赤の幻想 1
ゴルデンへの想いをひた隠しにするペル。
ゴルデンは逃げるペルを叱咤し、不可思議な結界に閉じ込めるのだった。
その7 赤の幻想 1
(夜汽車が嫌いだと思ったことがあった)
ゴトゴトゴト……。
(どうして、そう思ったのだろう)
ゴトゴトゴトゴト……。
浅い眠りから目覚め、わたしは正面のゴルデンを見つめる。
白い額にかかる黄金の巻き毛。非の打ちどころのない顔立ち。ふっさりと閉じられた瞼の奥には強い紫の双眸が隠されている。
軽く口を開き、寝息を立てている。腕を組み、首を傾け車窓に頭を預け、汽車の振動をゆりかごとして、眠る。
息が詰まるほどのもどかしさを覚え、わたしは視線を窓に移した。
外は荒野である。星のない夜の闇の中にすべてが覆われ、窓は黒い鏡となった。
そこに映る自分の姿は、幼い子供のままである。
だが、わたしの内部では明らかに何かが芽吹こうとしていた。
(この、凍結した冬のような体の中に、春のような兆しがある)
水宝石との関りを経て、わたしは己の中の結晶を知った。人間の残骸と思っていたそれは、残骸ではなく生命の結晶である。だから捨て去ることはできないのだと、水宝石は言った。
その生命の結晶が、さかんに主張しているのである。
ざわざわと騒ぐ胸を押さえながら、東の大魔女の寝顔に、再度、視線を送る。
力の抜けた寝顔は、まるで本当の少年だ。
わたしは眠ることができずに難儀していた。ゴルデンと向かい合い、腕を組んで目を閉じてみたものの、ざわめきが湧き上がるせいで眠りの腕に飛び込むことができなかった。車窓に頭を預け、寝息の真似をしてみても眠りはなかなか近寄ることができず――そして、つい先ほど、ようやく弱い眠りの中に入りかけたのだった。
それも、すぐに覚めてしまったのだが。
このざわめきを、わたしはずっと感じていたのだと思う。
いつからかは分からない。かつて、その対象は師であった。
わたしは師を――愛していた。師弟を超えた感情を持っており、その温かな感情が自分の持つ力とあまりにも性質が異なるために、なかなか気づくことができなかった。認められなかった。
師は、わたしの心を見抜き、去った。
何らかの契約が絡んだ結果、そうせざるをえなかったのだろうことは、見当がつく。
契約を結んだ相手はオパールであることも予想がついた。
師はわたしとのコンタクトを絶ち、異空間の中の扉すら隠してしまったのだが、今は事情が違う。
師の扉が再びわたしの異空間に現れ、開放されているということは、わたしが、師とオパールの間で交わされた「契約」の対象ではなくなりかけていることを意味している。
だが、まだ師は本当の意味でわたしの元に戻ってきたわけではない。例えば今わたしが自分の異空間にもぐりこみ、再び師の扉を探そうとしても、決して姿を現しはしないだろう。
「ペルよ、だがおまえは、もう一つ気づかねばならない」
トラメ石の空間で聞いた、師の言葉が蘇る。
「それでは、今ふたたび、わたしの空間がおまえを許したのはなぜか」
なぜだろう――。
息が詰まってきたので、呼吸を整える。
ゴルデンは、即座にわたしの力を封じてしまったし、今のわたしには様々なものに対する耐久性がない。ぐるぐると回る思考の渦は様々な映像を呼び起こし、そこに籠る思念は力を持っていた。
額に汗が浮き出していることに気づき、わたしは袖で拭った。
キシャア、と、車両が音を立てた。カーブにさしかかったらしい。
車両は傾き、うすぼけた電球は大きく揺れて、頼りない光は揺らめいていた。
心臓が口から出るほど、わたしは怯えて視線を大きく逸らした。……だが、ゴルデンは目覚めなかった。よくこれほど眠れると思うほど、深く眠り込んでいる。
がくがくと力がこもりすぎた拳を外套の中に隠し、わたしはそっと東の大魔女を見つめた。
(気づかれては、いけない)
気づかれたら最後だ。わたしは即座に逃げなくてはならないだろう。
ゴルデンの紫の瞳が届かない場所まで逃げて、身を隠し、己を守らねばならない。
もう認めざるを得ないことだが、わたしはゴルデンを愛している。敬愛ではなく、恋慕、恋着というべきもの――わたしはゴルデンを決して尊敬はしていないのだ――だから、敬愛ではない。
生命の結晶たる部分が求めているその温かなものは、人間特有のものである。魔女の冷酷な世界とはかけはなれており、ましては大魔女とは。
わたしがそうであるように――というより、わたし以上に――大魔女は人間にとっては残酷で無情なものである。
わたしは知っている。
ゴルデンの紫の瞳が怒りを持つと、無数の氷の矢がはなたれて内部の柔らかい部分に突き立つことを。
眠りに閉ざされたまぶたの奥の瞳の冷たい光と、彼の得体のしれない思考、そして、強大な魔力を知っている。
それに、扉の向こうで彼が眠る間、わたしは彼のことを、多少は読み取ることができていた。
彼の興味は、わたしにはない。それこそ、欠片ほども。
彼が自分に触れることを許し、触れられることを喜ぶ相手はただ一人、「世界」だけ。
眠るゴルデンと「世界」の姿を、わたしは扉の外から見ていることしかできなかった。叫ぶ声を届けることすらできなかったではないか――。
(黒曜石が砕けてしまうだろう)
彼に気づかれたら。
わたしの源は自滅する。そしてわたしは――生きている自信が、ない。
ゴトゴトゴトゴト……。
ゴトゴトゴトゴト……。
わたしは目を閉じた。ほんの一瞬だけ、ゴルデンから神経を逸らした。
わずかな息づぎの間だけのことだ。またすぐに東の大魔女に意識を向けると――わたしは目を剥いた――ゴルデンが紫の瞳を開き、興味深そうにこちらを伺っていたのである。
「ほう」
珍獣でも見るように、ゴルデンは目を輝かせている。口元に笑いが見えた。
腕組をした手をほどき、白手袋の手で頬杖をついて、絶対に視線を逃さないように正面から覗き込みながら、ゴルデンは言った。
「面白いことを考えるものだな」
あまりの緊張のために、胃液が持ち上がってきたように思われた。追い詰められた獣のように、わたしは背もたれにへばりつき、どうしても逃げることができないゴルデンの視線を正面から受け止めていた。
上品な香りが流れてくる。ゴルデンは身を乗り出し、顔を近づけた。もっとよく見せろと言わんばかりに。
「なぜ、砕けてしまうと思うのだ」
ゴトゴトゴト……。
ゴトゴトゴト……。
「心配しないでいい。俺は貴様のぐるぐる回る、浅い思考などに興味はない」
だから、読み取ってはいない――と、ゴルデンは言い、猫のように目を細めて、再び背もたれに上体を預ける。
「だが、あきらかにおまえは以前とは異なる。なぜ、そんなに怯えている」
ごくん、と唾を飲み込んだ。粘ついた唾だった。口の中が渇いて、おかしな味がする。
視線を右へ左へ上へ下へとさ迷わせる。ゴルデンはせせら笑った。
「いや、貴様の可愛げのなさは相変わらずなのだが――」
「ゴルデン」
掠れた声でわたしは言った。必死に視線を逸らしながら。黒い色しか見えない窓を凝視しながら。
「大魔女を任命するのは『母』だと言ったな」
ゴルデンは黙った。わたしはまくしたてるように続ける。
「その『母』がオパールなのだとしたら――大魔女は――大魔女の――大魔女とオパールの間には契約があるのだろうな」
言葉がもつれて、うまく紡げない。
わたしは苛立ち、つま先が軽く地団駄を踏んでいた。
それでも気がせいている。わたしは続けた。
「その契約は――契約の内容を――教えてくれ」
ゴトゴトゴト……。
「おまえの師のことなんか、知るものか」
少しの沈黙の後、あっけにとられてゴルデンは言い放った。
「魔法がかかわるところには、確かに契約はある。この俺にも契約はあるが――それこそ、おまえには関係がないことだ」
破裂した。
このような苦しみを感じるのならば、生きていなくて良いと思う。
唐突にえづいて口を押え、前かがみになり、こみ上げてくるものを堪え始めたわたしに、ゴルデンはいよいよ目を剥いた。
苦い胃液を飲み下すと、荒い呼吸の中でわたしは相手を睨んだ。睨まずにはおれなかった。いっそ、憎悪で塗り替えてしまいたかった――憎悪は手軽な方法に思え、目下の応急処置として、わたしはそれを選択することに決めた。
憎悪を込めた視線を受けて、ゴルデンはやはり、むっとした。むっとしながらではあったが、懐からウイスキーの小瓶を出すと、栓を抜いた。
「ほら」
と、自分が飲んでからこちらに渡してくるので、わたしはそれをひったくった。
「おま――」
立ち上がると、唖然としたゴルデンの頭の上に、逆さにした瓶の口を向けた。とくとくと豊かな音を立てて、芳醇な香りを持つ液体は彼の髪の流れに沿って零れ落ちる。
「……」
口を半開きにしたゴルデンに一瞥をくれると、空になった瓶を投げつけてわたしは走り出した。
同じ車両にいられる気がしない。それにしても、熱いものがこみあげてくる。胃液ではなく、もっと胸に迫るような――涙だった。わたしは、泣きながら走っていたのだった。
「逃げるな、ばかたれ」
厳しい声が背中を追ってきて、一瞬、魔法の波動がわたしの足元を捉えたような気がしたが、構わず走り続けた。
そしてわたしは扉を引き開け、車両から逃げ出したのである。
……ゴトゴトゴト……。
ゴトゴトゴト……ゴトゴトゴト……。
……。
ここは、どこだろう。
連結部に出て、次の車両に続く扉を引き開けたはずだった。
牧歌的な――その表現がこれほど似つかわしい風景はないと思われる――林の小道が目の前に続いている。
林とはいっても、鬱蒼とした感じではなく、木はまばらで青空が見えていた。初夏、であろう。眩しい日差しが梢から透けている。
左右を見ると、林の向こうに草原が覗いていた。
ざわざわと風を受けて草は揺れ、緑のさざなみが立っている。ぽつりぽつりと野花が咲いていた。
だが、林の中のほうが、花摘みには(花摘み?わたしは何を考えているのだ)良さそうだった。小道の両脇には色とりどりの背の低い花が連なっている。小道の両脇にはクローバーがこんもりと茂っており、シロツメクサをはじめ、レンゲやオオマツヨイグサなどが、いくら摘んでも摘みきれないほど(……花を摘む?わたしは一体……)咲き誇っているのだった。
足元の花を摘み取ってかごに入れると、その矢先にもっと愛らしい花が向こう側に見えるという寸法だ。
ぷん、と羽音を立ててミツバチが横切り、さあっと風が道を通る。
わたしは悟っていた。
これは、魔法の中に入り込みかけているのだ。
一種の結界が布かれており、ここに足を踏み入れたら最後、術者の掌に乗ることとなるだろう。
しかし、こんな奇妙な魔法を、ゴルデンが(そう、これはゴルデンの仕業に間違いがなかった)どうして使うのか、理解できない。
目の前の風景はあくまで穏やかであり、見ているだけで眠気がさすようだ。
……わたしは自分の睡眠が不足していることに気づく。ここに足を踏み入れ、草花に埋もれて眠ることができたなら、どんなに良いだろう。
誘われそうになる半面、魔女としての本能が激しく警鐘を鳴らしていた。
そして、わたしはその本能に従うことにした。開いた扉を再度しめ、踏み出しかけた片足をひっこめようとした。
「まあ、休んでいけ」
唐突に、天井からゴルデンの声が響き、わたしは体がすくんだ。素早く見回すが、ゴルデンは見えない。
ククク、と喉の奥で笑い、また声は続いた。
「少し、落ち着いて話がしたかったところだ。愛弟子よ」
笑いを含んだ声は、前後左右上下に、自在に揺れ動く。寄せては返す波のように、耳の中で近づいては遠ざかり、こだまを作り、やがて空気に散じた。
「ゴルデン、やめてくれ」
わたしは、どこにいるのか分からない相手に向かい、低く言った。
拳が細かく震え始めた。
わたしは、封印されている上に、木のワンズすら取り上げられて手元にないのである。丸腰の状態で、わけのわからない結界の中に飛び込むなど自殺行為ではないか――。
それに。
「わたしは、あなたに話すことなど、ない」
しばらく沈黙が続いた。
ゴトゴトと汽車が走る振動だけが足元に伝う。
激しい汽笛が鳴り響き、汽車は速度を増したようだった。
ふいにまた、ゴルデンが言葉を発した。
「……面倒くさい」
なんだと、と問い返す間もなく、わたしは目に見えない手に背中を突き飛ばされて、結界の布かれた車両に飛び込んだ。膝をついて振り向くと、素早く扉はしまり、しまると同時に見えなくなる。
そしてわたしは、見たことのない林の中に、取り残されたのであった。
ゆっくりと立ち上がる。
美しい景色だ。絵画の中に飛び込んだようである。
チチ、と小鳥が鳴き、低い枝から飛び立ってわたしの前を横切った。美しい青い羽根の鳥である。見たことのない鳥である。
鳥ばかりではなかった。
さっきから林の向こうの草原で飛び回っている蝶も、みたことのないものだ。おおぶりの羽根はひどく鮮やかであり、それだけで、この世界が、わたしの慣れ親しんでいるところではないことが分かるのだった。
わたしは歩き出していた。
林の中の小道は楽しく、脇に咲く野花も美しかった。青々とした草花の匂いがたちこめ、空気は澄んでいる。
ふいにわたしは気づく。
ここには、人間の住むところなら嫌になるほど渦巻いている、思念がない。
何も、聞こえないのである。
鳥の鳴き声や梢のざわめきならば聞こえる。だが、魔法の耳には何も届かないのだ。
(探りようがない……)
歩きながら、わたしは困惑していた。
林を抜けた。背の高いイネ科の草が生い茂る中に、細い綺麗な小道は続いていた。澄み渡る青空の下、見事になにもない。
ざ、と風がわたってきて、髪を乱してくる。
一瞬、わたしは目をすぼめ、そして、上品な香りを嗅いだ。ぎくりとして飛びのくと、目の前にゴルデンが立ち、にやにやと笑みを浮かべていた。
「……静かなものだろう。ここでなら、気兼ねなく話せるというものだ」
白手袋の手を広げ、からかうように唇の端を吊り上げている。紫の瞳が猫のようにすぼまり、わたしを凝視した。
「俺は、不在中のことをなにも聞かされていないのでな」
後ずさり、逃げようとするわたしを阻むように、ゴルデンは言った。
わたしははっとした。ゴルデンは冷たく見つめたままだ。その視線はいばらの弦のようにわたしに絡みつき、動きを封じている。……わたしはうなだれる。
「そうだな、ゴルデン。あなたに報告しなくてはならないことがある」
ほう、とゴルデンは腕を組み、顎を上向けて促した。視線を避けるために目を伏せながら、わたしは言った。
「師の扉が現れ――わたしは師に会えたのだ。わたしの黒曜石の空間に、師の扉が現われ、わたしを拒まなかったのだ、ゴルデン」
ゆっくりと、ゴルデンの表情が変わった。
緊迫、そして、苛立ち、焦燥――怒り。
ゴルデンはつかつかと近寄ると、わたしの胸倉をつかんだ。されるがままに、わたしは足をぶらさげる。ゴルデンの顔が、目と鼻のさきに、あった。
「西の大魔女の扉が、おまえの異空間にあるのか、今も」
激しい感情が紫の瞳から放たれ、わたしは歯を食いしばった。心の柔らかい部分が瞬時に刻まれる。
ゴルデンの激情は、「世界」のためだ。
鳥に侵され、今この瞬間も病が進行している、「世界」のため――。
ゴルデンはわたしを揺すぶった。
「答えろ、ペル」
今は――扉は見当たらない――師は――気が向いた時にしか――扉を見せてはくれない――。
途切れ途切れに言うと、わたしは意を決してゴルデンを見上げた。強い光を宿した紫の瞳が、激しい焦燥を露にしている。
だが、ゴルデンはわたしの視線を受けると、すぐに感情を隠した。完全にブロックして、自分の思考を見えなくしてしまう。
ぽい、とわたしの胸倉から手を離すと、苦々しい表情で横を向いた。
投げ出されて道に転がったわたしは、肩で息をしながら俯いていた。
「……なぜだ」
と、ゴルデンが呟いた。
わたしは顔を上げることができなかった。こみ上げてくる涙を抑え、唇を噛み――そして、この動揺が、恋着からくるものであることを悟った。
(知られたら、最期だ)
わたしの元から姿を消し、異空間の扉すら隠してしまっていた師が、どうして、今になって再び扉を許したのか。
当然、ゴルデンはそこに思い当たっている。
一瞬ではあるが、わたしはゴルデンの鋭い思考の波を見てしまう。
ブロックが緩んだ、ほんのわずかな隙だ。
わたしは――観念した。
目を閉じ、その時を待つしかなかった。
だが、あまりにも沈黙が長いので、耐えかねてわたしは顔をあげる。
ゴルデンは、背中を見せていた。黄金の巻き毛が風になびき、紫の裏地の外套が緩やかに波を作っている。
背中を向けたまま、ゴルデンは言った。
「なるほどな」
わたしは唇を噛んで、次の言葉を待った。
心臓が今にも壊れそうなほど走っている。張り詰めた黒曜石はぴりぴりと振動し、今にもひびが入りそうだった。
「俺にも都合があるのでな、愛弟子よ。そろそろ本題に入る時がきたようだ」
なに、とわたしが聞き返すと、ゴルデンはけだるそうに溜息をついた。
「時間が、ないんだよ。おまえはあまりにも頑固すぎた。ことによると間に合わないかもしれないが――」
「……」
「俺が、引きずり上げてやる」
ぎらり、と紫の目が振り向いた。
「おまえを――頑固なことこのうえない、愚かなおまえを――俺が、引きずり上げてやる。愛弟子よ」
「……」
眩しい初夏の日差しで、ゴルデンは逆光になっていた。
暗い影の中で紫の瞳が狂気じみた光を放つのだった。
「おまえの中の止まった時間を、進める必要がある。なにしろ、西の大魔女を捕まえないことには、色々とまずいのだ。そろそろ俺の事情も切羽詰まってきている」
時間を、進める?
「西の大魔女を、おまえの前に引きずり出してやる。おまえの師を、手っ取り早く取り戻してやろうと言っているのだ」
魔女の愛弟子版「赤ずきん」の開幕です。




