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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第六部 ~閑話~ブレーメンの音楽隊
53/77

ガラスの幻想

癒されない渇き、満たされないもの、激しい焦燥――夢を追う青年はそれらから逃れたいと切望した。その「依頼」を受けたペルは、遠い過去に非業の死を遂げた美しい姉の白雪の姿になり切ることになる。

その5 ガラスの幻想


 体が透けるほどの薄絹である。

 それで素肌を包み、長く裾を引く。腰を赤く細いリボンで結んだだけの装飾だ。

 綺麗なものだと、思う。


 問題は、それを纏っているのが、他の誰でもない、醜い小人――ルンペルシュティルツヒェン――魔女の愛弟子であるということだ。とにかくわたしは無表情のまなざしを宙に突き刺した状態で、画家の前に座っている。腕を背もたれにかけ、やや斜めな姿勢で、動かずに――もう何時間になるだろう。


 一晩の宿を求めたものの、美しい町並みが売り物のその街は観光客であふれており、運が悪いことにどこの宿もいっぱいだった。それでやむを得ず、相部屋となったのだ。

 そういった経緯で、我々はこの若い画家の卵に出会ったのだが。


 ……どうしてこうなったのか。

 それを説明しなくてはなるまい。


 身動きを取ることを許されないまま、わたしは気づかれぬよう視線を動かす。

 ゴルデンはわれ関せずといった様子で、とっくに眠り込んでいた。一人部屋の空間に、無理やり簡易ベッドを三つ詰め込んだのだから、息がつまりそうなほど狭い。

 ゴルデンは一番窓際のベッドを勝手に選び、わたしがこの衣装に着替えている間に背を向けて眠ってしまった。

 (貴様の仕事だろう)

 と、ちぎって投げるような思考が飛んできて、あとはまるで他人事である。

 きっぱりと線を引かれてしまった。

 色褪せた毛布から、見事な金の巻き毛が零れ落ちている。軽い寝息が時折聞こえる位だ。


 夜であっても、この街は眠ることをしない。

 昼間よりも夜の方が美しい位である。

 街のあちこちに幻想的な明かりが灯り、建物は小さな光の粒に彩られていた。

 カーテンが開いたままの窓からは、その街並みが見えるはずである。

 様々な形の灯があちこちにともり、中にはヤジロベエのように揺らめいていたり、風見鶏のように回っていたりするものもある。

 夜の闇の中で様々な色が輝いており、まるで窓はカンバスなのであった。


 そのカンバスを背後に、わたしは座っているのである。

 ちっぽけな古い一人用のソファに黒いサテンの布をかぶせ、その上に件の恰好で座っている。

 この絵の題名は――青年は言ったものである――ガラスの幻想、という。


 ……。


 

 「依頼」だったのだ。

 

 相部屋となったこの青年は画家になることを夢見ており、田舎の絵画塾で学んだあと、経験を積むために貧しい旅行を続けている。

 この街に立ち寄ったのは、名物である夜景を取り入れた絵を描きたかったから。

 

 (描きたい、君を)


 その「依頼」は、攻撃的なほどに熱く、激しい渇きを訴えかけるようなものだった。

 「依頼主」である彼は常に渇いており、一瞬の潤いを求めてあえいでいる。

 彼は著名な画家になることを夢見ているのだが、もう一つ、それとは別格の願望があった。


 (描きたい、君を――)


 古ぼけた雑誌の切り抜きを、彼は後生大事に持ち歩いている。

 その切り抜きには、色あせた写真が印刷されていた。

 相当な昔に、無名の写真家が名もなき村を通りかかった時に出会った、非常に美しく純真な少女を撮影したものである。

 

 初夏の日差しの中、明るい緑を背景に、薄い黄色のサンドレスを纏った笑顔の少女。

 無垢な――。


 ……白雪である。


 彼はその写真を見た時から、激しい渇きを覚えていた。

 それは、恋着といっていいほどの思いである。

 その美しい少女が、今どこでどうしているのかすら知らないまま、彼は切り抜きを持ち歩き、求め続けていた。


 (君を、描きたい。だめなんだ、君じゃなくては――)


 画家として食べていけるようになりたい。

 名のある画家になり、故郷に戻って自分も絵画塾を開きたい。

 そんな俗な夢とは、確かにそれは異なるものだった。


 彼が滞在するこの街に足を踏み入れた瞬間、わたしはその激しい渇きを「聞き取った」。

 同時に、古く、荒い印刷の写真――白雪――の映像を見た。

 それは「依頼」であり、しかも成立可能なものであった。


 

 はるか昔に死んだ少女を蘇らせて、絵のモデルにすることはできない。

 だが、その少女の双子のきょうだいをモデルとして採用することはできる。

 

 (うそだろう、おま……)

 契約成立の是非の伺いを立てるために、彼の泊まる宿へ向かおうとするわたしに、ゴルデンは開いた口が塞がらない様子だった。

 モデル、おまえが、か。

 しかも――。


 透明な夏の日差しを連想させる、透ける素材のドレスを纏い、脚を組んだポージングで。

 

 (……人間の男ひとりを不幸にするのか)


 魔法に携わる者と関り、かつその者に恋着を抱いてしまったら、人の運命の縮図は大きく歪むことになる。

 わたしを白雪に見立てて絵を描いているうちに、彼は幻想を見るだろう。

 目の前に座る、不思議な衣装の少女は、醜い小人であるルンペルシュティルツヒェンではなく、初夏の日差しの似合う溌剌とした美少女、白雪であると。

 


 「君だ……君を、探していたんだ」


 顔を見るなり、異様な熱のこもったまなざしで近づいてきた若者。

 正気の沙汰ではない。初対面で手を握りしめ、ぎらぎらした視線で全身を舐めるように凝視する。

 激しい渇きを、わたしは感じた。

 砂漠だ。

 彼の中には砂漠があり、水をいくらでも吸収する代わりに、決して渇きが癒されることはない。

 自分の中に灼熱の不毛の地を持っている青年は、常に何かに追われるような心持で、激しい焦燥にかられているはずである。心休まる間もなく、その渇きをいやすために必死になって走り続けなくてはならない。


 地獄である。

 だが、わたしは、その地獄こそ、かれの「著名な画家になりたい」という夢を叶えるための、重要な道具であることを読み取っていた。

 行けども行けども続く渇きの地獄。

 描いて描いて描いて描いて。

 納得できない。評価もされない。中にはこばかにする人間もいる。

 苦しむ。絶望する。そして渇き。

……それでも彼は、描くことを止めることができない。追い立てるような渇きが、彼を突き動かすのである。


 つまり、その地獄の渇きが続くほど、彼は「著名な画家になる」夢に近づくのである。

 

 だが、彼が今、魔女の愛弟子たるわたしに飛ばした「依頼」は、その渇きを癒すことになるものだった。

 絶対に手に入ることのない幻の美少女。

 その少女と向き合い、肌も露な美しい衣装を着せて、カンバスに姿を写し取る。

 その絵は、彼にとって永遠の愛の形見になるはずである。

 その絵は同時に、彼を苦しみのたうち回らせる、件の渇きを癒す働きを持つものとなる。


 幻の少女の絵を描くことはできる。

 だが、「著名な画家になりたい」という、一世一代の夢を手放すことになる。

 ……それが、契約の内訳だった。


 わたしは、フェアであると思う。

 この契約は確かに同意のもとで成立した。


 「構わない、それでも」


 画家の卵はそう言い、契約は成立し――そして彼は、永久に「著名な画家」にはなれなくなった。

 もう、いくら描いても、誰も彼のことは認めないだろう。

 彼自身も、あの激しい地獄のような渇きがなくなったせいで、気が狂ったように描き続けることができなくなる。

 幻の美少女の絵姿を手に入れることは、彼の未来のサクセスストーリーが完全に消えることを意味していた。

 

 筆を取った瞬間から、彼は平凡でうだつのあがらない人生に、縛り付けられた。

 彼の指示に従い、透けるドレスを纏い、ソファに腰かけながら、わたしは彼の運命の縮図が大幅に変わる様子を全て見たのであった。


 

 わたしは、カンバスに筆を滑らせる彼を静かに見つめる。

 彼の背後には大きな姿見があり、その曇った鏡の中に、わたしとわたしの背後の夜景が写り込んでいた。

 三階の部屋から見える夜景は広々と美しく、まるで

夜空の星を、さらに上空から見下ろしている感がある。

 

 新月の暗い夜の中に浮かび上がる無数の小さな星。

 白い星、黄の星、青、緑、紫、赤――。

 不動の星、揺れ動く星、くるくると回転する色、動物を象った光の並び――。


 その、造り物の幻想の前に、ガラスの衣装を纏った少女が沈黙し座っている。

 黒曜石の目を見開いて。


 ……。


 青年の熱が伝線したのかもしれない。

 わたしは頭の中に、ぼうっと熱がこもるように感じ、一瞬、くらりと目が舞いかけた。

 はっと正気に戻った時、今が魔法の契約を遂行中であることを改めて思い出したのである。

 次元が非常に不安定になっており、ごく簡単に、契約主の思考に引き込まれてしまう。


 気が付いた時には、わたしは彼の思い描く世界の中にいた。

 一見、なにも変わらない、同じ部屋の中であるが。


 何かが違った。

 

 熱っぽい目で青年はわたしを凝視し、筆を動かしている。

 無心に絵を描き続ける彼はそのままに、体からなにかが分離した。

 絵を描きたいと熱望する彼とは別の、もう一人の彼が――渇きを癒されたいと願う彼が――体から出てきて、ゆっくりとした動作で座るわたしに歩み寄ったのである。

 


 パレットで絵の具を注意深く混ぜ合わせ、勢いよく、同時に慎重に絵を描き続ける彼がいる。

 額に汗し、ぎらぎらと目に油を浮かせて、獲物を狙う猛獣のようにわたしを凝視している。

 

 ……ゴルデンの寝息が妙に大きく聞こえる。

 毛布の中で彼がもぞりと動く気配がした。

 

 絵の具の匂いが立ち込める中、ふらふらと定まらない足取りで彼は歩き、わたしの前に来ると、どさりと床に膝をついた。

 その後ろでは、一心不乱に絵を描き続ける彼がいる。

 わたしはゆっくりと視線を動かし、足元にひざまずいた彼を見つめた。


 

 「君じゃなければだめなんだ」

 

 彼は手を伸ばした。

 芸術家らしく繊細で長い指である。

 その指が膝の上におかれたわたしの手にかかり、微かに震えた。


 わたしを見ているようで、その眼は別のものを見ている。

 もう片方の腕が伸び、髪を、頬を、うなじ、首筋に触れた。彼は涙すら浮かべていた。

 

 (白雪。わたしは、白雪である――)

 少なくとも、今、この空間の中では。

 それが魔法の契約である。

 だから、わたしはこう答えた。


 「わたしはもう、この世にはいない」


 死んでしまった白雪。殺されてしまった。汚されて。

 彼は一瞬、苦痛を堪えるような顔をした。だが、すぐに彼は微笑みを浮かべた。


 「構わない。君の絵姿を抱いて、僕は生きることができる」

 この渇きはそれで、永遠に癒されるだろう――。


 

 色とりどりの光の粒が移る鏡を、わたしは見つめた。

 そして視線を動かし、一心不乱に絵を描き続ける青年の姿を見つめ、彼の運命の縮図に注意を向けた。

 美しく繊細で、この上もなく複雑な運命の縮図は、今まさに変わろうとしていた。

 激しい焦燥と渇きと引き換えに、輝かしい人生を約束していた運命は、ゆっくりと奇妙に曲がりくねった。

 朝が近づき、彼の血走った目が時折眠気に負けて、くるりと白目を剥く回数が増えた時、運命の縮図はもとの姿からずいぶん変わった形になっていた。

 

 窓の外が白み、紫の朝焼け雲が街の上にたなびき、あの美しい色の光が薄れてゆく。

 絵が、完成した。

 同時に彼は力尽きてがくんと絵筆を持った手を落とした。そこに座ったまま彼は眠りについたのだ。

 

 絵の完成と同時に契約の遂行は終了し、わたしの足元ににじり寄っていた、彼の魂は唐突に消えた。自分の体に戻ったのであろう。

 

 チチチ、と小鳥のさえずりが聞かれ始める。

 部屋の中は絵の具の匂いと、画家が椅子に座り、前のめりになりながら、激しくいびきをかく音に満ちていた。

 わたしは立ちあがると、透けるドレスを引きずって、できるだけ静かにカンバスの前に回り込んだ。

 眠り込む彼の背後から絵を覗き込む。


 そしてわたしは、契約が完全に成功したことを知る。

 カンバスの中で微笑む黒髪の少女は、確かに白雪なのであった。

 (わたしは、このように美しくはない……)


 夢見るように微笑む口元、輝く黒い瞳。

 眩しいほどに白い肌が、背後の窓から覗く夜景に映えている。

 ガラスの衣装から透ける体は繊細なラインを描き、決してふくよかではない、少年じみた姿をさらしていた。

 長く裾を引く透ける衣装には、背後から飛び込んで来る街の色とりどりの照明が反射し、無数の色の粒がちらちらと輝いているのだった。


 

 ガラスの幻想――。


 わたしが自分の黒衣に着替え終わった時、ゴルデンがベッドから起き上がり、けだるそうにこちらを見た。

 まだ眠り込んでいる青年を見て、ゴルデンは音を立てずにこちらに歩み寄る。わたしは彼を見上げた。


 終わったようだな、とゴルデンは言い、自分の外套を小脇に抱えて部屋を出ようとした。

 汽車の時刻が近いのである。わたしもそれに習い、外套を纏った。

 狭い部屋の中だった。

 慎重に足を忍ばせ、青年の眠りこけるそばを通り抜けた時、ゴルデンは紫の瞳を動かしてカンバスの中を眺めた。

 

 一瞬、ゴルデンは絵に目を止めた。

 


 まだ人通りの少ない朝の通りを歩く。

 美しい煉瓦の道は朝日に照らされ、我々の影は長く伸びた。

 さあっと冷たい風が通り抜け、外套が波を作る。

 開店前の、小奇麗な店には、よく見ると細い線が張り巡らされ、そこには電飾がぽつぽつと付いている。

 白昼に見ると、それはなんともみすぼらしく、まるで手品のごく簡単な種明かしをされたような気分になった。

 

 「あの契約は、不成立だ」


 背中越しにゴルデンが言った。わたしは無言で続きを待った。

 にべもない様子でゴルデンは吐き捨てる。


 「あれは、おまえの姉ではない。おまえそのものの姿ではないか」

 だから、青年の「依頼」に応えたことにはならない。

 ゴルデンはそう言った。


 「古いグラビアの小娘ではなく、ただのルンペルシュティルツヒェンを描かされただけだ。だからあの男は、未だ下らない夢を追い続けるはずだ。魔女の愛弟子も、ずいぶんいいかげんな仕事をするものだ」

 「そんなはずはない」

 

 わたしは速足でゴルデンに追いつくと、彼の横を歩きながらその顔を覗き込んだ。

 (……ゴルデン)


 彼は、呆れたような、なんとも言えない目つきでわたしを眺め、うっすらと微笑んでいたのである。


 

 ガラスの衣装を纏う、黒髪の少女。

 純粋無垢で、愛らしい笑顔の――。


 

 汽笛が遠くで鳴っている。

 急がなくては。

ペルにドレスを着せたかった、そしてそれをゴルデンに見てもらいたかった。

そういう思いでこのネタをチョイスしました。

激しく望みながらも、なかなか叶わない夢には必ず理由があると思っており、そういうことを愛弟子でも書いてみたいと思っていました。

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