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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第二部 サンドリヨン
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世界

闇に飲まれ、源の黒曜石を奪われそうになった時、白い清浄な腕がペルを助け上げた。

その3 世界


 闇にむさぼられて消滅する者たちを、何人も見送ってきた。

 いずれも苦痛や恐怖の叫びをあげ、ひどく嫌な咀嚼音の中でそれが途切れる。そして闇の中に完全に取り込まれる。ほんのひとかけらも残さずに、だ。

 だが、全身にねっとりとまとわりつく、べたついた感触と目の前の暗黒以外に感じることがなく、わたしは大した苦痛を覚えなかった。

 汽車の屋根に取りついていた片足は力づくではぎ取られ、その時だけは痛みを覚えたが、他は、なにもない。

 むしろふわふわとして気持ちが良い位だ。

 上等のベッドに横になり、真綿に体を埋め込んでいるような気がする。

 わたしの体は横にされ、大事に包み込まれ、持ち上げられ、そして闇の奥深くへ送り込まれる。

 (闇のはらわたの中、か)

 皮膚に貼りつくような感触が蝉動しており、それは消化器の働きを思わせる。

 ぐちゅ、ぐちゅ、と動くたびにわたしは押し上げられて行き、より奥へと進んだ。

 

 ……温かい。


 ふいにわたしは、奇妙なことに気づいた。

 闇は歪んだ魔法のなれの果てである。

 むさぼり喰った魔法使いの屍を糧としているはずだ。それならば、死肉のように冷たいはずではないか?

 だが、身体にまとわりつくものは生ぬるい。

 それに、においである。

 先ほどまで感じていた、えづくほどの腐臭は、ここにはない。

 むしろ、微かに良い香りが漂ってきたようだ。

 まるで、白い花のような。


 ああ、眠たい。眠くなってしまった。

 抗いようもない強烈な眠気に耐えきれず(いや、もう耐える理由もないと思われた)、わたしは目を閉じた。

 生ぬるく、どちらかというと心地よい感触の中で眠りに落ち、その間に闇に取り込まれてしまうなら、それはそれで良いとすら思った。

 その時、わたしは師のことすら、忘れていたのだと思う。

 自分が魔女の愛弟子であり、「依頼」を選別し、師のかわりに契約を遂行しなくてはならないという使命すら。

 

 そこには、永遠の温もりがあった。


 ちょうど胎児のような姿勢で丸まり、わたしは深い眠りに落ちようとした。

 だが、すんでのところで鋭い痛みが胸に走った。

 まるで焼き印を押されたような、凄まじい苦痛を覚えてわたしは飛び起き、思わず手を胸に当てた。

 

 ……じゅう。

 じゅわ、じゅう、じゅう。


 胸の中央に、自分の腕ほどもある大きな、芋虫のようなものが吸い付いているのを知り、わたしは両手でそれを握りしめ、力づくで引き離そうとした。

 べりべりと衣服が裂ける音がしたが、巨大な虫は吸い付いた口を離そうとはせず、執拗に食いついたままだ。

 虫は鋭い前歯でわたしの体に穴をあけ、そこに長い舌を突っ込み中を探った。

 求めているものが、わたしの源である黒曜石であることに気づいた時、絶望に似た恐怖が落ちてくる。

 

 絶対に、阻止しなくては、ならない。


 虫の体に爪を立て、食い込んだ手ごたえをむしり取ってやると、暴れ狂う手ごたえがあり、わたしの両手は振りほどかれた。その間も体内への浸食は続き、今にもわたしの源が凌辱されそうになった瞬間、それは起こった。

 急に虫から力が失われ、執拗に食らいついていた口も唐突に離れた。

 ぐにゃりとした虫は一瞬わたしの腹の上にのしかかり、動かなくなったが、すぐに闇の中に吸収されてゆき消滅した。

 

 掴まって。さあ。

 

 今まで虫がいたところに、白い、一本の腕が覗いていた。

 闇の中に唐突に生えた、清らかな腕である。

 さあ、とせかされて、わたしはその手を掴んだ。

 そして引き上げられ、突然視界が明るくなる――。


 清浄なる、青だった。

 冷たい風が体を打つが、それすらも身を清めるようだ。

 目の前には、白い翼を広げた女性が立っており、わたしはその人の手に導かれて、闇の中から引っ張り上げられたのだった。

 その人の深い紫の目と、ゆるくウェーブがかかった見事な金髪を見て、わたしは何かを思い出しそうになった。

 だが、思い出せなかった。

 女性は優雅な仕草で、わたしの手を取ったまま、正面から身をずらし、周囲を見渡せるようにしてくれる。

 

 足元に地面はなく、そこは空の中らしい。

 上を見ると、恐ろしい程澄み切っており、向こう側が群青色の深い暗闇になっているのが分かる。

 薄い雲が幾重にもかかり、その合間にわたしたちは浮いていた。

 足元を見ると、うすくかすんではいたが、地上らしきものが見下ろされる。

 だが、奇妙だ。

 ここは、この世界は、どこだ?

 

 足元に広がる地上は、広大ではあったが、カーブがかかっており、どうやらそこは巨大な球体であるらしい。

 人や獣が住んでいるだろう地盤と、この青く澄んだ空を写し取ったような海が、不規則な模様を作り上げている。

 

 知らない、世界だ。


 わたしはふと背後を見た。

 そこには闇があるはずだ。わたしは闇の中から救い出されたのだから。

 ……だが、そこには何もなかった。

 

 (何もないところから、わたしは出てきたというのか)

 

 唐突に、頭が下を向いた。

 わたしの手を取ったまま、女性が真っ逆さまに急降下を始めたのである。

 翼を細長く閉じかけ、女性は鋭く地上を目指した。まるで、猛禽が獲物を狙うように。

 やがて女性はわたしの体を引き寄せると、胸に抱きしめた。

 白い花のような香り(闇の中でかいだ不思議な芳香……)が鼻孔の中に満ち、わたしはまた、唐突な眠気に襲われる。

 くるくると体を回し、巧みに風圧を打ち消しながら降下してゆき、やがて地に足がついた時、わたしは儚い眠りから目を覚ました。

 女性は無言で、その紫の瞳にわたしを映し、瞬きをして――その場はすっかり変わった。

 わたしは、白い部屋の中に立っていたのである。


 女性は、地に足がついているとは思えないほどの優雅さで床を歩き、やがてその姿は霧のように消えた。

 かわりにそこには、白いベッドで仰向けになった、一人の少女が見えた。

 

 出して。

 ここから、出して。


 凛とした声が聞こえたような気がして、わたしは周囲を見回す。

 部屋の中には眠る少女しかいない。

 差し込むような頭痛を覚え、わたしは思わず頭に手を当てる。

 なにか、音楽のようなもの。

 不可思議にからみつくおごそかな調べが頭の中に鳴り響き、それはわたしを理不尽にせかした。

 なにをどうするべきなのか、教えないまま、ただただ、わたしを追い立てた。

 

 ……オルガン。

 パイプ、オルガン。


 脳の中で反響し、耳がおかしくなりそうになりながら、やっとのことでわたしは、それが何であるか思い出す。

 どうかしている。

 頭がどうかなってしまったのだ。何もかもうまく思い出せない。

 悪夢のようではないか?

 そういえば、わたしは、何だ。

 何という、名だったか。


 「時間が、ないの」


 幾層にも音が絡み合い、それでいて恐ろしい程正確で規則的なパイプオルガンの調べの中で、凛とした声が、また響いた。

 いつの間にか眠っていたはずの少女が身を起こし、ぱっちりと目を開いてこちらを見ている。

 人形のように端正な顔立ちである。

 深い紫の瞳は先ほどの女性と同じだ。

 そして、金の見事な髪の毛も。

 

 「わたしは、世界」

 

 少女はベッドから降りて、わずかに猫背になったかと思うと、はじけるように体を伸ばした。

 その瞬間、無数の白い小さな羽根が舞い散り、少女の背中には大きな翼が生えていた。

 少女が動くと部屋の中に気流が生まれ、舞い飛んだ羽根たちは勢いを持った。

 目の前を白い羽根の嵐で覆われ、鼻や口をふさがれるほどになり、わたしは息苦しさのあまり部屋から逃げようと周囲を見回す。

 驚いたことに部屋には窓がなく、小さな扉がひとつ、ついているだけだった。

 粗末な木の扉だ。

 依然としておごそかなパイプオルガンの調べは続いている。あまりにも鳴り響くから、頭が揺れ動きそうだ。

 わたしは羽根を払い、まるで泳ぐような手つきで前に進んで行き、扉を目指した。

 そうしている間にも少女はゆっくりと歩き、もがいているわたしのすぐ背後まで来ていた。

 「見て」

 これを、と言って、少女はわたしの腕を掴んで振り向かせ、純白のリネンの襟元を深く開いた。

 美しい陰影を描く鎖骨が覗き、そのまま固い乳房につながるはずのそこには、無数の白い羽毛が生えている。


 「鳥」が、少女を侵食している――。


 かなしげな紫の瞳が近づいた。

 「時間が、ないの」

 

 わたしは少女の手を振り払うと、声を上げながら扉を目指した。

 何度も羽根の嵐に足をとられ、前方をふさがれながらも、わたしは進んだ。

 ほとんど自分が何をしているのか分からなくなった頃、ようやくわたしの手は扉に触れ、勢いよくそれを開いた。

 無数の羽根がわたしの背中を押し、そのままわたしは扉の外へ転がり出る。


 ……。


 ごとごとごとごと。

 ごとごとごとごと……。


 聞き覚えのある音が聴こえる。

 わたしは汽車の座席に座っており、目の前にはゴルデンの紫の目があった。

 はっと見回すと、車両の中はすっかり明るくなっており、窓の外は綺麗に晴れている。

 夜は完全に開けており、依然として続く荒野は上りつつある太陽に白く照らされていた。

 朝だ。


 「これは」

 背もたれに体をもたせかけ、くつろいでいるゴルデンを見て、わたしは身を乗り出そうとした。

 しかし強烈な痛みを胸に感じて、ぐっと動きを止めた。

 胸元が焦げたようになっており、ブラウスに丸い穴が空いている。そこから見える皮膚も生々しく赤味を帯びており、ちりちりとした痛みが続いていた。

 「次の駅で降りたら、着替えを見繕ってやる」

 ゴルデンは言うと、無表情に頷いた。

 窓際においたウイスキーの空き瓶が、かたかたと細かく揺れている。

 ふいに、あの狂おしいパイプオルガンの調べが蘇り、わたしはこめかみに手を当てた。眩暈を覚えて目を閉じ、呼吸を整える。

 しばらくの無言の後、ゴルデンが言った。

 「見てきたようだな、あれを」

 

 世界の歪み、病んでいる世界を、見てきたようだな。


 「ゴルデン、あなたの妹は世界なのか」

 眩暈と頭痛がおさまってから、わたしは言った。

 ゴルデンは小ばかにしたようにわたしを見ると、肩を竦めた。

 いいから外套を着て胸を隠せ、と吐き捨てると、ゴルデンは窓枠に頬杖をついた。

 額を窓ガラスに打ち付け、紫の瞳で朝焼けの風景を眺めながら、彼はそれきり喋らなかった。


 

 時間が、ないの。

 ここから、出して。


 

 ……。


 少女の凛とした声には、悲壮なほどの「依頼」が込められていた。

 その「依頼」は今もわたしの頭上にまとわりつき、ふいにパイプオルガンの調べを響かせたりしている。

 ひどく重大で、あまりにも恐ろしい、大きな「依頼」であることは分かった。

 だが、今はまだ、契約成立可能かどうかすら、判断することができない。

 情報が、あまりにも不足している。

 あるいは、あまりにも広大な依頼主なので、すぐには読み解くことができない。

 ただ、あの清浄な青い空間や足元に広がる不思議に巨大な球体、美しくも清らかな女性の有様を思うと、意味もなく焦燥にかられ、同時に得体のしれない恐怖が沸いた。

 それは、畏怖だった。

 

 その依頼を、受けることになるだろう。おまえは 。

 おまえの師を引きずり出して、な 。


 昨夜のゴルデンの言葉が蘇る。

 わたしは目の前のゴルデンを見た。

 ゴルデンは半眼になり、今にも眠り込みそうだ。

 「おまえと違い、俺は寝ていない」

 着いたら起こせ、と言って、ゴルデンはついに目を閉じた。

 まるで眠った気がしないまま、わたしは起きていなくてはならなくなる。

 

 ごとごとごとごと。

 ごとごとごとごと……。


 汽車は荒野を走り続け、やがてまた上り坂にさしかかり、威勢よく汽笛をあげる。

 窓の外には煙が流れ、風景を遮った。

 東へ。

破れた胸を隠さなくても、女の子だとは気づいてもらえないだろう、ペル。

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