ぬくもりと代償
混雑する車両を追われ、寒々しい連結部に立つ二人の魔女。
汽車の中に蛍石の魔女がいることに気づき、思わずその気配を追うペル。ゴルデンは「相手にするな」と繰り返し念押しする。
その3 ぬくもりと代償
汽車の中に、彼がいることは察していた。
独特の空気を持つかの魔女は、魔法の目には仄かに光って見える。燦然とした輝きではなく、仄かな、例えるなら、三等星ほどの明るさの光だ。
地味と言えば地味だが、俺はこれでいいんだ、そういう潔さが、彼からは確かに感じられるのであった。
白昼の汽車である。
栄えている街から街への線であるから、車両は混んでいた。
座席に座ることはできなかった。我々は押し合う通路ではなく、足場が不安定で、暖房がないために外気の寒さにさらされる連結部に立つことを選んだ。
薄暗い連結部の狭い空間で、ゴルデンは眉間に皺を寄せながら腕を組んでいる。彼の真正面に立ったわたしは、手垢で曇ったガラスから車両内の混雑具合を覗いた。
微かな衝撃であっても、連結部に立つ我々にはけっこうな揺れであり、乗り心地の良い場所ではなかった。
次の駅まで、あとどれほどだろう。
一時間や二時間ではないことは確かだ。
(……蛍石はどこにいるのだろう)
真正面で眉をひそめる東の大魔女の不機嫌さから目を逸らすように、わたしは「彼」に意識を集中させた。
汽車に乗り込んだ瞬間から、魔女の気配には気づいていた。
もみくちゃにされ、ついに連結部に食み出した時、やっと少し落ち着いて感じることができ、その気配が蛍石のものであることを知ったのである。
蛍石。
明るい緑の、透明感のある石であり、火に入れると音を立てて火花を散らす。
非常にもろい石であり、それ故、その石を宿した魔女は、強大な力を持つことはない。ごくささやかな力を持ち、その力で受けられる依頼は「たかが知れている」ものに限られる。
それでも、人間は蛍石の魔女を重宝していると思う。
ほんの微かな願いならば、等価交換の法則に叶ってさえいれば、依頼に応じてくれるのだから。
しかも彼の契約は実に手軽であり、わたしが依頼主の前で宣告をするような手間はない。
依頼主がそれと気づかないほどにさりげなく、姿を現さないまま契約を成立させてしまうのが蛍石の特徴だった。
だから、蛍石の魔女の姿を見たことのある者は、ほとんどいないのである。
(こんな石を選ぶ酔狂な者が、いるのだな……)
わたしは目を閉じ、蛍石の魔女を「読み取る」ことを始めた。
まず、ひどく窮屈で汗臭い、不快な状況が伝わる。蛍石は混雑する車両の中で人に押されながら立っているらしい。
蛍石自身の思考は感じられない。得体のしれない微笑と、面白がるような緑色の瞳がちらりと見えた。
(いや、違う)
緑色だと思った瞳は、次の瞬間、無色透明になり、そしてゆっくりと、紫、青、と少しずつ色味を変えた。
どうやら、彼もわたしの存在に気づいたらしい――。
「相手にするな」
ふいにゴルデンが言った。
わたしの思考を読んだらしい。ゴルデンは頭痛を堪えるような表情でこちらを凝視している。
頭が痛いのか、と聞くと無言でウイスキーの小瓶を取り出し、蓋を開けた。
(蛍石の発する光が、嫌いなのだ、彼は)
わたしはゴルデンの様子を眺めた。
ゴルデンは眉を寄せながらウイスキーを煽り、大きく息を着くと頭を振った。わたしには、ゴルデンが蛍石の気配を振り払い、追いやるのが分かった。
ささやかな願いを聞きつけ、いつのまにか契約成立させてしまう魔女なのだ。
呼吸をするような気軽さで依頼主の中に入り込み、自由自在にその心を読み取る。そして、ささやかな依頼を取り付けてしまう――。
それは、人間の世界での、詐欺師に近いものがある。
蛍石を完全にブロックすると、ゴルデンは白手袋の手で口をぬぐった。紫の瞳が警告するように光っている。
「……相手にするなよ」
また、ゴルデンは繰り返した。念を押すような言い方であるが、少ししつこい。
わたしは黙ってゴルデンを見上げ、そして、あることを思った。
その瞬間、ぐにゃりと何かが歪み、一瞬、立ちくらみのような感覚を覚えた。薄暗い連結部の天井から、ちらちらと火花のような輝きが落ちてきて、様々な色に光る。その粒子に取り囲まれたかと思うと、目の前が白く発光した。
蛍石の魔女に、契約を取り付けられた。
まんまと、やられてしまったらしい。
(だがこれは、非常に薄い魔法だ)
軽く掻きまわされた意識の中で、わたしは魔法を分析する。非常に軽い魔法であり、持続もしない。
次の駅に到着するまでには解けるほどの、ごく簡単なものである。
しかし、一体、なにが起きているのだろう。
わたしは自分の状態を注意深く観察した。魔法がかけられていることは確かなのだが、一体、なににかけられたものか分からないのである。
少なくともわたしの体は何一つ変わっておらず、わたしの心の状態も変わっていない。思考回路も、精神状態も、混雑した車両から追われて寒々しい連結部に立ち尽くしているという状況も、なんら変わってはいないのだが。
……。
わたしは目の前のゴルデンを見上げた。
一瞬よぎった予感は的中したらしい。
ゴルデンは無表情で視線を凍り付かせており、口に持って行こうとしているウイスキーの小瓶を握ったまま、動かなかった。眉がぴくりと動き、ゆっくりと紫の瞳が動いてわたしを捉える。
とっさに指先で魔法陣を描き、ささやかな魔法の盾を作ったおかげで、怒りの刃をもろに受けることは避けられた。
ゴルデンは、激怒している。表情に表せないほど、本気で怒っている。
「貴様、どうしてくれる」
紫の炎が足元から燃え上がりそうな程に激怒しながらも、優雅な動作でゴルデンは外套の前を開いた。
一流の手品師の技のように、紫の裏地がひるがえり、わたしはゴルデンの胸元を見せつけられた。
ボタンがはちきれそうなほどに、盛り上がっている。
……。
「すごいな……」
わたしが言うと、ゴルデンは無言で片方の眉を上げた。
真っ白な美しい肌が盛り上がり、二つの柔らかな山が押し合って、豊かな谷間を作り上げている。
ボタンとボタンの間がぱっくりと口を開けており、そこから乳房が露になっているのだった。
見るに堪えない思いがして、わたしはそこから視線を逸らすと静かに怒っている紫の目を見上げた。
ガタガタガタガタ……。
激しい揺れが来て、はじけんばかりの部分が上に下に揺れ動くのを、視界の端でとらえる。
ガタガタガタガタ……。
「胸をしまうといい」
わたしが言うと、ゴルデンは唐突に腕を伸ばしてわたしの胸倉をつかんだ。
体が密着する。ふくよかな感触が前に当たり、わたしは奇妙な気分になる。
「他にいう事はないのか」
ゴルデンは低い声で言う。無数の怒りの刃が飛んできて、わたしは目を閉じて打撃に耐えた。
己の勝手な好き嫌いのために、しつこく同じことを繰り返して念押しをするゴルデン。
そんな彼のことを、わたしはこう思った。
まるで女だ、いっそ女になればいい、と。
しかし、それが「依頼」になるとは、思いもよらぬことだ。
連結部の暗い天井から「シシシ」という、忍び笑いの声が落ちて来た。
ゴルデンは憤懣やるかたないといったふうで、天井をにらみつける。ばちん、と火花が飛び散り、微かに漂っていた蛍石の気配はたちまち散じた。
ゴルデンはわたしを突き放す。
わたしはその場に尻もちをつき、女体化した大魔女を見上げた。
見事な変わり方をしたものである。黒のブラウスとぴったりしたズボンの衣服の上からでも、柔らかなラインはよくわかった。乳房は隠しようがない程突き出ているし、腰のくびれと丸みは、美しいと言っても良い程だった。
こうしてみると、ゴルデンは美女としてもまかり通る。
彼は美しかった。
おい、貴様、考えていることが筒抜けだ、と爆発寸前の声でゴルデンが言っている。
蛍石の微かな魔法が彼を包み込んでおり、チカチカと目がくらむような火花があちこちで散っていた。
緑、青、紫、黄――。
幻想的な彩りに包まれて、彼は不機嫌に立っている。
しかし、色とりどりの小さな火花が散れば散るほど、彼自身の強大な輝きが際立ち、東の大魔女の前では蛍石の輝きなど、取るに足りないものなのであった。
ふとわたしは思った。
等価交換の法則に乗っ取った魔法であれば、当然、この契約には代償があるはずである。
ゴルデンの時間限定の女体化のために、わたしは何を払ったのであろうか。
……すぐに分かった。
……。
唐突に、過去の流れの中を、わたしは漂っていた。
怒り狂っているゴルデンが何か言っているが、ぼんやりとしかわたしには届かない。
わたしは――固い、縮こまった、冷たい体の中に入り込んでいた。
地味な服を着て、スカートから素足を覗かせ、表情に乏しい、ひとりの子供だった。
ルンペルシュティルツヒェンになる以前の「わたし」の中に、わたしは入り込んでいる。そして、過去のできごとを再び体験しているのだった。
母と白雪が見える。
温かな風景だ。二人で菓子作りをしている場面だ。
焼き菓子のよい匂いが台所じゅうに漂い、母と娘の笑い声が響いた。
……わたしは台所の出口に近い場所で、無言で立っている。
二人の姿を、見ていないつもりだった。
でも、見ていた。
見ていたのだ、わたしは。
繰り返される、同じような場面。
いつもわたしは暗がりで立っていて、何も見ていない、何も考えていない――その実、必死に見つめており、陰鬱な思いに苛まれている。
温かな灯や、オレンジ色の炎が立つささやかな暖炉。
クリスマスの飾りつけが始まり、白雪と両親が色とりどりの玉をぶら下げ始める。
緑、青、紫、黄――。
緑、青、紫、黄――。
(……陰鬱なものを見せつけられる、という代償)
目の前の風景を、冷たい素足をさらして立ち続ける痩せた子供の体の中から眺める。
こうして、忘れ去っていると思っていた記憶を呼び覚まされるのは不快なものだ。
この不快さが、ゴルデンを女体化させた代償なのだろう。
(ぼったくりも良いところではないのか)
暖炉から遠い暗がりに立ち尽くしているせいで、手足は痛むほど冷たくなった。
真冬であるにも関わらず、わたしは薄着である。
ふいに思い出した。
「この子は、暑くても寒くても平気なのよ。おなかがすいたって、痛いことをされたって、何も思わないの」
誰の、声だったか。
ぼんやりと、冷たい子供の体の中で、その声を聞く。
「……なんて嫌な子が生まれてしまったのかしら。白雪だけだったら、どんなに良かったことか。やっぱり、あんなものなんか要らなかったのよ」
あんな、もの。
ぱりいん、と弾けるような音を立てて、皿が床に落ちて割れた。
はっと、わたしは気づく。この声の主は、母である。わたしの実の母親の声だ。
父に絡んでいた母は、たった今、父にひっぱたかれて皿を落とした。その場で崩れて号泣する母に、父が震える声で言う。
「あれを食べなかったら、おまえは今頃、生きていなかったかもしれないじゃないか」
あれ、とは――。
ぐるぐると目の前が回り始める。
緑、青、紫、黄――。
緑、青、紫、黄――。
クリスマスの飾り玉が遠のいたり近づいたりし、わたしはやがて立っていられなくなる。
過去の体から飛び去る瞬間、わたしの脳裏には、青々とした見事な野菜畑が映った。
ちしゃの畑である。
「『代償』を払う時がきたら、差し出すのはこの子の方よ。白雪は渡さないわ……」
母の声が遠ざかる。
……。
双子を妊娠中、命を落としかけるほどの悪阻に苦しんだ母は、近所で見かけた畑のちしゃに強く執着した。
長い間、不妊に苦しんていた母が、やっと授かった命である。
生まれながらの魔女である、双子の片割れを大魔女に手渡すことで叶った妊娠――しかし、悪阻が母を追い詰めたのである。
どんないきさつがあったのかは分からない。
ただ、確かなことは、そのちしゃには魔法がかかわっていたということだ。
見事なちしゃ、最高のちしゃが育つために、何らかの契約が交わされた畑だったのだ――。
(ちしゃを食べることで命を繋ぐことができる。その代わりに、生まれてくる双子の片割れを、愛することができなくなる)
愛したいのに――抱きしめたいのに――。
それが、できない。
……。
ゴトゴトゴトゴト……。
ゴトゴトゴトゴト……。
寒々しくて暗く、足場の不安定な、居心地の悪い連結部に、わたしは立ち尽くしている。
強烈ななにかが鋭く胸を貫いており、わたしは両手で自分の体を抱くようにした。
その痛みはゆっくりと薄れ、ぼんやりとしたものになった時、体が芯から冷えていることに気づいた。
これは、肉体的な寒さではない。
(理解ができない……)
冷たい。指先までかじかむほどだ。心が、凍り付いている――。
寒い、寒い寒い寒い……。
目の前をチカチカと舞う火花は次第に数が減っていった。
魔法の終わりが、近づいてきている――。
ゴルデンは、大きく溜息をついた。
眉をしかめて視線をさ迷わせている。
できればこの場から立ち去りたいと、彼は考えている。
……だが、彼はそうしなかった。
ガタガタと震えているわたしの腕をつかむと、無造作に引き寄せた。
いつもの上品な香りが漂い、それは確かにゴルデンなのである。
ゴルデンの体温で暖を取るなど、どうしてできようか。
……。
しかし、目の前に迫る柔らかい大きな乳房が全てのためらいを吹き飛ばした。
わたしは――道に迷ったこどものような気分をもてあましたわたしは――広げられた腕の中に倒れ込み、胸の間に顔をうずめて目を閉じた。
温かく柔らかなものに包まれているうちに、どっしりとした安心感が生まれた。
母親の胸には、力が宿っていると思う。
無条件の安心感、安定感。たとえこの世の終わりがきたとしても、母親の胸の中でなら、安らいでいられると思う。
そのままわたしは眠りについた――。
ガクン、とただならぬ衝撃が走り、わたしは目を開いた。
立ったままゴルデンに寄りかかって寝ていたのである。
「到着だ」
降りるぞ、とゴルデンが言う。そっけない声だった。
わたしは顔を上げ、あの下らない魔法が完全に終わっていることを知った。
顔を寄せていた胸は固くて味気ない板のようであったし、血が噴き出しそうなほどの心の痛みは消え失せている。
ざわざわと人々が降車する気配がした。
いつまでそうしている、と苛立ったようにゴルデンは言うと、突き飛ばすようにわたしの体を離した。
そして紫の目でちらりとこちらを見ると、外套の裾を揺らしながら車両に入る。
降車扉は、車両を渡った場所にある。
砂時計を逆さにした時のように、押し合いながら立っていた人々は次々と降りて行き、車両はだいぶ空いてきた。
大量の荷物を棚から降ろし、降車を急ぐ人々の中で、まだ旅を続ける人は空いた座席に腰を下ろし、新聞を広げ始める。
汽車を降りる人と、乗り続ける人。
その車両に足を踏み入れた時、微かだが、色とりどりの火花が散るのを、わたしは見た。
「シシシ」という笑いも。
その安っぽい火花を、わたしは敢えて無視した。二度とかかわらないよう、心をしっかりブロックした。
大股で降車を急ぐゴルデンを追い、速足で通り過ぎた座席の一つに、痩せて地味で目立たない男が座っているのを横目で見た。
どこにでもいそうななりをした、平凡なその男は、一瞬顔を上げ、にたりと笑ったのである。
楽しんでいただけましたか、お客様――。
ホームに降り立った我々は、人の波に混じり改札に向かう。
駅から出た時、汽車が汽笛をあげ、発車した。
「二度と、ごめんだ」
ゴルデンが、うんざりしたように呟いた。
この二人は、情に溢れる普通の抱擁など、なかなかできません。
ペルの母親は、つくづく魔女に縁がある人だったのだと思いますorz




