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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第一部 白雪姫
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馬の首

黒い馬の「依頼」は、契約の成立が可能なものであった。

その4 馬の首


 ゆうに5両以上の編成であるにもかかわらず、始発の汽車の乗客は少なく、特にその車両については、わたしと紫水晶の魔女だけしか客はいないようだった。

 二人掛けの座席が向き合っており、赤いシートが貼られているが、どれもほころび掛けており、すすで薄汚れていた。また、壁から天井、小窓にかかるカーテンに至るまで、手垢やすすで、灰色に汚れているのだった。

 紫水晶の魔女は、苦痛の表情で座っていたが、やがて汽車が走り出してしばらくした時に、小窓を少し開けた。

 勢いよく冷たい空気が流れ込んできて、豪華な金の巻き毛をそよがせる。

 「どうかしている」

 と、彼は言い、わたしを見て、もう一度、言った。

 「どうかしている」

 無言で相手を見ていると、やがて彼は観念したようにはき捨てた。

 「くさい」

 わたしは車両内を見回した。

 薄汚れたシートには、うっすらとシミのようなものが浮いている。それが脂や汗の類らしいことは分かった。

 目に浮かんだ情景を元に、わたしは答えてやった。

 「労働者たちが利用していた車両だ。とても貧しい。労働先は恐らく、炭鉱か――すすを使う場所だ」

 「……」

 「着替えることもままならぬ者たちだ。混雑している時のにおいは大変なものだったことだろう。よかったな」

 なにがだよ、と、紫水晶の魔女が言った。

 黙ってわたしは相手を見つめた。

 大きくきらめく紫の瞳は実に表情豊かであり、一瞬ごとにうつろいゆく感情の水面の様であるが、相変わらず、彼の「なかみ」は読み取れない。

 (黒曜石のワンズを取り戻さねばならない。わたしの黒曜石を覆う紫水晶のこともある。このままでは……)

 「今が混雑していなくて、閑散としていて、よかった、という意味だよ、紫水晶」

 (このままでは、手かせをされた囚人のようなものだ――)

 わたしがぼそりと答えると、紫水晶の魔女はしばらく押し黙った。また、その紫の瞳が別の感情を灯した。

 汽車が、長々と続く平野を勢いよく進んで行く、素晴らしい音が続いている。

 蒸気の音が耳朶を打ち、どこまでも続く同じ景色が前から後ろに飛んで行く。

 日がのぼるにつれ風はあたたかになり、彼は髪をそよがせながら、窓枠に頬杖をついた。

 

 「ルンペルシュティルツヒェン」


 わたしは顔をあげた。

 横顔のまま、彼はわたしの表情を伺った。そして、ふん、と鼻を鳴らした。

 「分かりやすいな、本当におまえそのものの呼び名をつけたものだ」

 「……」

 「お前の師匠がつけた名と、俺が呼びたい名と、同じというわけだ。やはりおまえは、生まれながらのルンペルシュティルツヒェン」

 

 醜い小人。

 わたしは、生まれながら。


 「俺は、紫水晶と呼ばれたくはない。ゴルデンと呼ばれることが多いし、気に入ってもいる」

 ゴルデン。金色、か。

 わたしは黙ってゴルデンの横顔を眺めた。

 少年の姿をしているが、もちろん彼は少年ではない。どれほどの時間を生きてきたのか、ブロックしている彼からは読み取りようがないが。

 ペルと呼ぶぞ、と、ゴルデンは言い、その省略も師と同じだったので、わたしには異論がなかった。

 どこにいっても、誰にとっても、ルンペルシュティルツヒェンであるならば、それも良いのだと思う。

 

 二時間ほど揺られたところで汽車は最初の駅に停まり、わたしたちは簡素な木造のホームに降りた。

 日は照っており、眩しい程になっている。

 板が割れた部分もあるほど、老朽化しているホームから改札を通る。

 改札に立っていたのは、ひどく腰の曲がった老人である。

 どうやら、この駅にはこの老人しかいないらしいことを察し、ゴルデンは通り抜けてから振り向いて言った。

 「この村には、宿はあるのか」

 老人は首をかしげて顔をしかめた。耳が聞こえないようだ。

 ゴルデンが繰り返し同じ質問をしている間に、わたしはひなびた待ち合いを通り抜け、眩しい日が照る外に歩いた。

 駅から出た瞬間、透明だが鮮烈な光はわたしの目を襲い、一瞬、わたしはまぶたを固く閉じた。

 そのとき


 赤い血のしずくが、三つ……。


 襲い掛かるように湧き上がってきた映像に、わたしは足を止めた。

 白い優雅なハンカチだ。ふちにレースが施されてある。

 上品で、年老いた女性が涙を浮かべながら、自分の指にナイフを入れる。皮を切る程度に。

 じわりと浮き上がってきた血の玉を、ぎゅっと絞って滴にして、もう片方の手に持っていたハンカチで受け止めた。三滴。


 遠い村の領主に嫁いでゆかねばならない、一人娘。

 この領土はまずしく、娘の父親はすでにない。

 わずかではあるが、代々伝わるこの領土を守るためにも、なんとか娘の縁談をまとめた。

 ここよりは幾分かましな村の領主の、一人息子の元へ。


 衣装に身を包んだ花嫁が、青毛の馬にまたがる。

 もう一人の娘が鹿毛の馬にまたがる。これは花嫁につけられた、従者である。せめてもの配慮だった。

 母親は馬上の花嫁を見上げ、ハンカチを渡した。

 「絶対に、身体から離してはいけません」

 と、母親は言い、花嫁はうなずいたが、それを見ていたもうひとりの娘、従者である彼女は、暗い光を目に宿らせた。

 

 危険な、目つきだ。


 ……。

 わたしは頭を振った。

 強烈な映像が、この土地に足を置いたとたん吹き上がってきたのは、魔法が絡んでいるのだろう。

 見せつけられたものからは、悲痛、絶望、憎悪が伝わる。

 「本当に辺鄙な場所らしい。おまえ、本当にこんなところに、西の大魔女の手がかりがあるというのか」

 駅からやっと出てきたゴルデンを振り向いた時、わたしはふいに真正面から、襲い掛かるように近づく馬の顔を見た。

 目をむき、舌を出し、鼻をいからせた、激しい形相の青毛の馬が、はねのけるような勢いで近づいた。

 無論それは幻影であり、さきほどから続いている、おかしな映像の一片である。しかし、業火が燃えさかるような激しさと熱さ、そして異常なほどの執念が、わたしに何かを訴えた。

 「依頼」である。

 しかも、等価交換に見合うものだ。この相手は、等価交換の法則を理解している上に、払うべき代償の大きさを熟知している。

 「ほう」

 ゴルデンも気づいたらしく、足を止めて周囲を見回した。

 ひなびた市場だ。色あせた天幕がまばらに続き、村人たちが時折、ごく静かに買い物をしていた。

 薄い雲がゆっくりと流れてゆく空を見上げ、まぶしそうに目をすぼめる。シルクハットを整えてから、彼は言った。

 「確かに、魔法が絡んではいるが――おまえの探し物は、馬ではあるまい?」

 ゴルデンの言葉には答えず、わたしは外套のポケットから、小瓶を出した。

 目に見えない「依頼」は宙に舞っており、わたしの頭の周りをしつこく踊り続けている。

 荒馬のように跳ねまわる煩いそれは、しかし、小瓶の口を向けると嘘のように大人しくなった。

 するすると小瓶の中に入ったのを見届けると、他の強欲な「依頼」たちが、我も我もと押しのけ合って飛び込んでくる前に、コルクの栓をする。

 

 人の目には、何も入っていないただのガラスの小瓶でしかない。


 「この程度の依頼では、おまえの師は動くまいよ」

 ゴルデンがあきれたように言った。

 わたしは小瓶を眺め、そこに馬を見た。黒い馬は目を怒らせながら、瓶の中で気性荒く跳ねている。

 「どんな依頼であれ、契約が成立する可能性のあるものならば、打診する」

 わたしは小瓶をポケットに収めた。

 そして、振り向いて彼を見上げた。

 「ついてくる必要はない。嫌なら行け。その前に封印を解きワンズを返せ」

 「そんなわけにはいかない」

 ゴルデンはハットを深くかぶると市場に向かい、歩き出していた。宿に向かうつもりだろう。

 ひなびた村には、汽車は一日一度の便しかない。降りたら最後、明日の昼までここからは出られないのだ。

 魔法の気配は、村に足を踏み込むほどに強くなった。

 石ころだらけの道を木靴で踏みながら、わたしはできるだけ注意深く、魔法の音を聴こうとした。

 

 また、場面が目の前に飛び込んで来る――。


 「この馬は、とても性悪で、旅の間、わたしを何度も振り落としましたの」

 指さして、唾を飛ばして、娘が叫んでいる。

 花嫁の衣装を着ているが、人物が違う。

 (ああそうか、この娘は)

 従者が花嫁になりかわっている。

 醜く歪んだ顔が、目を吊り上げて、歯を見せて、声高に言った。

 「もうこんな馬はいりませんの。ひどく性悪で――全くの駄馬ですわ。だから」


 だから、首を斬りおとして殺してしまってくださいな。


 ……。


 馬の目で見た映像か。

 ふと気づくと、ゴルデンが立ち止まってわたしの顔色を読んでいた。

 底知れぬ紫の瞳は無表情に冷たい。彼は言った。

 「馬は、あそこか」

 ばさり、と洒落た外套をさばいて、彼は白手袋をはめた手を前方に向けた。

 この村で唯一の、大きな建物である。三角形の屋根には金色の風見鶏がついており、ゆるやかに回っている。

 農家に毛が生えた程度の城なのだろう。

 のどかな風景に溶け込んだ、こじんまりとした、豪農の屋敷だった。

 言われてみると、その建物がある方向から、薄く何かを感じることができる。しかし、ずいぶん薄い。ほとんど聞き取れないほどだ。

 太陽は真上に来ていた。

 わたしたちの影は一層短くなり、外套の内側は軽く汗ばんでくる。

 (夜に活発になる魔法か)

 「奇遇なことに、俺たちは今晩、あそこに泊まる」

 ゴルデンは言った。

 そこしか旅人を泊めてくれる場所はないのだという。

 宿屋という商売は、この村にはない。たまに来訪する旅人は貴重であり、領主が喜んで迎えてくれる。そのかわりに、土産話のひとつでもしなくてはならないが――。

 市場を過ぎると、ほとんど建物が見当たらなくなった。

 閑散とした砂利道の両脇には、貧しそうな畑が続き、今は真昼だからか、人の姿もいない。

 早朝に農作業を終えた名残で、置き忘れた道具や、木の陰につながれた驢馬が草を食んでいるのが見えるだけだ。牛馬の糞のにおいが漂っており、それは、この土地の日常的な空気らしかった。

 じゃりじゃりと進んで行くと、脇の畑から突然、アヒルが飛び出してくる。

 純白の姿をしているが、くちばしと尻が汚れている。

 ゴルデンが足を止めた前を、跳ねまわるようにして少しだけ遊び、やがて飛べない羽根をばたつかせながら道を横切って逃亡した。

 「つかまえて、つかまえてよ」

 ふいに、畑のあぜから必死な声が近づいてきた。

 小汚い子供が棒を振り回しながら走っている。つぎはぎだらけの帽子を手でおさえながら、酷く不満そうだ。

 「一羽だって逃がしちゃいけないんだ、どうしてつかまえてくれないんだよ」

 言いながら彼もまた道を横切り、アヒルを追って畑の中に飛び込んだ。

 ゴルデンが足を止めて見物しているので、わたしもそれに習って成り行きを見ていると、少年はアヒルを捕まえそうになる度に、ふいに襲い掛かってくる風に帽子を吹き飛ばされては、アヒルそっちのけで帽子を追いかけ、帽子をつかまえたらまたアヒルを追い……ということを、繰り返していた。

 大憤慨しながら彼がアヒルをつかまえて脇に抱えた時、その不可思議な風はわたしの鼻先を微かにくすぐり、ちょっと笑った。

 

 うふ、ふ。

 だって、ね、髪の毛が。


 ラベンダーのような香りが漂い、くすくすと笑いながらそれは空気中にまぎれて溶けた。

 きつねに化かされたような顔でゴルデンが鼻をかいている。

 対して、アヒルを脇にかかえた子供は、かんかんに怒り狂いながら畑から上がってきて、どろだらけになった足で来た道を戻っていった。ぶつくさと悪態を垂れている。

 「魔女め」

 と、聞こえた。

 つぎの当たった尻を振りながら子供が歩き去ってゆくのを見て、ゴルデンはわたしを振り向いた。拍子抜けしたような顔をしている。

 おい――と、彼は言った。

 「これは、馬じゃないな?」

 さっきのラベンダーの香りの風のことだろう。

 「もう一人、魔法使いがいる」

 わたしは答えた。

 さっき聞こえた軽やかな笑い声が、耳の奥でよみがえるようだ。鈴の音のようにころころと、無邪気な。


 だって、ね、髪の毛が。


 ふいに、強い風が吹いて、わたしの大きな外套が、黒い旗のように大きく翻った。

 砂が舞い上がり、わたしは目を閉じる。

 閉じたまぶたの内側で、金色の、まるで癖のない、見事な長い髪の毛が風の中に踊るのを見た。

 髪は大きく波打ち、風の中に遊ぶ。

 そこに櫛が通ってゆき、丁寧に手入れをされる。

 白く繊細な指が髪を整え、やがて風の流れに手伝われて形よく結いあがる。

 露になる、白いうなじ。踊るおくれ毛。

 そして、陶器のような肌の女はゆっくりと振り返る。口元に不思議な笑みを浮かべて――。


 「戯れはよせ」

 ゴルデンがうんざりしたようにつぶやくと、その風は一瞬にして静まった。おかげで、不思議な女性が振り向いて顔を見せるところまで見ることはなかった。

 おかしな魔法の余韻が目の奥でちらついている。

 酔ったようなわたしを、ゴルデンは顔をしかめて眺めた。

 一言「不便な体質だな」と言ってよこすと、また歩き出した。

 目的の城は、すぐ近くまで来ている。

 

 城というより屋敷である。

 大仰な門構えではあるが、ひどく古びており、そこかしこに土がついている。

 玄関に行くまでの間に、小汚い身なりの庭男がいて、旅行者だと知るや否や丁寧になった。悪趣味なほど、骨董品で飾られた屋敷の中に招き入れられたわたしたちは、少しの間ホールで待たされ、そしてさっきの庭男よりは小奇麗な恰好をしたお手伝いの女性に案内されて、離れにある客間に通された。

 客人はいつも、そこに通すのだとお手伝いは強いなまりのある話し方で説明した。

 「ご主人様は、晩にはお帰りになります」

 と、聞き取りにくい話し方で女性が言い、ゴルデンが「ご子息は」とすかさず聞いた。

 ふいにお手伝いの表情は曇り、口を閉ざしてしまったが、客間に我々を通したとき、小さな声で言った。

 「若様はこのところ、ずっと遊び歩いておられます。村の南に遊郭があり、昼も夜もそこにいりびたっておられまして、滅多におうちには戻られません」

 「ほう?」

 ゴルデンは素早くお手伝いの前に回り、ぎゅっと紫の目で彼女の視線を捉えた。

 できることならそれ以上言わずに客間を出ようと思っていたお手伝いは、簡単に魔法に落ちた。

 「若奥さんのせいです。あんな意地悪で、嫉妬深い奥さんでは、気の休まる時がないのでしょう」

 ぺらぺらぺらっと喋ってしまうと、お手伝いは唐突に壁に倒れ掛かった。

 ゴルデンの魔法は、素朴な田舎の女性には強烈すぎるのだ。

 一瞬、白目をむきかけたお手伝いはゴルデンに抱えられて正気に戻り、かっと顔を赤らめた。

 「貧血を起こしたみたいで」

 と言いながら、逃げるように部屋を出た。

 彼女の姿が長い廊下の奥に消えたのを見計らい、ゴルデンは、ふんと鼻を鳴らした。

 屋敷の敷地に踏み入れた一瞬のうちに、ゴルデンは魔法を張ったのであろう。子供の姿のゴルデンとわたしであるが、屋敷の人間は誰もが丁重であり、一人前の大人として我々を扱うのであった。

 

 「金髪の巻き毛の豊かな、おとぎの国の王子のような俺」

 と、自分の鼻先を指さし、

 「黒ずくめの、やせこけた、その従僕」

 と、わたしを指さして言った。

 屋敷の人間には、我々はそう映っている――。


 晩餐の前に、調べておきたいことがあった。

 屋敷に入ってから、馬の「依頼」が入った小瓶の中が、やけに静かになったのである。

 荒れ狂い、飛び回っていた青毛の馬は、今は静かに目を閉じ、脚を折って眠っていた。

 その小瓶を確かめてから、夕暮れ時を待ち、わたしはテラスから庭に降りる。

 厨房から、今夜の食事の肉のにおいが盛大に香ってきて、我々が歓迎されていることが伺われた。

 「封印されているおまえに、何ができる?」

 背後で声がしたので振り返ると、部屋で横になっていたはずのゴルデンがついてきていた。外套をぬぎ、身軽なシャツ姿になっている。透かし模様の入った襟元を指で遊びながら、ゴルデンは、ん、と無造作に木のワンズを突き出した。

 わたしのワンズだ。

 「取れ、どうした」

 ゴルデンは面倒くさそうに言った。

 「おまえの封印は解けてはいない。ワンズを手にしても、おまえにできることはたかが知れているし、用事が終われば速やかに回収する」

 今だけだ、と言って、ゴルデンはあごで示した。

 ゴルデンが示した先には、粗末な裏木戸が雑草の中に見えており、その戸の向こう側は、岩でできたトンネルになっていた。

 「一応、城なんだろうなここは」

 外敵が来襲した時の、抜け道なのだろう。

 普段は誰も通らないらしく、ここから見える様子では、真っ暗で不気味ですらある。

 ゴルデンの紫の目が猫のように輝いている。

 わたしはそっと木のワンズを手に取った。しっくりと馴染むそれは、わたしの手元に握られることを喜んでいるようだ。

 日が暮れるにつれ、昼間はうっすらとしか感じなかった魔法の声が、聞き取れるようになってきた。

 ワンズを手にしたら一層その声は大きくなり、しまいには音楽のように耳の中にしつこく粘りつくのだった。

 

 弦楽器が、哀切に奏で続けている。

 暗く古い、トンネルの中で。

 でもその調べは哀切なだけではなく、時折、闇をつんざく悲鳴のようなけたたましさが混じった。

 キロキロキロキロ、と急降下するような激しさの後は、たまらないほどの悲しみが始まり、そして執着――ほとんど愛と呼んでよいほどのもの――が沸き起こり、最後は壮絶な怒りが立ち上って、また哀切な調べに戻る。

 もちろん誰か名手が弦楽器をひいているわけではない。

 すべての魔法には、調べがある。

 魔法を発する本人が心の中で奏でる調べが。

 裏木戸を開いた時、わたしはワンズをかかげ、先端にある黒曜石に灯をともした。

 すると、暗黒のトンネルの中の様子がわずかに見えた。

 ぽつぽつと荒々しく彫られた天井からは水が垂れ、足元はぬかるんでいる。

 冷えた闇の中では、確かに悲痛な思いが渦巻いていた。

 しばらく進んでから、ふいにわたしは、ポケットの中の小瓶が跳ね上がるのを感じた。

 それで立ち止まり、ワンズを掲げながら注意深く見回した。

 足元。

 天井。

 そして、我々の両側に続く、ごつごつした壁――。


 壁に、目があった。


 赤く反射する二つの目に気づき、わたしはもう一度、ワンズの灯をそちらに向ける。

 そこには、馬がいた。

 ただし、首だけだ。

 壁から、首だけが出ている。

 否、切り落とされた首が、壁に打ち付けられている。


 「剥製ではない」

 ゴルデンは黄金の杖を出し、馬の首に近づけた。

 馬はぴくりとも動かず、目も見開いたまま、うつろに闇を映している。

 「だが、死んでもいない」

 ゴルデンは言い、杖を降ろした。

 わたしは頷き、我々はそのまま踵を返して屋敷に戻ることにした。

 

 馬が目覚めるのは、夜がとばりを下ろしてから、なのだろう。

 太陽が空に残っているうちは、ここにいても、仕方がない。

 「防寒だけは、しっかりしておけよ。ここは冷えるだろう」

 もっともらしくゴルデンが言った。

 そうしてわたしたちは再び屋敷に入り、何食わぬ顔をして晩餐の時を待つ。

 

 仕事は夜になってからだ――。

グリム童話は怖いものが多いですね。

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