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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第三部 ヘンゼルとグレーテル
23/77

~閑話~かえるの王女 3

真実の姿を映す泉に己の姿を見るペル。

魔法を携えた森は、不毛の恋の一部始終を見ていた。

その4 ~閑話~かえるの王女 3


 指先でそっと撫でるように水面を通り抜ける風が止み、しばらくの時間があいた。

 規則正しく広がる波紋は日差しを受けて輝き、やがてゆっくりとおさまった。

 そして水面は、鏡になる。


 真実の姿を映し出す、魔法の森の、魔法の鏡。


 しゃくりあげながら、わたしはそこに映ったものを見る。

 澄み渡った青空を背景に、そこには「わたしではない」ものが映り、漆黒の瞳でこちらを見返していた。

 ふいに、その背後から覗き込むものが現われ、にわかには信じられなかったが、かぎなれた上品な香りと気配で、それがゴルデンであることを知る。

 ゴルデンが、かがみこむわたしの背後に立っていた。彼もまた、それを見たのである。

 「……ゴルデン」

 もう一度、そこに映りこんでいるものを見ようとするが、次の風が吹き始めていた。

 ほんの数秒だけ見えた、その姿は沸き起こる波紋にかき消される。

 ざわざわと木立が揺れた。


 「ゴルデン、あれは――なにものだ」

 わたしは顔をあげた。

 腸が焼けこげるような強烈な感情は、波が引くように薄れている。

 魔法残渣の余韻が消えたのだろう。

 眩しい日差しの逆光になり、ゴルデンは灰色に見えた。紫の瞳だけが輝いている。

 彼は言った。

 「お前自身の姿だ、ペル。お前は――」


 不思議に澄み渡る、泉の鏡に映った姿。

 それは、成熟した一人のおんなである。

 黒曜石の瞳を伏せ気味にし、長いまつげが妖艶な影を作っていた。くせのない黒髪は滝のように流れており、艶を浮かせていた。

 ほんの一瞬であったが、わたしはその顔の細かな部分まで思い出すことができる。

 すっとした鼻、桜色に色づく官能的な唇、そして、はだけられ、視線を誘う、白く豊かな胸元。

 ――オパールに、似ている。


 「お前は、女だ、ルンペルシュティルツヒェン」


 ……いや。

 オパールそのものだ。

 黒髪と黒い瞳だけが違う。

 まるでオパールの生き写し――あれが、わたしだと言うのか。


 わなわなと拳が震えている。この動揺は一体(師よ)なんだろう。……わからない。

 (……師よ)


 泉の淵から離れながら、ゴルデンは空を見上げた。眩しそうに目を細めている。

 「女なんだよ。女の部分を、お前は捨てきれていなかった。お前の中の人間の残渣だよ、あれが」

 こびりついて、離れないくらいの代物だ。簡単には捨てられまい。

 ゴルデンはそう言うと、シルクハットをかぶり直し、顔をしかめた。

 ざわ……ざわ、ざ。


 森が、何かを告げている。

 魔法の力が漲っている森は、感情を持っている。その森が、何かを伝えていた。

 わたしは立ちあがり、神経を集中させる。

 ……見えた。

 農夫が森の中を歩いている。霧で先が見えない森の中に入り込み、突然いなくなった二人の子供――我々である――を探している。

 

 (こんなところまで、入り込んで)


 ふいに、穏やかな声が聞こえた。

 老婆のような、しわがれた声である。困惑したような、苦笑まじりの声だ。

 

 農夫は霧の中を足探りで進み、何度かつる草や木の根につまずいて転んだ。

 ふう、という、深い溜息が聞こえたかと思うと、にわかに白く籠っていた靄が薄れ始め、農夫の前に一筋の道を作った。

 農夫は起き上がると、戸惑いながらも歩き始める。

 やがて彼は、この泉までやってきた。

 わたしたちの姿を見ると、脱力したように大息をついている。


 (困った、子……)


 苦笑いのような響きを持ちながら、その声は愛情に満ちていた。わたしには、農夫の体が濃い緑のきらめきに包まれるのが見えた。森のヴェールに守られた、男――。

 この男は、森に愛されている。


 「森に入ってはいかん」

 不愛想に農夫は言い、わたしたちに近づいた。

 「獣がいるし、危険だ」

 さあ、戻るぞ、と農夫は言い、踵を返した。

 その時、けろろ、と、鈴を振るような鳴き声が響いた。


 蓮の葉に乗った、翡翠色のカエルである。

 けろろ、かろろ、とカエルは鳴き続け、農夫は振り向いた。

 柔らかな風が吹きわたり、泉が光の波紋を作る。

 きらめきの中でカエルは不思議な瞳で農夫を見つめ、鳴き続けるのだった。


 (さよなら、さよなら、幸せになるのよ)


 

 ふいに、映像が立ち上る。

 これは、過去の物語だ。もう、断ち切られたものだ。

 祭りの夜、若者たちの踊りの輪に入らずに、森に彷徨い入った農夫。

 彼を迎え入れた森は、彼を待つ者のいる泉まで導いた。

 無数の星が煌めく夜空を映しこんだ泉を前に、男は茫然と立ちすくむ。こんなところに泉があるなんて知らなかった。

 (……来たのね)

 蓮の葉の間から水音をたてて、浮き上がってきた乙女。

 翡翠の色の瞳をした娘である。

 人間ではないだろう。だが、農夫は激しく心惹かれた。――かあさんに、似ている。まるで、かあさんだ……。


 「君の名は」

 「わたしは、ヤーデ」

 あなたを待っていたの、ずっとあなたを見てきたのよ、森の奥の、この泉から。

 あなたを慰めたくて、側にいたくて、魔法の力でこの姿を手に入れたのよ。


 ざわざわ……ざわ。

 森は全てを見ていた。

 かつて、農夫の母親が生贄として禁断の森に足を踏み入れた時、森は母親を受け入れた。生贄を愛でた森は村人たちへの怒りを緩め、村を攻撃するのをやめた。

 母親は美しい姿を森に捧げたかわりに、魔法の泉に住む一匹の綺麗なカエルになり、まだ幼い息子を森の奥から見つめることを許された。

 長い間、カエルになった女はその境遇を受け入れてきた。

 だが、息子が抱える深い孤独を、見守りつづけることが、できなくなった。

 (側にいって、抱きしめてあげなくては。あの子を抱きしめてあげなくては)


 西の大魔女、わが師がカエルの依頼を受け、契約を成立させると、カエルは乙女の姿を手に入れた。

 「ただし、おまえの本質は人間でもカエルでもない。だから、人間の男と連れそうことはできぬ。それでも、良いのか」

 連れそうことは、できぬ――。

 


 「君しか、いらない。君以外の娘など考えられないんだ、ヤーデ」

 農夫の熱は、乙女の心を焦がした。

 「あなたが……好きよ」

 (だめ)

 抱きしめる腕は、乙女の心を引きちぎる。

 (だめなのよ。おまえはわたしとは、沿うことはできない)

 「好き……あなたが、好き……」


 (お願い、お願いよ)

 あの子の心から泉の乙女を、ヤーデを消して。

 (お願い……)

 わたしは永久にカエルでも構わない。永久に恋い焦がれ続けていても構わない。だから、あの子の心から、ヤーデを消して。


 

 森は、すべてを見ていた。

 不毛な恋の一部始終を、大きな懐に包んで、ただ、見ていた――。


 ざわ……。

 (もうじき、雨が降る)

 ざわ、ざわ……ざわ。

 (その子を連れて、はやくお戻り)

 

 ゴルデンはシルクハットを抑え、目を伏せた。風が強くなっていた。

 わたしはちらりと蓮の葉の上のカエルを見た。カエルは不思議な瞳で農夫を見つめ続けている。

 泉の乙女への思いなど、忘れてしまった農夫は、カエルのことなど意に止めない。

 ただ苛々と、わたしたちを振り向き睨んでいる。

 「さあ、早く帰るぞ。がきども」

 誰ががきだ、と、小さく悪態をつくゴルデンの脇を通り、わたしは農夫の背後についた。わたしの後を、ゴルデンも歩いてくる。

 不思議に晴れ渡る泉から離れると、再び濃い靄の世界が待ち受けていたが、農夫が歩く先だけは足元がはっきりしていた。

 ずんずんと、農夫は歩いてゆく。

 

 (さよなら、さよなら、幸せにおなり)

 

 そして、森を抜けた時、ぽつりと最初の一滴が落ちてきた。

 降ってきやがった、と農夫は空を見上げてつぶやき、我々を睨んだ。

 「そっちの子は、大丈夫らしいな」

 わたしの方に顎を上げて、取り付く島もない様子で、農夫は言った。

 「さっさと、行ってくれ。よそ者を泊めてやることはできねえ」

 ざあざあと本降りになってきた。

 長年の、他人にたいする不信感、孤独に慣れた生い立ちが、この男を冷酷にする。

 雨は冷たく、大粒だった。風も強い。

 我々がたちのくまで見張っているつもりらしい農夫に、ゴルデンは冷めた一瞥を投げ、背を向けた。

 

 「行くぞ」

 

 わたしはゴルデンの後を追い、その場を離れようとした。

 その時、一瞬見えた農夫の目の揺らぎが気になり、振り向いた。

 農夫はわたしを凝視しており、酷く戸惑っていた。自分の中に得体のしれないものが渦巻いているような、それをどうしたらよいのか分からないような。


 「……ヤーデ」

 

 ぼそりと呼んでから、農夫ははっと我に返り、大きくかぶりを振った。

 ふいに口から出てしまった言葉に、驚きを隠せない様子だ。

 なにしてる、とゴルデンが不機嫌そうにわたしを促し、わたしは今度こそその場を離れた。

 

 (ヤーデ……)


 

   

 ずぶ濡れになり、外套まで体にへばりつくほどだった。

 シルクハットから滴を垂らしながらゴルデンは村の中心部を目指している。

 汽車は明日にならねば来ない。一泊する宿が必要だった。

 雨はますます激しくなり、風はまっこうから我々を打った。

 石ころだらけのあぜ道はたちまち泥まみれになり、わたしの木靴は時折あぶなく滑りかけた。

 

 あの、姿。

 泉に映った、あの姿は、わたしの本当の姿なのか。

 

 お前は、女だ、ルンペルシュティルツヒェン。

 ……。


 ゴルデンの言葉が蘇る。

 女、なのか。わたしは。

 わたしの中に残る人間の残渣、長い年月をかけても、しつこくこびりつき、離れようとしない「人間」。

 わたしの中に残る「人間」が師を出奔させたのだとしたら、わたしは、「女」を捨てねばならぬ。

 師よ、わたしは女を捨てねばならぬ、あなたを取り戻すために――。


 ふいに、あののたうち回りそうなほどの苦しみが蘇りかけ、わたしは雨の中で頭を振った。

 ゴルデンの濡れた背中を追っているうちに、わたしは泉に映ったもう一つの姿を思い出す。

 わたしの背後から突如、覗き込んだもの――。


 (ゴルデン、あなたは一体、なにもの)


 土砂降りの雨は村中に叩きつけている。

 叶わぬ思いを、カエルの姿で抱き続けるヤーデの泉にも、雨は降り、無数の波紋を広げていることだろう。

 

 「カエルなら、雨などなんともない」

 ……冷たい雨だ、ちくしょう。

 ゴルデンが背中越しに、そう言った。

作中では王女でもなんでもないカエル。

グリム童話では王女様でしたm(__)m

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