~閑話~血玉石 2
血玉石に委ねられたペル。
血玉石はペルを介抱し、優しく癒す。
だがペルの中でくすぶる思いには時間が必要だった。
その2 ~閑話~血玉石 2
太陽はすっかり昇り、街には穏やかに日差しが降り注ぐ。
石畳の道は温められ、外套を着ている者はほとんどいないほどだった。
これほどの陽気は珍しい。このまま冬を通り越し、春を迎えてしまいそうな錯覚を覚える。
正午が近づくにつれ、街は更ににぎわった。
農業で成り立つ自給自足の街らしく、行き交う人の大半が農作業姿であり、洒落た服を纏うものはほとんどいない。やがて昼時になると、そこらじゅうに荷馬車が止められ、車道の路肩では、つながれた馬たちがのんびりと休み、昼食を取る主人を待つのだった。
「……大変な思いをしたのね」
ぽつん、と言葉が降ってきて、わたしは我に返った。
血玉石の魔女に包み込まれるように支えられながら歩いていたのだが、ずいぶん長い時間がたっている。それまで我々の間には会話はなく、ただ、体を引きずるように進むわたしができるだけ安楽であるように、姿勢を保たせてくれる血玉石の気遣いがあるだけだった。
血玉石は微笑んでいた。
わたしは、自分の中を読み取られていたことに気づいた。封印されている今のわたしなど、石を持つ正統な魔女にしてみたら、おかしなくらい弱弱しい存在だろう。血玉石ほどの力を持つ魔女ならば、わたしが気づかないうちに「読み取る」ことなど、朝飯前のはずだ。
ごめんなさいね、と一言添えてから、彼女は言った。
「どう見ても少年のようなあなたが、そういう状態になった経緯を知りたかったの。あなたの時間は子供のままで止まっているのに、ある瞬間を境に、急激に進められたような感じがしたから」
「……」
あの「儀式」のことを、見抜かれている。
わたしは、微かな動揺を覚えた。相変わらず続く倦怠感と鈍痛の中で、それはもう、うろたえたり、隠そうとしたりするほどのものではなくなっている……。
「大魔女はとても偉大だから、わたしの理解を超えている」
ゆるゆると歩きながら、その、ゆりかごを揺らすような声で血玉石は続けた。
懐かしい香りをかぎながら、歩きながらそのまま眠ってしまいそうになる。わたしはぼんやりと聞いていた。
「でも、あなたがそれを欲したから、彼が応じた。他にも大きな理由があるみたいだけど、あなたがそれを望まなかったら、彼はしなかった」
「……」
「あなたにとって、大変な試練を与えたことも、彼ならば分かっている。でも、敢えてあなたに『印』を授けた」
試練。
問い返す気力もなく、わたしは一歩、一歩と足を進ませる。
気が付くと繁華街を過ぎており、牛馬の匂いが漂うのどかな場所にやってきていた。街の郊外に出たのだろう。
ついたわよ、と声をかけてくれながら血玉石は一軒の家のドアを開いた。
綺麗に整えられた家の中は、女性らしい品であふれており、そのままそこに倒れ込みたいほどの安らぎに満ちていた。
わたしはベッドに横たえられ、素早く目の上に何かをかぶせられた。
温かくて程よい香りが染みついたそれは、強引にわたしを眠りの世界に引きずり込んだが、決して不快ではなかった。
心地よく渦を巻く、温かな水の中にずぶずぶと沈んで行く感覚。
わたしは正体を失った。血玉石がどういった魔女なのか、よく分からないうちに眠ってしまうなど、およそわたしらしくないことだが――とにかく、わたしは眠ってしまったのだった。
わたしは夢を見ていた。
眠っているわたしの枕元に、誰かがいる。とても懐かしい香りがした。
(誰だろう)
よく知っている人物であり、この人物こそ欲してやまなかった存在のようにも思われる。ずっと遠くに離れていた。
本当は、一番側にいて欲しかったのだと思う。
……それにしても、こんな思いが自分の中に、まだ残っていたのか。
明らかにそれは人間の残渣であり、捨て去ったと思っていた類のものだ。
水を張ったたらいに布を浸す音がした。それを軽く絞り、汗ばんだわたしの顔や首筋をふき取っている。
微熱があるのだ。だるくて溜まらなかったわたしを、誰かが部屋まで連れてきて寝かせてくれたらしい。そして、こうやって介抱してくれている。
……ああ、これは。
ふっと気づく。
これは、過去の記憶。
わたしがまだ人間だったころのものだ。
(こんなことが、あったのか……)
忘れ去っていたこと。
「ちゃんと、愛されていたじゃない」
どこからか声が響いた。
低く柔らかな女性の声だ。血玉石か、とすぐに気づく。
また、わたしは「読み取られて」いるらしい。
「それを今思い出したことは、とても良いこと」
また、血玉石が言った。
「たった一度だけのことだったかもしれないけれど、確かにあなたは愛されていた。だから、こうやって介抱してもらえたのね」
……よく分からない。
夢の中で眠るわたしの枕元には、懐かしい香りの人物――わたしの産みの親、母――が、繰り返し布を水で絞っては、体を清拭している。
母はわたしの頭を抱き上げると、口に器をあてがった。
匂いのきついものが流れ込んで来る。
むせかけながらも、わたしは素直に飲んだ。薬だ。
「いい子ね」
もう思い出すことのない母の声の代わりに、血玉石がそう言った。
わたしは目覚め、血玉石の豊かな胸に頭をもたせかけていることに気づく。今しがたわたしに飲ませた薬の器を片手に、血玉石は穏やかに微笑んでいた。
わたしは血玉石の胸から離れ、上体を起こした。女性らしいラベンダー色のシーツと掛布のベッドだった。血玉石の香りがこもっている。
ふと見ると、着ているものが違う。……血玉石が着替えさせてくれたようだ。
血玉石は立ち上がると、薬の器を片づけに部屋から出た。
そこは魔女の部屋らしく、本や薬草がたくさん並べられていたが清潔で、書き物机には花が飾られている。
ラベンダー色のカーテンが絞られている窓からは、ハーブの畑が見えた。血玉石は薬草を調合し、薬を作ることもするのだろう。おそらくは、彼女が手掛けるハーブ畑だ。
窓の側に姿見があることに気づき、わたしはベッドから降りた。
体が楽になっていることに気づく。
鏡に自分の姿を映し、わたしは今着ているものを観察した。
新しい、服だ。
黒で統一されているのは前と変わらない。ブラウスに、ズボン。
上品な仕立てであり、体にぴったり合っている。襟元にリボンが結ばれており、それが今までの服装と、見た目の点で異なるところだった。
わたしは思い出す。
ゴルデンが抱えていた紙の包み。彼は、わたしの衣類を調達してくれたのだ。
「外套もあるのよ」
ふいに血玉石の声がして、わたしは振り向いた。
ゆっくりと血玉石は入ってくると、窓の向こう側を眺めた。風がそよいでいる。
「白い花が咲いているでしょう」
確かに、窓からは白い塊のようなものが見えていた。
ハーブの種類を説明すると、血玉石はベッドに腰をかける。例の懐かしい香りが部屋の中を揺れ動いた。
「春にはラベンダーが咲くのだけど」
呟くように言ってから、血玉石はふふと笑った。
わたしの姿を眺めている。
「大魔女は、遠慮したのね。本当はもっと、女の子らしい服を――ドレスとか――選びたかったんだと思う」
ドレスなんか着ない、と驚いてわたしは答えた。血玉石はくすくすと口に手を当てて小さく笑った。
ふいに、むらむらっと怒りのようなものが湧き上がった。
体が楽になったせいで、気力も戻っている。この状況についての不満が、今更のように沸き起こってきたのだった。
「ゴルデンは、遠慮などしない」
きっぱり言うわたしに、血玉石は目を白黒させた。
なぜ自分がこんなに苛立っているのか分からないまま、わたしは言葉を放った。
「ドレスなど、選ぶはずもない」
ドレス。
白い、リネンのドレス。
……ふわりと軽やかな。細い手足が覗く。
白い羽根が散らばる中、くるくると舞うスカートの裾――。
「わたしがドレスなど着たら、それこそ腹を抱えて笑うだろうよ」
やっとのことで感情を飲み下すと、どうしてこんなに不安定なのだろうと苛立ちながら、わたしは言葉を切り上げた。
血玉石は興味深そうにわたしを眺めていたが、やがて手招きして言った。
「時間を無駄にできないわ。こちらに」
血玉石は、わたしが買ってきた生理用品を並べている。それらの使い方を簡潔に、だが分かりやすく説明した。
「それと、体の仕組みだけど――」
と、生物学的な様々なことを一気に教示した。
漠然と分かっていたことだから驚きはしなかったが、改めて教わると自然に眉間に皺がよった。
こういった生物的な事柄を、ああいった儀式で全てを省略し、秘密裏に行うところが魔法なのだ。もちろんゴルデンは全てを理解したうえで、行っている。
おぞましい略奪行為にしか思えないのだが、血玉石は、わたしがそれを望んだのだと指摘する。
「望めば、応じる。あなたもそうでしょう。契約成立可能な『依頼』なら、依頼主が無意識に飛ばした願望であっても……顕在意識では否定していたとしても……それに応じるでしょう」
同じよ、と血玉石は言った。
等価交換の法則に触れさえしなければ、問題なく応じることができる。
魔法を扱うものとして、ゴルデンは何ら間違ったことをしていない――。
乙女を、瞬時に乙女でなくすことができる。
魔法に関わると、純潔を落とす場合がある。
だから清らかな娘は、魔女に関わってはならない。
魔法とは、人間側の都合など無視するものだ――。
……ゴルデンを恨むのは、間違いである。
だが、もやもやとした気持ちは晴れることがない。
わたしが欲しかったものはこういうものではない。それだけは分かる。
(『世界』のことしか見ていないくせに、なんだ)
紫水晶の空間の中で眠りの中にいたゴルデンは、わたしのことなど欠片ほども考えなかった。寄せ付けたのは「世界」だけであり、「世界」に触れられると、眠りの中でゴルデンは微笑んだではないか――。
(わたしは扉の外で見ていることしか許されなかった)
血玉石はわたしの表情を見て、時間が必要ね、と溜息をついた。
苛立つわたしは、血玉石の側から離れ、部屋を出た。
外に出てハーブの畑の前に立つと、風がよそいだ。
ふわっと薬めいた匂いが立ち上り、むせるほどである。
わたしは周囲をすばやく見回した。この家が人里離れた場所に立っていることが分かった。
農家の一帯は、ずいぶん離れたところに集まっており、この辺りまで人が来ることはなさそうだ。
徐々に日が傾きかけている。風に冷たさが混じり始めていた。
このまま夕焼けに映ろうとしている空を仰ぎ、わたしは目を閉じた。集中する。
空間がぐにゃりと歪み、わたしは黒曜石の異空間に立っていた。
ゴルデンがわたしを血玉石にゆだねたのは、保健の講習を受けさせるためだろう。それならばもう、用は済んだ。
わたしはわたしの思うことをしなければならぬ。
心地の良い沈黙の空間。夜空の輝きの中を、わたしは進む。
扉が見える。いくつもの扉が。
わたしは探している。
オパールの魔女――「母」――の扉を探している。
そして、それは見つかった。
優し気で妖しい光を放つその扉は、黒曜石の無機質な空間の中で、異質だった。
様々な色の粒子が飛び交い、誘うように揺らめいている。
(おいで……ここへ、おいで……)
そう誘っている。
わたしはゆっくりと近づいた。
今まで、この扉はわたしを受け付けなかった。
ノブに手を触れると電気が走り、わたしは弾かれる。そして聞こえるのだ。
「まだ、来てはいけません」と。
だが、今は状況が変わった。
今ならば――。
わたしは扉の前に来ると、手を伸ばしてノブを握った。何も起こらない。……扉はわたしを拒絶しては、いない。
「オパール」
わたしは呼びかけた。
びんびんと、ノブを通して伝わってくる魔法の波動は強烈で、目の前がちらつくようだった。
「師に、会わせてほしい……」
師よ、そこにおられるのであろう。
わたしはノブを回した。扉は軽く音を立ててゆっくりと開く。
まばゆく、様々な色の粒子が飛び交う、不思議な風景が目の前に広がった。
オパールの空間である。
ゆらりゆらり……。様々な色が揺れる。
「おい……で」
ゆらり……。色が、舞い遊ぶ。わたしは目の奥が焼けたように感じ、チカチカとすべてのものが点滅しているように見えた。思わず目を閉じる。
ゆらり……ゆらり。
目を閉じても色の粒子は舞い続け、やがてわたしは自分がその粒子たちに取り囲まれ、襲われかけていることに気が付いた。
「おいで……ここに、おいで……」
(色に、取り込まれる)
わたしの黒曜石が――無数の色に。
色の粒子が渦を巻き始め、わたしを取り囲む。
凄まじい流れが生じ、わたしは扉の中に吸い込まれかけた。
「よせばいいのに、やはり」
その時、冷たいほど落ち着いた声が聴こえた。
そしてわたしは体を横抱きに抱えられ、強烈な吸引力から逃れた。
空気の凄まじい流れから脱出すると、バタンと激しい音を立てて扉が閉まる。
まだチカチカする目を開けると、仏頂面のゴルデンがわたしを抱えていた。目が合うと不機嫌そうに溜息をつく。
「死にたくなければ、二度とするな」
黒曜石の異空間の中にゴルデンがいるということは、彼も自分の異空間からこちらに入り込んだのだろう。
放り出すように荒っぽくわたしを降ろすと、ゴルデンは腹ただしそうに言う。
「面倒くさいから教えてやろう」
尻もちをついたわたしを見下ろして、ゴルデンは腕を組む。
「愛弟子よ、よく聞くがいい」
黒曜石の心地よい沈黙の中に、彼の声は冴えて響き渡った。
「魔女が『母』のもとへ行くということがどんなことか、おまえは知らないらしい」
「……」
「『母』は大魔女を任命する。大魔女を生む存在である。魔女にとっての母親、それが『母』」
そして同時に、とゴルデンは言葉をつないだ。
「たいていの魔女にとって、『母』は死なのだ。愛弟子よ」
……死。
わたしは茫然と聞き、そして突然、がくんと体が落下する程の衝撃を受けた。
では。
では、師は――。
片方の眉を吊り上げると、ゴルデンは言い放った。
「わかったか、愛弟子よ。おまえの師は、おまえに死にに来いと言っているのだ」
テーマは「母」ですm(__)m