ハーメルンの笛吹き 1
ペルを守ろうとするゴルデン。
魔女の愛弟子としての使命を全うしようとするペル。
その「依頼」は契約成立が可能なものである。そうである限り、ペルは行かねばならないのだった。
その4 ハーメルンの笛吹き 1
穏やかな夜空は、村境の鉄橋を超えた直後に悪天候へと転じる。
酷く冷え始めたかと思うと、ぱらぱらと細かな氷の玉が降り注ぎ始め、やがてそれは勢いを増し、斜めに殴りつけるような嵐となった。
屋根のないトロッコである。
積み荷はおろか、我々は氷のつぶてをもろに受けた。
ゴルデンは外套を広げてわたしを守った。
もはやそれは気迫であり、彼の守りの腕から逃れることなど、考えることすらできないほどだった。
胸に抱かれるようにして風雨から守られながら、わたしは愕然とする。
(わたしではないのだ)
守られているのは。彼が身を挺して守ろうとしているのは、わたしではない。
そっと、下腹に手を当てた。今は蠢きは感じられないが、確かにそこには魔法の胎児が宿っているはずなのだ。
紫の瞳を持つ、想像を絶する力を持つ運命の子供が、息衝いている。
(これは――何なのだ)
ここに宿るものは、一体何なのか。
「おまえの中に宿る『その者』は、おまえの想像を絶するものだ。万一それを失うことがあれば、この世界は計り知れない損失を受けることだろう……」
ゴルデンはそう言ったのだ。
世界が損失を受けるほどのものが、ここに芽吹いているという。
ゴルデンはそれを守るために、必死になっている――。
額に温かな吐息を受けながら、わたしは彼の名を呼んでみる。
打ち付ける嵐の音にかきけされてしまうかと思ったが、ゴルデンは反応し、闇夜の中でも際立つ紫の瞳でわたしを見た。
濡れた髪の毛から滴が落ちており、青ざめた彼の頬に筋ができている。
「この胎児は、一体、何者なのか」
問いかけると、ゴルデンは非常に淡々とした様子で頷いた。今までその質問を待っていたかのように。
無感情に彼は答えたのである。
「『世界』になるものだ、愛弟子よ」
世界、とわたしが繰り返すと、ゴルデンはゆっくりと頷いた。その時、トロッコ列車は最後の鉄橋にさしかかり、ものすごい轟音が耳をつんざいた。
腰掛けている部分が痛い程振動し、同時に、あたりに風よけがなくなったことで、さらに激しい嵐の生贄となることになる。
わたしはゴルデンにきつく――思わず目を見開き、息を飲んだ――抱きしめられ、頭を外套で守られていた。
耳元では彼の鼓動が聞かれ、わたしの目の前は彼の黒い衣服で覆われたのだった。
(ゴルデン――)
……。
目を閉じて胸に身を寄せたわたしを、ゴルデンは咎めなかった。
鉄橋を渡り終え、列車がようやく村のホームに到着するまで、わたしはゴルデンの鼓動を――息遣いを、香を、温もりを――感じ続けることができた。
(ゴルデンの目が、何を見ているのかなど、些細なことに過ぎない……)
白い羽毛で覆われかけた、美しい少女――。
(構う、ものか)
わたしは、自分の中に確固たる芯が出来上がっていることを知る。
黒曜石のように強く、ゆるぎないその芯は、いかなる者にも屈することがない。
それは魔法の力とは別格のものである。
それこそが、命の結晶というべきものである。
人間の残渣を吐き出し続けて魔女になる。
それは、闇になりうる部分を研磨し、核の部分を露にすることである。
わたしの黒曜石は、純度を上げている。……わたしは、愛を知った。
それを、ゴルデンの腕の中で自覚することができた。それだけで十分なのだ。
停車したトロッコから立ち上がり、ずぶ濡れの我々はホームに降り立つ。
氷のつぶては非常に冷たい雨に変わっており、心細い街灯は、その無数のつぶてを陰気に照らしているのだった。
それでも村人たちは待ち構えており、合羽で体を守りながら、積み荷を降ろしている。
機関車から白く吐き出される煙は、みぞれ交じりの雨に打たれながらもホームに広がった。
ゴルデンは、前回と同じように、動き回る人々の中から適当な人物を選んで近づいている。嵐の闇夜の中に白い息が上がっている。やがてゴルデンは交渉を終え、こつこつと戻ってくる。
「……行くぞ」
冷たい程の一言だった。
どこに行くとも、何をするとも告げない。ただ、行くとだけ。
雨に打たれながら歩くゴルデンを、わたしは追った。
威勢の良い掛け声が響くホールを抜け、閑散とした夜の通りに出た時、わたしはぎくりと足を止める。
笛の音が――。
(……抱いて)
渦を巻く濁流。
茶色く濁る川の水はひどく冷たくて深い。そこは死の淵。
だが、男はその川へ足を踏み入れる。笛を吹きならしながら。
(抱いて、よ……)
また来た。
「依頼」である。
がん、と頭を打つように必死な思念だ。一人や二人のものではない。子供、大人、女、男――無数の人々の嘆くような声が、濁流の中から漏れ出している。そしてそれらは、真っすぐにわたしめがけ、らせんを描きながら突きかかってくるのだった。
ごうごう、と濁流が音を立てている。
だが、笛の音はさえわたり、濁流すら二つに切り開くようだ。
「依頼」の声が悲痛であればあるほど、濁流は勢いを増すのだった。
(……抱いて――)
ゴルデンが立ち止まり、振り向いた。
わたしは、うち叩かれてぐらぐらする頭に耐え兼ね、水たまりの中に膝をついていた。
ぐるぐると渦を巻く濁流に、飲まれてゆく――。
ゴルデンはわたしを抱き起した。
陰惨なほど暗い街灯が、大粒の霙を照らし出している。
わたしは顔を上向けられた。ゴルデンの前髪から落ちる大粒の冷たい滴が額に降り注いだ。
ゴルデンの守りの魔法を口の中に吹き込まれて、わたしはようやく地に足を着くことができる。
唇を離し、ゴルデンは顔をしかめた。酷く苛立っている。
一瞬、ゴルデンの突き刺さるような視線がわたしを射ぬき、わたしはぎくりとした。
彼は今、こう思った。
守りの魔法を吹き込むと同時に、魔女の愛弟子の称号を剥奪しておくべきではなかったか、と――。
(彼は、その気になればいつでもそれができる)
魔女の愛弟子を、剥奪される。
……。
ずいぶん遅れて、身のすくむような恐怖がやってきた。
あまりにも強大な恐怖のために、わたしは息が詰まりそうになる。
目の前の東の大魔女は、多少衰弱していようとも、絶対的な力を持っている。途方もしれないほどの魔力は、わたしが太刀打ちできるようなものではない。
もし彼が本気でそれを行おうとした場合、わたしには逃げる術すらない――。
わたしの思考を読み取り、ゴルデンはまた顔をしかめた。
「立てるだろう」
と言い、わたしの腕を引き上げる。
足ががくがくと震えていた。わたしは今、とんでもない足かせをはめられている。
(師よ……)
ゴルデンは面白くなさそうに溜息をついた。
ずぶ濡れ同士だから、くっついていても温かくはないだろうと思ったのだ。そう呟いてわたしの手を握った。
白手袋を通して感じるゴルデンは温かく、わたしはようやく落ち着くことができる。
彼は、今は、もう考えてはいない……。
ばたばたと音を立てて濡れた石ころ道を打つ霙は、横殴りから次第に角度を和らげて行った。
肌が切られるほどの寒さは変わらなかったが、いつしか霙は雨に変わろうとしていた。
笛の音は相変わらず聴こえている。濁流や、痩せた男の背中の映像も。
そして、無数の人々の嘆きの声が、羽虫のようにわたしにたかっていた。
(抱いて――)
(だい、て……)
笛の音や男の姿には、はっきりと闇が宿っている。この男は明らかに、闇の魔法使いだ。不正な魔法を使う魔女である。
この男に魅せられた人々は、笛の音につられて川を渡りかけ、渦に飲まれるのだ。
(きゃあ……あああああ……)
手が――小さな手、大人の手、老人の手――無数の手が、濁流の渦のなかから突き出され、救いを求めるかのように開いている。
だが、容赦のない渦はそれらを全て飲み込む。後に残るのは、切々とした笛の音だけなのだ。
……。
「契約成立、可能なのだ」
雨に打たれながら、わたしは言った。
指を絡めて握る指先が、一瞬わたしの手の甲に爪を立てる。わたしは歯を食いしばった。
「ゴルデン、わたしは魔女の愛弟子だ……」
契約成立が可能な依頼があるならば、そこに行かねばならない。
ふいにゴルデンは勢いよく手を振りほどくと、獰猛な光を帯びた紫の目でわたしを睨んだ。
凄まじいまでの憎悪にわたしはひるみ、思わず飛びのいて指を構える。
「愚か者」
ゴルデンはわたしの防御を片手で払いのけると、胸倉をつかんで引き寄せた。それでもあの、無数の怒りの刃は飛んでこなかった。ゴルデンは自分の怒りと戦いながら、わたしを睨んでいる。
「今ここで、魔女の愛弟子の称号を剥奪されたいか」
ばたばたと雨が顔に打ちかかる。
わたしは胸倉をつかまれたまま、ゴルデンの目を見上げて黙った。
(ゴルデン――)
ゴルデンは白い息を吐き出しながら、ぐっと怒りを飲み込み、ゆっくりとわたしから手を離した。
「……おまえの中の『世界』を守ることが、俺の最後の仕事となるやもしれぬ」
不吉な言葉だった。
闇の魔法をまとう笛の音は不思議なほど澄んでいる。
夜の冷気を貫いて、わたしの耳まで届くのだ。
ゴルデンはそっけなく顔をそむけると、また歩き出していた。
早く宿まで行くぞ、また熱を出すだろう。
……彼は何度も溜息をついている。
彼は、疲労している――。
わたしの目には見えている。
今も、彼の背後には鳥になりかけた少女がいることを。
世界は次元を超え、自分の姿を送り出しており、もはや一時も兄から離れようとはしないようだった。
今も世界は背中からゴルデンの首に抱き着いており、密着した部分から力を吸い取っているのだった。
(どうにもならないの――)
世界はわたしを振り向くと、悲しそうな目で訴える。闇に侵食されかけた瞳で。
(時間がないのよ、はやく、はやくして……)
はやくしないと、おにいちゃんが。おにいちゃんを、わたしが――。
……。
このくびきを、ゴルデンは切ることができない。
受け入れてしまっているのだから。
彼らの間に愛がある限り、ゴルデンは嫉妬に侵された妹に搾取され続けるのだろう。
(はやく、お願い、はやく、西の大魔女を……)
少女の姿は、最初見た時よりも鳥に近づいてきているようだ。
白い羽毛はリネンのドレスからはみ出るほどになっており、白く優雅な腕は、ひじまで羽根に覆われている。
もう、時間がない……。
世界が鳥に侵食され、命を落とすのが早いか。
搾取され続けたゴルデンが倒れるのが先か。
わたしは、どちらも間違いだと思った。
(正しくはない。決して正しいことではない……)
過疎化した村の中心にある、店がわずかに立ち並ぶ中に、古い料理屋があった。
我々はその店の二階に通され、宿を与えられた。
ささやかな暖房で温められた部屋は、小さな暖炉の炎だけが灯となっている。
カーテンは閉め切られ、闇と炎のオレンジ色が揺らいでいた。
ゴルデンは素早く濡れたものを脱ぎ、暖炉の前に置いた。ベッドから毛布を引きずり出すと、体に纏って座り込み、暖を取っている。
わたしは静かにボタンを外した。
ゴルデンはこちらを見ようとはせず、暖炉の炎を静かに眺めている……。
「さっさと、毛布を纏え」
わたしは言われた通りにした。
暖炉で体を温めてから、我々は眠りにつく――。
夜明けが近い頃だった。
違和感を覚えて目を開くと、やはり、白い少女が姿を現していた。眠るゴルデンの上にのしかかっており、悲痛な表情で、彼の顔を覗き込んでいるのだった。
(どうにもできないの――)
世界の思考が飛び込んで来る。
わたしは思わず身震いし、ベッドから飛び降りると指を構えた。
「兄をとり殺す気か」
世界はすすり泣きながら、ゴルデンの体に縋りついている。
わたしは魔法陣を描くと、ささやかな攻撃の魔法を仕掛けた。例によって、いとも簡単に世界は打ち砕かれ、部屋の中の空気に四散した。
軽い衝撃が伝わり、ゴルデンが目を覚まして起き上がった。
目の下に疲労の跡を濃く残し、頭痛を堪えるような顔をしている。
はらり、と胸元の毛布が落ち、彼の白い上半身が露になった。
わたしは、うろたえた。
彼もそうであるように、わたし自身も全裸である。
丸みを帯びた腰回りと、隆起してきた胸を露にして、茫然とわたしは立ち尽くしていた。
「……」
ゴルデンは寝ぼけたように目をこすった。
わたしは全身がかっと熱くなり、即座にベッドにもぐりこんだのである。
自分の体を見られる羞恥と言うものを、はじめてわたしは覚えたのだった。
「……来たのか」
というゴルデンの問いに、わたしは乱暴に「そうだ」と答えて背を向けた。
心臓の鼓動が早くなっている。
自分自身の異様なほどのうろたえ具合に、わたしは戸惑っているのだった。
「……」
無言のまま、ゴルデンがまた布団に倒れ込む音がした。振り向くと、くたびれきっている彼は既に寝息を立てている。
(ばかばかしい)
わたしは布団から出ると、熾火がくすぶっている暖炉に近づき、既に渇いている自分の衣類を取り上げた。わたしはどうするべきか考えなくてはならなかった。
師の命を取り上げるしか、方法がないのか――。
着衣しながら、わたしはかぶりを振った。
(師よ、それは)
一つ一つボタンをはめる手が震えて仕方がない。
(……そのようなことは、わたしには……)
深い迷いの中で、朝が来る。
ゴルデンは眠り込んでおり、起きる気配がない。
夜じゅう続いた嵐は止んでいるようだ。
暖炉を炊きながら、わたしは夜を明かしていた。
(どうするべきか)
これほど迷うことは、初めてのことだ。
いつだって、等価交換の法則に従い、わたしは迷うことがなかった。間違いのない選択をし、遂行することができた。それが魔女の愛弟子だった。
(どう……するべきか)
白い少女の哀願が蘇る。
そして、あのオパールの魔女の声も。
「西の大魔女の命を頂戴」
「あなたに命を差し出すために、あの子は待っている……」
(師よ)
本当に、そうするほかないのか。
わたしは床に腰を下ろし、膝を立てて暖炉を前にしていた。額を抑え、溜息を着く。
ふいにその時、笛の音が部屋の空気を貫いたのだった。
(だいて……)
映像が沸き起こる。
暖炉の火の中に、一人の男が立っていた。
笛を口に当て、澄んだ旋律を奏で続けている。
男は深い闇を纏っており、不正な魔法で力を維持していた。
だが、わたしには不思議でならなかった。
闇の魔法使いでありながら、この男には確固たるものがある。
芯が――命の結晶が、この男の中には確かにできているのだった。
(……依頼主、か)
男の幻影は薄く目を開くと、赤く光る異様な闇の目でわたしを射ぬき、ふっとかききえる。
その姿は見えなくなったが、わたしには彼がどこにいるのか手に取るように分かった。
村はずれの、川に。
どうどうと濁流が渦を巻く。
澄んだ笛の音が響き渡る――。
わたしはゆっくりと立ち上がり、襟元のリボンを結んだ。
どうしても、だ。
どうしても、わたしは行かなくてはならない。
わたしは魔女の愛弟子であり、そうである以上は使命を全うするべきである。
これは誰にも止めることができない理なのだ。
わたしは行かねばならない。
ゴルデンが寝ている間に、わたしは。
愛弟子版ハーメルンの笛吹きの開幕です。




