなかった。ゴルデンは自分の怒りと戦いながら、わたしを睨んでいる。


 「今ここで、魔女の愛弟子の称号を剥奪されたいか」


 ばたばたと雨が顔に打ちかかる。

 わたしは胸倉をつかまれたまま、ゴルデンの目を見上げて黙った。

 (ゴルデン――)

 ゴルデンは白い息を吐き出しながら、ぐっと怒りを飲み込み、ゆっくりとわたしから手を離した。

 

 「……おまえの中の『世界』を守ることが、俺の最後の仕事となるやもしれぬ」


 不吉な言葉だった。

 

 闇の魔法をまとう笛の音は不思議なほど澄んでいる。

 夜の冷気を貫いて、わたしの耳まで届くのだ。

 ゴルデンはそっけなく顔をそむけると、また歩き出していた。

 早く宿まで行くぞ、また熱を出すだろう。

 ……彼は何度も溜息をついている。

 彼は、疲労している――。


 

 わたしの目には見えている。

 今も、彼の背後には鳥になりかけた少女がいることを。

 世界は次元を超え、自分の姿を送り出しており、もはや一時も兄から離れようとはしないようだった。

 今も世界は背中からゴルデンの首に抱き着いており、密着した部分から力を吸い取っているのだった。


 (どうにもならないの――)


 世界はわたしを振り向くと、悲しそうな目で訴える。闇に侵食されかけた瞳で。


 (時間がないのよ、はやく、はやくして……)


 はやくしないと、おにいちゃんが。おにいちゃんを、わたしが――。


 ……。



 このくびきを、ゴルデンは切ることができない。

 受け入れてしまっているのだから。

 彼らの間に愛がある限り、ゴルデンは嫉妬に侵された妹に搾取され続けるのだろう。

 

 (はやく、お願い、はやく、西の大魔女を……)


 少女の姿は、最初見た時よりも鳥に近づいてきているようだ。

 白い羽毛はリネンのドレスからはみ出るほどになっており、白く優雅な腕は、ひじまで羽根に覆われている。

 もう、時間がない……。


 世界が鳥に侵食され、命を落とすのが早いか。

 搾取され続けたゴルデンが倒れるのが先か。

 わたしは、どちらも間違いだと思った。

 (正しくはない。決して正しいことではない……)



 過疎化した村の中心にある、店がわずかに立ち並ぶ中に、古い料理屋があった。

 我々はその店の二階に通され、宿を与えられた。

 ささやかな暖房で温められた部屋は、小さな暖炉の炎だけが灯となっている。

 カーテンは閉め切られ、闇と炎のオレンジ色が揺らいでいた。

 ゴルデンは素早く濡れたものを脱ぎ、暖炉の前に置いた。ベッドから毛布を引きずり出すと、体に纏って座り込み、暖を取っている。

 わたしは静かにボタンを外した。

 ゴルデンはこちらを見ようとはせず、暖炉の炎を静かに眺めている……。


 「さっさと、毛布を纏え」


 わたしは言われた通りにした。

 暖炉で体を温めてから、我々は眠りにつく――。



 夜明けが近い頃だった。

 違和感を覚えて目を開くと、やはり、白い少女が姿を現していた。眠るゴルデンの上にのしかかっており、悲痛な表情で、彼の顔を覗き込んでいるのだった。


 (どうにもできないの――)


 世界の思考が飛び込んで来る。

 わたしは思わず身震いし、ベッドから飛び降りると指を構えた。

 「兄をとり殺す気か」

 世界はすすり泣きながら、ゴルデンの体に縋りついている。

 わたしは魔法陣を描くと、ささやかな攻撃の魔法を仕掛けた。例によって、いとも簡単に世界は打ち砕かれ、部屋の中の空気に四散した。


 軽い衝撃が伝わり、ゴルデンが目を覚まして起き上がった。

 目の下に疲労の跡を濃く残し、頭痛を堪えるような顔をしている。

 はらり、と胸元の毛布が落ち、彼の白い上半身が露になった。


 わたしは、うろたえた。

 彼もそうであるように、わたし自身も全裸である。

 丸みを帯びた腰回りと、隆起してきた胸を露にして、茫然とわたしは立ち尽くしていた。


 「……」


 ゴルデンは寝ぼけたように目をこすった。

 わたしは全身がかっと熱くなり、即座にベッドにもぐりこんだのである。

 自分の体を見られる羞恥と言うものを、はじめてわたしは覚えたのだった。


 「……来たのか」

 というゴルデンの問いに、わたしは乱暴に「そうだ」と答えて背を向けた。

 心臓の鼓動が早くなっている。

 自分自身の異様なほどのうろたえ具合に、わたしは戸惑っているのだった。


 「……」


 無言のまま、ゴルデンがまた布団に倒れ込む音がした。振り向くと、くたびれきっている彼は既に寝息を立てている。

 (ばかばかしい)

 わたしは布団から出ると、熾火がくすぶっている暖炉に近づき、既に渇いている自分の衣類を取り上げた。わたしはどうするべきか考えなくてはならなかった。


 師の命を取り上げるしか、方法がないのか――。

 

 着衣しながら、わたしはかぶりを振った。

 (師よ、それは)

 一つ一つボタンをはめる手が震えて仕方がない。

 (……そのようなことは、わたしには……)


 

 深い迷いの中で、朝が来る。

 ゴルデンは眠り込んでおり、起きる気配がない。


 夜じゅう続いた嵐は止んでいるようだ。

 暖炉を炊きながら、わたしは夜を明かしていた。

 

 (どうするべきか)

 これほど迷うことは、初めてのことだ。

 いつだって、等価交換の法則に従い、わたしは迷うことがなかった。間違いのない選択をし、遂行することができた。それが魔女の愛弟子だった。


 (どう……するべきか)

 白い少女の哀願が蘇る。

 そして、あのオパールの魔女の声も。


 「西の大魔女の命を頂戴」

 「あなたに命を差し出すために、あの子は待っている……」


 (師よ)


 本当に、そうするほかないのか。

 わたしは床に腰を下ろし、膝を立てて暖炉を前にしていた。額を抑え、溜息を着く。

 ふいにその時、笛の音が部屋の空気を貫いたのだった。


 (だいて……)


 映像が沸き起こる。

 暖炉の火の中に、一人の男が立っていた。

 笛を口に当て、澄んだ旋律を奏で続けている。

 男は深い闇を纏っており、不正な魔法で力を維持していた。

 

 だが、わたしには不思議でならなかった。

 闇の魔法使いでありながら、この男には確固たるものがある。

 芯が――命の結晶が、この男の中には確かにできているのだった。


 (……依頼主、か)


 男の幻影は薄く目を開くと、赤く光る異様な闇の目でわたしを射ぬき、ふっとかききえる。

 その姿は見えなくなったが、わたしには彼がどこにいるのか手に取るように分かった。


 村はずれの、川に。


 どうどうと濁流が渦を巻く。

 澄んだ笛の音が響き渡る――。


 わたしはゆっくりと立ち上がり、襟元のリボンを結んだ。

 どうしても、だ。

 どうしても、わたしは行かなくてはならない。


 わたしは魔女の愛弟子であり、そうである以上は使命を全うするべきである。

 これは誰にも止めることができない理なのだ。

 

 わたしは行かねばならない。

 ゴルデンが寝ている間に、わたしは。

愛弟子版ハーメルンの笛吹きの開幕です。

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