赤の幻想 3
家の中のベッドで寝ている何者かに、ペルは野苺を届ける。
起き上がり、苺を口に入れるよう要求され、ペルは不可解な恐怖に囚われる。
その9 赤の幻想 3
色々なことを整理する必要があるような気がするし、実は単純で、何ら考える必要のない事であるようにも思える。
魔女には様々なものがあるように、その命の結晶も様々であろう。命の結晶などというものがあるなど、思いもよらなかったのだが、知ってしまった以上、目を背けることはできない。
わたしの命の結晶は「愛」なのだと漠然と思う。求める愛、だ。……はっきり言うと、飢えている。わたしは、愛に渇望しており、わたしの命の結晶はひび割れ、朽ちかけている。
では、ゴルデンの命の結晶は。
……今のわたしには、常にブロックされて全く見ることのできなかった彼の内面が、ごく抽象的ではあるが、見ることができる。それは、さきほどの「印」のせいだろう。彼は彼の一部をわたしに注ぎ、それにより、わたしの体の中に変化を呼び起こそうとしているのだ。だが、同時に、わたしは彼と、ほんのわずかな細い糸ではあるが、繋がりを持ってしまったのである。
細かく振動し、今にもちぎれそうな儚さを持ちながら、その糸は確かにゴルデンに繋がっているのだった。
だから、わたしには分かる。
わたしの命の結晶が「愛」であるのに対し、ゴルデンのそれは「怒り」であろう。彼は怒りの魔女である。稲妻のような怒りの衝動を秘めており、それが彼の原動力になっている。怒りを抑え込み、思考をめぐらす精神力も、もとは怒りの力によるものだろう。
(では、師のそれは一体なんだ)
わたしは、師の事を知らない。師はわたしに「開いて」いない。
わたしはようやく気づく。
師は、わたしに、「開いて」いない――。
わたしの前には、木でできた扉がある。質素ではあるが、趣向がこらされたものだ。鳥の形が彫りつけられており、どこか少女趣味である。
ノブを回して中に入ると、木の香りが漂った。
窓には手作りのカーテンがかかり、ぬいぐるみのついたカーテン止めで括られていた。丸い木のテーブルの上に、こじゃれた小さな傘のついた電球がぶら下がっている。夜になると、ささやかな照明が灯るのだろう。
テーブルの上には、金魚草が一輪飾られている。花模様の小さな花瓶はつやつやと光っているが、よく見るとなかなか古そうだ。
(ものを大事にする人物)
わたしはテーブルから視線をそらし、部屋のあちこちを眺める。
確かに、おはいり、と声が聞こえた。この小さな家には二階や別の部屋があるわけではなかった。
たった一室に、小さな流しや食卓が置かれたささやかな生活空間である。……壁際に、わたしは見つけた。ひっそりと、そこにはベッドがあり、賑やかなパッチワークキルトの掛け布団がこんもりと被せられている。視線を当てると、微かに布団の山が動いた。
誰かが、そこに寝ているらしい。
「野苺を渡すように言われたのだが」
そういうと、わたしはバスケットをテーブルに乗せた。
それまでどんなに外そうとしても腕から離れなかったバスケットは、このおかしな家の粗末なテーブルの上になら、素直に安置されたのである。赤い(なんて赤い……)実が山盛りになったバスケットは、木の家の中で、鮮やかだった。
もぞり、と掛け布団の山が動き、くぐもった声が聴こえた。
「野苺……そうだね、それは必要なものだ」
どこかで聞いたことがある声だ。ひどく馴染みのある。
わたしは怪訝に思い、次に反射的に飛びのいた。ワンズがないので、指先を突き立て、手前に掲げる。いつでも魔法陣を描ける準備をして、わたしは相手を観察した。
おかしいのである。
この相手からは、なにひとつ読み取ることができない――いわゆるブロックとは違う――空虚なのだ。
「何者だ」
わたしは低く言った。
もぞり、と布団の山が起き上がり、漆黒の髪の毛が現われる。
わたしは息を飲んだ。
青白い顔色。闇のように黒い瞳。血の気のない唇。人形のように整ってはいるが、見るほどに不気味な子供がそこにいた。
「わたしは……」
自分そっくりの子供は名乗ったが、その名はよく聞き取れなかった。あるいはわたし自身が、聞き取ることを拒否したか。
子供が名乗った名は懐かしい響きを持ち、わたしの深い部分を微かに温めた。だが、わたしはそれを受け取ることをよしとしなかった。
そんな名は、知らない。
わたしはルンペルシュティルツヒェン。魔女の愛弟子――。
ベッドに腰掛け、子供は闇色の大きな瞳でわたしを見つめた。無機質な表情である。なんら感情を示さず、見つめている瞳には興味のひとかけらも浮かんでいない。
(ゴルデン、こんなものを見せてどうする気だ)
こんなものを。
……わたし自身の、醜い姿を。決して愛されることのない、空虚な姿を。
愛されることの、ない。
……。
「くれないの」
と、子供は無表情で首をかしげた。
テーブルに置いた野苺のことだ。
「ここに置いた。取りに来ればいい」
言ってから、わたしは踵を返そうとした。ひどく不快である。おまけに、先ほどから感じていた体の内部のざわつきが強くなってきた。両の乳の痛み、下腹部の(グチャグチャ……グニュ……グニュ)おかしな違和感。
子供は引き留めるでもなく、無関心な顔でわたしの姿を目で追った。
わたしは再び扉を開き、この家から出ようとした。だが、できなかった。
扉を開いたところに、ゴルデンが立っていたのである。
腕を組み、紫の目を猫のように細め、彼はわたしを見据えている。ず、と彼は一歩踏みだして家の中に入り、わたしは後ずさった。
「どうした」
ゴルデンはさらに踏み込み、わたしを後ろへ追い詰めた。こん、と腰がテーブルに当たる。
面白そうに口元をほころばせながら、ゴルデンは言う。
「……苺を渡すのだ、愛弟子よ」
いやだ、と、わたしは言った。なぜこれほど拒否したいのか分からない。本能が訴えているのだ。
この苺を、あの無機質で空虚な者に渡してはならない、と。
(師よ、師よ、何が起ころうとしているのか、わたしには分からない……)
「渡すのだ」
ゴルデンが、ほとんど体が触れ合うほど近くにまで来た。強い紫の瞳が、じっとわたしを見据えている。
(怖い)
わたしは観念した。
震える指で苺のバスケットを取り上げると、ベッドに座る子供の前まで来た。
子供は闇色の目で見上げると「あ」と口を開ける。
(師よ、師よ、わたしがわたしでなくなってしまう――)
わたしは機械的に苺を一つつまみあげると、子供の口に押し込んだ。
子供は(グチャグチャ……クチャ)無表情のまま咀嚼し(クチャ……)飲み込んだ。そしてまた口を開ける。
(ああ、師よ)
目を閉じながら、わたしはその作業を続けた。
苺をつまみあげ、口に押し込み(クチャ……)子供がそれを咀嚼して(グチャグチャ……グニャ)飲み込む。
「そろそろ時間だな」
唐突に、事務的なゴルデンの声が聞かれた。はっと目を開けると、目の前の子供は消えており、代わってゴルデンが足を組んで座っている。
今しがた、わたしが口に押し込んだ野苺を、ゴルデンはゆっくりと咀嚼し――じっとわたしを見ながら飲み込んだ。
わたしは全身の力が抜けるような感覚を覚え、そして、形容しがたい痛みにしゃがみ込んだ。
それまでわたしに付きまとっていた倦怠感に加え、下腹部の猛烈な痛みが発生した。
(師よ)
混乱の中で、わたしは師を呼んだ。
バスケットは床に転がり、野苺はばらばらとはじけ飛んでいる。赤が床を鮮やかに彩る。
ゴルデンが立ち上がり、その赤を踏みながらこちらに近づいてくる。
わたしは(師よ、どうか)床に尻をついた後ろにずり(師よ、師よ、師よ……)テーブルの脚にぶつかった。
ぐちゃりと踏まれた赤い実は、ぞっとするほどの色を床に弾かせる。
「おまえは、女になった」
紫の瞳が、わたしの前に立ちはだかっている。
わたしは震えあがった。彼からもたらされた一連の出来事を素早く思い返す。そして知る。
これらは――あの接吻から今に至るまで――儀式だった。儀式だったのだ。
わたしは、わたしの中の時間がわずかに進んだことを感じた。13歳で停止していた体は成長し、わたしは――。
「女にならなければ、おまえの欲するものは永遠に手に入らないであろう」
わたしは両手で身体を抱きしめ、震えながらゴルデンを睨んだ。これは凌辱である。
ゴルデンは「ふ」と鼻で笑った。
「俺が、おまえを、女にした」
……弾けた。
わたしは滅茶苦茶にわめきながらゴルデンに掴みかかり、胸倉を掴んで力任せに振り回した。
「自分の望んでいることすら、分からない愚か者が」
ゴルデンの平手打ちが何度か頬に飛んだが、胸倉を掴んだ手を離さず、わたしは頭突きを相手の顎の下にくれた。ゴルデンと、ゴルデンに馬乗りになったわたしは床に倒れこみ、そのまま力任せに転がりまわった。
「それでは、一体なにが欲しかったのだ」
殴りかかる拳を跳ねのけ、逆にわたしの頬を張りながら、ゴルデンは怒鳴った。紫の目が怒りに燃えている。
わたしはその怒りをまともに浴び、歯を食いしばった。一瞬の油断を取られ、わたしは床に打ち付けられていた。
「……おまえは、俺に惚れた」
下衆な言い方に、わたしは目を閉じて耐えた。
目を開け、と頬を張られ、わたしはゴルデンを見た。彼はわたしの上に馬乗りになり、胸倉を掴んでいた。
「その前は、おまえの師に惚れていた。それが原因で、西の大魔女は姿を消したのだ。そこまでは、もう理解しているはずだ」
息が詰まる。わたしは呻いた。ゴルデンは容赦しなかった。
「……西の大魔女の扉が、再びおまえを許したのは、おまえの下らない感情が、奴から俺に移ったからだろう。俺じゃなくても良かったんだよ誰でも良かったんだ、西の大魔女は。誰でもいいから、おまえの目が自分からそれてくれれば良かったんだ」
胸倉を揺すられ、ごすん、と後頭部が床に落とされた。わたしはゴルデンの白手袋の手に爪を立てた。再び頬が張られたが、抵抗を止めるわけにはいかなかった。
足を蹴り上げ、相手の体を打とうともがいた。
「……あとは、おまえがはっきりと自覚し、完全に自分から離れさえすれば、奴はいつでもおまえの元に戻ってこれるようになる」
ついにわたしは息がとまりかけ、朦朧として体の力を抜いた。
同時にゴルデンも、攻撃を止めた。ひゅうひゅうと息を取り戻すわたしの上から降りると、床に座り込み、少し離れた場所から黙ってこちらを眺めた。
わたしはやっとのことで起き上がった。
下腹部の痛みはリズムを持ち始め(ずうん……)収縮しているような重々しさを持っている。
まだ息を弾ませているわたしを見て、ゴルデンは少し気の毒そうな表情をした。憐憫の情である。
「おまえの中でくすぶっていた、その感情が西の大魔女を出奔させたのだろうとは、最初から気づいていた」
「……」
「契約、なのだ」
西の大魔女は、大魔女に任命される際、「母」たるオパールと契約を交わした。
その契約は、彼にとっての愛は、唯一「母」だけであるということ。それ以外の者の愛は許されない。
「……推測ではあるが、おそらくそうだろう」
いかなる愛も許されない。友愛、敬愛――すべての、温かな感情を遠ざけて生きることが、契約。
愛を許されるのは「母」との間だけ。
(ああ、だから師はわたしを――)
なんの感情も持たない、両親からの愛すらも求めることをしらない、ほんの子供のわたしを、師は選んだ。
わたしならば、側においても良いと、師は判断した。
それなのに――。
「それが崇高な感情とは思えないのだが、とにかくおまえは、その青くさい感情を俺に寄せた」
青臭い、感情――恋着、一方通行の愛、求める心――。
「最後の仕上げとして、おまえは俺により、女になった」
ぐっと拳を握った。まるで凌辱だ。無理やり奪われたようなものではないか。これでは――。
「そして、俺のものとなった」
「なんだと」
わたしはゴルデンの視線を跳ね返した。ゴルデンは床に座り、壁に凭れて膝を立てている。片方の眉を吊り上げた。
「……そのままの意味だ。おまえは、俺のものとなった。その印を授けたではないか」
無感動に、ゴルデンは続ける。
「牛のように頑固で愚かな貴様が、今どう感じているかは、全く問題ではない」
「ゴルデン――」
「とにかくおまえは、西の大魔女にとって、愛の対象からは完全に外れた。だから、奴の契約とは無関係になったのだ」
コツ、と足音が聞こえた。
わたしははっとした。金魚草の花壇の間の石畳をゆっくりと歩いてくる者がある。
重々しいまでに寡黙な気配。
……師の、気配だ。
ゴルデンは懐中時計を取り出した。
興味もなさそうに時刻を確認し、呟くように言う。
「……いい時間だな」
コツ、コツ、コツ……。
足音が近づく。
ゴルデンはゆっくりと立ち上がった。
「やっと『猟師』がやってきたらしい。赤ずきんは食われた後だが」
ゴルデンは面白そうに呟くと、鼻に皺を寄せて笑う。
わたしは床に座り込んだまま身動きができない。下腹部の痛みと、極度の緊張と。
……。
(師よ、ああ)
変わってしまった、わたしの体を、わたしの心を。
(師よ、あなたは許すだろうか、師よ)
軽い音を立て、扉が開いた。
わたしは見上げた。師が立っている。さんさんと明るい初夏の太陽を受け、赤い髪が燃え上がるようだった。鋭い茶の瞳をゆっくりと動かし、師は、まずわたしを捉えた。……無感情のまま、師は視線を動かし、ゴルデンを見た。
ゴルデンは腕を組んで師を見上げている。
西の大魔女と、東の大魔女がひとところに揃った瞬間である――。
「……東よ」
低く、師は言った。寡黙ゆえの重みが声に籠っている。
「貴様の要件は分かっている」
紫水晶と、トラメ石の強力な力がせめぎあっている。
部屋の中は輝く魔力に満ち溢れていた。
ゴルデンは眉を動かし、相手に話を続けるよう、表情で促した。
わたしは、師がこれほど語るのを見たことがなかった。
「……分かっている。当然。『世界』のことだろう。『世界』と、わたしが結んだ契約を解除する――」
ゴルデンは目を細めた。
「分かっているならば話が早い。貴様は今すぐに、それをするべきだ」
「世界」――ゴルデンの妹――と、師の間に、契約がある。どのような契約なのか、わたしには分からない。
……しかし、師は言った。
「東よ、だが、わたしは――」
言葉を切ると、師は茶の瞳でゴルデンをじっと見つめた。
ゴルデンは眉を吊り上げてその視線を受け、次第に表情を凍り付かせた。師は言った。
「東よ、分かったであろう。わたしは――」
また、言葉が途切れた。
わたしは思わず身を乗り出し、立ち上がる。瞬間、全身に響くような鈍痛にうめき声をあげた。
師はかすかに眉をひそめ、何か苦痛をこらえているかのように見えた。足元から徐々に姿が薄くなってゆく。
わたしは痛みをこらえながら手を差し出し、前のめりに走り出した。
(師よ、まだ何も聞いていない)
いなくなってから今に至るまで、あなたがわたしに投げかけた、謎の理由を。
(場末の宿屋、あの闇の部屋に導いたことや――)
(カエルにかけた魔法、あの泉に我々を導いたのではないのか)
(……すべて、あなたの導きなのではないのか――)
ゴルデンと出会うことも。
あなたなら、計算できたのだと、わたしは思う。
師よ。
あなたは一体、わたしに何を見せたいのか、何を求めているのか。
(読み取ることのできないわたしを、許してください)
(だが、師よ今は)
(せめて教えてほしい、わたしはこれからどうすれば良いのかを――)
「師よ、師よ、師よ――」
置いて、いかないでください。
わたしの元に戻ってくれるのではないのですか。
次第に薄くなりながら、師は茶のまなざしをわたしに当てた。相変わらず無感情に、師は言った。
「愛弟子、ペルよ」
「師よ」
わたしは師にすがりつこうと両手を差し出したが、手ごたえがなかった。わたしは空気を掻き抱き、顔面から床に倒れることになる。
「ペルよ、時間がないのだ。おまえを待っている。おまえにしかできない仕事が、そこにはある」
待つ。どこで。どこですか、師よ。
両手を床につき、わたしは絶叫する。
「『母』オパールの元まで、来い……」
最後の一言を残し、師の気配は完全に消えた。
わたしは、何としてもオパールの魔女の元へ、行かねばならぬ。
ゴルデンは紫の目を見開き、歯ぎしりをして宙を睨んだ。
「西め……」
第四部、終了です。
読んでいただいて、本当にありがたいです。
みなさま、心からありがとうございますm(__)m




