白鳥と大魔女
夜汽車にて、ゴルデンの謎かけが始まった。
その2 白鳥と大魔女
大きな町をいくつか経て、汽車は再び閑散とした。
西と東の境界にあたる、長く広い荒野は、あとどれほど続くのか。
ひたすら汽車は動きつづけ、やがて夕暮れが訪れる。
不毛の荒野にぼつぼつ生えている荒々しい灌木が、赤い輝き受けて黒々とした影を持ち――そして夕闇が辺りを覆いはじめると、すべての影が闇と同化した。
ごとごとごとごと。
休みなく走る汽車に揺られ、いつしかわたしはまどろむ。
汽車の中は、息がつまるほど温かい。
外は凍えるほどだろう。人を寄せ付けない、厳しく荒々しい荒野は。
ぱっと、白い羽が舞い散った。
なにごとかと思ったら、大きく広い一対の翼が宙をまたたいている。
(鳥か)
ふと見回すと、そこは空の上だった。
足が地についていない。こうこうと白く光る三日月が、冷たい夜空を照らしている。
あ。
わたしは目の前のそれが、鳥ではないことに気づく。
羽根が徐々に畳まれてゆき、そこに現れたのはほっそりとした、少女の背中だった。
少女の肩甲骨に向かい、じわじわと羽根は収縮され、収納され、やがて羽根は完全に消える。
少女の白いリネンの裾が、夜の風にそよいだ。
「時間が、ないの」
少女の声は微かだったが、柔らかくて音楽的だった。短い歌を聴いたような気分だった。
天然のウェーブが上品にかかった金茶色の髪が夜空に舞い、少女は振り向いた。
その大きな瞳と人形じみた顔立ちには見覚えがある。
(ゴルデン――)
少女は紫に輝く瞳でわたしを見据え、白い指を伸ばした。
「時間が、ないの。だから」
そこで目が覚めた。
窓の外は、完全なる闇夜である。
地に足がついていることを確認し、大きく息をついた。夢のせいで、未だ全身がふわふわとおぼつかない。
切実な「依頼」が来た。
だが、相手の正体が全く分からない。つかみどころがなさすぎて、契約成立可能かどうかの分析が全くできない。ふわふわと、小さく軽い羽のようなものだ。
訴えは聞いたけれど、つかめない。
気が付くと、ゴルデンが少女と同じ紫の目でこちらを伺っていた。
強い紫の瞳だ。
わたしがじっと凝視するのを、うるさそうに顔をしかめて横を向いた。寒々とした夜闇を窓から眺めながら、ゴルデンは言った。
「もしかしたら、俺が女ではないかと思っているのだろう」
闇夜の窓は鏡だ。ゴルデンの、非の打ちどころのない顔が映し出されていた。
黄金の長いまつげを伏せて、流し目でこちらを見る。わたしは答えた。
「どっちでも構わない。ただ、依頼はわかりやすく訴えてほしい」
俺じゃない、とゴルデンは嫌な顔をした。
そして向き直ると、改めてわたしの目を覗いた。
「……ついに、来たか」
「……」
「俺の、妹だ」
驚いてゴルデンを、上から下まで眺めてしまった。
ゴルデンは溜息をついた。
ごとごとごとごと。
ごとごとごとごと。
琥珀色の酒が入った小瓶をポケットから出すと、白手袋をはめた指で蓋を取った。
まずは自分が飲んでから、半分ほどになったそれを突き出す。
「飲むか」
他から見れば、不良少年の二人旅といったところか。
人がいないから、こんなことができる。わたしは受け取った。
「西の大魔女とも酒を飲みかわしていたのか」
と、ウイスキーを飲むわたしにゴルデンは言った。
瓶から口をはなし、「否」と、わたしは答える。
師とは酒など飲んだことがない。だが、酒は手に入った。
台所にあるものは、いつでも好きなように飲み食いしてよいと言われていたし、その気になれば館の外の自然の中から作り出すことができた。
等価交換の、魔法で。
ふう、とゴルデンは息を吐いた。
「おまえとおまえの師のことを知るほどに、息詰まる」
と、彼は言い、わたしの手から酒の瓶を奪い取ってまた飲み始めた。
なだらかな丘に差し掛かるのだろう。山越えの汽笛が鳴った。
機関車が吐き出した大量の煙が、夜闇を映す窓に流れる。その煙の嵐が通り過ぎるのを待って、ゴルデンが言った。
「その依頼を、受けることになるだろう。おまえは」
「……」
「おまえの師を引きずり出して、な」
わたしを見ながら、見ていない目つきでゴルデンはぽつりと言った。
「おまえの見たオパールの魔女、な。どんな女だったんだ」
ごとごとごとごと。
……ごとごとごとごと。
「何の関係がある」
流れ落ちる銀髪と、様々な細かい色の粒子が踊る乳白色の薄絹。
生臭い女のにおい。
こちらを振り向いて、反応を楽しむような微笑みと、師に触れる指――。
ふいにゴルデンの白手袋の手が、わたしの拳に置かれた。
そこでわたしは、自分が膝上で拳を握り、それを細かく震わせていたことに気づく。爪が肉に食い込むほど強く握りしめ、それは軽く汗ばんでいる。
すぐにゴルデンは手を引っ込めると腕を組み、つくづくとわたしを眺めた。
あきれたように眉を八の字にしている。
「よく聞け、愛弟子よ」
できのわるい生徒に話すように、ゴルデンの口調はゆっくりとして穏やかだった。
そのくせ紫の瞳は激しい苛立ちに燃えており、わたしに怒りの刃を飛ばさないよう自制しているのが分かる。
「おまえの記憶を通して俺が見たオパールの魔女は、おまえの思っているような女ではない」
「……」
「ひとつ教えてやろう」
ゴルデンは、かみしめるように言った。
「西の大魔女を呼び戻す鍵は、おまえの中にしかない。なぜなら、西の大魔女の出奔は、おまえが引き金になったからだ」
白手袋の指をつきつけながら、ゴルデンは言う。
「おまえが、引き金になったんだ。原因ではない。引き金だ。わかるな」
ふいに思い出す。
ある日、ある時、なにげなく出た師の言葉を。
「ものごとの原因は常にある。だが」
茶の眼に力強い静寂を込めた、わたしの師。
彼は口数が極端に少ないから、その言葉は全て貴重だ。
「原因があるからといって、発動するわけではない。引き金が必要だ」
病の因子を持っていても必ず発病するわけではない。
……。
わたしはゴルデンの紫の瞳を見る。
感情の移ろいの激しい、燃えるような紫の瞳。
だが、彼の「なかみ」は未だ固く閉ざされており、それは彼の屈強な意思をあらわしていた。
しかし、こうして紫の瞳を見ていると、時折だが強大な、恐ろしい程深いものに触れそうになることがある。彼の中には深く強いものが燃え盛っており、あらゆる謎が答えとともに秘められていた。それはわたしの師とは性質のことなるものであったが、確かに彼は強力な魔女なのであった。
師を呼び戻すためにはどうすれば良いのか、ゴルデンが教えてくれるわけがなかった。
それでわたしはぐるぐる同じところを回しかけていた思考を止め、別のことを考えることにした。
まだわたしは、ゴルデンから何も聞いていない。何も得ることができていない――。
「ゴルデンが師を探す理由は、妹か」
「小さな意味では、そうだ。大きな意味では、違う」
ゴルデンはずいぶん減った酒の瓶を、またわたしに寄越した。わたしは受け取り、一気に飲み干した。
空の瓶を窓際に置くと、汽車の動きに合わせて軽く振動した。
「夜明けはまだ遠いな」
と、ゴルデンは呟くと、どれ、相手をしてやると、と、わたしに向けて金のワンズを突き出した。
唐突な魔法を避けるすべもなく、わたしは体が動かなくなり、瓶を置いた窓が突然紫色に輝くのを横目で見た。
その紫は濁流のように渦巻いており、次第に近づいてきて大きな口をぽっかりと開いた。
「ヒントをやろう。それで分かれば良し。分からなければ、それまでだ」
見てこい、世界の歪を。
ゴルデンの言葉が遠くで聞こえた。
窓がゼリーのようにぶるぶると揺れ動いたかと思ったら、そこから紫の渦が飛び込んできて、わたしはあっという間に、その中へ飲み込まれてしまったのだった。
……むしゃ。
むしゃ、むしゃ。
つま先に焼けるような感覚を覚える。
見ると、小さな触手をからめて、闇がまとわりついていた。
驚愕してわたしは足を蹴り上げる。頼りなげに闇は吹っ飛んで行き、砕けて夜闇にまぎれた。
ものすごい疾風が向かってきて、立っておれず、わたしは地面にしがみつく。
……地面では、ない。
ごしゅごしゅごしゅごしゅ。
……ごしゅごしゅごしゅごしゅごしゅ……。
辺りを見回す。
荒涼とした大地が闇の底に沈んでおり、身を切るように寒く冷たい風が常に向かって来る。
ものすごい強風だ。
わたしは、今まで乗っていた汽車の屋根にしがみついていた。
ちょっと気を抜いたら、軽いわたしなど後ろへ飛ばされてしまう。
車両の中で聞いた音とはまるで違う汽車の音を聞きながら(ごしゅごしゅごしゅ……)わたしはやっとのことで立膝の態勢をとり、木靴の甲に魔法陣を描いた。
強力な重力が生じ、磁石のようにわたしの足は車両の屋根に安定する。
ただし片足だけだ。
もう片方の左足に魔法陣を描こうとした時、目の前に触手を無数にうごめかした、ボール状の巨大な闇が迫っていたのだ。
わたしは片腕で顔をかばうと、もう片方の手で、ささやかな魔法陣を描いた。
そこから微量の黒曜石の力が発動し、ごく簡単な、即席の魔法の盾ができる。
(くちゃ…くちゃくちゃ)
猛烈な勢いで耳の横を飛び過ぎてゆく、闇の気配を感じた。
腐臭に包まれて、わたしはえづきそうになる。
ぎりぎり触れられそうな距離で、闇たちはわたしの体を通り過ぎてゆく。
魔法の小さな盾に身を隠しながら、わたしは四方を闇に囲まれていることに気づく。
闇は己の腹に空洞をつくり、わたしの盾を避けて通り過ぎていた。
巨大な闇の円筒の中で、わたしは上下左右を見回す。
歪んだ魔法の残渣が微かに感じられたが、それらはすぐに通り過ぎていった。
(わたしを、出して)
ふいに、少女の声が聞こえた。
凛とした口調である。
それは確かに闇の中から聞こえ、まるで命じられたかのようにわたしは車両の屋根に向かい魔法陣を描き、そこから一本の粗末なナイフを引き抜いた。
(ここから、出して)
わたしは魔法の盾に身を隠しながらも、ナイフを握った腕を頭上に掲げた。
「チィイイイイイイ」
紙を力いっぱいに引き裂くような手ごたえがあり、闇の腹は簡単に裂かれる。
酷い腐臭に、わたしはむせこんだ。
だが、闇の腹を裂いた瞬間、目の前にパッと無数の白い羽が舞った。
何だ、これは。
……。
わたしは頭上の切れ目を見上げた。
猛烈な風と車両の音に吹き飛ばされかけながら、その不可思議なものを見た。
切り裂かれた闇の腹の向こう側に、微かに光るものがある。
それは、あのひなびた宿で闇に襲われたとき、見えたものと同じだ。
その光は異質であり、本能的に怯えを感じた。
まるで馴染みのない、全く知らないものが、そこに広がっている。
「世界」だ。
……。
チッ。
闇の切り裂かれた腹は、みるみるうちに修復した。
腐った魔法を取り込んだ闇は、強靭な回復力を持っている。わたしは手に持っていたナイフを弾き飛ばされ、再び魔法の盾に身を潜めた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
なぜ、闇の向こう側に「世界」があるのか。
その「世界」に強烈な違和感を覚えるのは、そこが、今わたしのいる世界とはまるで別の場所だからだろう。そこに吸い込まれたら最後だ。
もう、戻っては来れない。
それは「死」以上のことだ。抹殺されるだろう。存在も、今まで自分が築いた痕跡もなにもかも。
いなかったことに、なる。
ふいに恐ろしいことに気づく。
別次元の世界が、こんなに簡単に姿を見せて良いものか?
……否。
わたしは汗ばむ手で口を覆った。
見せられたのだ。
闇が、あえて見せたのだ。
闇が、意思を持っている――。
紫水晶に覆われた、わたしの黒曜石が細かく振動している。大いなる危険を教えている。
(なんだこの不安定な感じは。そして、どうしてこうなったのだ?)
落ち着かない心臓の動きをなだめながら、わたしは盾の中に身を縮めた。
こんなことが起きてよいはずがない。
むさぼることしか知らないはずの不浄の闇が意思を持っている。
わたしに何かを見せようとしている。魔女の愛弟子たるわたしに、コンタクトを取ってきている。
ぱし。
乾いた音がした。
見ると、簡易的にこしらえた魔法の盾に、大きな亀裂が入っていた。
亀裂は見る見るうちに広がり、盾はあっと言う間に二つに割れて闇に取られた。
身を守る術を失ったわたしを、闇は四方から一気に包んだ。
きんちゃく袋が、その口を締めるように。
わたしは闇に全身をとられ、その、ぬるぬるべたべたする触手が、顔や腕、腹や足に巻き付くのを感じた。
西の大魔女が放任ネグレクトなら、東の大魔女はスポコンスパルタ系。