あらう
八田怜奈は泣きたかった。
図工室の前。古いジントギの手洗い場。ベージュ色のセメントは汚れに黒ずみ、表面は薄くはがれている。
前ならえのようにつき出した両手の先のものを、投げ出したくてしょうがない。
青磁のような色合いの花瓶。口と底の径は同じく、胴が丸くふくらんでいる。
それがどうしようもなく臭う。古い水槽のように、ぬるぬる臭う。
もともとは図工室にいつからか放置されていたもので、授業を見学していた教頭が発見、担任の原口先生が「すぐ片付けます」と請けおい、日直の彼女の手に回された。
図工の授業が終わり、クラスのみんなは教室へと戻っていく。手伝うと言ってくれる子は誰もいなかった。
「洗ったら、手洗い場の上においておいてね」
じゃぁおねがいね、と気安く肩をたたいて先生も、図工室の鍵をかけて行ってしまう。
特別教室が並ぶこの一角は、授業がなければ児童も先生もいなくて静まりかえっている。
なんかこわい。
さっさと片付けてしまおうと、花瓶をたおせばヘドロめいた粘る水がどろんとこぼれる。
むわっと臭った。
怜奈は思わず後ろに飛びすさる。腕をせいいっぱい伸ばして蛇口をひねり、水を流した。
及び腰で花瓶に水を注ぎ、たおして、後ろに逃げる、をくりかえすこと四、五回。ようやく水が澄み、臭いも気にならなくなってきた。
花瓶の半分ほど注いだ水をぐるぐる回して中を洗う。くりかえすうちにすすいだ水もきれいになってきた。
もういいだろう。早くしないと次の授業が始まってしまう。
怜奈は最後にもう一度、水を花瓶の口まで注ぎ、かたむける。
中から水といっしょに細い糸が数本すべり出てきた。
いや、糸ではない。
流れ出てきたこれは、髪だ。
細く長い、一条の髪。
髪は水に流され、排水溝のふたにからまる。
渦の力にうごめく様子が祖母の田舎で見た蛇を思い出させた。用水路を縦に泳いでいく、黒いモノ。
怜奈は薄気味悪さに震え、花瓶をその場に置いたまま逃げ出した。