閑話~慕情~
魔女の力の源、魔力の倉庫である異空間についての説明
紅水晶の葬儀を行い、そして旅は続く
その10 閑話~慕情~
ここで一つ、説明が必要だと思われる。
魔女の力の倉庫ともいうべき、あの異空間は、移動手段としては最高なものであろう。
自身の力の空間に移動し、念じれば「扉」が現われるのだから。
現に、ゴルデンの紫水晶の空間から、わたしの黒曜石の空間への扉はすぐに現れたではないか。
ただし、この異空間は、「繋がっていない」場所への移動はできない。
わたしの黒曜石の空間から、師のトラメ石の空間へ移動できるかと言えば、現時点ではそれはできないのである。わたしと師は今、完全に切り離されているのだ。黒曜石の空間内で、いくら師を思っても「扉」は現れないのである。
したがって、最も原始的な手段――己の足で現実の世界を移動し、探しもどめる――を取らざるをえない。
もっと、分かりやすく説明すると、魔女同士、面識がなければ、おのおのの魔法空間は接触しない。魔法空間同士の「扉」は、現実世界での接触が前提となる。
宿屋の一室から、「依頼主」である紅水晶の独房へ移動するために、あの嵐の中でひどく苦労したことも、納得いただけるであろうか。
そして、オパールの魔女がわたしの前に現れた今、わたしの黒曜石の空間と、オパールの空間の間には、「扉」が生じているはずなのである。
これだけでは、やや説明は不足している。
補足するならば、現実世界から魔女の異空間に移動するには、それなりの力が必要である。
力の倉庫である、その異空間を所持しているということ自体、その魔女が並大抵の力の持ち主ではないという証であろう。もちろん、巷に溢れている「エセ」魔女には、こういった空間など持ちうるはずはないし、このような空間があるということ自体知らないだろう。
力を封印されている時点で、わたしは自分の魔法空間と切り離されているのである。
黒曜石の魔法の倉庫に、わたしは入ることができない。締め出された状態なのだ。
また、仮に力が封印されておらず、自分の魔法空間に自在に出入りできたとしても、わたしは滅多なことではこの異空間に足を踏み入れはしないだろう。なぜなら、力の純度を保つためには、他のものを入れないのが望ましい。例え空気といえども、様々な粒子を含んでおり、わたしの黒曜石の空間にとっては異物なのである。
この魔法空間は、魔女の力の源であり、命ともいえる。
だから、滅多に立ち入ることはしない、できない。
また、その空間の中で、魔女が暮らすこともできない。魔女の肉体、それ自体が石の力にとっては異物なのである。
あの魔法空間は、そういったものなのである。
不便な、ものだ。
夜明け前に、わたしたちは城の外へ出た。
例によって、ゴルデンが肉体の粒子に働きかける魔法を使い、あの粛清の部屋から嵐の空に舞い出たのである。
びしょ濡れになり、宿の部屋に戻る頃には、夜が明けかけていた。
灯が消えてはいるが、暖炉にはまだ火種が残っている温かな部屋に舞い下り、床に軟着陸すると、ゴルデンはすぐに魔法を解いた。
とたんに重力を取り戻した体は、どっしりと足を着く。ぽたぽたと前髪から滴を落としながら、ゴルデンは苦い顔をしてびしょ濡れの外套を脱いだ。
雨水が滴るそれを外套かけに掛けると、自分の背よりも高いそれを暖炉の前に運んだ。
瀟洒なブラウスのボタンに手をかけた。そして、立ち尽くしているわたしを振り返る。
「風邪をひいても、知らんぞ」
わたしが外套を脱ぎ、暖炉の前に移動した外套かけに掛けようとする頃には、ゴルデンはブラウスを脱ぎ、目が覚めるほど白い半裸姿になっていた。
毛布を寄越せ、と言われるので、わたしはベッドの毛布を投げてよこした。
それにくるまり、暖炉の前に座り込むゴルデンは、姿のままの子供に見える。肉体の欲求は魔女にも平等に襲い掛かる。
寒さ、熱さ、痛み、ひもじさ。
肉体が感じさせるそれらの感覚から逃れることは、生きている限り、できない。
悪寒を覚えた。
己の体が、恐ろしく熱くなっているのを、わたしは感じる。そのくせ、ぞっとするほど寒くて、身体がこわばっていた。ゴルデンの言う通り、風邪をひいたのだろう。
わたしは急いで濡れて肌に貼りつく服を脱ぎ、がたがたふるえる体に毛布を纏わせた。
思うように歩くことすらできず、這うようにして暖炉の前に来ると、丸く小さくなって蹲った。暖炉の火は、灰に埋もれて熾火がともっているだけだった。
「具合が悪いようだな」
ゴルデンは横目でわたしを眺めながら、火かき棒で暖炉の中をかき回した。
パッと火の粉が飛び、ほんのりオレンジ色に籠っていた炎は、また息を吹き返してきたようだった。
ゴルデンは立ち上がると、暖炉の横に積んであった薪を一本、中に放り込んだ。めらめらと炎が上がり始め、パチパチと気持ちの良い音が暗い部屋に響いた。
炎の熱が顔を照らし、表面は温かくなったが、身体の芯はぞくぞくと凍えていた。
座っていることすら辛く、床の上に横になると、ふいに首を支え起こされ、額に手を当てられた。
「熱もある」
ゴルデンはそう言うと、わたしの頭を床に置いた。
「放っておいて欲しい。今は、あなたに触れられたくはない」
わたしが言うと、ゴルデンは紫の目を猫のようにすぼめた。
それ以上会話をする気力もなく、わたしは目を閉じ、ぐるぐると鋭角の図形がまぶたの裏の暗闇でうごめくのを見つめた。ずぶずぶと眠りの沼に入り込みながら、ゴルデンが、悪態をつくのを聞いた。
「礼も言わないどころか、触るなときた。教育が、なっていない」
……ああ、また、師のことを言っているな。嫌な奴だ。
師が、額に冷たい布を置いてくれた。
あれはいつのことだったか。
外は嵐だった。わたしは嵐の中で等価交換の法則に乗っ取り、何かを作ろうとした。
何だったか――そうだ、琥珀色の、酒を。
嵐の雨と、強烈な風が運んできてくれた植物の粒子、香り。
それらをバランスよく配合し、魔法をかけると極上の酒ができあがったものだ。
だが、それと引き換えに、体調を崩してしまうとは。
あの、懐かしい、西の大魔女の館の、台所、暖炉の側で。
床に敷布や藁、毛布を寄せて簡易的な寝床を作り、わたしはそこに横たわっている。
額に置かれた布はすぐにぬるくなった。
荒い呼吸を繰り返すわたしを、師は抱き起すと口に器を押し当て、薬草を煎じたものを流し込んだ。
むせながらも、わたしはそれを飲み下す。
そうすると、楽になる。
じきに、身体はよくなる――。
師の、寡黙で強い茶の瞳が、無表情にわたしを見下ろしている。
無表情。そうだ、師はいつも無表情であった。
激情に己を任せることは絶対になかった。
無表情、無感情に差し出される大きな師の手は、わたしにはとても温かく、優しい(そうだ、優しいと、わたしは感じていたのだ)ものだった。
「ペルよ」
と、師は、深い声でわたしを呼び、良くなったであろう、と確認をする。
その通り、回復したわたしは、師を見上げると、こちらも無表情に答えるのだ。
「良くなりました、師よ」
風邪をひいてご迷惑をおかけしましたとか、看病していただいてありがとうございましたとか、そういった言葉は一切なかった。
師は、必要だから温かな寝床や冷えた布、薬草を煎じた飲み薬をわたしに与える。
師が必要だと考え、施してくれるものを、わたしは受け取る。
わたしの方も然り。
師にとって、必要な働きを、わたしは行う。
わたしは師の「必要」を全身で感じ、そのために動くことができた。
わたしの「読み取る能力」を師は評価し、それを必要とした。
わたしは、魔女の愛弟子。
師よ、師よ、師よ。
……。
瞼の裏に渦巻いていた鋭角の図形は、いつの間にか見えなくなっていた。
はっと目を開けると、乾いたブラウスを身に着けたゴルデンが小瓶を眺めているのが見えた。
暖炉の光に照らされている、ゴルデン。
彼が持っている小瓶は、わたしの「依頼」を入れる小瓶である。外套のポケットから出しだのだろう。そこには、非業の死を遂げた紅水晶の欠片が入っているはずだ。
(ああそうか)
思い出す。
もう一つ、オパールの魔女からの依頼が残っていた。
幼い、哀れな紅水晶の、葬儀――。
ゆっくりと起き上がる。体は嘘のように軽い。
口の中が苦いのは、どうやら煎じ薬を飲まされたのだろう。
ゴルデンはこちらを振り向き、ちょっと片方の眉を上げ、それから微妙な顔をした。
じっくりと観察するようにこちらを凝視してから、やがてにやりと笑った。
そこでわたしは、自分が毛布をずりおとし、半裸を曝していることに気づく。
「何がおかしい」
暖炉の前に広げてある自分のブラウスを着ながら、わたしはゴルデンを睨んだ。
ゴルデンは横を向いて必死にこらえている。
むらむらっと怒りがこみあげて、わたしは相手の前に回り込み、胸倉を捉えようとしたが、先を越された。
わたしの両手を掴んで動きを制し、ゴルデンが紫の目いっぱいに笑いをみなぎらせている。
「だから、何故笑う」
手を振り払って飛びのくと、ゴルデンはくつくつと声を立てた。そして、妙にやさしい声で言った。
「心配するな。……ちゃんと、女だ」
返す言葉など、思い当たらずにわたしは立ち尽くした。
部屋の中はすでに明るくなっており、もう朝とは言えない時間にさしかかろうとしている。
汽車の時刻はいつだっただろうか。
ゴルデンは茫然としているわたしに背を向け、自分の外套に腕を通している。
「何をしている」
振り向きざま、ゴルデンは小瓶をこちらに投げてよこした。
わたしは小瓶を両手で受け取る。
からからと、紅水晶の欠片が踊っていた。
ほれ、とゴルデンは続けて木のワンズを突き出してくる。
さっさとやってしまえ、汽車は待ってくれないからな、と言うと、壁にかかっている鏡に向かい、髪の毛を整え始めた。
小さな魔法陣の上に紅水晶の欠片を置くと、ふわりと宙に浮きあがる。
それにワンズを指し示すと、黒曜石の夜空の輝きが霧のように吹きあがり、石の欠片を包み込んだ。
純粋なまま逝った魔女に、わたしからのレクイエムを。
来世は魔女に生まれ変わる運命ではないことを、祈りながら。
もう、呪わしい手回しオルガンの旋律など届かない場所に、紅水晶は逝く。
黒曜石の強く確実な導きで、紅水晶を永遠の安らぎの場所へ。
石の欠片を包んだ夜空の輝きは、一瞬輝きを増し、そして空気中に飛散した。
葬られた紅水晶の欠片は、もうなくなっていた。
(わたしが弔ったことで、少しは慰めになるものだろうか)
紅水晶の、欠片があるでしょう。その欠片は、あなたの手で葬ってあげて 。
あの子の最期を見届け、あの子の苦しみを知っている、あなたの手で葬るのよ。これは依頼 。
オパールの魔女の言葉が蘇る。
あの時、あの魔女はこう言わなかったか。
「教えてあげるわ、ルンペルシュティルツヒェン。わたしは死。そして、母」
死であり、母である、オパール。
今、紅水晶は彼女の「かかさま」であるオパールの元で永久に眠りについた。
ふと思う。
紅水晶にとって、オパールは「かかさま」であった。
「かかさま」は、わたしにとっての「師」である。
紅水晶が「かかさま」を求めるように、わたしは「師」を求める。
会いたい、会いたい、かかさまに会いたい――。
会いたい、師に、わたしは、会いたい。
目を閉じて、己の黒曜石の空間を思う。
黒曜石の夜闇の輝きに満ちた、わたしの力の源である空間。
そこに立ち、どんなに目を凝らし祈っても、師へ続く「扉」は現れない。
次々に現れる「扉」は、どれも師へ続くものではない。
魔女と魔女の繋がりである扉が、わたしと師の間には、もう、ない――。
「扉」が閉ざされているのは、師の意思なのか、それともオパールの力なのか。
わたしには分からない。分からないままに、師を探し求める。師よ。
正午過ぎに、東への汽車が来る。
我々は乗合に乗り込み、駅まで急いだ。
混雑する乗合馬車の窓際で、わたしは外を見る。
微かに手回しオルガンの音が聴こえてきて、どこからか赤い風船が飛んで、曇った空を流れて行った。
鮮やかなサーカスのテントがちらりと見え、すぐに視界から消えた。
がたがたと激しい音を立てながら乗合馬車は走り続け、やがて我々は、駅に降り立つ。
「魔女 一人につき50グルデン」
魔女狩り法に基づいた手配書が、あちこちの壁に貼られている。
劇場でのコンサートや、様々な催しものを案内する貼り紙に混じり、その黒い紙は独特の威圧感を放つ。
それを見上げているわたしを、ゴルデンがつついた。
「行くぞ。改札が始まる」
ベルが鳴り始め、沢山の乗客の中にまぎれて、我々はホームへ急いだ。
東への旅は、まだ続く。
第二部終了でございます




