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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第五部 いばら姫
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~閑話~白の幻想

昔から不可思議なことが起きると恐れられているトンネルに夜汽車は突入する。

「ちょっとしたことがある」と予言するゴルデン。

ぼやける思考の中で、ペルは不可思議なものを見るのだった。

その9 ~閑話~白の幻想


 「今から、ちょっと面白いことがある」


 ……。

 ゴトゴトゴト……。

 ゴトゴトゴトゴト……。


 浅い眠りから目覚めて、わたしは顔をあげる。

 窓の外は闇夜だった。真っ暗でなにも見えない。まるで、墨汁の中を泳いでいるようなものだ。


 ゴルデンは腕を組んでおり、紫の瞳をきらめかせていた。口角がわずかに上がっている。

 わたしが寝ぼけているように見えたのか、ゴルデンは繰り返した。


 「ちょっとしたことがあるのだ。だから、起こした」

 ウイスキーを寄越すので、受け取って口を湿した。

 夜汽車は客が少ないものだが、今夜はことさら寂しい。車両には我々しかいないようだ。もしかしたら、他の車両は無人かもしれぬ。


 人が近づく気配がした。わたしはウイスキーの小瓶をゴルデンに返す。ゴルデンはそれを外套の内ポケットに戻し、また腕を組んで暗黒の外に視線を向けた。

 くたびれたような足取りの車掌が扉を引き、陰気な足音を立てて近寄る。

 汚れた白手袋の手がつきだされ、切符を求められた。わたしが二枚分の乗車券を渡すと、切込みを入れる。

 そうして、疲れ切った足取りで、車両を出てゆく……。


 

 ゴトゴトゴトゴト。

 ゴトゴトゴトゴト。


 汽車が走り続ける音のみ、無機質に仄明るい車両に響く。

 ゴルデンは暗黒の窓に視線を当てたまま、言った。

 

 「鉄橋を渡る。その後に、長いトンネルに入る」

 そこで、なにかを見るだろう。

 なにか、を。


 天井につりさげられている電球が振動している。カタカタと微かな音が聞かれた。

 照明の僅かな揺れが、車両の明るさをどこか不安定なものにしていた。白い照明が、ぼんやりと舞い遊ぶ。

 その、奇妙にふわふわした無機質な白さの中で、ゴルデンは強烈な色彩を持っている。黄金の巻き毛も、強い紫の瞳も、黒い外套も、そこだけがくっきりとしているようだ。

 (魔法の前兆だろうか)

 あまりにもゴルデンがくっきりと浮き上がっているように思えたので、わたしは神経を研ぎ澄ますことにした。

 その時ゴルデンが目を動かして、わたしの様子を素早く観察し――にやりと笑った。


 「勘付いたようだな、愛弟子よ」

 窓枠に頬杖をつき、ゴルデンは顔をこちらに向ける。人の悪い表情を浮かべながらも、どこか満足げな口調である。

 彼は、満足している。喜びを感じている。……わたしが、敏く感じたことに。

 

 (魔女は、魔法に敏くなければならない)

 一瞬、ゴルデンの思考が入ってくる。非常に鋭く、目まぐるしい回転の彼の思考。常にブロックされているものの、あのおぞましい「儀式」以来、彼は時折、ブロックをゆるめることがある。

 (それでこそだ……)

 「所有物」であるならば、自分に相応しいものではなくてはならない、ということか。

 ゴルデンが時折見せる、ブロックの緩みは、わたしを落ち着かない気持ちにさせる。自身の思考の波を、敢えて見せているのだろう、とも思う。


 鋭く驚異的な広がりを持つ思考は、一流の魔法使いでしか持ちえないものである。今まで完全に閉ざしていたその特性を見せるようになったという事は――わたしは彼にとって、何なのであろう?


 ……。


 「そうだ、トンネルに入った瞬間から感覚を研ぎ澄ませ。そこは魔法の領域であり、空間が歪む場所だ。この車両は別次元に入り込む」

 トンネルから出るまで、この世ではない場所を走るのだ。

 ゴルデンはそう言い、また視線を外の暗黒に向ける。

 (別次元)

 その白い横顔を見ながら、わたしは心の中で言葉を反芻する。こめかみが脈打つほど感覚を研ぎ澄ましており、わたしの黒曜石は細かく振動を始めている。魔法を、察知しなければならない。確かに異様なものが忍び寄っているのだが――。


 キシャアアアアアアア……。


 まるで違う音を立てて汽車が進み始めた。鉄橋にさしかかったのだ。

 わたしは目を閉じ、それからゆっくりとまぶたを開いた。

 

 

 車両の明るさが、増している。

 思わず電球に視線を走らせるが、相変わらず不安定に揺れる、ぼんやりとした照明だ。

 ゴルデンの輪郭は非常にくっきりしている。そこだけが、切り取られているかのようだ――。


 「魔の区域と言われていてな」

 頬杖をつき、視線を動かさないまま、ゴルデンは言う。その声も、非常に鮮明に聞こえた。

 「……鉄道技師たちも恐れる領域らしい。だからこの区間を走る夜汽車は、乗客がほとんどいない」

 

 キシャアア、アアアアア……。


 ……。


 ゴトゴトゴトゴト……ゴトゴトゴトゴト……。


 鉄橋を渡り終えた汽車は、再びいつもの騒音を立て、力強く進み続ける。

 深い闇のゼリーの中を、ただひたすら、前へ前へと掘り進むように、汽車は進む。


 「この区間を走り抜ける間、人間ならば、幽霊や、おかしな幻想を見る」

 ゴルデンは続けた。

 その声は次第に重たくなり、眠りを誘うような低い響きを持ち始める。


 魔法が、始まっている。

 

 「……我々のようなものならば、人間よりも、もう少し強めのものを見るだろう」

 (ゴルデン、あなたの姿が二重に見えている)

 閉じそうになるまぶたを必死でこじ開けながら、わたしは窓枠にすがりつき、ゴルデンを凝視する。あれほどくっきりと見えていた彼の姿が、唐突にぼやけ始め、輪郭は何重にも重なっていた。声も柔らかく深く、羽毛の布団にくるまれるような温もりに満ちていた。

 感覚を研ぎ澄まそうとするのだが、ずぶずぶと眠気の沼に足を踏み入れ、そのまま沈んで行きそうになる。


 ゴルデンは、ちらりとこちらを見た。冷然とした紫の瞳の輝き。だがそれもすぐにぼやけてゆく。

 「大したことはないものだ……」


 汽笛が鳴った。

 間をおき、汽車はトンネルに突入する。

 ごおおおおおおおおお……。おおお、おおおおお……。


 反響する音。

 そして、眩しさを増した車両の空間――。

 わたしはついに眠りに落ちる。


 

 (くちゃくちゃ……くちゃ)

 この感覚には、覚えがある。全身を触手でからめとられるような。

 (くちゃ……くちゃくちゃくちゃ……)

 薄く目を開くと、そこは打って変わって闇の世界であった。わたしの体は闇の中に横たわっており、無数の触手が体をまさぐっていたのである。

 腐臭が、した。


 (ああ、これは)

 わたしは、はっとする。

 これは、以前夜汽車の中で、ゴルデンがわたしを試した幻想と同じものだ。

 闇の腸の中に取り込まれた状況が、そのまま再現されている。


 ここは、闇の腸の中。

 ねっとりとして生温かく、腐臭はするものの、眠気を誘うような心地よさがある。


 今、わたしの手元にはワンズがない。

 無論、封印も解かれてはいない。丸腰状態である。

 

 ぐろぐろと蠢く闇の触手と無数の赤い目、そして死の匂い。

 (いけない)

 眠気と戦いながら、わたしは目の前に広がる闇どもをにらみつけた。


 人がそうであるように、魔女にとっても闇は忌まわしいものだ。

 否、魔女であるならばなおさら、闇は忌むべきもの――なぜなら、この闇たちは不正な魔法を使用た魔女たちを喰らって己の一部にしているからだ。不正な魔法を使った魔女のなれの果てが、闇なのである。


 魔女と闇は、背中合わせなのだ。

 決して闇落ちしてはならないという意識が強い程、闇に対する嫌悪感は増す。

 わたしは封印のせいで、正常時より、よほど回転が鈍くなっている頭を巡らし、極力冷静になろうとした。

 わたしは視線で魔法陣を描き、防御の魔法を作動させる。

 すると、わたしに触れていた闇は電流が走ったようにはじかれた。ほんの微小なバリアが、膜のように体を守る。

 (これでは時間の問題で、食い破られてしまうだろう)

 わたしは、次にどうするべきかを考えなくてはならぬ。


 そもそも、どうしてこうなったのだ?

 妙にぼうっとする意識の中で、わたしは必死に思考を巡らす。車両の中で――そうだ、さっきまでわたしは車両でゴルデンと話していた――トンネルの話をした。

 このトンネルは、特別な空間なのだとゴルデンは言った。

 特別な――確か、幻を見ると――幻覚を見ると、彼は言わなかったか。


 (くちゃくちゃ……くちゃ)

 胸が悪くなるような闇の腐臭が次第に薄れて行き、まるで別の香りが覆いかぶせるように漂って来る。

 ほのかな甘さを含んだ香り。

 これは、百合の花の匂いだ。純白の花弁を持つ、清らかな百合の香り。

 暗黒の醜い闇の腸の中で、そんな芳香を感じている。


 ……。


 ここは、どこだ?

 本当に、闇の中なのか……。


 頭の芯が麻痺したようにぼんやりとぶれている。今にも眠りに落ちてしまいそうなのは、腸の中がほどよくぬくもっており、ぐにゃぐにゃと柔らかいからだ。どこからか、子守歌まで聞こえてくるようだ……。


 わたしは目を閉じる。

 そして、胸の中心に凄まじい衝撃を覚えて我に返る。何が起きているのか、ようやく理解し、全身がけばだつほどの恐怖を覚える。


 (じゅわ、じゅうじゅう……)


 巨大な暗黒の芋虫が闇の中から生えており、それが、わたしの胸に吸い付いているのである。

 焼き印を押されるような苦痛で、体がのけぞる。一瞬の油断の間に、バリアが、食い破られていた。

 芋虫はわたしの胸に焼き穴を作り、そこに長い舌を突き入れ、わたしの中心の黒曜石に触れようとしている。

 黒曜石のエネルギーを喰らい尽くそうとしているのだ。


 「……くっ」

 両手で芋虫の体に爪を立てる。爪が食い込んだ部分を掴み、むしり取る……。

 両手でつかんでも余りある巨大な芋虫は、そんなことではびくともせずに、ますます強烈にわたしの中心へと舌を伸ばし続ける。凄まじい熱さ。苦痛と恐怖で、わたしは目を見開き、芋虫の体をむしり続ける――。


 「師よ……ゴルデン、ゴルデン」

 助けを求めることしかできない。

 闇に喰いつくされようとしている。闇に取りこまれてしまうのだ。……わたしが。


 (今まで見てきた、闇に喰われた魔法使いのように)

 (魔女の愛弟子たる、わたしが)

 (……)



 「落ち着いて」


 耳元で小さな声がした。

 鈴を振るような、涼し気な声である。歯をくいしばり、抵抗をつづけながら、わたしはその声に耳を澄ませる。


 再度、聞こえる。



 「それは、幻想。だから大丈夫。力を抜いて」


 力を、抜く……。


 「大丈夫だよ」

 その声は非常に小さく弱い者だった。少女のような――否、これはもっと幼い者の声だ。こども、幼児……嬰児。

 本来は、ことばを喋ることがないほど幼い者の発した、力強い守りの意思が声となって届けられている。

 ふいに映像が目の前に浮かび上がる。

 温かな丸い空間の中に、手足を折り曲げ、体を丸めた姿で眠る、胎児の姿――。


 (なんだ、これは……)


 また、聞こえた。

 「大丈夫、だから」

 胎児のまぶたがひくつき、ゆっくりと開く。その瞳の鋭い輝きを見て、わたしは息を飲む。

 この、ものは――この、瞳は――。


 「大丈夫だから、そのまま任せて。闇に喰われてごらん……」


 

 わたしは声に従った。

 目を閉じ、胸に焦げ穴を作られるままにし、やがて忌まわしい闇の舌がわたしの黒曜石に到達し――わたしは、一瞬にして吸い上げられた。


 吸い上げられ、その勢いで、高く高く、浮き上がった。

 


 びうびうと耳元を走る空気の流れに違和感を覚え、わたしは再び目を開く。

 闇に吸い上げられたはずだったが、すでにここは闇ではなく――清浄なる、青の世界。上に上にと、わたしはのぼる。吸い上げられているのではない。噴き上げられている。

 闇の向こう側に、まばゆい清浄の青の世界が広がっている。

 白い雲を突き抜ける。一瞬にしてまた青の世界に戻り――そして、噴き上げられるわたしを受け止めるかのように、白いものが翼を広げて待っていた。


 純白の羽根が舞い散り、目の前で踊る。

 光り輝く金の髪の毛をなびかせ、穏やかな紫の瞳を優し気に細めて、彼女はわたしに手招きをしている。

 白いリネンを纏った、鳥の女性――。


 わたしは女性の胸に抱きとめられ、そのまま頭を下に向けられ、真っ逆さまに落ちる。

 女性に守られながらも、一瞬、鋭い空気の抵抗を感じた。

 くるくると回転しながら、その抵抗を難なくすりぬけ、女性はわたしを抱いたまま、一直線に降下する。

 「見なさい、この清浄なる世界」

 耳元でささやかれ、わたしは目を開いた。

 

 巨大な青い球体が、迫ってきている。

 陸地の部分と、水の部分が不規則だが美しい模様を作った、輝く球体。

 清浄なる世界、と女性は言った。

 世界、これが……。


 ……。


 「あなたに、お願いしたいことがあるの」

 気が付くと、地に足がついていた。

 さっきまでわたしを抱きしめていた女性は姿を消しており、そこは空の上ではなく、白い、真四角の部屋の中だった。

 何から何まで白い部屋だ。

 天井も、壁も、床も。家具の類まですべてが白い。

 窓はなく、ごく小さな出入り口が一つあるだけだ。

 既視感があった。ここには以前にもきたことがある……。


 白いベッドに、少女が一人座っていた。

 黄金の髪の毛を無造作に流し、優しい紫の目でこちらを見つめている。

 わたしは、彼女が先ほどの女性と酷似していることを知る。同時に、誰かとても身近な人物――とても良く知っている人物に、瓜二つであることも。


 「わたしの体は、もうだめ」

 華奢な首筋に指を伸ばし、白いリネンの寝間着の胸元を広げて見せる。鎖骨のくぼみと、柔らかな胸の最初の曲線が見える。……その白い皮膚には、びっしりと純白の羽毛が生えていた。


 パイプオルガンの調べがどこからか流れている。

 麻痺した頭の芯を、さらにしびれさせるような響きだ。

 わたしは顔をしかめて頭に手をやった。……思考が回らない。


 「あなたに、『依頼』を飛ばしたいのだけど」

 かなしげに少女は首を傾げ、白い腕をさしのべてわたしを手招きするようにした。

 わたしはゆっくりと近づき、やがて少女の目の前に立った。

 黒いわたしと、純白の少女が向き合い、見つめあう。


 「……とても、酷な『依頼』なの。だから、もう少し後にする……」

 だらりと下がったわたしの手に、自分の指をからませる。驚くほど冷たい指だった。少女はわたしの手を手繰り寄せると、桜色の唇を触れた。


 その瞬間、怒涛のようにわたしの中へ、流れ込んだものがあった。


 世界。

 世界とはなにか。

 彼女はなにものであり、彼女がこのまま朽ちてなくなると、どうなってしまうのか。


 彼女の『依頼』とはなにか――。



 息が、できなくなるほどの情報量を注ぎ込まれ、わたしは目を見開いた。

 激しい動揺と、受け止めきれない衝撃のために、そのままくずおれる。

 彼女はわたしの手を包み込み、祈るように目を伏せて、温かで清浄な吐息をふきかけた。


 「今はいいの。まだいいの……でも、時間がないから」


 だから、できるだけ早く。



 できるだけ早く、西の大魔女の元へ行きなさい。


 「冗談じゃない」

 わたしはその手を払いのける。

 心臓が極限まで速く打ち続けており、全身が脈打っている。

 それはまだ、送り届けられてはいない。だが、いずれわたしの元に来るだろう「依頼」だ。

 ……そんな「依頼」を送られてたまるものか。


 細い華奢な首に両手をかける。

 息を切らしながら、わたしは親指に力を籠めた。

 少女は目を見開き、苦痛に眉をひそめ、哀願するようにわたしを見つめた。それでも力を緩めずにいると、少女は背中の翼を大きく開き、苦し紛れに羽ばたかせる。

 無数の白い羽根が舞い上がり、わたしの鼻や口のあたりを踊り狂った。息が詰まりかけながらも、わたしは少女を押し倒し、さらに力を籠める。


 「……ちゃん」

 少女の口が動き、誰かを呼んだ。助けを求めている。目に涙がにじみ、苦痛で顔が歪んでいた。

 「おにい……ちゃん。おにい……」


 

 羽根が激しく渦を巻き、包み込まれたわたしはあえいだ。

 白い。なにもかもが、白い。

 ばさばさと瀕死の白鳥がもがくような羽音が聞かれ、パイプオルガンの音が高らかに鳴り響いた。その音が頭の芯を直撃し、全身に反響する様な苦痛を覚えて、思わずわたしは手の力を緩めた――。



 ゴトゴトゴトゴト……。

 ゴトゴトゴトゴト……。


 ひゅう、と息を吸い込み、呼吸ができることに安堵しながらわたしは目を開く。


 夜汽車はトンネルを出て、ますます速度を速めて東へと走り続けている。

 かたかたと車両の電球は揺れ、相変わらず不安定な白い照明だった。

 目の前のゴルデンは窓枠に頬杖をついたまま、ゆっくりと視線をこちらに向けた。


 紫の強い瞳が、わたしを射る。


 

 「……呆れたものだ」

 小さく、吐き捨てるように彼は言うと、ゆっくりと姿勢を改め、わたしを正面から見据えた。

 端正な造りの目鼻立ち、黄金の巻き毛と強い紫の瞳。

 わたしは、ようやく気づいたのである。

 ゴルデン。ゴルデンが、あの少女の。


 まだ息が荒いわたしに、ゴルデンはウイスキーの小瓶を寄越した。

 それを受け取って口を付ける。灼熱の味わいが、わたしを正気に引き戻した。



 「『世界』に、とどめを刺しかける馬鹿がいるか」


 ウイスキーを受け取りながら、ゴルデンは溜息をついた。叱責ではなかった。非常に疲れたように、彼は肩を落としている。どこか青ざめているように見えるのは、彼もまた、何かの幻想を見たのか……。


 「ゴルデン、あなたは」

 「いい。貴様の話など聞きたくはないのだ」

 寝かせろ、と彼は言い、頑固そうに目を閉じてしまった。

 腕を組み、軽く俯いて眠りに入ろうとする彼を眺め、わたしもまた、窓枠に肩をもたせかける。


 「ゴル……」

 一瞬、見えたものに息を飲み、わたしは思わず手を伸ばしかけた。しかしそれは、すぐに車両内の空気に掻き消えて見えなくなる。

 幻覚だったか。

 長い時間、白い羽根の渦を眺めていたせいで。


 目を閉じて眠りに入ったゴルデンの隣に、白い人影が見えたのである。

 リネンのドレスを纏ったそれは、「世界」の姿のように思えた。

 

 ゴトゴトゴト。

 ……ゴトゴトゴト。


 振動が体に伝わる。

 様々なことを考えるには、あまりにも心地良い振動だった。

 慈悲深い眠りが腕を伸ばしてくる。わたしはそのまま、抱き取られることにする。


 

 ……。


 あれは、単なる幻想ではない。

 トンネルの中の歪んだ空間の中に、意図的に紛れ込ませられた強烈な思念。


 (あなたに、見せてあげる。あなたに、教えてあげる――)


 白い少女、「世界」。ゴルデンの、妹。

 彼女は死にかけている。彼女の死は、すなわち世界の破滅を意味する。

 この世界、今こうしている、ここ。わたしもゴルデンも含めた、すべてが闇に飲まれてしまう。


 (だから、わたしはあなたに『依頼』を飛ばさなくてはならない)



 ……。


 「世界」がわたしの手に接吻を落とした時、壮大な情報と共に、彼女の「依頼」が流れ込んできた。

 ただし、今はまだ発信されていない「依頼」。まだ、彼女の中にとどめられている「依頼」だ。


 




 「西の大魔女の、命を頂戴」



 ……わたしは眠りの腕に抱き取られる。

 優しく子守歌を歌いながら、ゆらゆらと揺れる眠りのゆりかご。

 分かるものか。先のことなど、誰が分かるものか。


 ましてや、こんな幻想のような不安定なものに乗せられた思念など、正確なものではない。

 

 眠りに完全に落ちる一歩手前で、ふっと、あの不思議な胎児と声を思い出していた。

 紫の瞳を持つ胎児。生まれながらに強烈な力を持つ、運命の子――。



 汽車は東へ。

これで第五部が終わります。

いよいよ大詰めに入った感があります。

読んでいただき、心から感謝いたしますm(__)m

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