~閑話~少年と魔法 2
その「依頼」は美しい花の姿をしていた。
その5 ~閑話~少年と魔法 2
夕食が済み、部屋に下がった時、ゴルデンが木のワンズを無造作に差し出した。
「どうした、取れ」
うながされてワンズを握る。
ゴルデンは面白そうにわたしの表情を読んでいる。
開け放しの雨戸から、夜の風が冷たく流れ込んだ。そして風車の音が相変わらず鳴り続けている。
かろかろかろかろ。
「それがなければ、仕事になるまい?」
ゴルデンは柱に凭れて、夜の裏庭を眺めている。
見事な金の巻き毛がゆるゆると揺れた。
「そんなワンズがあろうとなかろうと、俺はおまえを阻止できるからな」
紫の瞳が闇を映している。
赤い風車が暗がりの中でも鮮やかだ。
かろかろかろかろ。
……。
ゴルデンは飛びのいた。
隙をついたつもりで、わたしが繰り出した拘束の魔法は避けられて柱に絡みつく。弦状の黒曜石の輝きが柱にへばりつき、瞬時に消える。
振り向くとゴルデンは背後にしゃがみこんでいた。
暗い部屋の中に沈み込み、懐から金のワンズを掴みだして紫水晶の先端を向けてくる。
紫の稲妻が音もなく突き刺さってくるのを、わたしはワンズを胸に当て防御した。
バチイ……。
紫の火花が舞い上がり、すぐに消滅して静寂が戻る。
わたしはワンズを握りしめ走り出し、縁側から庭に飛び降りた。裸足である。
「もっと魔女らしい逃げ方ができないものかよ」
ゴルデンが悪態をつき、更に紫の稲妻が追ってくる。
わたしは思い切り踏み切ると、背の低い裏木戸から家の敷地の外へ出る。
すでに夜だ。
驚くほど鮮明に星々が見える。空気が澄み切っているからだ。しかし息が切れてきた。
「魔女らしい」移動などできるものか。
そんなものにいちいち等価交換の法則を使っていたら、自分の「持ち分」をたちまち使い切ってしまうではないか?
等価交換に使用できる「持ち分」は決まっている。
それを極力損なわないように、魔法使いは、空気や土中の物質や、その他周りのちょっとしたものに含まれる粒子に呼びかけて、必要なものを作り上げる。
ワンズによる種々の魔法も、すべて自然の物質を使ったものであり、自分の「持ち分」には一切手を触れていない。
そういうことができるのが「魔法使い」なのである。
種のない手品のように見えるが、ゼロから魔法を取り出しているわけではない。
息を切らしながらもわたしは目を凝らし耳を澄ました。
ポケットには「依頼」が入った小瓶が踊っている。その「依頼」は白く小さな花の姿をしていた。可憐な花弁の。
今、依頼主の少年は夕食を終え、自分と妹が食べた皿を洗い場に重ねて持っていった。
彼の「おばあ」は痛む腰を曲げ、横になろうとしている。
少年は「おばあ」の腰をさすってから、牛の飲み水を賄いに出るだろう。
契約成立可能である旨を告げるのは、その時だ――。
(魔法使いに、なりたい。温泉を元通りにして、おばあの腰を治すんだ)
まっすぐな依頼だ。
しかも単純明快である。
契約を成立させると、依頼主や依頼主にかかわるすべての人々の運命の歯車が次々に狂い、未来永劫取り返しのつかないことになる場合が多い。人の背負う運命の、美しく精密で微妙な図形は、ちょっとしたことでも大きく歪み、ドミノ倒しのように、ありとあらゆることが変わってゆくのである。
ところが、この依頼の場合は、非常に明快で分かりやすく、影響も出にくい。
それは、依頼主の少年の持つ運命の図形が、ひどく明快ですっきりしているからであるのと、依頼主自身が、等価交換に使うことができる「持ち分」の大きい特性をもっているからである。こればかりは人それぞれであるから、例え同じような依頼であっても、依頼主によっては契約が成立しないこともある。
この依頼主の場合、彼の愛する「おばあ」の足腰が損なわれる程度の代償しか必要がないのだ。
たいていなら次々に運命のドミノが倒れて行き、最終的には破滅に追いやられることがあるほどだが、彼の場合は、「そこ」でドミノがストップする。
だから、あまりにも軽い代償である。
「お買い得だって思ってやがるだろう」
ぎょっとする。
あぜ道を土を飛ばしながら走っていたのに、ゴルデンの声が耳元で聞こえた。
あのゴルデンが汗水たらして追いかけてくるとは思えなかった。
「分かるさ、それが『魔女』だからな。だけど、俺はそうじゃない意見も持ち合わせているわけだ」
「どこにいる、ゴルデン」
激しい息の中でわたしが呼ぶと、ククと笑う声が耳障りに響いた。
彼が姿を消し、何らかの手段でわたしを追っているのは明白だ。
ふいにわたしは勘付き、ばさばさとひるがえしていた黒の外套を脱ぎ、すれ違いざまに、あぜ道に連なる木の一本に叩きつけてやった。
ふぎゃあ。
泡を喰ったような悲鳴を上げて、たちまち黒い猫が、叩きつけられた外套の中から転がり落ちる。
猫は泥まみれのあぜ道ではなく、並木の枝づたいにわたしを追った。
わたしは振り向きざまに、今度こそ拘束の魔法を猫に命中させる。
踏まれたような声をあげ、猫は地面に落下した。
あんまり、バカにするからだ。
走り続けていると、すぐ目の前に件の貧しい一軒屋が見えてくる。
竹を並べて紐でくくっただけの簡素な囲いをしてある庭だ。
ささやかな柿の木と、その下には小さな井戸があり、少年は今、釣瓶の水を桶に移していた。
橙色の灯が貧しい家から漏れ、その光は夜の庭に長く尾を引いた。
顔の半分を家から漏れる灯に光らせて、少年はぼんやりとこちらを見つめた。
草履をはいただけのむき出しの足には、無駄な肉などない。
目が合った瞬間に、わたしはその敷地に魔法をかけた。
庭は結界になり、契約成立までの間、何人たりともここに入ることはできぬ。
魔法空間に立っていることも知らずに、少年は顔をしかめてわたしを眺めた。
「誰だおめえ」
わたしは木のワンズを天に向け、魔法陣を描く。
もう片手でポケットの瓶を取り出た。中には白く光る花がぽっかりと浮いている。
「依頼の契約成立が可能である。わたしは西の大魔女の愛弟子にして契約遂行を代理する者――」
瓶のコルク栓を外すと、白い花はふわりと宙を舞い、くるくると踊った。
少年の痩せた体は夜空の星々のような光に包まれる。黒曜石の魔法の光だ。
そして少年は、自分の飛ばした「依頼」を確認し、その「依頼」が契約成立した際の代償を見せつけられる。
「魔法使いに、なりたい」
「等価交換の法則に乗っ取り、その契約は、成立可能である」
わたしが答えると、少年は茫然とした表情で立ちすくみ、手にした釣瓶を取り落とした。
がらがらと大きな音を立て釣瓶は井戸の中に落ち、深いところから大きな水音が上がる。
ぎらぎらとした目つきで少年はわたしを睨み、どもりながら言った。
「魔法使いに、なれるだか」
この、俺が。
魔法を使えるように?
本当に、か?
同時に少年は、契約が成立した後に起こる出来事を見せつけられている。
彼の愛する祖母の腰痛が異常に悪化する。
少年は引き留めるが頑固な祖母は畑に出て行き――転倒する。
昨日まではそこになかったはずの石が、土の中から頭を出していたからだ。
骨がもろくなっていた祖母は、たちどころに骨折し、その足はもう使い物にならなくなる。
(80を超えた年寄りだ。もともと畑に出るのは、どだい無理だった。家で休んでいる分、長生きできるだろう)
彼はそう考え、動けなくなった祖母を、そのままにする。
あえて魔法を使うことはしない。
そんなことをしたら、ただでさえ「持ち分」の少ない祖母を食らいつくすことになる。
老い先短い「おばあ」だが、足腰が使えなくなったおかげで、寿命が少しばかり伸びた。どこが悪い?
……。
そして、彼が惜しんで止まない、この村の温泉。
今はもう澱み、悪臭を放つ、ただの厄介な存在でしかない温泉である。
……一向に、状況は変わらない。
なぜなら、魔法の理を知り、魔法使いとして生まれ変わった彼にとっては、どうでも良いことでしかなくなるから。
(だって、そんなもの、元通りの温泉になったとして、何が変わるのだ?)
彼はそう思うようになる。
村は今のままで、十分穏やかな楽園である。
温泉が復活したとしたら、様々な旅行者が訪れ、不必要な出来事も起こるようになり、村は栄えるだろうが、次第に歪んだ方向に導かれてゆく。
(そんなことくらい、見え透いているではないか?だから、温泉など)
今、依頼主は「人間」と「魔法使い」のはざまに立ち、両方の考えから未来を見ている。
純朴な彼は、そして、たちどころに落ちる。
あっけない、ものだ。
「……契約成立、だ」
彼が言い、わたしは頷いた。
「それではこの契約は成立する。魔女の愛弟子として、これより契約を遂行する」
と、宣言を行うと、少年の目つきが微妙に変わった。
人間の温もりに満ちた、あどけなく真っすぐな光に影がさしたかと思うと、例えようもなく冷徹ですべてを見通す、真理の光が彼の目に宿った。
彼はたちどころに魔法の原理を理解する。
純朴で、情に満ちた少年は死んだ。
……いや、まだだ。
ぱしっと、結界が裂ける音がしたかと思ったら、何もない空中から体を丸めたゴルデンが飛び出してきた。
紫の裏地の外套を広げる勢いで少年の背後に落ちてくると音もなく着地し、金のワンズを彼の後頭部に当てる。
一も二もなく、少年は卒倒し、前のめりに地面に崩れた。
せっかく汲んだ水が、ひっくり返った桶から飛び出し地面に吸い込まれてゆく。
少年の背後に広がっていた、彼自身の美しく緻密な運命の図形は、変形しかかっていた僅かな部分を元通りに戻した。
わたしには、それがはっきりと見えた。
歪んだ、不自然なものに変わろうとしていた図形がくすんだ色を持ちかけていたところに、ゴルデンの一撃が落ち、また元通りに戻った瞬間、それはパアッと喜びに満ちた光を放った。
「何を、するんだ」
わたしが言うと、ゴルデンは唇の片方を吊り上げて笑った。
成立しかけて砕かれた「依頼」は、一瞬にして花弁を散らして消えた。もう、「依頼」は、ない――。
「師の意思だ、わたしが『仕事』を続けることは」
ゴルデンに掴みかかったが軽くいなされ、わたしは後頭部に衝撃を受けて、あっけなく倒れる。
ぼんやりとした夢の中で、わたしは師の声と、乳白色の温泉から立ち上る清浄な湯気を見た。
成立可能な契約だが、温泉は使い物にならなくなる――。
(構わぬ。契約を遂行してほしい)
村の人々と、村長の思いは頑固で一途で純朴で。
……これは、師の目で見た風景か。
安楽椅子から滑り落ちんばかりになっている、村長の長男。
体は生まれながらの病に侵されており、もう、いくばくもないだろう。
その命を長らえさせることは、できる。
だが。
村長の長男の、澱んだ暗い目。
精神が薄弱しているというだけではなく、歪んだなにかを宿した魂。
これは、なおらない。
それでも?
再び、師の目で見た風景。
美しい乳白色の温泉。それは豊かな自然の恵み。
神からの贈物。心正しく、自然を受け入れて生きる村人たちを、愛する神々からの、二つとない、贈物。
それでも?
(構わぬ。契約を遂行してほしい)
ふいに、重たく、どっしりとした、冷たいが揺るぎのないものが落ちてきた。
これは、師の感じた思い。
これは師の心――。
目を開けた時、すでに夜は明けていた。
もといた宿の一室で、あおむけにねかされていた。
かろかろかろかろ……。
風車が回る音が聞こえる。
開いた雨戸から吹き込む風が冷たい。起き上がると、腹の上に自分の外套がかけられていることに気づく。
ゴルデンは布団をこっぽりとかぶって寝ており、温かそうに顔を紅潮させていた。
わたしは外套を羽織ると、早朝の散歩に出る。
既に起きていた店の老婆のあいさつを受け、ついでに道を尋ねた。
ひなびた町の通りを歩くと、たいていの店の前には風車が差してあり、かろかろと良い音を立てている。
「んもぉー」
と、どこかからか牛の声が聞こえてきて、既に畑では農作業が始まっていることが分かった。
牛糞の匂いが薄く漂う、それでいて澄んだ朝の空気が体に満ちてくる。
光の粒子が体に取り込まれ、そして毛穴から出てゆくのだ。
自然の循環よ。
ここは自然の意思が生きている。清らかな場所、清らかな村――。
(師よ)
細い坂道をゆっくりと登る。
深い林の中だが、けもの道が未だに残っているのは、村人たちがそこに通うからだろう。
緑に澱み、腐臭を放つ沼が足元に現れ、わたしはそれを見下ろした。
道の脇には石の祠があり、そこには新しい供物がそなえられている。
もう二度と戻らない、聖なる温泉。
ここにあるのは、温泉の跡だけ。
でも人々は、感謝をやめない。かつて自然がもたらしてくれた、偉大なる恵みを今でも惜しみ続けている。
宿に戻ると朝食ができており、ゴルデンはとっくの昔に片づけていた。
「早く食え」
とだけ言い、昨夜のことについては一切触れずに部屋に戻ってゆく。
簡素だが丁寧に作られた食事を、老婆に勧められるまま噛みしめて食べた。
なにが正しいのか。
契約を遂行する魔女はどうあるべきなのか。
わたしは、わからないままだ。未だ。
(師よ、師よ、師よ)
昼前に宿を出、無人の駅の待ち合いで座る。
空はうららかに晴れていた。冬前の穏やかな光で、村は包まれている。
目を閉じると、村人たちの浮かべる微笑みが見えた。
「いっそ、俺を師と呼んでも、気にしない」
ゴルデンが何か言ったが、黙殺することにした。
東行きの汽車が来る。
汽笛が遠くから聞こえた。
つまり、魔法なんか、魔女なんか、ちっとも楽しくないということです。




