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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第六部 ~閑話~ブレーメンの音楽隊
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赦し

ある町の骨董屋で、ペルはその品と出会う。

その品からは、師の気配がした。師の過去、師の思い、師の愛した女性が、そこには宿っていた。

その4 赦し


 骨董屋の飾り窓に、それはさりげなく置いてあった。

 古い町並みである。歩いているうちに、ゴルデンとはぐれたわたしは、今にも降り出しそうな空の下を慎重に歩いていた。

 (なにかが、ある)

 と、魔女の直感が告げており、しかもその「なにか」が、わが師に由来するものであることも予感していた。

 ほんの微かなものでも見逃すことのないように神経を張り巡らし、耳を研ぎ澄まして歩いていたところ、わたしはそれを見つけたのである。


 古いながらも清潔にたもたれたウィンドウの向こう側に、いくつかの品が飾られてある。

 精密な絵を描きこまれた壺や、古代の彫刻の欠片などが、ものものしく並べられている隅に、木彫りのプレートが吊るされている。

 それはペンダント仕様になっており、鎖は新しく付け替えられていたが、本体は非常に古めかしい。

 

 なぜその品に惹かれるのか理解が追いつかないまま、わたしはガラス窓に近づく。

 プレートは非常に細やかな細工が施されており、四角形の淵は、アラベスク風の、恐ろしく手の込んだ模様が彫り込まれていた。

 掌に乗るほどの長方形であり、額縁をかたどったような造りである。

 アラベスク模様の縁取りの中には、しとやかな女性の顔が生き生きと彫られていた。

 広く優し気な額は露になっており、髪の毛は後ろで簡単に束ねられている。唇は豊かにふっくらしており、口元には微笑が刻まれているのだった。


 凝視しているうちに、脳天を貫くような衝撃が落ちて来た。

 立っていられるのが奇跡だと思うほど、わたしは打ちのめされていた。

 (師よ……)

 ガラスに当てていた片手を握りしめた。

 次々と湧き上がってくる映像は、恐ろしく昔のもの――だが、非常に鮮やかなものだった。

 (師よ、師よ、これは)

 ……これは、あなたが仕組んだことか。

 あなたは、敢えてこれをわたしに見せているのだろうか?


 

 ぽつり、と雨が落ちて来た。

 石畳の通りに最初の一滴が大きく落ち、その後は激しい土砂降りとなる。

 気が付くと、わたしはウィンドウから離れ、よろよろと歩き出していた。

 フードもかぶらずに、雨に打たれながら。前髪から伝って落ちる雨が目の前の邪魔をし、すべてが歪んで映る。

 人々は大急ぎで最寄りの軒下や店に飛びこみ、通り雨が過ぎるのを待った。

 だがわたしは、歩き続ける。

 

 ざあざあと降る雨の中に、鮮やかな映像は次々に浮かんだ。

 

 「……」


 これが、師の名前。

 魔法の世界に足を踏み入れる以前の、ただの人間だったころの、遥か昔の師の名前。

 穏やかで、ささやくような女性の声で、何度も呼ばれている。


 「……」


 わたしは耳をふさぎたくなる。

 この名を口にする権利は、わたしにはない。否、誰にもないのだ。

 もう遙か遠い過去の名前であり、この女性は既にこの世にはいないはずである。

 師は魔女になる時、この名を捨てた。

 わたしが己の名を捨て「ルンペルシュティルツヒェン」になったように――。


 はしばみ色の瞳が穏やかに微笑んでいる。

 茶の普段着を纏い、つつましく髪を一つに束ねて家事をする。

 優しい声で歌う後姿。ほっそりとした肩と腰。柔らかな物腰。

 決して、特別な輝きを持つ女性ではない。目をひくようなものは何も持たない。

 ひっそりと生きる、野花のように優しい女性――。


 

 ざあざあ――。

 雨は冷たかった。もうじき霙に変化するだろう。

 肌が焼けるように感じるほど冷たい。

 びちゃびちゃと水たまりを踏みながら、人気のない通りを、わたしは歩く。


 本屋の前を、食堂の看板の側を、わたしは淡々と歩く。

 車道では、水しぶきを豪快に跳ね上げながら、乗合が走る。

 馬のひづめの音と、大きな車輪が派手に鳴りながら近づき、追い越しざまに巨大な飛沫をあげた。

 わたしはさらに、ずぶ濡れとなる――。


 

 (あなたを、永遠に残せたら)


 ……。


 わたしはつまづき、前のめりに倒れた。

 水たまりの中に顔を突っ込み、手をついて顔を上げた。

 わなわなと震えが起きている。悪寒に似た凍えに、わたしは歯を食いしばる。

 (ああ、師よ)


 師の声を、わたしは聞いたのだ。

 遙か過去の映像を読んでいるうちに、そこに師の声までが混じりこんでいた。

 もちろん、今現在の師の声ではなく、もう済んでしまった、終わってしまった過去の残像である。

 

 (あなたを、永遠に残せたら)


 これほどまでに温かい師の声を、わたしは聞いたことがなかった。

 そして、その声に応えて女は振り向いた。全てを包み込むまなざしと、微笑みの唇で。


 

 ……。


 (ざあざあ……)

 薄暗い、部屋の中だ。

 曇った窓の外は雨である。激しく打ち付けるような雨に、窓は細かく震えている。

 小さな暖炉の火は部屋を暖め、同時に穏やかな明かりとなる。

 狭い部屋は十分に満たされていた。


 (ざあざあ……ざあ……)


 わたしは目の前の雨を睨みながら歩を進める。

 目的……目的など、あるものか。

 この襲い来る映像が、わたしに着いてこない場所まで行くだけである。

 だが、歩いても歩いても、 古い残像はわたしから離れなかった。むしろますます鮮やかに蘇るようだ。

 この冷たい雨が、鮮やかな映像を更に磨き上げ、より生々しいものにする。

 わたしは唇を噛んだ。


 (ざあ……)


 

 「あなたを、永遠に残したい」

 穏やかな声だったが、決意が籠っていた。

 女は振り向くと微笑んだ。暖炉に照らされて、抜けるように白い肌はほのかに赤い。はしばみ色のやさしげな瞳が煌めき、潤んだ。

 寡黙な彼が、その言葉を発した。

 彫刻しか興味を示さない彼が。


 その意味は、重大だった。

 だから女性は、瞳を喜びに輝かせ、涙で潤ませたのである。

 (師よ……なぜ)


 「このくちびる、この首、肩、胸元、そして瞳」


 壊れ物を扱うような丁寧さで指が女の顔をなぞる。その指先には見覚えがあった。

 節くれだった、長い指――師の、手。

 (ああ、なぜこれを、わたしに見せるのですか……師よ)

 

 (ざあ、ざあ、ざあ……)


 「わたしを、残してください。あなたの手で」


 女は言うと、胸元の紐を解き始めた。

 なだらかな体の線が見え始める。

 暖炉の火を受け、輝くように艶を持つ、その体。


 女の上半身を目に焼き付け、そして一片の木切れに向かい、刃を握る。

 鋭く、思慮深い視線を受けて、女は仄かに赤らんだ。

 半裸の美しい像が、刻まれてゆく――。



 古い町は、単純な造りになっており、歩道を歩きとおすうちに、わたしはあたりの景色に見覚えがあるように感じ始めた。

 どうやら、ぐるぐると同じところを回っているらしい。

 雨の向こう側には、件の骨董屋が見えた。

 尖った屋根には雰囲気のある風見鶏が立っており、時々ゆるやかに回っている。

 白い照明が飾り窓から漏れており、灰色の雨の道を微かに照らしているのだった。


 結局わたしは、また例の品を前にすることになる。

 ずぶ濡れになりながら、わたしは木彫りのプレートを眺めた。

 強烈な引力を感じるのである。やはり、師は意図的に、この品をこの町に用意したのだ。わたしに見つけさせるように……。


 青く感じるほど白い照明を受けながら、わたしは無言でウィンドウの中を眺めた。

 プレートの彫刻は、間違いなく、あの女性の姿である。

 胸元まで体を曝した女。そんな露な姿をしながらも、清楚で穏やかで、温かな彼女――。


 ちらつく過去の映像は、もう無視することにした。

 師が伝えたいことは、そんなものではないはずだ。

 わたしの愚かな嫉妬心を燃え上がらせることが目的であるはずがない。

 そうだ、わたしは嫉妬している。愛されたことのないわたしは、こういった情念を見せつけられるのが嫌いである。逃げ場のない孤独よ。人の愛よ情けよ。わたしはそれらから取り残され、拾い上げられることは永久にない。

 温もりを見せつけられるのは、好きではない――。


 目を閉じて、師の声を待つことにする。

 ウィンドウに手を当てて、滴のしたたる首を垂れて。


 深みのある声が、一言、落ちて来た。

 わたしは目を開いた。


 そして、嫉妬は嘘のように途切れた。



 生涯――魔女になる前までの生涯――愛した、ただ一人の女性が、彼女なのだ。

 師は心の中から寡黙な人である。

 口を開かないのと同じくらい、心も開かない。

 だから、ただ一人なのだ。

 

 嫉妬を通りすぎた後に、非常に温かな、満ち足りたものが伝わってきた。

 穏やかに燃え続ける暖炉のように、いつも温かく、包み込むように。

 (不快では、ない)

 わたしは目を閉じてウィンドウに額を押し付ける。柔らかな波動がガラス越しに伝わった。

 (不快ではない……)

 幸せの波動。死が二人を別つまで続いた、春の時代。

 チチチ、とセキレイが鳴きながら空を目指す。

 蝶が舞い、ミツバチが通り過ぎ、旅のバイオリン弾きの奏でる音色がどこからか聞こえる。

 窓はいつも、幸福を映し出していた。

 その窓から見えるものは全て、良いものだった――。


 

 わたしは決心し、プレートの下に貼り付けられている札を見た。

 値札には相応の価格が付けられており、わたしは思わずため息をついた。

 文無しではないが、決して金持ちではないわたしにとって、それは手の届かない値段だった。


 (この品を、ここに置いたままにはできない、決して)

 

 やがて雨は小降りになった。

 そのまま霙になるのではないかと思うほどの冷たい土砂降りは、あっけなく上がった。

 灰色の空は僅かに穏やかな表情を見せ、ほんの小さな隙間からは、寒そうな青空と、それでも太陽の光が差し込んだ。

 雨で洗われた町並みは、透明な弱い日差しに照らされて、一つ一つのものを――落ちて転がっている石ころでさえ―妙にくっきりと、浮き上がらせていた。

 

 ぽちょん、ぽちょん、と雨だれが落ちる中で、わたしはウィンドウに虹が映るのを見た。

 振り向いて空を見上げると、見事な虹がかかっている。

 曇天に輝く、七色――。


 (師よ)

 滴が鼻の横を流れ、顎に伝った。

 雨の名残ではなかった。わたしは――涙をこぼしていた。


 これは、赦しだ。

 女になったわたしへの、師からの赦しのしるしだ。

 (感謝します、師よ)

 流れ落ちる涙が尽きるまで、わたしはその場に立ち尽くしていた。


 

 愛しても、良いのだ。

 愛されても、良いのだ。


 ……。


 (師よ)


 わたしはぼんやりしていた。

 だから、肩に手をかけられるまで、彼の気配に気づくことができなかった。

 はっとして振り向くと、ゴルデンがいた。

 

 「なにを、している」


 紫の瞳がいぶかしげにわたしを見つめた。そして視線はわたしを逸れ、ウィンドウの中に向けられる。

 ゴルデンは、一瞬、奇妙な表情をした。だが、ほんの一瞬のことだ。すぐに彼はいつもの冷然としたまなざしを取り戻し、ごく当たり前のことをするかのように懐を探って何かを取り出して、わたしの掌に乗せた。

 

 金貨である。


 「ぐずぐずするな」

 と、彼は言い、わたしに触れたことでびしょ濡れが移った白手袋を脱いだ。

 わたしは無言で頷くと、金貨を握りしめて店の中に入る。

 店のじゅうたんに、巨大ななめくじが這ったような濡れが跡が残ったが、構わずわたしは進んだ。

 いらっしゃい、と言いかけて奥から出てきた中年男は、ずぶ濡れのわたしを見て非常に嫌な顔をした。

 高価な骨董が並んでいる店の中に、小汚いこどもが入ってきた。そう思っている。

 

 わたしは金貨を差し出し、それを見て瞬間的に目の色を変えた男に言った。


 「あれが、欲しい」


 ……。



 あの「儀式」を経て、わたしは女になった。

 からだのことばかりではない。心も変わりつつあり、その証拠にわたしは、愛についてひどく敏感になった。

 (愛、この不思議なもの――)


 変わってゆく自分をゆっくりと受け入れながらも、どうしても引っかかることがあった。

 師のことである。

 師は確かに、わたしから愛弟子の称号をはく奪していない。だから「依頼」は未だに舞い込んでいる。

 それでもわたしは、どこかに引け目を感じていたのだと思う。

 ゴルデンの印を受けてしまった事は、師への背信行為ではないのか。

 そして師は、わたしを赦しはしないのではないかという恐れが、常に付きまとっていた。


 

 愛しても、良いのだ。

 愛されても、良いのだ。


 ……。



 まぶたの向こう側で温かな火が揺れている。

 ふっと目覚めると、わたしは毛布にくるまれて横たわっていた。

 暖炉の前に引っ張り置かれたソファの上にわたしは寝ており、すぐ横には見事な金の巻き毛が首を垂れている。

 宿に運び込まれたところまでは覚えているのだが。


 掌に握りしめたものを見ると、件のプレートだった。銀に輝く鎖が指に絡みついていた。

 わたしはそのプレートを、首に下げることにする。

 ブラウスの下に、師の過去を密かに着ける。


 ゴルデンの出してくれた金子でこれを入手し、店の外に出た瞬間、悪寒に耐えきれなくなった。

 霙になる寸前の冷たい雨を長時間浴び続けたわたしは、熱を出していた。

 「学習能力がないのか」

 ゴルデンの吐き捨てた言葉を、耳元で聞いたような気がする。

 ……くそっ、という呟きも。


 

 ぱちぱちと暖炉の炎が音を立てた。

 部屋の中は既に暗く、カーテンの外は夜らしい。

 十分に温まった体を起こし、自分にかけられていた毛布を取ると、床に座り込んでソファに頭をもたせかけているゴルデンの体を包んだ。

 

 口を少し開き、まるで本物の子供のような顔で眠る、東の大魔女――。

 金の見事な巻き毛が赤に照らされ、艶を放っている。長いまつげの下に隠れた輝く紫の瞳。

 形のよい唇から、口汚い言葉が出るなど、とうてい思えない。


 


 (ゴルデン、あなたを)


 その時、下腹部で何かが微かに蠢くのを、わたしは感じたのである。

ゴルデンの印を受けたとは言え、やはりペルは西の大魔女の愛弟子。

トラメの過去も書いてみたかったので、閑話として上げてみました。

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