閑話~酒場にて~
廃れた酒場にて、ゴルデンが「世界」について語る。
第三部 ヘンゼルとグレーテル
その一 閑話~酒場にて~
日が落ちると繁華街は賑わい始めたが、町はずれの付近は閑古鳥が鳴いていた。
その近辺は、五年ほど前に大規模な火災があり、多数の店舗が焼け、死人も出た。幸い復興はしたものの、そういったことが起きた場所ということで、以前の流行りはすっかりすたれ、幽霊が出るという噂まで立てられ、なんとなく避けられるようになってしまった。
それで、この辺りは昼も夜も寂しいのである。
閉店した宿や料理屋の跡地の中で、一軒の酒場件素泊まり宿が、営業していた。
ひどく冷え込む晩であった。
時折吹く、凍り付くような風に当てられ、錆びついた看板――風見鶏亭――は、カタカタと揺れ、今にも外れてしまいそうな心もとなさだった。
それでも、風見鶏亭の、ぽつんと灯るオレンジ色のあかりは、ひどく温かく見えた。
他に灯もない場所である。
すっかり日が落ち、空は群青色の夜を迎えていた。
無数の星が輝いているものの、辺りは暗い。踏み外すと、さらさら流れている冷たい小川に落っこちてしまいそうな道だった。
その暗がりの中を、とぼとぼと歩く二人連れがあった。
酷く小柄な二人連れである。
完全に闇にまぎれているのは、二人とも黒ずくめの服装をしているからだ。
頬が焼けてしまいそうなほどの凍てつく寒さのため、二人とも外套の襟を立て、深々と顔をうずめている。体つきからして、大人ではない。……それにしては、いやに堂々とした歩きっぷりではあるが。
ふいに、二人は立ち止まった。
一人が指さした先には、風見鶏亭の温かな明かりがあった。
街灯すらない暗がりの中で、それは、まるで、道しるべのような灯だった。
あそこがいい、と指さした一人が言い、もう一人は無言で頷いた。
シルクハットをかぶった頭からは、昼間の光のように眩しい金の巻き毛がこぼれている。
対して、それより一回り小柄なほうは、なんとも貧相ないでたちであり、ただ大きいだけの外套を纏い、帽子もかぶらず、奇妙に無表情な顔つきで、いかにも不愛想なのだった。
二人とも、少年のようである。
金髪シルクハットのこじゃれた方が、つかつかと酒場の前までくると、気後れすることなく扉を開けた。
扉が開くと、風見鶏亭の中で燃え盛る暖炉の炎の温もりが、冷えた外まで色づけた。
二人の少年のやせた影が一瞬大きく伸びる。
扉が閉まり、二人が風見鶏亭の中に入ると同時に、外に溢れた眩しい程の明かりは見えなくなり、再び暗闇が道を覆うのだった。
店主は痩せた中年男性であり、近眼の目をすぼめて、客――我々である――を迎えた。
何日ぶりの客であろう。いかにもひなびた店内は、テーブルには覆いがかけられ、かろうじてカウンター席には座ることができそうである。
そこは店というより、住居に毛が生えた程度の場所であり、客が来ない間は、完全に店主の生活空間なのだろう。隅のほうに放り出された灰色の寝間着や、カウンターのはじに無造作に置いてある雑誌がそれを物語っている。
その有様をちらっと見ながら、ゴルデンはカウンターに腰掛けた。
シルクハットを脱ぐと、紫の目でおやじを見上げ、言った。
「何でもいい、なにか出してくれ。それと酒もだ」
一瞬、子供が何を言うかといいたげな目つきになりかけるが、店主は急いで愛想笑いを浮かべた。子供でも何でもいい、客は貴重なのだ。ゴルデンが無造作にカウンターに置いた金貨が、より一層効果をあげた。
いそいそと店主は厨房に入り、すぐに料理を持って戻ってきた。
いかにも夕食の残り物らしいそれらを、ゴルデンはまずそうに口にし、ブランデーで流し込む。
(何してる、とっとと、喰え)
横目で睨まれて、わたしもフォークを取った。
煮た野菜とベーコン、それとハムの厚切りをあぶったもの。
濃い味付けだが、食べられないほどのものではない。
わたしの食べ方が旨そうに見えたのか、ゴルデンの傲慢な様子に面白くない顔をしていた店主は、わたしの方を見て、にしゃっと笑み崩れた。
当然のように、店主は我々のことについて質問を投げかけてくる。
魔女狩り法が布かれている区域に入って以来、こういう場面では、我々は、ゴルデンの作った「設定」通りの受け答えをするようにしていた。
ゴルデンが兄で、わたしが妹である。
叔母の家から自分たちの家に戻る途中である、という作り話をすると、面白い程通用した。
どう見ても、我々は血のつながった兄妹ではないのであるが、「何か可哀そうな事情があるのだろう」と思わせるような雰囲気を(主にわたしの方が)醸し出しているらしく、だいたいはむやみに同情して、料理屋だと一品おまけをつけてくれたりするのだった。
その粗末な居酒屋も例外ではなく、もさもさと食べ続けるわたしの前に、チーズが出された。
「坊やたち、お酒は早いんじゃないかねえ」
と、店主は言いながらも、ブランデーをコップに継ぎ足してくれる。
うちでは寒い時は酒を飲むのが習慣になっているんだ、とゴルデンはもっともらしく言い、いくらでも飲んだ。
ひなびた店だし、料理は悪いが、酒が自由に飲めるのは有難いことだった。
しかし、我々は気づいていた。
こんな店ですら、魔女狩り法の支配下にあった。
壁の黒い貼り紙には、魔女一人につき50グルテンという文句がでかでかと書いてある。
「坊やたち、こんな時間に、そんな黒い服を着て歩いて……まるで魔女みたいだなぁ」
店主が言った。
豆粒のように小さい目が、ずるそうな笑いを浮かべている。
パチパチと、カウンターの横の暖炉で薪がはぜていた。
赤々と照らされて、ゴルデンは暑そうに襟元をくつろがせた。
坊やたち、ゆっくりしておいで、おじさんはちょっと用事に出るから。
そう言いおいて、店主は店の外に出て行った。
なあにすぐに戻ってくるからね、そこにいるんだよ。そう言いながら。
バタンと扉が閉まり、ガラガラと慌ただしい音が聞こえた。店主が馬車を出したらしい。
ひひいんと一声いななきが上がると、ぴしりと鞭が鳴り、けたたましい勢いで馬車は道を駆けて行った。
その音が遠ざかるのを聞きつつ、我々は酒を舐めている。
ゴルデンは、ちらりと懐中時計を見た。
「まあ、30分くらいか、いや、一時間はかかるかもしれんな」
うちに魔女らしいのが来た、と、店主が警察に訴え出て、そいつらがこの店まで押し寄せてくるまでにかかる時間である。この界隈に派出所はないから、どうしても町の中心まで行かねばなるまい。
電話を使えばもっと早いかもしれないが、このさびれた地区に、電話を持つ店や家はないと思われた。
わたしはブランデーの入ったコップを片手に、今しがた店主が出て行った扉に近づくと、押してみた。
思った通り、扉の外には重たいものが置かれるか、つっかえ棒を使うかして、いくら押しても扉は開かない。
「閉じ込められたってわけか」
むしろ楽しそうにゴルデンは言い、まあいいから座れや、と呟いた。
「まだ、時間がある」
ゴルデンは、わたしの前に出されたチーズの皿を引き寄せた。
欠片を口に入れ、飲み込んでから、紫の目を眠たそうに伏せる。
「俺は眠たいんだ。だが、あいにく寝ている時間もないらしい」
わたしはブランデーを飲み干した。
勝手にカウンターの中に入ると、戸棚の中から今飲んでいたブランデーよりは上等なウイスキーを選び出し、席に戻った。
俺にもくれ、とゴルデンが言うのでついでやる。
とろんとした目で、ゴルデンは言った。
「事が起きるまで、目を覚ましている必要がある。物語でも話して聞かせてやろう」
あるところに、仲の良い双子の兄妹がいた。ずいぶん昔の話だ。
と、ゴルデンは語り出した。
横顔のまま、チーズをつまんでは酒を舐め、けだるそうにゴルデンは話し始める。
恐らくは、彼と、その妹の物語である。
わたしは自分のコップにもウイスキーをつぐと、黙って話に耳を傾けた。
ギシギシと、風にあおられて揺れる看板の音が微かに聞こえてくる。
「双子の家は裕福であり、何不自由なく育っていた。その家は優れた魔法の使い手の家であり、先祖代々、魔法使いだった」
当時は、魔法が人々の生活に、普通に溶け込んでいたのだ。
一種の職業と言っても良い位、ありふれたものだったんだ。
ゴルデンは補足をつけると、酒を舐めた。
「双子にも当然のようにその能力は備わっていた。しかも、飛びぬけた力だった。それで双子は大人にならないうちに、魔女の洗礼を受けることになった」
魔女の、洗礼。
何らかの石を体に送り込まれる、あの儀式である。
何の石を選ばれたのかは、ゴルデンは特に触れなかった。物語は淡々と続いた。
「14歳の時に洗礼を受けた双子は、すべての魔女がそうであるように、洗礼を受けた瞬間から時間が止まった。永遠に子供の姿で生きることを余儀なくされた。それでも二人は、一緒にいられる限り、楽しくやれていた」
14歳。
わたしが魔女になったのより、一歳だけ、上だ。
ぱちぱちと、暖炉から音がした。
火の粉があがり、店の汚れた床をあかあかと照らしている。
ゴルデンは目を伏せた。酒がまだ半分ほど入ったコップをテーブルに置き、両手を顎の下に重ねる。
そうして唇だけ動かして、物語を紡ぎ続けた。
二人は大魔女の元に託されていた。
東西、どちらの大魔女だったかは、この際、関係がない。
もちろん、今の代の大魔女ではない。大魔女も、いつかは朽ちる時がくるのだ。歴代の大魔女が没した後、僅かな空位の時期を経て、また次の大魔女が選抜される。
そうやって、大魔女は引き継がれてきた。
「知らないだろうから教えてやろう」
少し話を脱線させて、ゴルデンは説明する。
大魔女を選び、その称号を与えることができる者は、「母」。
「母?」
わたしが聞き返すと、ゴルデンはうるさそうに眉をしかめた。喋るなと言いたげだ。
母という言葉に、オパールの魔女が連想される。
わたしはしばし、ゴルデンの語りから離れ、自分の思いに浸る。
(教えてあげるわ、ルンペルシュティルツヒェン。わたしは死。そして、母 )
あの謎めいた言葉の意味は、自分こそが、魔女たちの「母」であるということか。
だとしたら、次期大魔女を選ぶ権利を有しているのは、あのオパールだということになるが……。
ぎしぎしと看板が揺れる音が、わたしを現実に引き戻した。
ゴルデンはけだるそうに語り続けている。
「その母に、双子の兄が抜擢された。兄は大魔女となり、その強大な力でこの世の魔法を見守る立場となった」
やはり、東西どちらの魔女であるかは、語らないらしい。
わたしはウイスキーを一口飲みくだす。
カウンターの丸椅子にかけ、床に足がつかないほどの背丈の我々は、永久に成長することがない。
現実では時間が流れ、暖炉の薪はいつしか灰になり、炎は熾火に変わってゆくというのに。
妹は大魔女となった兄の補佐を行った。
ちょうど、東の大魔女と愛弟子のようなものだ。
双子はぴったりと寄り添い、強固な繋がりを持って、大魔女としての責務を果たしていた。
しかし時代は変わり、魔法がどんどん人々の生活から隔てられるようになった。
その理由の一つが、歪んだ魔法による闇の増加だ。ひそやかに、しかし確実に勢いを増してゆく闇は、じわじわと人々の生活に入り込むようになった。
人々は闇を恐れ、同時に闇の発生源となる魔法を忌み嫌うようになった。
正当な魔女と、そうではないエセの区別など、人々につくはずもなく、魔女たちはひっそりと身を隠すようにして暮らすことを余儀なくされた。
皿のチーズはすっかりなくなった。
口が寂しくなったわたしは席を立つと、またカウンターの中に入り、棚の中を漁った。
食べかけのスナック菓子があったので、それを出してきて皿にあけてやる。
我々は、その粗末な乾きものをつまみながら、酒を飲むこととする。
「世界、というものは」
ゴルデンは深く息を吐き出してから言った。
「実は様々な姿をしており、捉えることがむつかしいものだ。例えば、今俺とおまえが座って酒を飲んでいるこの世も、世界だ」
わたしはゴルデンの横顔を見た。
完璧な形の鼻、黄金のそばかす、人形のような肌。
それらは、暖炉の熾火に微かに照らされて赤味を帯びている。
ふいにゴルデンは、まだ酒の入っているコップをつかんで掲げた。琥珀色の酒が波打った。
「この――酒のような、こぼれて流れてしまうような姿をしているし、この――」
と、ゴルデンは食べ終わった後の汚れた皿を指さして続ける。
「皿のように、落とせば砕ける場合もあるし、そして」
と、わたしを指さし、紫の目でじっと凝視した。
「そのように、人間の姿をし、有限の命を生きるものもある。それこそ、無数の世界があるが、それは全て一つの世界だ。世界は様々な形をしている。どれもこれも世界だ。そして、そのどれか一つでも欠ければ、世界は終わる」
「……」
「世界は契約で構成されている」
ゴルデンは難解な話を、かみくだいて教えるように、ゆっくりと語った。
わたしはウイスキーを飲みながら、それを聴いている。
「契約といっても、魔女が行う魔法の契約ではなく――もっと巨大な、深淵な、恐ろしい、手に負えるような代物ではない――神の契約、とでも言おうか」
その、神との契約で、世界は形作られている、と、ゴルデンは言う。
「さっき、人の姿の世界もあると言ったが、それも神との契約だ。世界という、すべてを網羅する巨大な存在になることと引き換えに、己を差し出さねばならない。己のすべてを、だ」
過去現在未来の自分。
不幸も幸せも全て含んだ運命の縮図、そのすべてが無となる。
「世界となった瞬間、契約を結んだ人物は、無となる。いなくなるのだ」
いなく、なる――。
「正確には、別の次元に移動する。魔女の異空間のようなものだが、もっと巨大で、もっと途方もない場所だ」
ばさばさばさ、と息ができないほどの強さで、無数の白い羽根が叩きつけてくる……。
白い四角い部屋の、鳥になりかけた、少女。
そして、青い巨大な、不可思議な球体である。空から見た、あの球体には確かに陸と海があった。
あれが、世界だと、ゴルデンは言わなかっただろうか?
病んだ世界だと。
話を戻そう、とゴルデンは言った。
「兄は大魔女になった。妹はその補佐としてよくやった。だが、ある時、大規模な争いが起こり、このままでは大量の人々が命を失い、木々や動物もなくなってしまうほどの、凄まじい戦火が押し寄せてきた」
おまえは、歴史を知るまい、とゴルデンはウイスキーをまた一口飲んだ。
さっき世界に例えられたそれは、琥珀色の波を派手に揺らして、ぴちゃんと音を立てている。
その戦火は、魔法でどうにかなるようなものではなく、人々の生活を全て消し去るほどのものだった。そこいらじゅうでむごたらしいことが起こり、ついに人々は、いったんは遠ざけた魔法に縋り始めた。
東西の大魔女は協議の末、魔法以上の存在である、神と契約を交わすことを考えた。
この世界の上に君臨する、大いなる存在、目にも見えない遠い存在と、ある契約を結び――再び平和な時代が訪れたのだ。滅亡はまぬがれまいと思われた争いは回避された。
「その契約の犠牲となったのが、件の妹だ。妹は己のすべてを神にささげ、自分自身も世界のひとつになることになった」
なぜ、妹が神に選ばれたのかは、分からない。
美しく、無邪気で純粋で、愛することしか知らず、人々の争いを心から悲しんでいた妹は、神に選ばれ、世界のひとつになる契約を結ぶこととなった。
「わたしが清らかで、元気でいる間は、世界も健康でいられる。だから、お兄ちゃん」
お兄ちゃん、だから、さようなら。
でも、さようならじゃないわ。わたしは世界になるのだから。
ここからはいなくなるけれど、いつも側にいるの。
お兄ちゃん。
「長い間、世界となった妹は清らかなまま、祈りをささげてきた」
平和を、幸せを、愛を、健やかな暮らしを。
「だが、ここ数年のうちに、世界は病み始めた」
ゴルデンは、コップの酒を眺めた。
「原因は――突き詰めると、闇だ。闇が世界を侵食しているのだ」
闇、が。
歪んだ魔法が原因となる、闇の増加が、世界を苦しめているというのか。
(時間が、ないの)
ゴルデンはふうと息をついて、疲れたな、まだかよ、と言った。
ちょうどその時、馬車の音が近づいてきて、荒々しい声も聞こえてきた。
馬も一頭や二頭ではない。人々が大勢で、ここに押し寄せている――。
「いい、時間だ」
ゴルデンは懐中時計を見て、それを外套の内側にしまい込むと、残りのウイスキーを一気にあけた。
我々は椅子から下り、店の床に立つ。
ゴルデンはわたしの腕を掴み、黄金のワンズで床に大きな魔法陣を描き、そして我々は空気様になった。
重力をなくした我々の体はたやすく粗末な店の屋根をすりぬけ、寒い夜空に舞い上がる。
もぬけの殻となった店の中に、巡査や鍬や鍬を持った男たちが飛び込んでいくのが見えた。
誰も、我々には気づかない。
ずいぶん遠くで汽笛の音が鳴った。
夜汽車である。
飛行していけば、汽車の発車に、ちょうど間に合うだろう。
風見鶏亭のほのかな灯は、ぐんぐん遠ざかってゆき、やがて空でまたたく無数の星と変わらぬほどになり、見えなくなった。
第三部の幕開けです。




