~閑話~かえるの王女 1
その村には師の痕跡が残されていた。
不思議な少女からの「依頼」を受け取るペル。
そして師の幻に導かれ、二人は孤独な青年の住む家にたどり着くのだった。
その2 ~閑話~かえるの王女 1
生暖かく肌にまとわりつくような霧であった。
足元から立ち上るそれらは濃厚なヴェールのように揺れうごき、ただでさえぬかるむ足元を更に不安定にさせた。
深い森の中は、暗い緑と霧のために、僅かな光しか入らない。
そのなけなしの光が、霧のために籠り、白昼だというのに森は白夜のようなのだった。
百年以上も生き続けている太い木々の幹があちこちに立ち並ぶ中、猛威を振るっているのは様々な蔓性の植物であった。つる草は可憐で小さな草花に容赦なく巻き付き、日光を遮った。お陰で森の中に咲く花は、どれも豪快で太く長い茎を持つ種ばかりだった。地をはい、他の植物に巻き付くことしかしらない蔓どもは、己の力の足りない部分で見事に開花している鮮やかな花を、悔しそうに睨んでいる――。
森の草花どもは、いずれも種を超えた受粉を繰り返した雑種であり、おかげで植物の影は、どこか不気味であった。きちんとした名を持たない植物ばかりである。
しぶとい交配の末、強力だが無様な種として生き延びている雑草共は、たがいに絡み合いもつれあい、僅かな日光を我こそは得ようとけん制しあっていた。
生命の濃厚な戦いが渦巻く森である。
霧の立ち込める中を進んでいるうちに、ふいに、絡み合っていた弦がほぐれ、こんもりとした木々の枝が、まるで道を譲るように開けている場所に出る。
そこに姿を現わしたのは、鏡のように澄み切った泉だった。
不思議に、そこだけは霧がかからず、すべてがくっきりとしている。
泉の淵には鮮やかな花々が咲き、蝶が飛び、小鳥の声が響いていた。
非常に美しい。
ここには魔法が働いている――。
まばらに浮いた蓮の葉の間に、ぽこり、と小さな泡が上がる。
ぽこ、ぽこ…・・・。
泡は次第に増えて行き、水面は波紋を描く。
水の中から何かが浮き上がってくる。
魔法の気配が強烈に濃くなってゆき、どこからか祭囃子の竹笛が流れ出した。
素朴だが華やかな、男女が出会い、踊る、求愛の調べが。
がたんと衝動があり、前のめりになってわたしは目を開けた。
汽車の中である。わたしは居眠りをしていたのだった。
「降りるぞ」
顔を上げると、ゴルデンは既にシルクハットと外套をまとい、立ち上がっている。わたしは自分も外套を羽織り、彼の後を追って汽車を降りる。
小奇麗な小さな駅だった。
ホームに降り立ったのは我々のみ。乗る人間はいない。
改札から簡素な待ち合いに出ると、汽笛が鳴り、汽車は発車した――。
小さい田舎の村である。
誰もいない待ち合いから外に出ると、珍しいほどの陽気だった。
あたたかな日差しが降り注ぎ、一昨日まで振っていた雨の後を乾かしている。おかげでうっすらと陽炎がのぼっており、むっとするほどだった。
駅前の朝市はすでに終わっており、通りは閑散としていた。
そのかわりに、道の左右に広がる畑の向こう側の空き地では、何件かの農家がアヒルやガチョウ、ヤギなどを放しており、動物たちの鳴き声が微かに聞こえてくる。
こういう場所につきものの、動物の匂いが漂っており、ゴルデンは一瞬顔をしかめた。
農繁期であれば、匂いはこんなものではないはずだ。
わたしは深々と空気を吸い込み、目を閉じて「情報」を探る。
ああ、思った通りだ。
ここにも魔法の気配がある。
さらさらと風が吹くたび水面が揺れる、美しい泉の映像がよぎる。そして、この世のものとも思えないほど白い横顔と。
眩しい輝きの中に溶け込み、見えなくなってゆくそれらには闇の影はない。
だから、等価交換の法則にしたがった魔法である。
それにしても、どこか悲し気なものがあるのはどうしてか――。
……あ。
唐突に聞こえてきた旋律にわたしは目を開けた。
夢の中で聞いた、祭囃子の竹笛。
素朴で素直な、なんの衒いもない音色。際立って優れているわけでもないが、耳につく笛である。
その旋律は耳の奥にこびりつき、わたしは思わず頭を左右に振った。
蓮のつぼみが目の前に迫り、清らかな音を立てて開く。
薄桃色の花から弾かれた水玉がわたしに降りかかる。……無数の、日差しを閉じ込めた、水玉が。
(お願い、お願いよ)
確かに聞こえた。
水玉は切なく訴えながらわたしにまとわりつき、森のうっそうとした匂いが鼻につんとくる。
「依頼」である。
その「依頼」は、魔力を持つ依頼主の多くがそうであるように、強烈な訴え方でわたしを苛むことはなかった。あまりにもやさしく柔らかいので、よく注意して耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうなものだ。
それほど切羽詰まっていないのではないかと思われるような「依頼」ではあったが、二つの点がわたしの気を引いた。
一つ目は、この依頼主には、わが師の影が見え隠れしていた。
恐らく、この依頼主に魔法を使ったのは、師なのだろうと想像がつく。それも、遥か昔のことだろう。
ふわふわととりとめのない、泉の上を吹くそよ風のような依頼主の気配の中に、時折、寡黙で重々しく鋭いトラメ石の輝きが混じるのである。それは、軽やかな竹笛の音色に、重厚なさし音を与えていた。
(どのような魔法だろう)
わたしは、更にその依頼に耳を澄ます必要を感じる。
師の手がかりになる可能性がある。
もう一つは単純な理由だ。
……この「依頼」は、契約成立が可能なものである。
「不便な体質だな、あいかわらず」
ゴルデンにこづかれて、わたしははっとした。
同時に、魔法の気配に当てられて、くらっとした。
「封印を解いてくれさえすれば、簡単に魔法に当てられたりはしない」
身震いして、濃厚な森の匂いとかしましい祭囃子、そしてさわさわと肌をかすめてゆくような「依頼」の気配から立ち直ると、わたしは言ってやった。
ゴルデンは肩を竦めると、紫の目で、「見ろ」と、指し示す。
顎で示された方向を見ると、ゆらゆらと立ち上る陽炎の中に、重厚な輝きが混じっていた。
茶に黄金の縞のある、トラメ石の輝きである。
その輝きは、陽炎の向こう側にも揺らめているようで、まるで道を示すように、あちこちに点々と輝いているのだった。
「……師だ」
またも、師が、道しるべを残している。
……これは師の痕跡だ。
わたしは全神経を集中させる。
すると、陽炎の中に、黒ずくめの赤い髪が浮かび上がり、ゆらゆらと揺らめいた。その立ち姿が、まるでわたしを確認するかのように振り返るのを見た時、わたしは小走りで駆けだしていた。
「師よ」
陽炎の中の幻想は、わたしを待たずにぎゅっと細くなり、激しく揺れて空気の中にかき消えた。
大きく周囲が回り、足がもつれてわたしは転んだ。
「西の大魔女の禅問答に、また付き合うことになるのか」
うんざりしたようにゴルデンが言った。
わたしは立ちあがると、相手を睨んだ。
「師の手がかりだ。あなただって、師を探しているではないか」
嫌なら封印を解きワンズを返せ、と言うと、ゴルデンは深々と溜息をつき、歩き出していた。
陽炎の漂う小道を、ぽくぽくと。
まだ眩暈を感じながら、わたしはゴルデンの後について歩いた。
道端に輝くトラメ石の痕跡は、我々が通過すると同時に消滅してゆく。
「またかよ。お菓子の家にでも連れてゆく気か」
絶対にろくでもないことになるからな、と、ゴルデンが悪態をついているが、言わせておけばよい。
またも、師が、何かを示そうとしている――。
遠くから家畜の鳴き声と、それを追う少年たちの叫びが聞こえてくる。
陽炎の中を、先へ先へと進む師の背中は、ゆらゆらと揺れてはつぶれて消え、また現われては振り向くのだった。
いつしかわたしはゴルデンより先に進み、師の姿を追っていた。
師の残した痕跡を一つ残らず見つけ出すよう、全神経を尖らしているために足はしょっちゅうもつれ、何度か地面に膝をつきながらも、一歩また一歩と進んで行く。
師は、我々を導いている。
酷い匂いだなおい、とゴルデンが言うので我に返る。
トラメ石の痕跡と師の幻に導かれて、今、我々は一軒の農家の前にいた。
ぽつんと離れたところに建っている家屋で、鶏と雛を放し飼いにしている。牛小屋もあるようだ。
ゴルデンが嫌ったのは、牛の糞の匂いであろう。確かに立ち込めている。
この陽気のおかげで、あちこち濡れた部分から一斉に水蒸気が立ち上り、それと一緒にあらゆる匂いが漂っているのだった。
足元を危なっかしく走り回る黄色い雛たちをまたぎながら、わたしは農家の軒下に入った。縁側にこびりつき、鋭い輝きを放っていたトラメ石の粒子はたちまち消えうせる。
師が残したトラメ石の痕跡は、これが最後だった。
ここまで導いていた、師の幻も、今はもう見えない。
わたしはゴルデンを振り向いた。
彼の背後には、こんもりとした森が広がっている。
我々はいつの間にか、村の外れまできていたのだった。
ふいに、砂利を踏み分ける音がして我々は身構える。
空になった水桶を持って、背の高い農夫が家屋を回ってやってきて、見知らぬ子供が庭先にいるのを見て微妙な顔をした。まだ若い男であるが、表情に活気がない。
「雛に触るなよ」
ガキども、と、男は言い、頑固な目で我々を睨んだ。
ゴルデンはシルクハットを取ると、素晴らしく愛らしい笑顔で男に駆け寄った。紫の目で相手の目を凝視し、噛みしめるように言う。
「お願いだよおじさん。一晩、泊めてくれないか」
口の中で噛みしめられ、魔法をまぶされた言葉は、強烈な紫の視線に乗って男に働きかける。
しばらくの沈黙の後、男は頷いた。
わたしは、じっと男を見上げる。
青い瞳には、激しい悲しみと、何か別のものが燃えていた。
よく探ろうと凝視した時、また映像が浮かんだ。
鏡のような水面。そこに波紋が現われ、ゆっくりと優雅なかたちの頭が浮き上がる。
いくら小さな泉ではあっても、少女が足をついて立てるほど浅くはない。
そんな場所に、長い黒髪の少女はゆっくりと浮き上がり、白い素足で立っているのだった。
ずぶ濡れである。
鮮やかな緑の衣は体にぴったりとまとわりつき、きゃしゃだが豊かなラインが露だ。
少女は美しく微笑んで手を差し伸べ、少し小首をかしげる。大きなヒスイ色の瞳だ。
あなたが、好きよ。
……。
「大丈夫か」
いきなり後ろに倒れたわたしに、農夫は驚いて声を上げた。
ゴルデンに受け止められ、わたしは正気に返る。
目の前に迫る農夫の顔は、彫りが深く整っていた。深い青の瞳は、悲しみのために頑固に閉ざされているが、その奥には本来の穏やかで優しいものが息づいているのだった。
男はわたしの目をまじまじと見つめている。
表情が微妙に変わる。戸惑うように男は視線を外し、片手を口に当て、わたしから離れた。
どこか苦し気に、男は言った。
「入って休むといい。ここは俺しか住んでいないから気楽にしろ。何も構えないが」
(ヤーデ……)
顔をそむけるようにしながらも、男はちらちらとわたしの顔に視線を走らせる。激しく動揺しているのが見て取れた。
「そっちの子は酷く疲れているようだ、水でも飲ませてやるといい。……そこに井戸があるから。いやいい、俺が汲んできてやるから、とにかく入れ」
(ヤーデ、ああ)
男は足早に去った。
牛にやる水を汲むついでに、我々のための水をくれるというのだろう。
ゴルデンの肩に片腕を回し、わたしは暗い家屋の中に連れられた。
粗末な板張りの室内だ。
屋内に足を踏み入れてすぐの間に、囲炉裏がある。ここで炊事をするのだろう。
しかし長らくまともな調理をしていないことは、様子を見ればすぐに分かった。
火の気のない囲炉裏から離れた隅に、ゴルデンはわたしを座らせ、自分も座り込んだ。やれやれという顔をしている。
両手を顎の下に当て、息を切らしているわたしを眺めると、ゴルデンは言った。
「見たろ」
あの、髪の長い不思議な少女のことだろう。
わたしは頷き、汗で貼りついている前髪を払った。
ヤーデというのは、あの少女の名と思われる。
そして、彼女こそ「依頼主」であり、わが師に魔法をかけられた経緯を持つ者である。
師がここまで導いた以上、この者たちに関らせようとするのには、なにか理由があるのだろう。
それにしても。
「なぜ、わたしを見て動揺するのだ、あの男は」
まだ整わない息の下で呟くと、ゴルデンは無感動に答えた。
「似ていると思っているようだ。その、ヤーデに」
依頼を受けるのか、とゴルデンが問うた時、農夫がやってくる気配がして我々は口をつぐんだ。
古い水差しと欠けたコップを床に置くと、農夫は探るようにわたしを眺め、そしてまた出て行った。
鶏の声が聞こえてくる。
祭囃子の竹笛が、耳元で踊っている。
切なさを秘めて、陽気に、心を乱すように楽し気に。
そして時折音色にさしこむ、重厚な太鼓の音。これは師の魔法の残渣だろう。
むっと鼻をつきさすほどの草のにおいが漂い始め、思わずあえいだ。
ゴルデンがコップを差し出し、わたしはそれを飲み干した。
「……契約成立が可能な『依頼』だ」
祭囃子に合わせるように、宙に浮いた蓮の花がくるくると回っている。同時に水面も揺れているようだ。
……ああ、見ていると眩暈がする。
ポケットから小瓶を取り出すと、コルク栓を抜いた。
薄暗い家屋の、ほこりっぽい空気の中に小瓶の口を向けると、くるくる踊っていた蓮の花がたちまち回転を速め、するすると瓶の中に飛び込んだ。栓を締めると、呼吸するようにゆっくりと光る、薄桃色の蓮の花が瓶底で揺れていた。
蓮の花の姿をした「依頼」である。
(お願い……)
わたしは目を閉じる。
「依頼」の声に神経を集中させる。
呼吸すら止めて、依頼主の居場所を突き止める。……いる。すぐそこだ。
目を開くと、部屋の暗がりの中でゴルデンの瞳が紫に輝いていた。
森の奥の、清浄なる泉。
人が踏み込むことを恐れる深い森の中の、魔法の泉に彼女はいる。
(……お願いよ……)
ゴルデンは木のワンズを差し出し、わたしは受け取った。
農夫が気づかないうちに、行かなければ。
仕事だ。
ヤーデ=翡翠 でございます。




